第48話 補完する記憶(1)
――それは、記憶。
存在するはずがない。
だが、確かに“あった”としか思えない。
大災害から二ヶ月が経った朝。
東の窓から射しこむ淡い朝日が、白い病室の壁を金色に染めていく。
静かなはずの空間に——
その光は、あまりにも残酷だった。
ベッドのリクライニングを起こしながら、
一人は、信じられない言葉を耳にした。
「……えっ、母さんが……?」
乾いた声。
松葉杖がベッド脇からカラン、と落ちた。
床に響くその音が、妙に大きく感じられた。
ベッドの傍らに立つ澪は、
普段の強気とはまるで違う、どこか頼りない表情で口を開いた。
「……うん。はじめから……言わなくちゃいけないと思ってた……。でも……」
言葉の途中で、喉がつまるように止まる。
一人の心臓が脈打った。
「まだ死んだと決まったわけじゃないんだ。
見つかってないだけだよ……」
必死だった。
否定しなければ、足元が崩れてしまう気がした。
でも澪は、痛ましいほど優しい目で続ける。
「……でも、もう二ヶ月だよ。
普通なら、とっくに……」
一人は、耐えきれず声を荒げた。
「なんで……なんで今まで言わなかったんだよ!
ずっと知ってたんだろ……!?」
胸の奥の黒い感情が噴き上がる。
恐怖か怒りか、それとも喪失の予感か判別できない。
澪は俯き、小さく答えた。
「……うん。知ってた。
でも……君には……前を向いてほしかったんだ」
その声は震えていた。
強くあろうとする澪が、こんな声を出すなんて。
一人は堪えきれず、枕に顔を押しつける。
「……そんな……そんな……
ごめん……今、一人にして……」
涙が止まらなかった。
静かに、澪が頷く気配がした。
「……うん。少し外にいるね」
扉が開く音。
閉じる音。
足音が遠ざかる。
病室に残されたのは、一人の嗚咽と……
胸の奥に浮かびあがってくる記憶”の残像だった。
——あの日。
——母と過ごした、最後の朝。
次の日 ——静まり返った病室で
窓から差し込む光は昨日と変わらないはずなのに、
病室はまるで冷蔵庫のように冷たく感じられた。
ベッドに座った一人は、
両膝を抱えたまま、ただ壁を見つめている。
「…………」
声をかけても返事がこない。
目の焦点はどこにも合っていない。
澪はそんな弟を見つめ、
ぎこちない笑顔を無理に作ってみせた。
「今日はさ……君の好きなショートケーキ、買ってきたよ。
一緒に食べよう? お腹が満たされれば、気持ちも変わるって言うしさ」
白い箱から取り出したケーキを、
慎重にベッドのテーブルに置く。
一人はしばらく動かなかったが、
やがて小さく「うん……」とだけ呟き、皿を受け取った。
しかし……
「……ごめん。ありがとう。でも……なんか……
口が、動かないんだ……そんな気になれない。……ごめん……」
その弱々しい声に、澪の心臓がひゅっと縮む。
——このままでは、沈んでいくだけだ。
そう焦ったのか、澪はわざと明るく声を張った。
「ふーん、食べさせてほしいんだね? 仕方ないな〜、ほら、一人。
――はい、あーん」
フォークで一口大に切ったケーキを、一人の口元へと運ぶ。
しかしその笑顔は、痛いほど作り物だった。
無理しているのが誰の目にもわかるほどに。
一人は俯き、顔をしかめる。
次の瞬間――
パシッ!
一人の手がケーキのフォークをはね除けた。
飛んだケーキは床に落ち、白いクリームが飛び散る。
「……ふざけないでよ」
その声は震えていたが、怒りに満ちていた。
澪が肩を跳ねさせる。
「ご、ごめん……僕……君を……」
うまく言葉が紡げない。
一人は両手で顔を覆い、かすれた声で呟いた。
「……姉ちゃん。
なんで……なんであの時……
あそこに置いていってくれなかったのさ……
そしたら……」
そこで言葉を飲み込む。
その瞬間。
バチン!
鋭い音が病室に響く。
一人の頬に、真っ赤な手形が浮かぶ。
澪の震える手が、まだ空中にあった。
「この……バカっ……!」
声は涙で濡れていた。
「そんなこと……そんなこと言うなよ……
もう知らない! 好きにすればいいんだ!」
怒鳴るというより、泣き叫ぶような声。
澪は顔を背けるようにして病室を飛び出した。
白い自動ドアが閉まる直前、
彼女の目尻から涙が落ちるのが見えた。
病室に残された一人は、
その場で崩れ落ちるように膝をつき――
「……ごめん……ごめんなさい……
姉ちゃん……ごめん……っ……」
誰もいない空間で、ずっと謝り続けた。
嗚咽が止まらなかった。
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