第13話 君の名は
映画研究会の部室。
壁に据え付けられたモニターには、『君の名は』が流れていた。
淡い夕暮れ色の画面がソファを照らす。だが、部長・白雪 澪は画面を見ていない。
彼女の視線は映像ではなく、膝に置かれた指先に向けられていた。爪を軽く噛む癖が出ているのは、考えが渦巻いている証拠だった。
(……忌々しい。あの吸血鬼に、一人を“シェア”されるなんて。屈辱以外の何物でもない)
胸の奥がじりじりと焦げる。
それでも、手を打たなければならなかった。月永永遠――“原初の吸血鬼”。その力を真正面から否定できるほど、白雪 澪も愚かではない。
(無視できない。あいつの力は絶対に。だからこそ、この状況を呑んだ……だが、これが本当に正解なのか?)
視界の端で、スクリーンの男女が入れ替わりながら運命を重ねる。 だが澪にとっては遠い出来事のようで、ただ雑音にしか感じられない。
(……まだ大丈夫。例の研究――あれは理論化が出来ている。サンプルさえあれば完成する。そうすれば、この茶番はすぐにでも覆せる)
澪の脳裏に、何冊もの魔導書の断片、図式、計算式が浮かぶ。
不死を研究してきた魔女としての叡智が、それを確信に変えていた。
(問題は、誓約……あの吸血鬼が応じた“約束”が、どれだけ効力を持つか。あれほどの高位存在ならば、ちょっとした契約文など容易く破れる。いずれ面倒になる。ならば――)
指先を組む。わずかに口元が吊り上がる。
(一人を籠絡する。それが最も早い。彼自身をこちらに引き入れれば、吸血鬼の側に傾くことはない)
その瞬間、スクリーンのヒロインが涙を浮かべ、必死に名前を叫ぶ場面が流れた。
だが澪は――ただ、苦い思考を続けていた。
(……悔やまれる。童貞を奪われる前に、私が手を打つべきだった。あの女に“最高のご馳走”などと吹聴されるのも、屈辱だ)
ぎり、と奥歯を噛む。
(……いっそ、あの吸血鬼が一人に飽きてくれれば、どれほど楽か。けれど――甘えるわけにはいかない。私が動くしかないのだ)
映画はクライマックスへと差し掛かる。 だが澪の胸にあるのは、ただひとつ。
一人をどう手に入れるか。
それだけだった。
「あの〜、僕はいつまでこうしてれば……」
声が震えていた。
「うん。映画が終わるまでだな」
白雪先輩――澪は何でもないように言い切る。
「いや、その……」
僕はソファに座り、無理やり足を開かされ、その間に澪が背を預けて座っている。
いや、“座っている”というより――完全に密着している。背中から伝わる彼女の体温、柔らかさ、そして形。どこもかしこも触れている。逆に触れてない部分の方が少ないくらいだ。
後ろから見えるのは、艶やかに揺れる髪。僅かに覗くうなじ。制服越しに伝わる背中の線。そして、わざとすり寄せてくるおしりの感触。
そのすべてに僕の理性はギリギリまで削られていた。
髪から漂う香りが鼻腔をくすぐる。
甘くて、少し大人びた匂い。危険だ。こんなの、耐えられるはずがない。
「――ああ」
澪がわざとらしく声を漏らした。
「なんかおしりの近くに硬いのが当たってるな〜。なんだ、棒でも入れてるのか?」
「えっ!? い、いや……それは、その……」
言葉にならない。脳が真っ白になる。
わざわざ耳元に口を寄せて囁くその仕草は、明らかに僕をからかっている。
「ふふ、まさかとは思うけど……お前に私を襲う度胸があるなら、見てみたいもんだな」
その瞬間、澪はさらに体重を預け、背中をぐっと押し付けてくる。
絶対わざとだ。
背筋に走る悪魔のような誘惑。抱きしめろ、と彼女が全身で僕に命じているようにすら感じる。
(まずい……っ。手が……勝手に……!)
背中から彼女を抱き締めたい。腕を回して、このまま飲み込まれてしまいたい。
(だめだ、だめだ、がまんだ……!)
必死に言い聞かせるが、理性はもう半分溶け落ちている。
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか――いや、絶対わかってやっているのだろう
――澪が振り返りもせず、低く囁いた。
「ねぇ、一人。ここまできて、我慢する必要なんてあるのか?」
「……っ」
「男なら、据え膳食わねばってやつじゃないのか? どうせ逃げられないんだし」
その一言が、決壊のきっかけだった。
ああ、そうか。
僕は悟ってしまった。
(逃げられないのなら――いっそ、流されても……!)
理性よりも欲望が勝つ。
僕はついに腕を伸ばし、背中から彼女を抱きしめようと――その瞬間。
――ガチャリ。
突然、部室のドアが開いた。
空気が凍りついた。
僕の腕は宙で止まり、澪の肩越しに見えるのは――。
「……」
そこに立っていたのは、永遠だった。
冷たい微笑みを浮かべ、こちらを見つめている。
(……終わった)
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。
今後もよろしくお願いします!