第一話
良き者は天へ、悪しき者は地へ――
そんな言葉がこの世には語られている。
天には祝福と永遠の安寧があり、争いも憎しみも存在しない理想郷が広がるという。
まるで“極楽浄土”のような、夢の世界。
一方で、地獄と呼ばれるその場所には、救いの言葉すら届かない。
燃える鉄の雨、絶え間ない咆哮、そして、終わることのない苦痛。
――ここには、懺悔も、赦しも、存在しない。
そんな天と地を分かつ、ただひとつの共通点。
それは「死」だ。
生の理から外れた瞬間、人はその片道切符を手にする。
だが、生きている者には、その先を知る術などない。
天国か地獄か、それともそれ以外か。
――その答えを知る者は、もうこの世にはいない。
それでも、今のこの光景を前にすれば、誰もが悟るだろう。
「ここは地獄に限りなく近い」と。
焼け爛れた大地、空を裂く悲鳴、血に染まった空。
命が、意味もなく散っていく。
「止まれば死ぬぞ!」
誰かの声が戦場を飛ぶ。
そしてその言葉は比喩でも警告でもない。ただの事実だった。
この場所では、一歩立ち止まれば、命は容赦なく刈り取られる。
鼻を突くのは、血と焦げた肉の腐臭。
耳に飛び込むのは、割れるような悲鳴と、喉を潰した断末魔。
そして、目に映るのは――希望の影もない、地獄のような現実。
殺すために動く魔族。
守るために抗う人間。
本能が命じるまま、運命に導かれるままに、殺し、殺される。
悲鳴が渦巻く中、人間の身体が宙を舞う。
巨体の魔獣が踏みつけた瞬間、人の肉と骨は爆ぜ、赤黒い肉片が泥に散る。
別の場所では、動く屍の首を剣が断ち切り、切断面から温かい血が噴き出す。
焼け焦げた死体が転がる中、炎の魔法が降り注ぎ、魔獣とともに人間すらも巻き込んで業火に包む。獣の咆哮と人間の断末魔が入り混じり、足元は誰のものとも知れぬ腕や脚で埋まっている。地面は血で泥と化し、滑って倒れた兵士を容赦なく別の魔物が喰いちぎる。視界には、助けを求めて手を伸ばす者と、それを踏み台にして逃げる者。仲間の死体を盾にして、まだ息のある敵を射抜く兵士の姿。
希望はどこにあるのか。
そう問いかける間もなく、命は無意味に、音を立てて砕けていく。
悲鳴と咆哮が混じり合い、血と泥が地面を赤黒く染める。
ここは、まさしく地獄そのものであり、そんな歴史を遥か昔から何度も繰り返されてきた。人類が滅びない限り。魔族の王が死に絶えない限り。この世界に救いという名の終止符は、永遠に訪れない。
だからこそ――
『世界』を守るために。
『人類』を救うために。
この終わりなき地獄を、終わらせる術はないのか。
そう絶望が蔓延る中で――人々は、ひとつの力にすがった。
《選定》――ただ選ばれし者にのみ与えられる、天秤を傾ける力。
神でもなく、運命でもなく、人が人のために掴み取った、唯一の奇跡。
それは偶然ではなく、奇跡でも、ましてや運命などではない。
生き延びるために、人類が選び取った、最後の灯火。
「きっと、これが最初で……最後のチャンスになる」
濃霧の戦場を、四つの影が駆け抜ける。
その先頭には、銀の装束に身を包んだ男――ハイル・アルフテッド。
背に翻る外套には、戦場の記憶が無数の傷として刻まれていた。
彼の手に握られた剣は、闇の中でも星屑のような光を宿している。
ふと足を止め、ハイルは静かに息を吐いた。
振り返ったその先にいたのは、共に地獄を駆け抜ける三人の仲間たちが映る。
「……絶対に、皆で生きて帰る。誰一人、欠けることなく」
その一言に、空気がピンと張りつめる。
重い覚悟が静かに場を支配した――が、それを破ったのは、やはりあいつだった。
「おいおい、ハイル。そんな死亡フラグ全開のセリフ、お前が言うなよ。……ミラとノエルの顔、引きつってるぞ?」
軽口と共に、漆黒の髪を揺らす男が肩を並べる。
ライン・ナァーバ・アルトリア。冷静沈着な毒舌魔法使いにして、ハイルの幼馴染。
その赤い双眸が、どこか茶化すように輝いた。
「真面目なのは嫌いじゃねぇけどさ、お前は笑ってる方が似合ってるっての。
なぁ、ミラ。ノエルも、そう思うだろ?」
その言葉に、白銀の長髪を揺らしながら、ミラ・ナーヴィスがふっと微笑む。
女神に選ばれし聖女。その証である翡翠の瞳がやわらかく仲間たちを見つめた。
「……ラインさんってば、こういうときだけは冴えてますよね」
その隣で、藍色の髪を後ろでまとめた少女がむっと頬をふくらませた。
ノエル・レプリロイド。名門の魔法家系に生まれた、召喚魔法の天才。
ラインの弟子という立場だが、今日も“師匠”には容赦ない。
「……そういうとこ、ほんと軽すぎです、師匠」
だが、その口調とは裏腹に、ノエルの声にはどこか照れと信頼が滲んでいた。
ハイルは小さく息を吐き、仲間たちに背を向ける。
その背中には、静かだが確かな決意が宿っていた。
「……ああ。いつも通りにやろう。そうすればきっと、俺たちの力は……魔王に届くはずだ」
夜の闇の中、彼らの姿が再び駆け出す。
地を蹴る足音と、剣に宿る光だけが静かに戦場を照らしている。
その背には、人類最後の希望――いや、願いが確かに宿っていた。
だが――世界は、そんな彼らの決意すらも、あざ笑うように無情だった。
正しさは力にならず。
願いは現実を変えない。
奇跡が起きたように見えたあの瞬間でさえ――
それは、ほんの一瞬だけ、弱者が強者を超えただけの幻想。
――結果は、語るまでもない。
光は砕け、希望は潰えた。
その日、人類の未来を背負った《勇者パーティー》は――
魔王に敗れ去った。