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いつかまた音に乗せて届けるから  作者: 光瀬
立花はるか
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 一言でいうと彼は「変わっていた」。

 購買のパンとパックのコーヒーを持って音楽室に来て、当たり前のように窓辺に座って食べる。

 わたしを見ているわけではなく、ずっと窓の外を眺めて過ごす。

 楽譜をあさり、曲を決めるために弾いている間は絶対に物音を立てない。

 予鈴が鳴った時には必ず「ばいばい」と手を振って出ていく。

 会話らしい会話をほぼしない毎日が続いているというのに、彼は必ず音楽室にやってきていた。

 まるで空気のような、そんな存在だった。


 いつまでも選曲で悩んでいられないとわかっているものの、5月中に曲を決められることができなかった。

 焦りは更に焦りを生む。

 昼休みだけでは時間が足りなくなっていたわたしは、鍵を借りて音楽室を利用するようになった。

 たまたまなのかどこからか嗅ぎ付けたのか、放課後も彼は顔を出すようになった。

 楽譜とにらみ合う毎日に嫌気がさす。

 もう受験自体諦めてしまおうかとも考えてしまっていた。

 本来であればとっくに精度に時間を割いている時期だ。

 練習にすら入っていないわたしはもう間に合わないのではないか。


 放課後すぐに入った音楽室は静寂が耳をつんざく。

 まだ彼はきていない。

 かばんを机に置き、手元にある楽譜を手あたり次第弾く。

 コンサートやコンクールで弾いた曲、暗譜している曲まですべて。

 普段であれば弾いている時間が長いほどに手は温まるというのに、全く温まることはなくむしろ冷たい。

 動きが鈍くなっていく。

 指先の冷たさを温めようと更に動かすが、どんどん音の粒が荒くなっていく。

 音楽として成り立っていない音が室内に響く。

 嫌だ。

 こんな汚い音は嫌いだ。

 わかっているのに、ピアノを弾く手を止められない。


 自分の音に腹が立つ。


 違うの、わたしのピアノはこんな音じゃない。

 これは違う。弾いているんじゃない。叩いている。

 ハンマーがこれでもかと鋭く打つ。

 ピアノがかわいそうだ。

 こんな弾き方をされるために今ここにピアノがあるわけではない。

 荒々しく叩くように弾かれるこの黒い塊があまりにも不憫だ。


「どうしたのっ」


 勢いよく開かれたドアの前で、彼が息を切らせて立っている。

 やっと、自分の手が止まった。

 肩で息をしているわたしに駆け寄ってくる。

 何が起こっていたのかまではわからないだろうが、あの音はわたしの音だとわかって走ってきたのだろう。

 思わず椅子から立ち上がって距離をとろうとする。

 聴かれた。

 こんな、わたしの汚いピアノを、ピアノなんて呼べない音を、聴かれた。

 ただなんとなくそこにいるだけのようでちゃんと聴いてくれているのがわかるほどわたしへ配慮してくれていたというのに。

 気付いていた。

 彼がわたしの音に耳を傾けて、優しく目を細めながら見守っていてくれたのを知っている。

 こんなものを聴かせたくなかったのに。

 無意識に目に涙が浮かんでいたわたしの手を、彼が優しく包み込む。

 

「大丈夫だよ」

 彼の体温が冷えた指先から伝わってくる。

 泣きたくないのに、涙が流れた。

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