第2話 士郎は今日も気付いてあげない
夜、会社のエントランス前。残業帰りの二人。
人通りも少なくなった街で、恋雪は士郎と並んで歩いている。ふたりとも、なんとなくゆっくりとした足取りだった。
「お疲れさまでした、東雲先輩。今日の資料、無事に仕上がりましたね」
士郎が労いの言葉をかける。帰路につく会社員たちでエントランスは満員だったが、その言葉はしっかりと恋雪の耳にも届いている。
恋雪は士郎の言ったことを聞き逃したことなど過去に一度もなく、絶対に反応できるほど。疲れがあっても決して無視はしない。
「……ううん、結城さんが細かいところまで見てくれてたから、私、助かっただけですよ……」
「それでも、頼りになるのは東雲先輩です。やっぱり、僕は先輩と組んでる時が一番やりやすいです」
士郎がさらりと口にする。その言葉に恋雪は、少しだけ胸が高鳴っているのを知る。
手を当ててみるも、どうにも治らない。収まらない。
無意識に鎮めようと実践するが、鼓動が止むことはない。恋雪は若干困惑したような表情をして、すぐに自分を落ち着かせて、平常心に戻す。
「……そうやって、またすぐ褒める……。はぁ……ずるい人ですね、結城さんって……」
「えっ、ずるい……ですか?」
「……うん。だって……そんなに優しくされたら……、期待しちゃうじゃないですか……。私、馬鹿みたい……」
ふいに立ち止まって、夜風にふわりと髪を揺らしながら、恋雪は少しだけ士郎の顔を見上げる。
いつものジト目が柔らかくなり、悩みを含んだ瞳になる。
「……結城さんって……他の子にも、そうやって優しいんですか?」
「いえ……。僕がこんなに気を遣うのは……東雲先輩だけです」
恋雪が目を伏せ、そっと笑う。
笑っているが、これは精いっぱいのもの。精いっぱいに平静を装っているもの。
また心拍数が上がる。徐々にそのペースが速くなり、苦しいくらいに変化する。
「……そっか……じゃあ、もうちょっと……頼っても、いいのかな……?」
「もちろんです。むしろどんどん頼っちゃってくださいよ。僕、先輩のためならいくらでも動きますから」
「……ほんと、そういうところ……ずるい……。でも……そういう結城さんが、私は……結構、カッコいいと思います……」
その言葉に士郎が一瞬固まり、照れたように笑う。
「……えっ、それ、今……わりと大事なことをおっしゃいましたよね?」
「……あれ? そうでしたか……? 気のせいじゃないですか……?」
「気のせい……ですか?」
「……ふふ、わからないなら……もう教えてあげません」
全身に音が響いていた。恋雪は自身の耳の内側から鳴っているように、彼女の全身に響き、そして心にも影響を与えていた。
(ドキドキしてるの……バレちゃう……)
きっと仕事疲れのせいだ、と恋雪は脳内で結論づけた。それが正解だとする答えはない。
士郎は不思議そうに恋雪を見つめていた。真っ赤になっている耳を目にして、原因と思われる複数の考察が頭の中を飛び交っている。
(仕事、いっぱいあったもんな……。疲れてるよなそりゃ……。俺がもっと出来るやつなら、先輩の分まで全部やるのに)
士郎の考察に一瞬迷いが生じる。恋雪の疲れはたしかにある。しかし疲れているのであれば、耳が赤くなる関わりはないはずだ、と。妙に思う士郎だったが、士郎自身も疲れているのか、恋雪への察しが悪くなっていた。
(疲れだな、多分……。俺も頑張ったし、頭が回らなくなってる……。栄養剤でも買って帰るか)
家の方向が途中まで同じである二人は、仕事終わりに一緒に帰っていくのが日課になっている。
「先輩、今日は早く家に帰って休んでください。僕はコンビニ寄ってからなので」
「えっ……」
狼狽える恋雪。胸に手を当てて考える。
(ドクンドクン)
変わらず速かった。
「そうですね……。今日は別々で帰りましょうか……」
いつもとは違って二人は別れて帰宅することになった。
(あっ)
恋雪の笑顔の裏に隠れた落胆を見つけた士郎は、申し訳なさを感じながら彼女に言葉をかける。
「お疲れ様でした。先輩」
「はい。お疲れ様でした。また明日……ですね……」
今日も後輩は気付いてあげなかった。
◇◇◇◇
(きっとこの動悸は、疲れのせいだ……)
「……んなわけないだろ、バカかよ俺!」
コンビニで一人、ブツブツ言っている士郎。栄養剤を買った意味をなくしてしまった。
「かわいいがすぎるだろ……マジで……」
結局酒まで買っていった士郎だった。