第32話 マトリックス(1)
ー土曜日・放課後ー
放課後の校舎。窓の外では、沈みかけた夕陽がグラウンドを金色に染めていた。
そんな時間、ひっそりとした空き教室の一角で──永遠と一人は、机を並べてテスト勉強をしていた。
「ありがとう。時間作ってくれて、助かるわ」
と金髪をかすかに揺らしながら、永遠が微笑む。
「いいよ。どうせ勉強するんだし」
と、シャーペンを回しながら一人。
ふたりの間に漂うのは、静かなチョークの匂いと、わずかに漂う春の夜気。
永遠がふっと表情を和らげる。
「ふふっ、そうだ。おやつにクッキー作ってきたの。食べない?」
机の上に、小さな包みとポットが置かれる。
レモン色の包みをほどくと、焼きたてのような甘い香りがふわっと広がった。
「ありがとう。姉ちゃん以外で、女の子にこんなことしてもらったの初めてだよ」
と一人が、少し照れたように笑う。
永遠は頬に手を添えて、小さく目を細める。
「そうなの? “お弁当”とか作ってもらったって聞いたけど」
「うん、そうそう……一度に二個も。あれっ、そんなわけないよね。夢の中の話かな?」
と首を傾げる一人。
永遠がくすっと笑う。
「ふふっ、モテるのね」
「モテたことないけど……」
と、むくれたように言う一人。
永遠は、湯気の立つ紅茶を紙コップに注ぎながら、優しく視線を落とした。
「じゃあ、これでモテた経験一回目、ってことでいいじゃない?」
その笑顔に、一人は思わず目を逸らしてしまう。
頬が少しだけ熱くなった。
「……あっ、これ、美味しい!」
と、クッキーを口に入れ、目を丸くする一人。
「そう? よかった」
永遠の口元に、ふわりと浮かぶ微笑。
──だが、数分後。
一人の動きが、ふっと止まる。
「……あれ? なんだろう……体が……」
指先が震え、肩がかすかに揺れた。
「体が……痺れて……あれっ……」
永遠は、静かにコップを置く。
その瞳の奥で、光がきらりと揺れた。
「ふふっ……クッキー、褒めてくれてありがとう」
と、囁くように言いながら、ゆっくりと一人の頬に触れる。
「自信がなかったの。ほら、私、こういうのを口にすることないから」
紅茶の香りにまじる、どこか鉄のような匂い。
永遠は制服のポケットから、金属の光を放つブレスレット──“探索の腕輪”──を取り出した。
ゆっくりと、眠りに落ちかける一人の胸元へそれをかざす。
その瞬間、鈍い銀光が教室を満たした。
一人と永遠の輪郭が、淡く滲み──
世界が、きらりと軋む音を立てた。
夕陽が完全に沈むと同時に、
ふたりの姿は、教室から──音もなく消えた。
ー精神世界ー
暗く重い空気が漂う洋間。
深紅のカーペット、煤けた壁、わずかに揺れるシャンデリアの光。
その中心に、二脚のソファが向かい合って置かれていた。
一脚は、背中まで覆う真紅の皮張り――まるで威圧するような存在感。
そこに、黒のロングコートとダブルスーツを纏い、サングラスをかけた永遠が脚を組んで座っている。
もう一脚には、制服姿の一人。
周囲の異様な空気に戸惑いながら、緊張した面持ちで腰を下ろしていた。
「あなたはね……うさぎの穴を転げ落ちたアリスなの」
低く艶のある声で、永遠が言う。
「つ、月永さん……何言ってるの!?」
混乱する一人。視線は左右を泳ぎ、椅子の肘掛けを握りしめる。
永遠は微笑を浮かべながら、ゆっくりと身を乗り出す。
「あなたは、目覚めたいと思っているわ。本当の“目覚め”も近いのだけれど」
「え? 目覚め? 寝てないし」
と、まるで授業中に呼び出されたみたいな顔で返す一人。
永遠は構わず、声を低く落とした。
「運命を信じる? 一人?」
「な、何言ってるのさ? 訳わかんないよ」
しばしの沈黙――
しかし次の瞬間。
永遠がいきなりサングラスを外し、テーブルを叩いた。
「いい!? 少しは察しなさいよ!! なんとなくわかるでしょ!!」
「……あっ」
一人の脳裏に、緑のコードが流れる映像がフラッシュバックする。
「゛あれ゛……だね?」
永遠は、深呼吸して姿勢を正す。
「そう。じゃあ、少し戻るわよ」
咳払いをして、再びサングラスを装着。
「運命を信じる? 一人?」
「……いいや」
「なぜ?」
「自分の人生をコントロールできないなんて、嫌だ」
一人がきっぱりと答える。
永遠はその返答に満足げに微笑んだ。
「あなたが言おうとしていることは、わかるわ」
人差し指を伸ばし、一人の胸を指す。
「あなたがなぜここにいるのか。それはあなたが“知っている”から。
でも説明できない。感じているの。
“何かが違う”と。はっきりとはしないけれど、どこかが歪んでいるとね。
そして、その違和感があなたの心を引き裂いてきた。
だから、あなたはここにいるの」
「……え? なにそれっ」
「言ってること、わかる?」
永遠が小首をかしげる。
「あなたはね、“真実の世界”からあなたの目を覆い隠してきた世界に生きてるの」
「真実の世界!?……」
「そうよ。あなたは“牢獄”にいるの。心を縛る……」
永遠はゆっくりと懐から小さなカプセルケースを取り出した。
そして――
左手に青いカプセル。
右手に赤いカプセル。
「これは最後のチャンス。もう後戻りはできないわ」
永遠の声が、まるで劇場のナレーションのように響く。
「青い薬を飲めば、お話は終わり。あなたはベッドで目を覚まし、好きなように過ごす。
赤い薬を飲めば、あなたは不思議の国にとどまり――私がウサギの穴の奥底を見せてあげる」
一人はごくりと喉を鳴らす。
その手が、青いカプセルへ伸び――
永遠が即座にその手を掴んだ。
「えっ」
「えっ」
沈黙。二人の視線が交錯する。
「……そっち、なの?」
と、永遠が真顔で訊く。
「う、うん……なんか青の方が安全そうだから……」
永遠はこめかみを押さえ、深くため息をついた。
「もぉ〜……察しなさいよ!!」
永遠は咳払いをして、もう一度姿勢を正す。
「……じゃあ、もう一回いくわよ」
再び同じセリフを――完璧な声色で。
「これは最後のチャンス。もう後戻りはできないわ。青い薬を飲めば、お話は終わり。
赤い薬を飲めば、あなたは不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげるわ」
「……え?」と一人。
彼女の掌にあったのは、なぜかどちらも“真っ赤なカプセル”だった。
「な、なんで!? 青どこいったの!? さっきまであったでしょ!?」
「いいから! 黙って飲むのよ!」
「いやいやいや、選択肢なくなってるじゃん! どういうバグ!?」
「シナリオ進行の都合上、仕方ないの!!」
永遠は焦り、ついに一人の顎を掴んで赤いカプセルを口元に押し当てる。
「飲みなさいって言ってるでしょ!! ほらっ!!」
「いや、ちょ、待って! 赤しかないって! 選べって言ったじゃん!!」
「うるさい!! このイベントは強制なの!!」
「ゲームマスターの暴力だーーー!!」
もみ合いになる二人。
空間の赤が激しく点滅し、デジタルノイズが走ったその瞬間――
「ちょっと待ったーーーーーーーーーーっ!!!」
轟音のような声が響く。
天井が割れ、光が降り注ぐ。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
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