第25話 メイズ・ランナー
文化祭のざわめきは、幸福な時間を約束するはずの音だった。
けれど――伊空にとって、それは遠く霞む“幻の音”に過ぎなかった。
どれだけ笑顔の生徒たちが行き交っても、どれだけ紙吹雪が舞っても、
彼女の胸の中は、冷たく、空っぽだった。
彼の隣にいても――その距離が、遠く感じる。
それは“さっきの会話”が、まだ耳の奥で何度も何度も再生されているから。
――十五分前、映画研究会の部室にて。
「永遠や亜紀たちには内緒だが、お前には話しておく。実はな――一人から“プロポーズ”されたんだ。」
その一言で、伊空の世界は止まった。
空気の振動、時計の音、呼吸のリズム。
すべてが遠のき、耳鳴りだけが響いていた。
「まぁ、誤解して、思わず口に出たんだろうけどな」
「私はさ……お前なら、一緒に暮らしてもいいと思ってる」
“暮らしてもいい”――澪の何気ないその言葉が、伊空の胸に杭のように突き刺さる。
「私たちの世界では、それほど珍しいことではないからな。」
「えっ……」
声にならない声が、唇の隙間から漏れた。
――その瞬間、引き戸が開いた。
「お待たせ!!交代だね。視聴覚室、今誰もいないよ」
何も知らない一人の声が、刃物のように響く。
笑顔のままの澪が、伊空に向かって拳を握り――
(頑張れよ!)と唇を動かし、軽い足取りで去っていった。
閉まる扉の音が、心臓の奥を打つ。
伊空の手が、震えていた。
――胸の奥で、何かが静かに“崩れた”。
そして、今。
文化祭の喧騒の中。
二人きりの沈黙が、まるで世界から切り離された空間のように重く漂う。
「……ここに行こうよ」
一人が足を止めた先には、段ボールで作られた巨大迷路。
「……うん……」
伊空の声は、掠れていた。
薄暗い迷路の中、二人の影が重なったり離れたりを繰り返す。
遠くで子供たちの笑い声がするのに、ここだけ時間が止まったみたいだった。
「伊空のクラスは何してるの?」
「……占い……の館……」
俯いた顔に、光が落ちる。
唇を噛み、何かを堪えているような表情。
「……どうしたの?」
そう言った一人の声を、かき消すように――
――空間が、揺れた。
段ボールの壁が音を立てて裂け、茶色の壁が――“土”へと変わっていく。
天井が消え、吹き抜ける風。
異界の空の下、伊空が震える唇で言葉を紡ぐ。
「……う、うん……そ、そのさ……」
「何? 急にどうしたのさ」
その瞬間、堰を切ったように言葉が溢れた。
「モルガディス、澪にプロポーズしたって……ほんと? ほんとなの? ねぇ、なんで、なんでなのよ……!」
伊空の目からハイライトが消えた。
震え、頬を濡らし、声が擦れる。
「私のことは? ……私との関係はどうすんの? もう飽きたの? 私を捨てるの?」
「いや、違うんだ、誤解で――」
「誤解? “誤解”でプロポーズする人がどこにいるのよ!」
彼女の声が、狂おしいほど悲しかった。
「私のこと抱いたよね……“俺の女だ”って言ったよね。
私、命かけてあんたを守ったよね……好きにしていいって、言ったよね……!」
嗚咽混じりの言葉。
涙が頬を伝い、迷路の土壁に落ちていく。
「私が他の女みたいに綺麗じゃないから? 料理下手だから? 陰キャで、干物だから?
そんな女、いやなんでしょ……?」
「伊空、違う、違うんだ……!」
「違わないッ!!!」
地響きのような叫び。
空が歪み、砂が舞う。
「サマエル様も、聞いてるでしょ!? 出てきてよ!!」
「出てきてよッッ!!!」
(サマエル:……………すまん……………無理だ……………)
(一人:えっ 伊空、どっちかって言うとサマエル派でしょ!?)
(サマエル:………お前も好きにしていいって………言ったよな………)
「もういい……あんたがその気なら」
伊空の両手に、“光る刃”。
包丁だった。
現実が、悲鳴を上げる。
「待って、落ち着いて、伊空! それ、本当に誤解だから!」
「落ち着けるわけ、ないでしょ……なんでよ……どうすればいいのよ……」
その声は泣き叫ぶ少女のものでもあり――
愛に壊された怪物のそれでもあった。
「もういいよ……一人。
……私と一緒に、死のう?」
風が止まる。
伊空の頬を涙が伝い、笑みが浮かぶ。
その笑顔は、美しく、哀しく、そして――完全に、壊れていた。
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