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「とりあえず落ち着いて、ほら」
震えた手を温めるように握っていた彼の手が離れ、おそらく自分用に買ってきていたであろうコーヒーをわたしに渡してくれる。
小さくありがとうとだけ伝えてまだかすかに震えた手で受け取った。
いつも飲んでいるコーヒー。
ピアノの椅子ではなく、合唱台に座らされる。
すぐ隣に彼も座って先ほどの異常さについて問うてくるわけでもなく、ただ黙って窓の外を眺めている。
走ってきてくれた時に緩めたのか、いつもよりネクタイが緩い。
校内は狭いわけではないが、あれだけ乱雑に弾いたのだから放課後であればかなり響き渡っていたはずだ。
駆けつけてくれたのが彼でよかった。
横に座る彼をちらりと見ると、いつもの彼に戻っていた。
ここまで距離が近いことは初めてだった。
いつもピアノを弾くわたしの少し離れたところに座っていたから。
「なんでいつもここにくるの」
同級生とご飯を食べたり、放課後遊びに行くということもせずにずっと音楽室に通い詰めている。
彼にとって有意義な時間を過ごしているとは思えない。
ここに今いる時間だって、彼にとっては無関係で無意味なはずなのに。
「好きなんだよね」
短く答えたあと、こちらに振り返ったため目線が合う。
見つめられたまっすぐな瞳は深い黒で、吸い込まれるような感覚で見入ってしまう。
「はるちゃんのピアノ、俺好きなんだよ」
前も話したけど、と言いながら続ける。
「伴奏以外でも聴いてたいって思ったんですよ。こんなきれいな音を出す人はどんな人なんだろうって最初はただの好奇心に近かったかもしれない。けどね、毎日聴きに来るのが楽しみになるくらい、俺ははるちゃんのピアノが好きだよ」
見つめ合ったまま恥じらうこともなく柔らかく笑う。
言われているこちらが赤面してしまうような内容を。
「それになんか俺だけがこの時間ひとり占めしてるみたいじゃん」
ころころと表情が変わり、大事なおもちゃを独占しているような子どものような顔になる。
ひとり占めしているのはわたしも同じなのかもしれない。
彼が他の人と過ごす時間を、わたしは奪ってしまっている。
卑屈になっているわたしはそんなことに時間を割いてメリットがあるのかと思ってしまう。
おそらくメリットデメリットでここにきているわけではないだろうけれど。
ほんの少しだけ手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる。
今この瞬間が一番近い距離。
女の子のような顔、男の人にしては高い声、けれど男子の中でも背は高いほうで、長く伸びた先の手はもちろんちゃんと男の手。
赤面していたわたしを少し笑いながらまた窓の外を見ていた彼の手にそっと触れる。
びくんと反応し、勢いよく振り向かれる。
先ほどつないだ時と同じく温かい。
気恥ずかしさを隠すため下を向いたまま視線が合わないようにする。
「さっきは」
指先から伝わる体温に、自分でも手を伸ばしたことに驚いていた。
胸が波打つ。
「さっきは、その、ありがと」
徐々に声が小さくなったので伝わったかわからなかった。
彼の手が一瞬離れ、そっとわたしの手に添えられた。