第三話
勇者パーティーの魔法使いとして、最前線に立っていた理由なんて――正直、聞かれると困る。ただ、しいて言うなら、まだ何も知らなかった、無垢で無知だった子どもの頃の夢だ。ガキの頃、ハイルと肩を並べて空を見上げながら、バカみたいに誓い合った、たった一つの言葉。
『この世界に、名を残そう』
それだけだった。
べつに、魔族に家族や親友を殺されたわけでも、故郷を焼かれたわけでもない。そもそも俺もハイルも、物心つく頃には孤児だったから、親というものを知らない。だから、よくある“立派な理由”なんてなかった。ただ、たまたま優秀な魔法の師匠がいて、たまたまハイルが“選定の勇者”になって、そしてそのハイルが、親友だった――それだけ。
それが、ここまで来れた理由でもあり、たしかな原動力のひとつだった。
……そして今、こうして振り返ってみれば、その夢はもう叶っていたのかもしれない。
自分で言うのもなんだけど、勇者パーティーの魔法使いとして、戦場を駆け回った五年間――それなりに“名前を残せるだけのこと”は、やってきたと思う。
たとえば、防衛の要とされた南部第二前線。
魔族の強襲にさらされ、三度も壊滅寸前まで追い詰められたあの戦地で、俺はハイルたちとともに、たった四人で砦を守り抜いた。もしあの場を落としていたら、前線どころか南方諸都市すべてが、黒焔に包まれていたはずだ。
それだけじゃない。
“厄災”と呼ばれた五体の魔族、《災禍の五爪》のうち――【黒焔竜】グリュヴェルと、【月喰い】フェルナの討伐にも関わった。
特に【黒焔竜】との戦いでは、味方三千の命を守るために、自らの魔力限界を超えて、無理やり術式をねじ込んだ。あのときの魔法は……今でも背中の焦げ跡が疼くくらいには、無茶だったと思う。【月喰い】の暗殺を防いだのも、運と執念の産物だ。“沈黙”の殺し屋をたった一手で仕留めるために、呼吸すら抑えて全神経を集中させた。魔術師に暗殺者を迎撃させるなんて、正気の沙汰じゃない。
他にも――広域呪殺で王都近衛を全滅寸前に追い込んだ【死紋の女王】マリアとの、七夜七日の呪術合戦。地脈を操作し、王都封鎖を企てた【深獄の法帝】ゾル=マグノスとの、精神と術式の綱引き。白兵戦の鬼と恐れられた【断罪の剣鬼】バラドとの死闘では、ハイルと並び立ち、魔術支援と陣形制御を一手に担った。
……そういう“無茶”を、俺は何度もやってきた。
馬鹿げてるって分かってても、やるしかなかった。
そうでもしなければ――この世界に“名”なんて残せなかったから。たかが名前だ。ガキじみた、笑われても仕方ないような夢だ。でも、それでも。そんな馬鹿な夢があったからこそ、俺は俺でいられ、折れずに、逃げずに、ここまで来られたのだと思う。
――だからこそ。
あのとき、俺が選んだ“禁忌”の選択を、後悔はしていない。
神域に触れる、行使すら禁じられた魔法――『聖杯との取引』。
代償に何を奪われるかも分からない、発動した瞬間から“人”であることすら保証されない魔法。だけど、それでも構わなかった。どれだけの苦痛が降りかかろうが、どれだけの代償を払おうが、構いやしなかった。
悔しい話だが――ハイルも、ミラも、そして俺を「師匠」と呼んでくれたノエルも。
あいつらは、俺なんかよりずっと、才能があったから。
ハイルは“選定の奇跡”を受け継いだ、文字通りの英雄。
ミラは女神に祝福された奇跡の癒し手。
ノエルは、魔導の才能において、俺すら凌駕する天才だった。
そんな彼らが、もし死んでいたら――世界、いや、人類にとって、どれほどの損失になったか。誰よりも近くで、彼らの戦いを見てきたからこそ、それを強く断言できる。だから、俺が天秤に乗ることで、彼らが生き残るなら、それでいいと思った。
たとえ、その代償が――俺自身であったとしても。
そう、だから――
どんなことがこの身に起きても、納得する覚悟はしていた。
痛みだろうが、記憶の喪失だろうが、命をすり潰されるような結末だろうが……この命で贖えるなら安いと、覚悟していた。
――納得できるはず、だったのに。
「……その代償の“仕打ち”がこれかぁ」
呆れとわずかな笑いが混じった声が、虚ろな空間に滲む。
黒かった髪は、雪のように透き通る白へと変わり、腰まで届く長髪となっている。
指先は白磁のように繊細で、胸元には――明らかに“なかったはず”の柔らかな膨らみ。そして、水面のように静かな魔力が宿る赤い瞳が、鏡に映る“少女”を見つめ返す。
「……誰だよ、これ」
思わず漏れた独り言に、自分の声が応える。それも、少女らしい、澄んだ高音で。
驚いて思わず口元を押さえた。声帯の震え方が違う。骨格が違う。喉の奥から湧き上がる魔力の“響き”さえ、かつてのそれとは明らかに変わっている。
「ちょっと待ってくれ、本当に……」
戸惑いはある。あるが――どうしてか、思ったより動揺は少なかった。
それだけ、《聖杯との取引》の代償が“まともなはずがない”という認識が、心の奥に根付いていたのだろう。失明、記憶の欠損、最悪、魂の破裂――何が起きてもおかしくない覚悟を、確かにしていた。していた、つもりだった。
だけど。
「……流石にこれはないだろ」
鏡の中の少女が眉をひそめ、困惑の表情を浮かべる。
どこか“自分”であると分かる。だがそれは、“知っている自分”とはあまりにもかけ離れていた。十代半ばほどの年齢、全身から漂う若さと、異質なほど整った顔立ち。そして――白く長い髪が、背中でさらりと揺れるたびに、頬をくすぐる。
「……こんな代償、想定外にも程があるだろ、クソが……」
言葉とは裏腹に、その髪が風もないはずの空間で揺れ、頬に触れる感触がやけに現実味を持っていた。
試しに腕を上げてみる。軽い。骨格も、筋肉のつき方も違う。呼吸のリズムすら違う。そして――魔力の流れが、滑らかすぎて気味が悪い。まるで、管を通る水のように、澱みも抵抗もなく、体内を循環している。
「魔術回路の発動速度、倍以上あるんじゃねえか……」
思わず呟いた自分の声が、まるで他人のもののように耳に届く。
《身体が変わった》という事実の先に、《魔術師としてのスペックが変化している》という現実がある。――否、向上している。明らかに。
その事実が、ラインを一層困惑させた。
「まるで、“作られた器” だな……」
代償としての“少女の身体”――それは、ただの罰ではなく、何かの意図すら感じさせる“構造”をしていた。
何が始まるのかはわからない。
だが、“名前を残した魔術師”として死ぬ覚悟を決めたはずのラインは、いまやその名を捨て、“新たな名前”を背負わされる可能性すらある。
再び目を上げると、鏡の中の“自分”が、どこか不満げな、それでいてどこか諦観を帯びた目で見返してきた。