第45話 黒髪の少女
ー 月曜日の朝、教室にて ー
月曜日の朝の教室というのは、本来もっとだらしない空気で満ちているはずだった。
寝不足の生徒が机に突っ伏し、廊下では部活の愚痴が飛び交い、黒板の端には消し忘れた落書き。
そんな“いつもの日常”がこの教室にはあるはずだった。
だが——。
教室に一歩踏み入れた瞬間、一人は思わず息を飲んだ。
永遠の席に、見知らぬ少女が座っていた。
黒髪ロング。
ただの黒じゃない。光を吸うような深い墨色。
肌は雪のように白く、顔立ちは――息を呑むほど整っている。
まるで、教室に“アイドル”が紛れ込んだみたいに。
いや、そんな軽い言葉では足りない。
存在そのものが世界から浮いているほどの美貌。
そして、一人は気づいてしまった。
——彼女を知っている。
胸が、跳ねる。
恐怖で。
(……あの “黒髪” の少女……)
屋上で襲われた、あの日。
耳に焼きついて離れない、あの声。
『あんたは私のものだから。
私があんたを捨てることはできても、
あんたが私を捨てることはできないからね』
脳裏に浮かんだ瞬間、背中に汗が流れた。
(……まずい。本気で……帰ろうかな……)
逃げるべきだ。
理屈じゃなく、本能が警告している。
しかしその瞬間——
「おはよう」
鈴のような美声が、教室を震わせた。
一人は固まったまま、ぎこちなく視線を向ける。
黒髪の美少女が、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
笑っている。まるで再会を喜ぶみたいに。
「う、うん……おはよう……」
声が裏返りそうになるのを必死で抑え、返す。
その間に、少女はすっと立ち上がり、一人の机まで歩み寄ってきた。
「この前は、びっくりさせちゃってごめんね。
君と話したいことがあるんだ。放課後どうかな?」
間近で見れば見るほど、とんでもない。
完璧すぎる美貌。
柔らかく微笑むその表情に、周囲の男子も女子も見惚れている。
だが一人には分かる。
——この笑顔の奥に、絶対に“何か”がいる。
「えっ……そ、それは……」
断りたい。しかし断ったらどうなるか。
視線を逸らすことすら怖い。
少女は一人の震えを読み取ったように、優しく微笑んだ。
「君には危害は加えないよ。約束する。」
信じたくなるほど綺麗な声。
だが、その“優しさ”こそが罠だと、一人の直感が叫んでいた。
「え、でも……姉さんが……関わるなって……」
思わず漏れた言葉に、少女はピタリと笑みを止めた。
ほんの一瞬、空気が凍る。
「……何を言われてるか知らないけど、騙されてるよ、君。」
声は穏やかなまま。しかし瞳の奥に、深い闇が見えた。
一人は震えながら、かぶりを振る。
「ごめん。……無理」
「ああ、そうなんだ?」
少女はゆっくりと、あくまで優雅に顔を近づけた。
その距離は、紙一枚分。
周囲のクラスメイトがざわつく。
そして——
「いいの? 私にそんなこと言って。」
囁きは甘い。甘いのに、背筋に氷を流し込まれたような恐怖。
「で、でも……っ」
口ごもった瞬間、少女は一人の耳元に唇を寄せ——
「今、ここにいるあんた以外を
全員殺してもいいんだよ。」
「……っ?!」
教室が、音を失ったように感じた。
心臓の鼓動だけが、世界の中心で大暴れする。
黒髪の少女は微笑んだまま。
誰も気づかないような声量で、しかし確実に狂気だけを残して囁いた。
「ふふっ。嫌われたくないから、しないけど。でも……」
永遠はほほ笑んだ。
その笑みは、氷でできた刃物みたいに薄く鋭い。
「ご、ごめん……」
一人は声を震わせる。何を言っても地雷だと分かるのに、言わずにはいられない。
「ふーん。“らしく”ないから、ほんとはしたくないんだけどね……」
永遠は細い肩をわざとらしく落とし、ため息を吐いた。
その直後、
「悪いのは、君だからね?」
口角をゆっくり、ゆっくりと上げた。
嫌な予感が脳天を貫く。
「ま、まさか!! 待っ——」
一人が止める間もなく。
永遠は、教室中に響く声で。
「うっ……うっ……なんでよ!!
なんでなのよ!!
あんな女のどこがいいのよ!!
あんた、私のこと遊びだったの!?」
泣き出した。
——泣いた。
あの永遠が、地面に座り込み、肩を震わせ、大粒の涙をボロボロとこぼす。
教室が一瞬にして騒然となる。
「えっ、なに?」「どうしたんだよ永遠!」
「嘘でしょ、あの永遠ちゃんが泣いてる……!?」「は……修羅場?」
クラス全体の視線が、一人の脳天を撃ち抜く勢いで向けられる。
永遠の周りに女友達が駆け寄り、抱き寄せる。
「永遠、大丈夫!?」「なにがあったの?」
「誰よ泣かせたの、ほんっと信じらんない!」
「あいつが……私のこと……
うっ……うっ……新しい女ができて……
私、一生懸命尽くしたのに……!」
永遠の嗚咽が、教室の空気を一気に“彼氏に泣かされた哀れな美少女×最低男”に塗り替える。
女子を中心に、怒号のようなブーイングの嵐。
「は? あいつ最低じゃん」
「サイテー、女の敵」
「永遠ちゃんを泣かせるとか何様」
「ねぇ見て、家成、顔真っ青。浮気男ってこういう顔なんだ」
男子でさえ——。
「うわ、こいつマジで屑だわ」
「永遠ちゃん泣いてんぞ、なんとか言えよ」
一人は完全に追い詰められていた。
何を言っても地雷。沈黙すれば悪化。
逃げたら“事実を認めた”扱い。
「ご、ごめん……そんなつもりじゃなくて……っ
そ、そうだ……なんか誤解があるみたいだから……
後でゆっくりお話ししようよ……!」
手が震えるほど必死に繕う一人。
永遠は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ——
「もういい……私……知らない……」
その一言で女子達の怒りが天井を突き破る勢いで爆発する。
「ちょっとあんた!!」「永遠に何したのよ!!」
「謝れば済むと思ってんの?」
一人の心臓が今にも破裂しそうなほど跳ね上がった、その瞬間。
「あ、あの……でも……」
永遠が女友達の手をそっと払い、涙を拭く。
「彼も……反省してるみたいだし……
一応、話……聞いてあげるよ……」
その言葉は「天使」そのものに聞こえる。
周囲の女子達は一斉に永遠を抱きしめる。
「永遠はほんと優しい」「そんなん許さなくていいのに!」
「こいつ調子乗らせないでね、ほんと」
別の女子が一人の前に歩み寄り、鋭い目で睨みつける。
「いい? 家成。
永遠をまた泣かせたら、あんたほんとにこの教室に居られなくするから。
覚悟しときなよ。」
一人は震えながら頷くしかなかった。
永遠は最後に一人の方を見て、小さく微笑んだ。
——その笑みは誰にも見えない角度で。
——完全に“獲物を追い詰めた捕食者”の顔をしていた。
そして、息を呑むほど優しげに言った。
「放課後、ふたりきりでね。」
その瞬間——
一人の月曜日は、地獄の底で固まった。
以降、授業中ずっと、
教室全体の冷え切った視線に貫かれ続けたのは言うまでもない。
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