第10話 恋雪はようやく気づいてしまう
昼休み。
東雲恋雪は、いつものように静かに、給湯室の前で缶コーヒーを手に取っていた。結城士郎がそれを見つけて声をかける。
「ブラック、今日もですか?」
「はい、そうです」
彼女の返事はいつも通りだったが、内心は、明らかにざわついていた。さっき、自分の中でひとつの認識がはっきりと形を成してしまったからだ。
(私、結城さんのことが、好きなんだ)
気づいた瞬間、全身から血の気が引いていった。
恋雪は、ありえない、と思った。
自分とは違って人に囲まれるようなタイプで。彼女のように、人付き合いが得意じゃない、感情表現が拙い人間とは、きっと正反対の場所にいる。
「先輩、今日って帰り、いつも通りご一緒できますか?」
士郎の何気ない言葉が、胸の奥をトンと突いた。
「……はい。大丈夫です」
返した声が少し震えていた気がして、恋雪は慌てて視線をそらした。
この気持ちは、絶対に知られてはいけない。そんなもの、知ったらきっと彼は困る。気まずくなる。だからこの気持ちは、ずっと胸の奥にしまっておく。
そう決めたのに、帰り道で横に並ぶ彼の足音を聞くだけで、心が跳ねてしまう。電車の中、つり革を持つ手の距離が近いことで心臓は速くなる。駅で別れるとき、いつもより長く見送ってしまいそうになる。
それでも、必死に平静を装った。
それは長くは続かなかった。
金曜の午後。社内で大きなミーティングが終わったあと、
同僚たちが飲み会の話で盛り上がっていた。
「結城くん、今日参加するよね? 佐伯さんも来るって言ってたよ」
その一言が、恋雪の心にざらりとした棘を落とした。
彼の答えを聞く前に、恋雪は無言で席を立った。
なぜそんなことでざわつくのか、恋雪にだってわかっている。彼が他の女性と笑い合う姿を想像したくない。
くだらない、と思う。
自分にそんな資格はない。気づいてしまった心は、勝手に反応してしまう。
その夜、電車の中でスマホを恋雪の握る指が震えた。小さなバイブレーションだった。
結城士郎
「今日はすみません。明日は、ご一緒できたら嬉しいです」
そのメッセージを見て、ほんの少しだけ、胸が楽になる。
でも同時に、罪悪感のような苦さも喉元に残った。
週明け。会社に行く足取りは、ほんの少し重かった。
エントランスで待っていた士郎が、笑顔で声をかける。
「先輩、おはようございます。……あの、金曜の件、気にされてませんか?」
「……いえ、別に。気にするようなことでも、ないです」
言いながら、目を合わせられなかった。隠してるつもりだった。しかし隠しきれていない。
「先輩。最近、なんだか……距離を取られてる気がします」
士郎がふいに立ち止まり、真剣な目で見つめてくる。
「もし僕が、なにか失礼なことをしたなら、謝ります。でも、これだけは教えてください。僕といるの、嫌になりましたか?」
「なっ!」
問いかけに、思わず息を飲む。
違う。そんなわけがない。嫌どころか、ずっと一緒にいたい。だけど、それを言葉にしてしまえば、きっと何かが変わってしまう。そう感じずにいられない恋雪。
だから、恋雪はゆっくりと、苦しそうに笑った。
「……嫌になんて、なるはずないじゃないですか。……結城さんは、私には……もったいないくらいの人です」
「もったいない?」
「……はい。だから……これ以上、優しくされると、私、勘違いしてしまいそうなんです……」
吐き出すように言ったその瞬間、彼女は自分の手の震えに気づいた。もう、だめかもしれない。
でも、そんな彼女の手を、士郎はそっと包んだ。
「……ずるいですね。そういうところ、本当に……」
その顔は、泣きそうで、でもほんの少しだけ笑っていた。
気づいたその日、世界はやけに眩しくて、うまく目を開けられなかった。でもそれは、春の陽射しのようにあたたかい。
彼女はようやく、心の奥に隠していた言葉を、少しずつ拾い上げていこうと思った。
そしてきっと、いつかは。彼と。
乙女な恋雪はようやく気づいたのだった。