第2話 デイウォーカー
――嘆きの渓谷。
断崖と黒い霧に覆われた死地に、私たちは踏み込んでいた。
雨上がりの空気は凍りつき、谷間に轟くのは魔族の咆哮。
待ち伏せていたのは、魔族の軍勢。そして、その頂点に立つ巨悪。
悪魔大公――レーヴェンソーン。
赤いオーガのような巨体。背には破滅を象徴するかのような禍々しい翼。額からは、黒雷を孕んだ二本の角が突き出ていた。
その存在感だけで、空気が裂け、地が呻き、心臓が握り潰される。
「ふ、ふざけんな……っ」
エルフのリュミエルが矢を放つも、黒き魔術結界に弾かれる。
ドワーフは既に倒れ、獣人の戦士も地に伏していた。
「セラ、後ろに下がれ!」
魔術師アランが炎壁を張るが、次の瞬間――頭上から無数の火球が降り注ぐ。
轟音。
炎の雨。
大地が震え、谷は火の海へと変わった。
「っ、ああああっ!」
悲鳴とともに仲間たちが次々と崩れ落ちる。
倒せたのは眷属の群れの大半――しかし、もはやレーヴェンソーンを討つ力は残っていなかった。
炎に照らされ、巨体の悪魔が笑う。
「ヴァンパイアよ。……お前だけは見逃してやろう」
地響きのような声が渓谷を揺らす。
「今すぐ立ち去れ。慈悲をくれてやる」
慈悲――?
違う。
あれは心を折るための嘲笑だ。
生涯、“悪魔には勝てない”という烙印を刻みつけるための愉悦。
忌々しい。
私は歯を食いしばり、隣の聖女を振り返った。
「セラ! 今すぐ血をよこせ……! もしかしたら、まだ勝てるかもしれない!」
血を――。
聖女の血さえあれば、私は……。
セラフィーナは、燃え盛る谷の中でも毅然とした瞳で私を射抜いた。
そして小さく息を吐き、僅かに笑んだ。
「三下の吸血鬼なら、ここで逃げるところよ……」
僧衣の袖を引き裂き、白い腕に刃を当てる。
紅が滴り落ち、熱を帯びた香りが私の鼻腔を貫いた。
「でも、あなた……死ぬ気なんでしょう? なら――いいわ。……噛まないでよ」
その血が、私の唇に触れた瞬間。
――世界が、弾けた。
燃え上がるような力が私の身体を満たす。
骨が軋み、翼が裂けて膨れ上がる。
瞳に赤黒い閃光が宿り、血脈が逆流する。
先祖返り。
私は――“原初の吸血鬼”へと還ったのだ。
「……ああ、これが……ッ!」
大火球が降り注ぐ。
だが、もはや炎は私を焼けなかった。
むしろ、力を煽る薪にすぎない。
私は翼を広げ、渓谷を一息で駆け抜けた。
悪魔大公の前に迫り――拳を振り抜く。
轟音。
血飛沫。
赤い巨体に、ぽっかりと穴が穿たれた。
レーヴェンソーンの眼が驚愕に見開かれる。
「ば、馬鹿な……この、我が……!」
巨躯が崩れ落ち、地鳴りとともに炎の谷を揺らした。
――戦いは、終わった。
燃え残る炎の中で、私は息を吐き、己の身体を見下ろす。
闇を超え、陽光の下を歩む力が確かに芽生えていた。
デイウォーカー。
吸血鬼でありながら、夜を超えて生きられる存在へと。
私は聖女の血を口にした。
背徳と歓喜が胸を満たし――そして、私は嗤った。
「……イケる」
嘆きの渓谷に、悪魔の断末魔ではなく、私の笑い声がこだました。
――あの戦いの後。
悪魔大公レーヴェンソーンを討った代償は、あまりにも大きかった。
聖女の血を飲んだ影響は、私の肉体に深い呪いを刻んでいた。
人間に刃を向けようとすれば、全身が拒否反応を起こす。
喉が裂けるように痛み、筋肉が痙攣し、吐き気に襲われる。
反撃程度はできても、本気で戦うことはできなかった。
つまり私は――人間との戦争や争いには関われなくなったのだ。
人間の血を糧とする吸血鬼にとって、それはほとんど死刑宣告に等しい。
「セラ〜、ねえ、これなんとかならないの? これだと、もう“吸血鬼失格”なんだけど……オリジナルブラッドなのにさ。人外としか戦えないなんて、どうなの?」
火の灯る焚き火の前で、私はセラに愚痴をこぼす。
聖女セラフィーナは、祈りの書を閉じると静かに微笑んだ。
「……諦めてください。そうだ、これを機に入信してはどうでしょう? あなたも聖なる道に――」
「いい。やめとく。そうなったら私、アイデンティティなくなっちゃうから。というか、吸血鬼じゃなくなるじゃん」
呆れ顔のセラ。
私が人間を食わない吸血鬼になったときから、彼女の胃痛の歴史は始まった。
それからしばらく、私はしぶしぶこのパーティに所属していた。
ドワーフの王国、エルフの森、ヒューマンの王国、帝国……。
旅は続き、寄り道もした。
高尚なる吸血鬼であるはずの私が、“つるんでバカをする”日々。
滑稽? その通り。でも、楽しかったのも事実だった。
この見た目のせいで、強面の冒険者や野盗からはよく狙われた。
だが逆に返り討ちにして、有り金を全部巻き上げ、代官所に突き出すのが私の常。
金には困っていなかったから、戦利品は貧しい者に分け与えた。
酒場では、他の冒険者たちと大喧嘩。
リュミとアランと私で煽りまくり、ボコボコにして出禁にされた。しかも何度も。
「殺されないだけありがたいと思え!」と啖呵を切り、有り金を奪い、またも貧民に配った。
……そのたびに、セラが一人でギルドに謝罪に行った。
絡んできた聖騎士団を、リュミと私でまとめてボコったこともある。
結果はいつも同じ。謝罪に奔走するのはセラ一人。
さらに――貧民から金を巻き上げる聖職者たちを叩きのめし、逆に吊るし上げたこともあった。
燃やそうとしたスラム街の住民を守るため、私は貴族の屋敷を火をつけて全焼させたことさえある。
流石にそのときばかりは、聖女様も一緒に夜中逃げる羽目になった。
私は人間を殺せない。
だからこそ、妖魔や怪物を見れば問答無用で襲った。
同族の吸血鬼を捕食したことさえある。
まあ、冒険者パーティにいる以上、それは当然の仕事の範疇だったのかもしれない。
……捕食するのは私だけだったけど。
それでも私は謝罪しない。
私は間違っていない。
私は“デイウォーカー”。“原初の吸血鬼”。
頭を下げるなど、私の尊厳に反する。
たとえ周囲がどう思おうと、私には自負がある。
間違った行動はしていない。
――間違ってなど、いないのだ。
――そうしていくうちに、なぜか私がもてはやされはじめた。
サインや握手を求められることも、日に日に増えていった。主に平民たちからだが、その目は真剣で、熱に浮かされたように輝いていた。
「さすが! 俺たちにできないことを、平然とやってのける……!
そこにシビれる! あこがれるゥ!」
どこかで聞いたような台詞まで口にして、興奮のあまり肩を揺すってくる者もいた。
……笑うしかなかった。
(そいつらには、いつか仮面でもプレゼントしてやろう)
まあまあ、楽しかった。
だけど――それが永遠に続かないことも、分かっていた。
いつかは終わりが来る。
みんなと同じ時間を生きられない。寿命が違うのだから。
私は吸血鬼。
所詮は“人外”だ。人間としては生きられない。
この居場所は、本当は私のものではなかった。
彼らがいたから、私はそこに存在できただけ。
笑いあい、酒を酌み交わし、剣を並べて戦った――それは確かに楽しかったけれど。
やりたい放題してきたのも事実だ。
後悔はしていない。だが、仲間内で嫌われていたのもまた事実。
(当然だ。人外を襲う吸血鬼なんて、警戒されて当然だろう)
そう思えば、むしろあの温かさは奇跡だった。
だから私は、アランに頼んだのだ。
――この世界を去らせてほしい、と。
「どこへ?」と問う彼に、私はただ答えた。
「争いが多く、私の力が役立ちそうな場所へ」
それだけで良かった。
このままここにいれば、ただ孤独に腐っていくだけだから。
そして今――私はここにいる。
見慣れぬ高層ビルの群れ、眩しいほどのネオン、夜を昼のように照らす街灯。
喧騒の渦巻く現代の日本に。
歩道を行き交う人間たちは、誰一人として私に気付かない。
私が異質な存在であることに。
血を求める“夜の獣”であることに。
――滑稽だな。
かつて大公を討ち果たし、英雄として讃えられた吸血鬼が、今では雑踏の中でただの影に紛れている。
だが、それでいいのかもしれない。
ここでは誰も、私を知ろうとしない。
ここならば、もう一度――やり直せる気がした。
赤い月が昇る夜。
私は見知らぬ街の屋上に立ち、ビル群の谷間を見下ろして、薄く笑った。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
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