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8.5_A棟1

 正面入口に車をつけ、黒崎だけを下ろすとレイと藍野は地下駐車場の一角に向かった。

 ここは社員通用口もあるが、藍野はそこを通り過ぎ、奥まった場所にある、少し趣きの違う出入口に車をつけた。

 それほど明るくはないが、落ち着いた照明が灯された、少し小さめなホテルの入口のようだった。

 ホテルと違うのは、自動ドアにセキュリティがかかっており、外部からは限定された者しか入れないような作りとなっている。


「ねぇ、藍野さん。私達どこに向かってるの?」

「それは着いたらのお楽しみって事で。まあ、降りて」


 藍野はいつものように後部座席を開けて、レイを下ろすとセキュリティに社員証をかざして、自動ドアを作動させ、入るように促した。

 レイはおとなしく藍野の後をついていき、短い通路を歩くとエレベーター前に着いた。

 エレベーターが開くと、レイは少々驚いた。

 小さ目なエレベーターだが、ただのオフィスビルに使われるようなものではない。

 どこかの高級ホテルで使われるような、木目と金メッキに彩られた絨毯敷きの落ち着いたエレベーターだった。

 藍野が躊躇なく乗り込み、これまた一緒に乗るように促されたので、レイも乗り込んだ。

 ヒール靴なので絨毯にへこみが付きそうだ、と取るに足りないことを想像した。

 なんとなく話すこともなく、お互い無言であったが、レイがぽつりと話し始めた。


「私……あなたに謝らないといけないわ。ごめんなさい。本当にひどいことを言ってしまって。みんなにもちゃんと謝りたいわ」


 レイはぽつりぽつりと博士の遺言と今回の顛末を話した。

 すべては父親とリアムの計画通りだったことを。

 博士の死に藍野達は関わってはいなかった事を。

 それでも藍野は頭を振った。


「いや、言われて当然だよ。レイの言う通り博士を守れなかった。本当に申し訳ない。どんなに謝っても許される問題じゃないよ」


 藍野は神妙な顔でレイに言った。

 侵入を許したのは自分達の落ち度であるし、侵入さえさせなければ、博士は死ぬことはなかった。

 博士が生きていれば、レイが抜け出す事もなかったのだから。


 軽いベルの音をさせて、エレベーターが開くと、オフィスビルとは思えないほど豪華な絨毯敷きのホテルの廊下がレイの目の前に現れた。

 先ほどのオフィスビルとの内装の落差に、物珍しさからついあちこち眺めていると藍野から声をかけられた。


「レイ。ほらこっち」


 藍野がエレベーター前のドアの一つを社員証を使って開け、レイを招き入れた。

 目の前にはアンティークの応接セットと雰囲気のあるシャンデリアや間接照明が設えられた立派な応接間だった。


「ねぇ、藍野さん。ここは本当にA棟なの?」


 ぱちぱちと目を瞬いてレイは藍野に問う。

 とてもオフィスビルの一室とは思えない。

 窓からの風景は、横浜港の夜景が見えるから、確かにA棟である。

 その窓には厚手の立派なカーテンがかけられている。


「びっくりした? ここはね、依頼人専用の宿泊施設なんだ。レイにはしばらくここを使ってほしいんだ」


 このフロアは事情があって自宅に戻れず、ホテルも警備上厳しい場合の依頼人保護の為に用意してある施設だと紹介した。

 藍野の言う通り、VIP向けなので設備は一流ホテルのスイート並みだ。


「こんな部屋、写真でしか見たことないわ。宿泊料がすごいことになりそう」


 出張や学会に行くのだって普通のツインやシングル、ロードサイドのモーテルくらいしか宿泊したことがなく、ビジネスクラスだって父親の付き添いと、今回黒崎と一緒に戻るための、2度しかないレイはつい皮算用をしてしまった。


「その辺は心配しなくても大丈夫。その代わり、しばらく自宅に帰る事はあきらめて欲しい。今からではご近所に根回しも時間がかかるし、警護人員も機材も揃えられなくて、ここを用意したんだ」


 藍野は嘘をついた。

 心苦しいが、黒崎からの命令でレイは今後、なるべく目の届くところに留め置き、絶対に目を離すなと指示があったのだ。

 前回のようにGPSをごまかし、護衛の目をすり抜けて、アメリカにまで飛ばれたのでは身の安全も保障できない。

 成果が誰の物でもない今、レイが狙われるのは必須だった。


「レイに使用人はつかないけど、その方がレイには気楽でしょう?」


 こういう場所は大体自分の使用人を連れてくるのが常なのだ。

 連れてこられないVIPの時は5課のメンバーが代わりに入る場合もあるが、その方がプライベートも保てるし、気楽だろうとの配慮だった。


「そうね。こんなところで“お嬢様”なんて呼ばれた日には、うっかり勘違いしそうだわ」


 ふふっとレイは笑い、応接セットの椅子に腰かけた。


「父さんは最期、“成果も自分もレイも渡さない”って言ったみたい……。私を守るためにあんな仕掛けを作ってまで……」


 さっきの話の続きか、と藍野は思った。

 だが……。


「博士は自然死だって、警察だって……」


 そう結論づけたはずだ。

 訝し気な顔をして、レイの話に耳を傾ける。


「ううん。父さんは自分の除細動器にプログラムを仕掛けていたみたい。今回みたいに追い詰められた時、私と研究成果を渡さないために」


 だから父の死の原因は藍野達に関係ない、自ら命を絶ったのだとレイは言った。


「ねぇ、レイ。成果は今、君が持っているの?」


 藍野は黒崎と同じ質問をした。

 成果回収はグループの最重要リクエストだ。

 レイが持っていると答えれば、自分が説得して渡してもらわねばならない。

 場合によっては強引な事も含めてとなると、心は重く沈む。

 もう戻らないと思っていたレイが自分から戻ってきてくれて、やり直すチャンスまでくれた彼女をそんな形で裏切りたくはなかった。

 いっそ持ってないと言ってほしい、藍野はそう思ってレイの答えを待った。


「……いいえ。持ってないわ」


 レイは黒崎の時とやはり何と答えようか迷って、答えた。

 あれがあるからこんな事になっているのだ。

 遺言には自分の身の安全を買えとあったが、このままリアムに預け、知らないと押し通し、父と共に行方知れずとなった方が良いような気がした。


 藍野は露骨にほっとした表情をし「そっか……。レイはこの後、どうするの?」とレイに聞く。


「……実はクビ(layoff)寸前、かも知れない」


 ははは、と乾いた笑いでレイは深刻さをごまかした。


「え!! それすごくまずいんじゃない?」


 藍野は大丈夫なのかと心配そうにレイを見たが、本人は仕方ないという顔をしていた。


「まずいわよ。こちらの状況に問題ないと証明するためにも、なるべく早く出社したいの。明日は一旦荷物取ってきて、明後日からD棟、行ってもいい?」


 リモート勤務の許可を取り付けたとはいえ、電話口とビデオ通話だけであったし、日本は本音と建前の国。

 実際に出社して状況を確認したいとレイは言った。


「うん。明日は大丈夫。D棟は早急に手配する。仕事、続けられるといいね」

「歩いて通える素敵な立地だしね。なるべく連泊できるよう頑張るわ」


 藍野はやる気を見せるレイに一安心した。


「なんと今なら業務用キッチンもついてるし、風呂も広いし、ご入り用ならウチ(HRF)自慢の大容量ネットワーク回線のパスワードもついてますよ、お客さん」


 言っている事がまるでやり手の不動産営業のようで、意外とこういう仕事も似合いそうだとレイは思った。


「キッチンも大容量ネットワークもとても魅力的ね。後で見てみる」


 レイは藍野の営業ぶりにくすくすと笑った。


「あとね、これは追加サービス。助けて欲しい時は俺を呼んで」


 レイは言われた事を理解するのに一瞬を要し、少し不満そうに言う。


「私、そんなに子供じゃな……」


 言いかけたレイを藍野は途中で遮る。


「はい、ストーーップ! レイはそうやってすぐ子供じゃないって口にするけど、誰かに助けを求めるのは別に悪い事じゃないんだよ」


 にこりと笑って、藍野は膝をつき、レイをのぞき込む。


「俺が嫌なら、黒崎先輩でもいい。きっとレイの助けになってくれるから」


 だから遠慮せず呼んでほしい藍野は言う。


「じゃあ、私がすごーーく遠い国に誘拐されたらどうするの?」


 呼んだって来られやしないじゃない、とレイは言うが、藍野は首を横に振った。


「必ず迎えに行く。なるべくそんな事にならないようにするけど」

「北極とか南極でも? 戦争中の国でも?」

「北極でも、南極でも、戦争中でも、砂漠でも、ジャングルでも。ああでも、海の中は少し待ってて。ダイビングライセンスはまだ持ってないんだ。急いで取るから」


 海軍訓練は受けたことがないんだよ、と藍野は大真面目な顔で言う。


「さすがに海の中へ誘拐はないんじゃない?」


 レイは想像してぷっと吹き出した。

 そこまで連れていかれるのも、連れ出されるのも大変そうだ。

 視線を戻せは、真剣な顔で藍野がレイを見ていて、どきんと心臓が跳ねた。

 なんだかちょっぴり照れ臭く、膝小僧に視線を向ける。


「この世にレイが生きてる限りちゃんと見つける、探し出す。必ず迎えに行く」


 声で顔を上げれば、藍野はまっすぐにレイの目を覗きこみ、レイの視線を捉えて離さなかった。

 藍野は膝をついたままレイの上半身を抱きしめ、レイの耳元で囁く。


「今度こそ君を守る。守れなかった白鳥博士の分まで。約束する」


 その数時間後、5課では「主、ご乱心!!」と蜂の巣をつついたように大騒ぎになったと沢渡から聞き、監視カメラの場所を考えてからやれば良かったと、藍野は頭を抱える羽目になった。

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