第26話 メイズ・ランナー(2)
恐怖に駆られた一人は、震える手で息を整え、
やがて小さく――いや、観念したように深く頭を下げた。
「……ごめん。すみませんでした」
その声は、情けないほど静かだった。
膝を折り、畳のように平らな床に正座する。
「うん……」
伊空の声が、どこか壊れた音で返ってくる。
「……あの時、〝僕のこと好きにしていい〟って言ったよね」
一人は苦笑した。
もう逃げるのをやめた顔だった。
「いいよ。殺すなら仕方ない。
あの時、助けてもらわなかったら……僕、死んでたかもしれないし」
その姿を見て、伊空はぐしゃりと顔を歪める。
怒りでもなく、悲しみでもなく――それは歪んだ愛の形だった。
「……うぐっ……なんで……なんで澪に、そんなこと言ったの……」
嗚咽混じりの問い。
一人は、唇を噛みながらも正直に答えた。
「……澪がね、お腹を擦りながら〝できたよ〟って言ったんだ。
だから、責任取らなきゃって……思って。
〝男として責任取る〟って言ったけど……出来たのは“お守り”のことだった」
伊空の瞳が揺れる。
瞳の奥、青い光が少しだけ翳り――寂しげに細められた。
「……そう……言ったんだ。
サマエル様じゃなくて……それ、“一人”の方なんだね」
「うん。澪が自分のいいように解釈してたのもあるけど、
否定しなかった僕も悪い」
その瞬間、空気がひんやりと変わった。
伊空の表情に呼応するように――一人の体に宿る別の人格が目を覚ます。
「……そういうわけなんだ」
低い声が口をつく。
「俺が裏切るわけ、ないだろ」
「……許したわけじゃない。
2人とも、同罪だから……」
伊空の声は、底冷えするように静かだった。
怒りも悲しみもすべて混ざり、氷のように鈍く沈む。
(サマエル:……うん、ここはお前に任す)
(一人:……もう、好きにして。今日、死ぬかもしれないけど)
伊空はゆっくりとしゃがみ込み、一人の視線に合わせる。
そのまま、囁くように――甘く、狂おしく。
「ねえ……もし、私が同じこと言ったら……
私にも〝責任取る〟って、言ってくれる……?
言ってくれるよね……どうなの? 答えてよ……お願いだから……」
縋るような声音。震える唇。
一人の背筋に、冷たい汗が伝う。
「う、うん……言う……と思う」
(サマエル:あっ、バカ!そこ“思う”じゃなくて言い切れ!逃げ場なくなるぞ!)
「思う? 思うって……何? 自信ないの?」
次の瞬間、伊空は自分の手首に――銀色の刃をあてた。
「ま、待って! ご、ごめんなさい! 言います! 言うから!」
刃先が止まる。
そして、微かに微笑む。涙に濡れたまま。
「……そう。なら“未遂”ってことで許してあげる。
でもね、許したわけじゃない。今回だけだから……いい?」
「……はい」
一人は小さく頷く。
その首筋に、伊空が顔を寄せ――耳元で囁いた。
「私ね……他の女と違って、少しだけ長生きできる人間なの。
だから、何度も伴侶を変えるとか、分け合うとか……そういう価値観、ないの。
だから――もし、あんたに捨てられたら……」
一瞬、息が詰まる。
「――その場で死ぬから。
そして、あんたの記憶に一生残り続けてやる。
忘れないでね……いい?
あの時、“私を好きにさせた責任は取ってもらう”って、言ったよね」
「………………」
「じゃあ、この迷路から出ようか。
逃げられないように、異空間の迷路を呼び出したんだ」
「う、うん……戻してくれる?」
「この迷路は出口にしか戻れるポイントがないの。
途中で転移したら、元の座標に戻れない。
でも――それもいいでしょ? 二人で過ごせるし」
「……いや、それは……頑張って出ようよ」
「ここからは――俺の出番だぜ」
と、再び交代する。
「……あんたにも、話があるから」
伊空の声が、底の見えない深さで響いた。
「……う、うん……」
サマエルの人格が一人の体を支配し、
巨大な迷路の奥へと足を踏み入れる。
その壁は呼吸するように脈打ち、形を変え、
行く手を阻むキマイラが何度も姿を現した。
だが――。
二時間後。
汗と涙と血の匂いが混ざる中、
二人はようやく、出口の光を見つける。
そこに立つ伊空の瞳は、
狂気でも悲しみでもなく――愛そのものに濡れていた。
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