レイナの時間旅行日記
過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ。
トルストイ(ロシアの小説家、思想家 /1828~1910)
序章
死そのものが迫っているほどに圧倒的なものだった。
一段と濃くなった硫黄臭を感じながらおそらく成層圏付近まで舞い上がった黒煙を見て、遠い昔にこれと同じ光景を見たことをあたしは思い出した。確実に前世の記憶が戻りつつある。
一説によるとこの噴火のエネルギーは広島型の原爆の百万倍はあるらしい。少なくともあたしのいた25世紀の現代ではそのような災厄はない。そこは人紛いのロボット達に管理された平和な時代なのだ。
前世にここにいたとすれば、あたしは今とは違って男だったのだろうか、でもそんなことはどうでもいい。今更余計なことを考えるのはよそう。すべての責任は私にある。でも不思議と悔いはなかった。これで命を落としたとしても・・
市北にある石門の付け根で灼熱のそよ風が私の頬を撫でた。
全細胞が煮沸き立つような激痛が走り、あたしは地面に這いつくばった。赤土の冷やっとした感覚が心地よく、いやでも顔を深く押し付けざるをえない。涙とともに口に入った土の味はやけにしょっぱい。
「大丈夫かレイナ!」
アウエリウスがあたしの肩を揺すっている。そういう彼も耐え難い熱風に身をよじらせているらしい。
地面から顔を上げ、涙で潤んだ目で彼を見上げたあたしはやっとの思いで首を振った。
これはまだ序の口だということが二人ともわかっている。
彼はこの時代流行りのギリシャ悲劇調の芝居がかった口調で言った。
「いよいよくるぞ!お前が言っていたサージというやつだ。やっぱり本当だったな」
おそらくこういう意味のことを彼は言っていた。
内耳に装着されたナノ翻訳機から母国語である日本語に変換されるはずだったが、どうやらこの熱で故障してしまったらしい。だけどこの一か月の間でラテン語もだいぶわかるようになった。
私は頷き、彼のたくましい腕を覆うトゥニカを掴んだ。
トゥニカはこの時代のほとんど誰もが着るもので、絹や麻でできた広い布を二枚合わせた服のことだ。だぶついて動きにくく、不便なことこの上ない。なぜローマ人は何百年も好んでこんなものを着ていたのか。少なくとも私の時代で着れば気が狂ったか、ハロウィンの仮装かなにかだと思われるだろう。ふとそんな場違いな思いが頭をよぎる。
「そうよ」とあたしは言って、ここに来る前に学んだ知識をたどたどしいラテン語で伝えることにした。「史実では七回にもわたって熱雲を伴う火砕硫と瓦礫が降り注ぐの。誰も生き延びられないわ」
ざりざりという不吉な音が聞こえてくる。再び襲ってくる熱風を避けるようにトゥニカで顔を覆った彼の瞳は不安と恐怖で歪んでいる。突然こぶし大の瓦礫が彼の背中に当たり、熱風が全身を撫でる。服がめらめらと燃え上がり、彼は地面に転げまわった。打撃音から背骨が折れたことは明らかだった。しばらくしてその火は消え、そのまま蹲る。
あたしは申し訳なさで心がいっぱいになった。
もとはといえば、時空法を犯したのも彼と出会ったからだ。心の支え、死んだ弟にそっくりのはにかむような笑顔、なにかと相手を気遣う仕草、そして守りたくなるような弱さのある瞳。あたしは歴史を変えてでも彼と彼が愛したこの街の人々を守りたい。だけど・・
「だけど」満身創痍の彼は蹲りながら、あたしの思考を読んでいたかのように呼応した。「助けのあてはあるのか、レイナ」
苦痛の声の中には、濃いあきらめの色が混じっていた。
嘘のつけないあたしは答えられなかった。二人とも助けのあてなどないことはわかっていた。あたしたちの必死の説得と誘導であらかたの住民はここにはいない。今頃、東の都市スタビアエは避難民でごった返しているだろう。そのせいでまた人が死ぬかもしれないが。
それでも生き残った人達はなんらかの形でこの災厄を語り継ぐことだろう。さらに後の古代社会の人口動態にも影響が生じるかもしれない。バタフライエフェクト。結果的に現在に至る歴史まで変わるかわからないが、これだけはいえる。後世ここを発掘する人達は首を傾げることだろう。なぜこうも遺体が少ないのかと。そのため逃げ遅れたあたしたちはチェスでいえばチェックメイトの状態だった。そんなあたしの感情を読んでか、彼は気丈にも微笑みを浮かべた。「いいさ、俺はレイナといっしょにいられれば本望だよ」
彼はそう言ってあたしを見つめた。「このまま死のう」
アウエリウスはきっとあの時からそのつもりだったのだろう。
彼は突然起き上がり、トゥニカを剥ぎ、降下し始めた死神のようなサージをまるで春雨でも迎えるように仰いだ。この場面だけを切り取ったら、まるで柔らかい雨でも降ってきそうな姿だ。
その振る舞いに、あたしの脳裏に閃光のようなものが走った。あのとき聞き流していた言葉が生々しく蘇る。
唯一の生存可能性、それでも可能性は一パーセント以下かもしれない。
「いいえ!」あたしは煤だらけの彼の顔を見つめ、絞り出すように言葉を吐いた。
「まだ助かる方法はあるわ!」
あたしは両手を頭上に高々と掲げた。古来から伝わる雨ごいのポーズ。あるいは天から落ちてくる蜘蛛の糸を今かと待ち受けるカンジタのように。
とうとう、すべてを焼き尽くすサージが死の音を立てて頭上に迫ってきた。もはや一刻の猶予も許さない。サッカーボール大の瓦礫が次々と降り注ぐ。一分以内にすべての生命は息途絶えるだろう。いやおうなく死の予感が身内に走る。両足は震え、熱さのため息すらつけない。
でもやるしかない。
私は気道裂傷になるのを覚悟で深呼吸し、あのとき教わった言葉を叫んだ。
「未来の民よ、我を救え!時空間座標軸はAC六七年八月二六日ベスビィオ山ポンペイ市北門、認証パスワードは・・・・」
最初で最後のチャンスだ。これで無事助かったのなら、あの変わり者の担当官を抱きしめてあげよう。もっとも彼はそんなこと望んでいないかもしれないけど。
しかし、なんの返答もなかった。降り注ぐ瓦礫が密度を増し、腕に足にと打ち付ける。右手を失い、肋骨も砕かれ、血を吐き出す。それらの痛みにも増して、最後の希望が潰えたことで黒みがかった絶望があたしの視界を覆う。
頭蓋骨が陥没し頭から血を流し倒れているアウエリウスを抱きしめる。もはやこれまでだ。
サージが襲いかかる直前、あたしの記憶は走馬灯のように出発前のあの日へと遡っていった。