part1 紫苑が探す猫
犬より猫派です
どうぞよろしく
なんともない道端であくびする猫を、誰も神だとは思うまい。
家屋によって影となっている道路で寝転び、たまに通りかかる人を見上げては、目を細め尾を揺らす。灰と黒の縞模様に汚さはないが、尾の先が少し折れて曲がっていた。
人が神への祈りを捨てる時代。神という未知を解き明かしていく世界。科学を手に入れた人類が神を解体していく現代。まるで親から離れる子のように、人類は神から離れていく。
かつては崇められ祀られていた神も、今では人社会で身を隠すようにして生きている。名が知れ渡っている強大な神はそうでもないが、現代に名が残っていないこの猫のような神は、もはやそこらにいる猫と変わらない生き方をしている。こうなってしまってはもう、人と話すことはないだろう。普通猫は人の言葉をしゃべることはないからだ。
この猫のような神は、それがたまらなく寂しいのだ。
しかし、現代でも科学が届かない領域にいる人たちがいる。今も昔も、同じく呪術師と呼ばれる連中。神を敬い畏れ妖怪悪霊を払う者、神秘を受け入れその一端を預かる者。
彼らもまた人社会に紛れ生きている。
ゆえに猫のような神は神託を下す。
『最期の戯れを始めよう』
静けさが支配していた世界にしわがれた声が響きわたる。
『死に場所を探す猫を、消えゆくわしを見つけた者にはひとつの望みを叶えてやろう』
そして猫のような神はにゃあと鳴いた。
猫が立ち上がる。ひとつ、あくびをした。先が折れて曲がった尾を涼し気な風の中に揺らめかせながら、陰の中から出て行った。
夏休みに入って三日が経った。もうすでに強敵である『なつやすみのしゅくだい』を八割型終わらせた紫苑は、はっきり言って暇だった。ここ三日間は狂ったかのように寝る間も惜しんで宿題をさばいていたが、落ち着いて考えてみたら宿題をさっさと終わらせたとしてもやることなんてほとんどなかったことに気付いた。
部活には通っていないし、このクソ暑い夏にバイトをするほど追い詰められてはいない。
こうなってしまっては夏休みが余ったようなものだ。あとはクーラーで冷やし切った部屋で怠惰にごろごろしているしかない。
紫苑は有限実行とばかりに、寝てもいないし起きてもいないという怠惰を極めたような状態でベッドに寝転がっていた。友人である裏葉から電話がかかってきたのはそんな時だった。
『紫苑! うちのカツオがいなくなっちゃった!』
「カツオ……?」
主に刺身やたたき、鰹節にして食べられる赤身魚のことである。
『飼っている猫だよ!』
違ったようだ。そういえばと紫苑は思い出す。前に裏葉の家へ遊びに行った時、全力で撫で回した猫の名前が、そんな赤身魚みたいな名前だった気がする。
「あー……はいはい、あの子ね」
『目を離したすきにいなくなっちゃって! 外に出たみたいで探してくれないかな!?』
「はぁん? 別にいいけど」
『よかったぁ……いろいろ用事が積み重なっちゃって、自分じゃあ探せないんだよ』
「用事ねぇ……」
『じゃあよろしくね!』
裏葉はそれだけ言って電話を切った。相変わらず騒がしいやつめ。紫苑はベッドにスマホを放り投げた。
あくびを噛み殺していたら、だんだんと意識がはっきりとしてきた。さっきは思い浮かばなかったが、ここはクーラーの効いた部屋だ。家の外の気温は当然だがここよりはるかに高い。なんだってこの心地いい楽園を出て地獄のような外に行かなくちゃいけないんだ。今更ながらムカついてきた。
紫苑は顔をゆがめてぐうぅ、とうめく。寝ぼけていたとはいえ、一度了承したものを撤回することはできない。いや、今すぐ電話をかけて拒否権をたたきつけることもできるのだが、それをすると余計うるさくなるのは目に見えているし、友人の頼みを面倒だからと断るほど薄情なやつではないと思ってるし、実はちょっと自分もカツオのことが心配でもあるのだ。
一番の理由は予定というものが何もなかったからだ。
紫苑は万感の思いをため息に混ぜ込んで吐き出した。
「行くかあ……」
差し当たって装備を整えねば。
白いTシャツに紺色の薄地のズボンという風通しの良い軽装。散歩する程度なら黒いショルダーバッグに財布、スマホ、ハンカチ、タオルあたりをぶち込めば大丈夫だろう。
「準備完了」
紫苑はリビングにいた母親に少し外に出ていくと告げ、それから家を出た。
予想通りというか確定事項というかやはり外は暑かった。降り注いで肌を焼く太陽光、道路に反射して下からも来る熱気、湿った不愉快な空気、無風ではないがただの熱風。死角のない暑さだ。まるで焼かれて蒸されて調理されているみたいだ。
紫苑の心は早くも折れそうになる。
「くそぅ、これが試練か」
悪態を吐いたところで何も始まらない。とりあえず目的もないままに紫苑は歩き出した。散歩というものは嫌いじゃない。何も考えずにただ歩くだけで、清々しく頭の中が透き通る。もっとも暑いと悪態をつきながら歩くのでは、どうにもならないが。
何も考えずに家を飛び出してきたが、涼しい部屋で作戦会議をしておいた方がよかったと紫苑は後悔した。この環境で闇雲に歩き回るのは自殺行為だ。
紫苑の視界の端に自動販売機が入る。道路を挟んだ自動販売機の向こう側には日影ができていた。家を出て少しも経ってないが、水分補給は大事だ。
紫苑はとりあえずミネラルウォーターを二本買って日陰に入った。日向よりはマシだった。一本はバッグに入れて、もう一本はキャップを回して水を一口飲む。冷たさが口と喉を伝って体の中へと入っていき、心地よさを感じる。
裏葉の家で飼われていた猫が逃げ出したのだから、裏葉の家へ行ってその周囲を探すのが妥当だろう。
紫苑は中身が少し減ったペットボトルをバッグに入れた。そして裏葉の家へ向かおうと足を向けた時、前から猫が歩いてきた。毛の色は背も腹も尾までもすべて黒だった。それは紫苑が探す目的の猫ではない。黒猫はそのまま紫苑の横を通り過ぎていく。
それがなんとなく不吉なものだと紫苑には思えた。
裏葉の家へは歩いて行ける距離でそう遠くない。徒歩で十分程度といったところだろう。最寄りの駅を挟んだ向こう側にある。紫苑は裏葉の家に着くまでにもう一匹猫を見かけたが、それも裏葉が飼っている猫ではなかった。
少し歩いただけなのに、汗でシャツが体に張り付きひどく不愉快だった。
紫苑はタオルで首と顔の汗を拭く。真上に浮かぶ太陽は素知らぬ顔で光を放出し続けている。そのせいか歩いている人はあからさまに少なかった。
とはいえこれからが猫探しの本番である。裏葉の家を中心に辺りを散策するのが正解だろう。
と、周辺を歩き回った結果、目的の猫は見つからず日陰でぐでんと寝ている野良猫と思わしき猫ばかりだった。猫も猛暑にやられているようだ。
「にしても、この町ってこんなに猫がいたんだな」
改めて猫を探すと色んなやつを見かける。一度猫好きの裏葉を伴って野良猫散策をしても悪くないかもしれない。もちろんその時はこんなひどく暑い夏じゃなくて涼しい秋くらいがいいけど。
「さて、どうしたものか」
太陽の下で歩き回るのはもはや苦行だ。これ以上は命にかかわる気がする。家を出て一時間も経っていないが、二度目の休憩を取ろう。確か近くに公園があったはずだ。
公園は子供が走り回るには十分の広さで、遊具もすべり台や鉄棒、ブランコといった定番のものが欠けることなく存在していた。しかし、肝心の遊んでいる子供がいなかった。公園にいるのは、暑さに喘ぐ高校生だけだった。
紫苑は木陰のベンチに座った。涼しい風を感じられるが、すぐ後ろの木でセミが鳴いている。風情があるというやつなのだろうか。紫苑には暑さの引き立て役としか思えなかった。
紫苑がふと正面を見れば、すべり台の日陰に猫が寝ていた。
紫苑はベンチの下に生えているねこじゃらし(猫に振るとじゃれついてくるからそう呼ばれるようになったが、正式名のエノコログサは漢字で狗の尾の草と書く。つまり猫にも犬にも通ずる最強の草。と、小さい頃裏葉が得意げに話していたのを未だに覚えている)をいくつかむしり取り、寝ている猫の元へと向かう。
足音に気づいたのか紫苑を気だるげに見上げるが、逃げようとはしなかった。残念ながら目的の猫ではないが、紫苑は構わずねこじゃらしを猫の目の前でゆらゆらと揺らす。猫は何やってんだこいつと言わんばかりの視線を投げつけてくるだけで、反応は鈍かった。
紫苑は右手でねこじゃらしを揺らしながら左手で猫の背中をなでる。それでも反応が薄いが、人に慣れているようで逃げはしなかった。
しばらく猫をなでていると、一際冷たい風が紫苑の肌をなでながら後ろから通り抜けていく。夏に似つかわしくない涼しさを感じた。
紫苑が何気なく振り返ると、ひとりの少女が立っていた。
うん、少女だろう。胸はまっ平らだが、雰囲気からして男くささを感じない。
その恰好は、少しでも温度を下げようとする紫苑の服装とは違い、真夏の暑い日だというのに長袖のパーカーにロングズボン。頭には紺色のキャップを被っており、艶やかな黒髪は後ろでまとめられているようだ。
紫苑が顔を眺めてると、彼女の視線とぶつかる。白い肌とは対照的に瞳は黒く光ってる。揺れることなくまっすぐに見つめてくるその瞳から、紫苑は鋭い印象を受けた。一文字に結ばれた口や総じて整ったキレイな顔立ちが、なおさら引き立てているのだろうか。
「猫、ですか」
「え、あ、ああ見ての通り猫だよ」
紫苑は視線を切って猫へと戻す。声に気づいたのか猫も新たな人物へと顔を向ける。誰だこいつと言いたげだ。
「何してるんですか?」
「撫でてただけだな」
「何でここにいるんですか?」
「何で、って言われてもな……」
紫苑の猫を撫でる手が止まる。
「とある猫を探してる途中で、休憩してるんだよ、今」
「猫を……探してる……?」
彼女の声色が変わった。雰囲気が変化したのを察したのか、びくりと猫が立ち上がりそのままどこかへ走り去っていく。紫苑はしょうがないので立ち上がって彼女と向き合った。視線が冷たいことには変わりないが、さっきよりもどこか力の入ったような眼をしている。
何かおかしいことを言ったか?
彼女は青いパーカーのポケットに両手を突っ込んで立っている。右腰付近にポーチがついており、ファスナーが開けっ放しになっていて、その中から白い紙束のようなものがちらりと見えていた。背は紫苑よりも少し低く、おそらく同年代だろう。芯のある立ち姿は、立ち方にさえ気を遣う性格を表しているものか、あるいは今すぐにでも動けるように構えているものなのか。
そう考えると、ただ両手をポケットに突っ込んでいるだけではなくて、何かをすぐにでも取り出せるように構えている風にも思える。凶器かもしれない。ナイフか、拳銃か。
と、紫苑はここまで考えて、んなわけあるかと頭を振る。おかしな方向に考えが流れて行ったのは、この暑さに頭がゆだっているからだろうか。
しかし、それを抜きにしても紫苑に探るような視線を向けているのは確かだ。
紫苑には見知らぬ女子高生にうらまれるようなことをした覚えはない。
彼女はおもむろにポケットから右手だけを出した。そのまま腕を突き出し、手の甲を紫苑に向けて、軽く握っている。まるで手に持っている何かを隠すようなしぐさだ。本格的に雲行きが怪しくなってきたぞ。
紫苑は吐き出す言葉も決まらない内に口を開く。
「えー、っと、俺が猫を探してたら、何か都合が悪いのか?」
彼女はすばやくその右手を動かし何かを紫苑の目の前に突き出す。細く白い指には名刺と同じくらいのサイズをした白いカードが挟まっていた。よく見えないが白いカードには何かしらの赤い模様が描かれているようだ。
紫苑は凶器じゃなくて少しほっとした。しかし怪しさは変わってない。
「おかしな動きをしないで。したら燃やす」
「も、燃やす!? いや、おかしな動きをしてるのはそっちのほうだろ!」
初対面の女の子から脅されたのは初めてだし、燃やすという脅し文句も初めて聞いた。