12.2リvsレイ、コウvs紅谷
紅谷が運転する車はどこかの港の倉庫に止められ、そのまま倉庫の事務所らしき場所にレイを案内した。
倉庫といってもコンクリート製の頑丈そうな建物で、3階建てのビルに近い。
紅谷は「申し訳ないが……」と言って、レイの手を前にして結束バンドで縛り、レイを連れてエレベータで3階に上がり、奥にある事務所らしき部屋にレイだけを通し、ドアを閉めた。
レイはぐるりと部屋を見回した。
と、言っても見回すほど大きくもなく、部屋の中はデスクやパソコンなど、壁を見れば資料を入れる書類棚があり、部屋の真ん中には応接セットが置いてある、ごく普通の事務所のように見えた。
デスクには黒崎に近そうな年齢でスーツ姿の男が座っていた。
呼びつけておきながら縛り、自分は座ったままとは偉そうだとレイは思いながら、デスクの前に立つ。
本当はとても怖かったが、「負けてたまるか」と心に誓って。
『初めまして、ミス白鳥。私はリ・ハオラン。二人の上司に当たりますね。早速ですが、博士の成果を渡して下さい』
英語でそう言って、リは右手を差し出した。
『渡す前に私と紅谷さんを解放しなさい。しないなら渡さない』
レイは一瞥して、答えた。
そんな回答も予想済みなのだろう。
リは指を組み、肘をデスクにつけて上目で語る。
『残念ですが、あなたを解放できません。私どもは成果だけでなく、あなた自身も必要としています。Dr.レイ白鳥』
そう言って、リはばさりと書類のような束をデスクに広げた。
何部かに分けてダブルクリップで止められた書類の表紙らしきものにレイの名前が入っていた。
『あなたの論文、興味深く読ませて頂きました。“人工知能を使った新しい暗号方式とその復号方法”、とても素晴らしい。私達のグループにおいで頂ければ、どんなマシンも環境もご用意致します。研究三昧の生活と使い切れない程の金が手にできますよ。私と共に中国へ来て下さい』
手をデスクの上で組み、顎を乗せる鼻もちならない態度にレイは不快感を露わにして即答する。
『答えはノーよ。そうしてあなた達の望む物を作るだけの生活なんて、私は興味ない。私は私の作りたいものを作り、使う人は私が選ぶ。こんな仕打ちをする人達には絶対に使わせない!』
レイは殊更見せつけるように、縛られた両手を突き出した。
『あなたがイエスと言わないのなら、紅谷も解放できません。困った事ですね』
リは小さく肩をすくめ、残念そうな表情をした。
『要求を飲まないなら、成果は渡さない。別に私の損ではないわ』
レイは恐怖で手も震え、声も少し震えるが、必死に隠す。
本当は虚勢を張るので精一杯。だけど余裕のふりをしないと話す事に真実味が出ない。
今、すべき事は藍野が来るまでなるべく長く時間を稼ぐこと。
小さく息を吸い、リをまっすぐ見つめてレイは言う。
『ひとつ教えてあげるわ。成果はね、私のアシスタントが持ってる。でもね、持てる知識の全てを使ってファイルを暗号化したの。自分で言うのも何だけどアレは自信作の暗号キーよ。私を殺して成果を手に入れたところで正しい復号キーがなければ、あなたの子孫が老衰で死んでも読めないでしょうね』
レイは真実に少し嘘を混ぜた。
博士が用意した復号キーは古典的なやり方だが、とても効果的だ。
レイにしか開けない、レイ専用のファイル、別の誰かでは絶対に代わりになれない。
『私の国にも専門家はいますし、機器もあります。最悪、来年の誕生日には解析が終わってますよ』
くすりと笑ってリは返す。
『あなた私を誰だと思っているの? オルソンウェルズ研究所、Dr.レイ白鳥の名はそれほど無名だったかしら?』
余裕たっぷりのフリをしてレイは答える。
内心は冷や汗ダラダラであったが、最後まで虚勢を張る。そう決めたのだから。
『私が必要なら、先に紅谷さんだけでも解放しなさい。私に約束を守るという誠意を見せてみなさいよ!』
黙り込んだリに、レイは利用価値のある自分を殺せないのだと確信した。
殺されないなら生存確率は上がる。できるだけ交渉を引き延ばして藍野達と合流すればいい。
レイは内心で安堵し、表情には出さず睨み返す。
第1ラウンドはレイが辛勝したようだった。
※ ※ ※
レイをリに引き合わせると、紅谷は別室にいるコウの元に向かった。
こちらの部屋も作りは一緒だが、応接セットや資料棚もなく、部屋のサイズも一段と小さな作りだ。
リと同じように、コウはデスクの前を陣取っていて、紅谷はデスクの前に立つ。
『さて、あなたはもう少し付き合ってもらいましょうか。彼女と一緒に中国へ行ってください。その頃にはご家族も本土へ渡っていますよ』
コウはパサリと一冊のパスポートと2種類の書類の束、飛行機のチケットをデスクの上に置いた。
紅谷はパスポートを手に取って開くと、名前の欄には“朱翔”、とあった。
紅谷は驚いた顔をして、チケットを確認し、どういう事かとコウを見た。
『それはあなた用のパスポートです。これからあなた方は帰化した中国人になってもらいます。もちろん名前も変えて。娘の方はパスポート紛失の扱いで入国させなさい。書類はこちらです』
紅谷は書類の一番上を見た。
レイの名前は“李悠然”となっていた。
これも偽名だろうか。
紅谷用に渡された方の束をパラパラと書類をめくると、社員証と入社の書類が出てきた。
すべて中国語で書かれているから読めないが、ところどころに紅谷の新しい名前が載っていた。
『それがあなたの社員証です。私と同じマネージャー待遇ですよ』
コウは1枚の社員証を指差した。
見覚えのあるデザインで、先程の中国名と写真が入っている。
|広徳安全有限公司《ゴンドセキュリティサービス株式会社》、所属は“research”とあるから、調査員のようだ。
『……俺も彼女も中国語はできない。帰化したなんて無理があるのでは?』
日本語と英語しかできないのに、出国をどうごまかすというのか。
コウはにやりと笑った。
『外交官特権と言う奴ですよ。上司のリが一緒ですから、一言も話さなくても飛行機に乗って出国できますし、入国は本国に通達済みです』
紅谷もレイもリの随員として連れて行くつもりらしい。
飛行機もナショナルキャリアを使うので、出国をごまかして乗りさえすれば後はどうとでもなると言う。
(コイツらの監視に外交官特権の出国審査。せめて彼女だけでも何とかしてやりたいが……)
そう考える紅谷を見透かすように、コウは言った。
『出国時、少しでも怪しい行動をすればどうなるか、お分りでしょう? 娘にもさせないよう、あなたが監視して下さい』
頼みますよ、と鷹揚に言い、先を続ける。
『では出発まで、ゆっくりと日本に別れを告げてください。あなたには外出も許可しますよ。月曜には出発ですから、それまでに戻りなさい』
コウは居丈高に言い、紅谷は反論もせずに黙って退室した。