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第四話

《聖杯との取引》

それは、“魔法”という体系にかろうじて属しながら、その根本において体系の外側――すなわち“神域”へと踏み込む、唯一の術式である。正式な分類名は、《神域干渉術式》。その名が示す通り、この術式は、世界の理そのもの――存在の定義、因果の流れ、運命の線を、根本から“再定義”する魔法だった。


この術式の行使に特別な血統や契約は必要ない。理論上は、すべての魔法使いに行使の可能性がある。だがその前提には、“魔術回路の構造を完全に把握している”ことが求められる。魔術理論、魂の構造、術式の循環、概念の言語化、精神世界への干渉――すべてに通暁し、誤差ひとつ許されぬ精度で自らの系統を理解していなければならない。


そして、その魔法を行使したときの対価は常に、《聖杯》によって選ばれる。

肉体、魂、寿命、記憶、魔力、因果、時間――あらゆる“存在価値”が等価交換の素材となり、最も重い代償が自動的に選定される。術者の意思で制御することはできない。


発動後も記憶や意思は失われない。しかし、術者は例外なく、最終的に死に至る。

その死は肉体の崩壊にとどまらず、魂や概念すら巻き込む完全なる“喪失”だった。


それにもかかわらず、この術式は、魔法使いたちにとって抗い難い誘惑を持っていた。何故なら、それは“魔法使い”という存在の本能――「未知の領域を踏み越えたい」という欲望に正面から応える魔法だからだ。魔術師の歩みとは、常に禁忌と隣り合わせの探求。その果てに、《聖杯との取引》という“最終魔法”が存在していることは、皮肉にも魔法使いにとって救済であり、呪いでもあった。


ゆえに、この術式を完全に理解した者はいない。なにせ、これまで実際に発動に至った者は、歴史上でも片手で数えるほどしか存在しない。彼らの死によって、術式の全貌は常に途中で失われ、真実には誰も辿り着けないままとなっている。


それでも、《聖杯》は存在し続ける。

何者かが“世界を変えなければならない”と本気で願ったとき、代償の重さに関わらず、それに応じる最後の魔法として。


そして今――その結果の果てにいる。ラインは、“自分”であって“自分”ではない姿を、ただ茫然と見つめていた。


目の前に映るのは、確かに自分である少女の姿。表情を変えれば、鏡の中の少女も同じように顔を動かす。ただ、そこに意味はなかった。ただの模倣。機械的な反射のように、その動作を繰り返す。そのとき、足元に微かな違和感を覚え、ラインは視線を落とした。


……床が、ない。


床がなかった。にもかかわらず、確かに自分は“そこに立っていた”。


視線の先に広がるのは、光と影が交錯する、底知れぬ無の空間だった。天井も地面もなく、遠近の概念すら曖昧。風も温度も音もない。まるで時間すら存在しない、“静止した虚無”だった。それにもかかわらず、彼は呼吸をしていた。指先には、確かに魔力の脈動がある。肺には空気の感覚があり、意識は明瞭だ。その輪郭の明瞭さがかえって、この空間の“異常”を際立たせる。


ラインは、直感した。


ここは、《聖杯との取引》を終えた者がたどり着く“その後”だと。現世でもあの世でもない、“あらゆる理”から切り離された場所。始まりでも終わりでもなく、ただ”聖杯の行使者”のために用意された、純粋な空白。


そのときだった。


空間が、“言葉”を発した。



  《契約――完了》


 

それは音ではなかった。声ですらなかった。脳髄の奥、さらにその奥――意識の最深層へと直接注ぎ込まれるような、“概念の通知”。冷たい、あまりにも機械的な存在が、全方位から等しく響かせる。空間そのものが発しているような感覚。温度も感情も一切ない。ただ、事務処理的に確認だけが告げられる。


  

  《代償の最終受理を確認。適応状態――安定》


ラインの心臓が、小さく震えた。理由などない。理解もできない。だが確かに、“何か”が、自分を“上”から覗き込んでいるという感覚が、背骨を這うように降りてくる。恐怖ではない。ただ、逃れられないという確信だけが、冷たい鎖のように四肢を縛っていく。まるで、自分という存在そのものが――解剖台の上に、無造作に横たえられているかのように。透明な膜に覆われた内側を覗かれ、測定され、分類され、分解されていく。


「……なんだ、これ」


吐き出した言葉に意味はなく。声帯が振動したから出ただけで、抗議でも、質問でもない。ただ、身体の内側を侵していく“寒さ”に、思考が追いつけなくなる。


――そのとき。


空間が、軋んだ。


何かが、わずかに――“ずれた”——気がした。視界には映らないはずの密度が、空間全体にうねるように広がり――次の瞬間、“声”が降ってくる。


  


  《再構成完了。存在識別、更新》


  


白一色だった空間に、幾何学的な紋様が走る。直線と曲線、円と螺旋が重なり合い、まるで神経回路のように明滅を始める。それはただの装飾ではない。“存在”そのものの骨格――その輪郭を、言語でも数式でもない“概念”で書き換えていく光。


 


  《記録番号:0-Li-A-R-25、起動》


 


「……記録番号?」


自分の声が、自分の意志より半拍遅れて漏れ出す。けれど問いに意味はない。“聖杯”にとって、質問は不必要な行為だ。ラインの言葉は、まるで聞こえていないかのように、処理は淡々と続いていく。


  


  《魂構造:安定》

  《肉体年齢:十五。性別:女性。術式親和:上互換》

  《自我保存率:98.7%。感情保存率:76.2%》


  

「……感情の保存率?」


その言葉に、返答があるはずもなかった。ライン自身、それはもう分かっていた。それでも、問いかけずにはいられなかった。


――“感情の保存率”とは、いったい何なのか。


そもそも、感情は記録できるものなのか。数値で管理され、データのように圧縮されるような、そんな軽いものだっただろうか。泣いた記憶。怒りに震えた日々。

誰かを想い、胸を焦がした夜――それらはすべて、一度きりしか存在しない、唯一無二の断片だったはずだ。繰り返せず、再現もできず、ただその瞬間にだけ存在する、かけがえのない“生”の証明なのだから。


《——最終確認完了》


そして突然と、ラインの視界が微かに揺れた。その揺れは、瞬く間に全身を包み込み、次第に天地の感覚さえ曖昧になっていく。立っているのか、浮かんでいるのか。重力があるのかも分からない。だが確かに、何かが“動いて”いた。空間の密度が、構造が、軋みながら変わっていく。


 


《外部干渉への移動》

《器への適応処理、最終段階へ移行》


 


瞬間、全身に圧迫感が走る。内外を貫くように、無数の“回路”が一斉に走査を始める。骨格、神経、精神、魔術系統――すべてが見えざる手で並び替えられていく感覚。

 


《再定義:完了》

《魂の収束率:100%》

《転送先:現世、第五構成点》


その言葉と同時に、身体が静かに光の粒となって崩れていく。痛みはなかった。ただ、溶けるように――優しく、しかし確実に、世界そのものへと“還って”いく。個が世界に吸収されるような感覚。だが、意識だけは不思議と明瞭だった。


《──■■■■■■、────■■■》


“それ”は最後に、耳元で囁くように言葉をかけてきた。音としては認識できなかったはずなのに、その言葉は確かに胸に焼きついた。まるで魂の中心に刻印されたように、拒否も、忘却も許されない形となって。


――ああ、そうか。これが、“取引”の結果だ。


力を得た代償。名を失い、形を変え、誓約を刻まれる。何を失って、何を手にしたのか。それを選んだのは、ほかでもないこの自分――ラインという意志だった。


 


《警告:本契約および聖杯干渉術式に関する一切の情報は、現世において開示を禁ず。違反時、対象の存在構造を破壊・消去します》


 


淡々と告げられた言葉が、次の瞬間には精神構造に“刻印”された。逃れられない絶対の枷。契約の最後の“罰則”。それは、秘密の保持を義務づける強制力――破れば即座に消滅する、“死の誓約”だった。



そうしてラインの視界は、やわらかな白に包まれ、崩壊と転生の境界へと沈んでいった。


 


◇ ◇ ◇ 


 


「……っ!」


最初に映った光景は、蒼く澄んだ空の下。乾いた風。遠くで揺れる木々。小鳥の鳴き声。確かにそこは“これまで生きてきた世界”だった。呼吸が浅く乱れている。肺が新しい空気に馴染まず、心臓が妙に早い。だが――意識は、はっきりとしていた。


「……ここは……」 


ラインは、静かに身を起こし、自分の手を見た。小さな、細い、見知らぬ手だった。けれど、その感覚は紛れもなく、自分自身のもの。“身体”は変わっても、“自分”は変わっていない。記憶も、意識も、思考も、確かにそこに在る。



「……変わったのは、器だけ……か」

 


そう呟いた声は、自分のものとは思えないほど高い。だが、違和感は次第に消えていく。自我が、この肉体に順応していくのが嫌でも分かってしまう。


ラインは深くため息を吐く。そして、胸の奥に残っている、あの言葉を思い出した。



《──■■■■■■、────■■■》



音ではなく、印象として焼きついたその“命令”は、今も鼓動とともに鳴り続けている。何を言われたのか――それは思い出せない。けれど、確かにそれは“自分にだけ向けられた”声だった。世界の果てで、魂に直接刻まれた、唯一のメッセージ。

 


「……選ばれた、ってことかよ。俺が」

 


風が吹く。ラインはゆっくりと立ち上がり、まるで見慣れたように、地平を見つめた。まだ名前すらない新しい自分。けれど、その中には、確かに“自分”が存在している。そして、もう一つ――忘れてはならない刻印があった。“外の者”に、この体験を語れば死ぬ。誰かに話せば、それだけで存在が抹消される。これは祝福でも、許しでもない。ただの“契約”。逃れられない、呪いのような法則。


 


「……黙ってるしかねえか。全部、飲み込んだままで」


 


その声には、諦めにも似た覚悟が宿っていた。だが、それが始まりでもあった。


 


物語は、ここから始まる。

聖杯に選ばれ、契約に縛られた奴隷、それでも生きる意志を持って戻ってきた、“ライン・ナァーバ・アルトリア”の新しい物語が――。





――――――――――

投稿内容にばらつきがあるかもしれません。また、素人の拙い文章のため、誤字脱字や至らぬ点も多々あるかと存じますが、温かい目で読んでいただけますと幸いです。

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