閑話 サイコダイブ
―その日の夜。
薄暗い寝室。
淡い月光がカーテン越しに差し込み、ベッドの端に白い影を落とす。
澪は横で眠る一人の寝顔を見つめていた。
穏やかな寝息。
ゆっくり上下する胸。
指先を触れれば壊れてしまいそうなほど、柔らかくて、あたたかくて。
澪はそっと微笑んだ。
「……さて。じゃあ、ダイブの時間だね。」
囁くように呟くと、一人の額に自分の額をそっと重ねる。
次の瞬間――
世界が、音もなく“落ちた”。
長い、長い落下
底のない井戸に吸い込まれるように、澪の意識は深く沈んでいく。
その途中で――
光の粒が浮かんでは消えていく。
走馬灯のように、一人の記憶が浮かび上がったのだ。
学校で仲間と笑い合う姿。
夕暮れの帰り道、澪とくだらない冗談を交わした時間。
家庭での、小さな幸せの風景。
そして、澪と過ごした数えきれない日々。
どれもあたたかい。
仄かに光っていて、胸を締めつけるほど愛おしい。
澪は、その光を指でそっと撫でるような気持ちになった。
やがて光は消え、闇が再び深くなる。
もっと奥へ。
もっと深く。
――そして。
そこに、それはあった。
巨大な地下神殿のような空間。
床にも天井にも壁にも、無数の魔法陣が刻まれ、淡く脈打っている。
まるで心臓の鼓動のように。
しかし半数は――消えていた。
澪は思わず目を見開く。
「驚いたな……仕掛けた魔法陣が、もう半分もないじゃないか!」
声が反響し、闇が揺れる。
澪は一歩前に進み、暗闇に向かって言った。
「出てきなよ。……そこにいるんだろ?」
沈黙。
そして――
闇の奥から、黒い影がゆらりと浮かび上がった。
猛獣が獲物を見定めるような、低く冷たい気配。
空気が軋む。
「……なんの用だ。」
現れたのは、深淵の“それ”――
サマエル。
穏やかに立つ澪とは対照的に、
その存在は悪意と狂気を凝縮したような圧を放っていた。
澪は気圧されながらも、声を絞り出す。
「お願いがあってね。」
「断る。」
食い気味に切り捨ててくるサマエル。
まるで会話すら拒絶しているようだった。
それでも澪は後退しない。
「難しいことじゃないよ。もう少しだけ、大人しくしててほしいんだ……。」
沈黙。
やがてサマエルは鼻で笑った。
「転生体の意識が死ぬまで……か。」
「そう。その後なら……好きにしていい。」
「俺は誰の指図も受けねぇ。やりたいようにやるだけだ。」
壁が軋むほどの殺気。
澪は息を呑んだが、それを悟られぬよう問いを変えた。
「じゃあ教えてよ。あのサキュバス……ここに来たの?」
一瞬、サマエルの気配が跳ねた。
「……なんのことだ。」
「とぼけないで。リリス――ここに来たんだろ?」
その名を出した瞬間、魔法陣がひとつ、ぱん、と弾けるように消えた。
しかしサマエルは無表情に言う。
「知らねえな。」
嘘だ。
だが追及しても意味がない。
澪は肩の力を抜き、ため息をついた。
「……まあいいよ。でも、しばらくはここにいてもらう。再封印するから。」
サマエルは薄く笑った。
獣が牙を隠したような、不気味な笑み。
「もうすぐ俺はここを出る。……一人はいい奴だがな。」
闇が澪に迫る。
「体は返してもらう。俺を待ってる女がいる……そうだろ?」
その瞬間――
澪の心臓が痛むほど跳ねた。
「――戻る。」
澪は呟き、強引に浮上した。
まぶたの裏が明るくなり、世界が反転する。
そして――
視界に一人の寝顔が映った。
無防備で。
平穏で。
愛しい。
狂おしいほど愛しい。
指先で頬に触れたくなる。
髪を撫でて、抱きしめて、全部自分のものにしてしまいたい。
――だが。
男の口元が、ピクリと動いた。
ゆっくり、ゆっくりと。
まるで何かが、内側から“笑って”いるように。
口角が上がった瞬間――
嫌な予感が胸を掠め、血が一気に沸騰する。
(やば……!)
だが次の瞬間、意識は白く途切れ――
それは夢へと溶けた。
現実にはいない。
けれど、すぐそばに“いる”。
――そんな確信だけが残っていた。
一人はベッドで寝ていた。
しかし、隣にいるはずの澪の姿はどこにもない。
代わりに――
妖艶な微笑みを浮かべたりりが、体を寄せていた。
「……えっ!? なんで、りりさんが横に……?」
りりは肩をすくめ、当然のように言った。
「なんでって? 一人は私のものなんだから、こうして隣にいるのは当たり前でしょ?」
「え、いやいや待って。僕の体に変な紋様入れたでしょ!? あれびっくりしたよ!」
りりは艶っぽく笑う。
「ふふっ、驚いた? あれね……ペアなの。私の身体にも入ってるんだよ。」
耳元に唇を寄せて、吐息がかかる距離で囁く。
「一人と同じ場所にね……見せてあげようか?」
「えっ、えっ……そ、そんな……」
一人は顔を真っ赤にして目を泳がせた。
りりは嬉しそうに一人の腕に絡みつく。
「ふふ……いいじゃない。夫婦なんだから?」
そのまま、りりの唇が一人の唇へ――
そっと重なろうとして――
「――ああ。見せてもらおうか。」
背後から声が落ちてきた。
「ちっ……ほんと、いいとこで邪魔するんだから!」
りりが振り返って吐き捨てる。
「夫婦の時間よ? 常識ってもん、知らないの?」
「いや違うだろ。人の寝室に勝手に現れる方が常識ないよ。」
「ここは夢です。あなたの家じゃありません。
私の旦那の夢です。」
「お前の旦那じゃない。僕のだ。」
ぱん、と音がしそうなほどの火花が二人の間に散る。
下着姿のまま仁王立ちするりり。
対して、いつの間にか夢の中に入り込んだ澪は、負けじと睨み返す。
「浮気相手のくせに、少しはわきまえなさいよ。」
「いや違うね。浮気相手は君だよ。僕たちは相思相愛なんだから。」
「へぇー? その割に独占欲の塊みたいなこと言うじゃない。」
「君にだけは言われたくないね。」
口論は際限なく続き、
一人はベッドの上で頭を抱える。
「あのさ……僕の夢なんだから……仲良くしてほしいんだけど……」
「はっ。あんたは黙っててよ。」
りりが一人を切り捨てるように指差す。
「私の所有物なんだから。」
「ほらな?」と澪はすかさず畳みかける。
「人を物扱いするんだよ、悪魔ってやつは。
わかったろ、一人? でも君は――僕の“パートナー”だからね。」
「へぇ〜?」
りりはあくまで妖艶な笑みを崩さない。
「その割には、嫉妬深さで魔王級じゃない。」
夢の中の修羅場は、朝日が昇るまで続いた。
朝。
寝ぼけ眼の一人は味噌汁を飲みながら呟く。
「昨日さ……なんか夢見たんだけど……
よく覚えてないんだよね。なんだったんだろ……」
途端に澪の眉がぴくりと跳ねた。
「へぇ〜……またでしょ? いつものみたく……綺麗な女の人でも出てきたんじゃない?」
澪はぷいっと顔を背けて、不機嫌全開。
一人は少し考え――そして言った。
「うん。綺麗な女の人っていうと……澪が出てきたと思う。」
「っ……!」
澪の顔が一気に真っ赤になり、
照れを隠すように味噌汁を啜った。
「そ……そうなんだ……ふーん……」
朝餉の香りの中で、二人の距離はほんの少し、近くなった――。




