第49話 補完する記憶(2)
一人は両手で顔を覆い、かすれた声で呟いた。
「……姉ちゃん。
なんで……なんであの時……
あそこに置いていってくれなかったのさ……
そしたら……」
そこで言葉を飲み込む。
その瞬間。
バチン!
鋭い音が病室に響く。
一人の頬に、真っ赤な手形が浮かぶ。
澪の震える手が、まだ空中にあった。
「この……バカっ……!」
声は涙で濡れていた。
「そんなこと……そんなこと言うなよ……
もう知らない! 好きにすればいいんだ!」
怒鳴るというより、泣き叫ぶような声。
澪は顔を背けるようにして病室を飛び出した。
白い自動ドアが閉まる直前、
彼女の目尻から涙が落ちるのが見えた。
病室に残された一人は、
その場で崩れ落ちるように膝をつき――
「……ごめん……ごめんなさい……
姉ちゃん……ごめん……っ……」
誰もいない空間で、ずっと謝り続けた。
嗚咽が止まらなかった。
朝。
カーテン越しの淡い光が、食卓の上に整然と並べられた朝食を照らす。
白い湯気を立てる味噌汁。
焼き目のついた卵焼き。
納豆と炊き立てのご飯。
ごく普通の朝なのに……
昨日まで続いた重い空気が嘘みたいに、
どこか“新しい始まり”を感じさせる静けさがあった。
一人と澪は、向かい合って座る。
「「いただきます」」
同時に手を合わせたその瞬間、
どことなく気恥ずかしさが走った。
沈黙のまま数秒……
先に口を開いたのは一人だった。
「昨日さ……夢見たんだ。病室にいたときのこと……」
澪は納豆のパックを開けたまま、少し顔を上げる。
「……うん」
箸で丁寧にかき混ぜながら、
その声音には、どこか緊張が混じっていた。
一人は焦げた卵焼きを見つめながら続ける。
「母さんが亡くなったって……澪が伝えてくれたとき……
僕、澪にひどいこと言っちゃってさ……」
記憶の痛みが胸に刺さるのか、声が震えていた。
「でもさ……そんな僕を……澪は支えてくれて……」
ぽつり、ぽつりと落ちる言葉たち。
澪は混ぜていた納豆の手を止め、静かに一人を見る。
俯いていた一人が、ふっと顔を上げ、にっこり笑った。
「……僕はさ、澪さえいてくれたらいいんだ。
それだけ……覚えててほしい」
その言葉は強くなく、でもまっすぐで。
昔の涙の痕跡を拭い去るように優しかった。
澪の箸が小さく震える。
「……うん……わかった……」
声はかすれている。
俯いたままだから、表情は読み取れない。
でも、その肩がかすかに震えているのを一人は見逃さなかった。
沈黙が落ちる。
しかし、それはかつてのような重たさではなく——
心がふるえるほど甘く、澪の胸を締めつける沈黙。
やがて、澪は顔を伏せたまま呟いた。
「……僕もさ……
一人さえ……いてくれたら……」
消え入りそうな小声。
テーブルに落ちる影の下で、澪の耳は真っ赤になっていた。
「えっ? なんなのさ? 聞こえないよ」
一人が笑いながら身を乗り出すと——
「な、なんでもないっ!!」
澪は慌てて立ち上がり、
キッチンカウンターから包みをつかんで戻ってきた。
「ほ、ほら、お弁当っ!」
赤い顔のまま、勢いよく差し出す。
一人はそれを受け取りながら笑う。
「ありがとう。澪の弁当、楽しみだよ」
「……そ、そんなの……別に……」
言いながらも耳はますます真っ赤になる。
その様子が可愛くて、
一人は少し照れたように笑った。
窓の外から射し込む朝の光が、
二人を穏やかに包み込む。
そんな優しい朝だった。
ー別宇宙 澪のマンションー
静かなリビングに、ぽつりぽつりと光の粒が降ってくる。
天井からこぼれ落ちているのではない。
部屋の中央に置かれた――
**“次元の宝珠”**が脈動し、空間そのものを震わせていた。
宝珠の中心には、揺らぎのように映像が浮かんでいる。
別宇宙の澪と一人。
朝の光の中、寄り添うように笑い合うふたりの姿。
その光景に、こちらの“別宇宙の澪”は舌打ちするでもなく、
ただ深く息を吐き、眉をひそめた。
「まずいな。永遠の出現で、また記憶が補完されてる。」
淡々とした声ではあるが、言葉の隙間には焦りが滲む。
宝珠が小さく震え、映像の細部がさらに鮮明になった。
澪と一人の、あの温かすぎる朝食シーン――
その記憶を引きずられるように、光の粒が弾ける。
亜紀がその光景を睨みつけながら呟いた。
「うん、もう記憶の引き出しがないかと思えば、
まだまだあるみたいね……。 」
苦い笑顔。
その表情は、懸念と嫉妬と諦観が混ざった複雑な色。
澪は腕を組み、宝珠に映る“向こう側の自分”を見下ろした。
「あいつ……永遠のやつ、
うまく一人の記憶を崩してくれるといいんだが。」
自分と同じ名をした少女が、
別宇宙の一人に弁当を渡して照れている。
その画面を見ながら、澪の声には微妙な苛立ちが混じっていた。
ずっと見つめていた伊空が、ふっと微笑む。
まるで何かをすでに知っている者のように。
「まあ、徐々に戻ってくるからね。」
そして、長くゆったりと瞬きをしながら続けた。
「――もうすぐ始まるよ。
ふふ……。 」
その瞬間、宝珠の光が大きく脈打った。
映し出された景色が一瞬白く染まり、
まるで“扉がひとつ開いた”かのような激しい輝きが走る。
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