第1話 恋雪は今日も気づかない
終業チャイムが鳴った瞬間、オフィスの空気がほんの少しだけ緩んだ。
パソコンのディスプレイを閉じる音、椅子が引かれる音、同僚たちの「お疲れさまです」という柔らかい声があちこちで飛び交う。
その中にいる、東雲恋雪は相変わらず無表情で、静かにキーボードを叩いていた。
誰もが帰る準備をする中、彼女はまだ一つの表計算ソフトと向き合っている。残業の申請など、とっくに頭の中から削除されているような佇まいだった。
さらりとした前髪の奥で、瞳だけが静かにデータの不整合を追っている。
「……東雲先輩、もう定時過ぎてますよ」
柔らかく、けれど真面目な声が背後からかけられた。
結城士郎。彼女の三つ下の後輩で、同じ部署に配属されて二年目になる。
顔立ちは整っており、性格も素直で、仕事も文句なくできるにもかかわらず、なぜか彼は恋雪の仕事ばかりを気にかけていた。
「この数字、報告とずれていたので……もう少しだけ、確認を……」
「それなら僕、やっておきますよ。先輩、朝からずっとパソコン見てましたよね。目、疲れてませんか?」
「……いえ、大丈夫です。目は、飾りみたいなものなので」
「アクセサリーもちゃんと手入れしないといけませんよ」
そう言いながらも、士郎はいつものように手元のファイルを見て、黙って手を伸ばす。
当然のように、彼女のパソコンに並んでいる自分の席でエクセルファイルの確認を始める。恋雪はわずかに眉を動かしたが、止めなかった。
(また、勝手に手伝って……)
内心ではそう思っている。だが口にはしない。
東雲恋雪は、誰かに助けられるのが少し苦手だった。頼り方がわからない。感謝の仕方も、怒り方も、上手く伝えられない。
それでも。
それでも結城士郎は、彼女の「言葉にならない部分」を、まるで読み取るように寄り添ってくる。
彼女の仕事量が少し多ければ、気づかぬうちに一部を肩代わりしてくれていた。
彼女が昼食を抜いた日には、休憩スペースに温かいカフェオレがひっそり置かれていた。
優しすぎて、鬱陶しい。
鬱陶しいのに、胸が、少しだけ温かくなる。カフェオレのせいだと恋雪はそう感じていた。
「……甘やかしすぎです、結城さんは」
「えっ、僕、甘やかしてますか?」
「……ええ。かなり、です」
「じゃあ先輩は、僕に甘やかされてくれてるんですよね」
「……違います」
「ほんとに?」
「……違うはずだと思いたいだけ、です」
返ってくる言葉はいつも淡々としているのに、その語尾には、少しだけ揺らぎがある。
感情の波を隠しきれないその一瞬だけを、士郎は見逃さない。
この人は、自分のことを過小評価しすぎる。
優しくて、真面目で、繊細で、それを全部内側にしまい込んでしまう。
(でも、僕はちゃんと知っている。この人が、どれだけ努力して、どれだけ我慢して、それでも誰より人のことを見ているか)
士郎の視線が、そっと恋雪に向けられる。
その視線に気づいたか、恋雪はタイピングの手を止め、少しだけ顔を向けた。
「……なにか?」
「いえ。ただ……今日も、東雲先輩は綺麗だなって」
「……」
沈黙。
タイピングが止まったまま、彼女はぴくりと肩を揺らした。
彼女の顔は、まるで何も感じていないかのように見えるけれど、耳の先が、ほんのり赤くなっていた。
こうして、また一日が過ぎていく。
恋雪は自分の気持ちに名前をつけられず、士郎はその名前を知っていて、わざと呼ばない。
すれ違い、噛み合わない優しさが、今日もオフィスに、ほんの少しだけ甘い香りを漂わせていた。
今日も恋雪は、この感情がなんなのか気付いていない。