第8話 士郎は今日も嬉しがる
夕方。定時直前の恋雪のデスク。
「あの、東雲先輩。今日は帰りご一緒できなくて……同級生との飲み会があって」
「……ああ、そうなんですね。……了解しました」
目線を外し、淡々と返答する恋雪。
「すみません。なんか、急に決まってしまって」
どこか楽しそうにしている士郎をよく思わなかったのか、恋雪は斜めどころか、ねじ曲がっている機嫌を存分に表現した目で、睨むようにして彼を見る。
「……いえ別に。私が結城さんと帰るのが日課みたいに思ってたわけじゃ……ありませんので」
「……え?」
「お気になさらず。……飲みすぎないように」
冷ややかな声で、士郎を震わせる。機嫌の先も、口先も、少し違っていた恋雪だった。
帰り道を独りで歩く恋雪は、ぼーっと遠くを見ながら呟いていた。
「……なんで、こんな気分になるんでしょう……。別に、彼が誰と飲みに行こうと……関係ないはずなのに」
スマホを見ても、通知はない。
「……毎日一緒に帰ってたから、なんとなく、今日もって思ってただけ……。ほんと、それだけ、なのに」
大きいため息をひとつきして、うかない顔が街灯に照らされる。優しく温かい光は、不機嫌な彼女を包みこんでいる。頬は染まっていなかった。
その夜。自宅のソファでだらける恋雪。
ピロン、という音が鳴る。メールが届いたことの通知音だった。
結城士郎
「さっき飲み会終わりました。先輩はもう帰宅されてますか?」
「なんだか今日の先輩、ちょっと冷たかった気がして……大丈夫ですか?」
メッセージをじっと見つめて、深く読んだあとにスリープ状態にした。見たくないということではないだろう。むしろ多く、長く見ていたい。でも機嫌がそうはさせてくれないのだ。
恋雪は士郎と帰れなかったことを、とても気にして引きずっている。
「察し、悪いんですね、ほんと……」
返信せず、クッションに顔をうずめる。
翌朝。出勤前、会社のエントランス。
士郎が待っている。恋雪は少しバツが悪そうな顔をしていた。
「おはようございます、東雲先輩。昨日、返信なかったので心配して」
「……あれは……返信するほどの内容じゃ、なかったので」
士郎の声が聞けて喜びの感情と、昨日の一件から寂しい感情の両方がひょっこりと顔を出してくる。恋雪の中でここまで拮抗した勝負を繰り広げてきたことはなかった。
笑いたいけど、笑えない。結局は真顔の真顔だった。
「ははーん。やっぱり……拗ねてました?」
「……べ、別に……拗ねるようなことじゃ……ないです……!」
明らかに拗ね顔の女性が士郎の目の前にいる。デスクにカバンを置いて、すぐに仕事ができる準備をしておく恋雪。
「先輩と帰れないの、僕も寂しかったんですけどね」
「……それなら、最初から、飲み会なんか行かなければよかったんじゃないですか」
「先輩……」
「もう……! ……もう、いいです。今朝は話しかけないでください。……機嫌、直すのに、ちょっとだけ時間がいりますよ」
トイレに向かっていった恋雪。
(かわいいなあ……ほんと……)
士郎は今日も嬉しがる。
◇◇◇◇
「もう、なんなの……! あんなふうにからかって……。拗ねてるなんて、そんなの……当たり前なのに……」
個室からそんな声が聞こえてくる。声の主はもちろん恋雪。先ほどの士郎との会話を思い出して、自分の態度と彼の言動を考察している。
(……もうバレバレなんだよね。いつまでもごまかしてちゃダメなのに、私ずっと逃げてばっかりだ……)
逃げて逃げて、今日も逃げ続けている。恋雪は自分で嫌になるほど分かっているのだ、性格を。怖がりで泣き虫な自分を。傷つきたくないと無意識にかばおうとしている自分を。
ただ、伝えてしまえばいいのにと、そうわかっているのに……できないものはできないのだ、と。
全部全部、分かっているのだった。
三人称ムズい(作者)