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「なにしてんすか、立花先輩」
まずは選曲をと音楽室にこもるようになってから3日目、全く知らない男子がパックのコーヒーを片手に音楽室に入ってきた。
「え」
突然の来訪者に弾いていたピアノの手を止める。
わたしの名前を知ってはいるようだが、わたしには心当たりがない。
ブレザーについているネームプレートの色は1年生のものだった。
わたしが覚えていないだけで面識があるのかと考えたが、まだ5月て入学したばかりの1年生に知り合いはいない。
「ピアノ弾けるんだねー、ちょっと意外」
「いやいや、誰ですか」
高身長の手足が長い彼は、わたしの質問に答えることもなく窓辺まで行き座り始める。
「あ、お構いなく弾いててください」
全く状況についていけていないわたしをよそに彼は邪魔をするわけでもなく黙って昼食を取り始めた。
せめて名乗れよと思ったが、無視だ無視と言い聞かせる。
おおかたスラックスの女子というだけで名前を知っているだけだ。
校内でもスカートを履いていないのはわたしだけなのだから、入学したばかりであろうとわたしを知っていてもおかしくはない。
まだ曲は決まっていないのだから、早めに決めなければならない。
よくわからない男子を気にかけている余裕はないのだ。
余裕はないはずなのに。
「いや誰だよ!!」
それがつかみどころのない彼との初対面だった。
音楽室を借りるようになってから数日が経過するものの、曲は決まらず練習にも入れていない。
だがそれ以上に厄介な人間があたりまえのように通い詰めるようになった。
初めて音楽室に入ってきてから毎日、彼は昼休みに顔を出す。
わたしの頭痛の種だ。
購買で買ってきたパンを食べながら、黙って窓辺に座っている。
予鈴が鳴れば帰っていく。
邪魔をされているわけではないしからかいにきているようでもない彼に、どう対処していいものか悩んでいた。
「はるちゃんはなんで毎日ピアノ弾いてるの?」
そして呼び方まで変わっている。
先輩ぶりたいわけではないので敬語は特に気にかけなかったが、次の日にははるちゃんと呼ばれるようになっていた。
「はるちゃんはやめて」
「ねえなんで?」
会話が成立しない。
押しが強いというか、不躾というか。
「…入試のため」
なんなんだこいつは思いながらも、答えなければ延々問うてきそうだったので仕方なく答える。
ネームプレートを見て名前は把握したものの、やはり接点は思い浮かばない。
そして毎日通い詰められることも疑問だった。
「ピアノの学校いくの?」
「そのつもり、だから邪魔しないでもらえるかな」
邪魔をされているわけではないが、気が散るのは事実だ。
退室を促しているつもりでも彼には伝わらない。
「そっか、いつ試験なの?」
「出ていってほしいと伝えたつもりなんだけど…」
「邪魔はしないよ」
無邪気そうに笑う彼に言葉を失いかける。
これは頼んでも意味がないものだ、と理解する。
「7月に入試があるの。まだ曲を決めてないからひとりになりたいんだけど、どうして君は毎日来るの」
「はるちゃんのピアノ聴きたいから」
追い出すことに失敗していることに深いため息をつく。
なにを言っても無駄だと諦めるしかなさそうだ。
どうせ面白半分で来ているだけなのだから、飽きたら来なくなるだろう。
ただ、わたしのピアノを聴きたいだなんて言う人は初めてだったので、驚いた。
そういえば、とふと思い出す。
「なんで君はわたしのこと知ってたの?」
珍しい女子生徒という自覚はあるが、名前を知られるほど有名ではない。
「入学式の時さ、はるちゃん校歌斉唱でピアノ弾いてたでしょ。その時にこの人のピアノ好きだなーって思ったから先生に聞いたの。まあ入学式の冊子にも奏者名書いてあったけどね」
そんなこともあったな程度に思い出す。
「校歌のピアノなんて誰が弾いても変わらない気がするけど」
「そんなことないよ、はるちゃんのピアノいいなって思ったのは事実ですから」
来賓の中で分かりにくい場所でひっそりと弾いていたのに、彼は気付いたという。
出会った時から思っていたが、変な人だ。
校歌なんてお飾りだろうものをちゃんと聴いている人がいるなんて思ってもみなかった。
わたしが校歌を弾いたのは彼の入学式が初めてだった。
普段は別の誰かが弾いていたし、わたしに声がかかっても断っていたから。
その日はいつも弾いている子が腕を骨折していたため、わたしが代理で弾くことになっていた。春休みに連絡がきた時は驚いた。
本当にただの偶然だったというのに。
「へんなひと」
そんな事実を知らない彼が少しおかしく、笑ってしまった。