14.4_変わる
部長室を追い出された藍野は、病室に戻る気になれず、そのままビルの通用口にある公園に来た。
海から吹き付ける風が、コートも着ていない身体をあっという間に冷やす。
このくらいの寒さなど何でもなかったのに、入院生活で少しなまったのかもしれないと、目についた自動販売機でカイロ代わりのミルクティーを買い、手先を温めながらベンチに腰掛ける。
藍野は黒崎があれほど怒る姿を初めて見た。
あれは、怒るより呆れていたというのが正解だろうか。
(呆れて当然だな。あの人の言うことに何一つ反論できなかった)
そして詩織の事は少なからず、藍野に衝撃を与えた。
特別何かしたいこともなく、何となく高坂社長の言う通り結婚するものだと思っていたが、そこまで明確な意思を持っていたなんて全く気づきもしなかった。
ふと、左手首の腕時計が目に入り、目線まで持ち上げて、語りかけた。
「詩織様。俺、もうどうしたらいいのか、わからなくなりました」
紅谷の事も、レイの事も、シアの事も――。
何もかもが中途半端で、何かを変える力もない。
主任扱いの課長代理では、たとえ紅谷を救っても居場所を用意できるわけでもないし、シアのためにより良い養子先を選べる訳ではない。
レイの行く先も、基本レイの意思が尊重されるが、今のままでは、家族でも恋人でもない自分よりグループの意向が最優先される。
(今、この瞬間も、詩織様は努力されてるのか)
HRFは社長も副社長もトップクラスの大学だし、会長に至っては軍部のトップにいた人だ。
詩織が今通う大学は、日本で通っていた大学よりも、藍野が短期留学した大学よりも、はるかにレベルが高い大学。
シャーロットに会ったとき、役員になるならとそういう事も要求されたのだろう。
お披露目もされたから、自分だけじゃなく、父親がらみの付き合いだってある。勉強ばかりすればいいと言う環境ではない。
多分、藍野が思う以上に詩織は苦労している。
だけど詩織ならやり遂げるだろう。彼女が宣言して努力した時、叶わなかったことはなかったのだから。
こんなことで、すねて逃げ出そうとしている自分が恥ずかしくなった。
藍野は両手を広げ、手のひらを見つめる。
(力が欲しい……)
――紅谷を取り戻して、居場所を作る力を。
――レイを守れる力を。
――シアに未来を選ばせてやる自由を。
――詩織の期待に応えられる自分を。
どれもこれも、今の自分では全く足りない。
藍野はスマホを取り出し、黒崎に電話を掛けた。
「黒崎先輩、俺は欲しい物があります。俺はまだ先輩の生え抜き候補ですか?」
「ああ。そのままだな。だが腑抜けに用はない。消えろ」
そのまま通話を切られそうな雰囲気に、藍野は語気を強めた。
「待ってください! 俺は正式に先輩のパートナーを引き受けます。先輩の希望が本社でも何でもついていきます!」
黒崎の返事は冷たいものだった。
「聞こえなかったのか、切るぞ」
「消えませんし、聞こえませんし、諦めません!! 先輩が他の候補を立てるなら、俺が押しかけて蹴散らします!!」
鼻息も荒く語る藍野に、ため息の吐息と共に黒崎は問う。
「お前は一体何が欲しいんだ?」
「シアの親権とこの先のレイを守れる力、紅谷を取り戻す力を。そのために日本支部長職が欲しいんです」
右手でスマホを耳に当て、左手首の腕時計を目線に持ってくる。
懐かしい声が「頑張って、湊さん」と言っている気がした。
(俺、もう少し頑張ってみます。詩織様)
「悔しいけど、今の俺には何もかもが足りません。たとえ紅谷を取り戻しても、居場所すら用意してやれない」
「本社は生え抜き制度の比じゃない、実力と権力闘争の場だ。支部長だけなら他にも道はある」
「必要ありません。どうせならこの道を最後まで突っ走ります。俺らしく!!」
藍野は上げた左手で空を掴んだ。
今は非力でも、いつか全てを掴みとろう。
そう決意して。
「そうか。詳細はまた連絡する。アレは処分するぞ」
「はい! 他にやる事もあるので、失礼します!!」
藍野は踵を返して、公園を後にした。
※ ※ ※
これで目標は定まった。次はレイの事だ。
藍野は真っ黒なスマホ画面に話しかける。
「おい、リアム。どうせ全部聞いてたんだろ?」
「……何。ボク根性ナシに用はないよ」
ぶーたれた表情で5歳児のように口をとがらせ、不満タラタラにリアムは顔を見せる。
「お前たち、今どこ?」
「羽田空港。とっくに出国審査も抜けた。ミナトだって今、横浜じゃないか! もう間に合わないよ!!」
悲壮感たっぷりにリアムは答えた。
あまりの深刻な表情に藍野は始め小さく笑ったが、ツボにでも入ったのか大笑いに変わった。
「ばーーか! 誰に物言ってるんだよ!! HRFの社名は“遠くにいても手を伸ばして必ず捕まえる”だ。沢渡?」
「んもぅー! 部長に怒られても知りませんよ。俺は止めましたからね!!」
沢渡は無線を切ると、どこかに電話をかけ始めた。
「まあ、今回リアムは黙って見てろ。邪魔するなよ」
未だに不満気な顔をしたリアムは「……わかったよ」と通話を切った。