4.6_護衛開始
カレンダーが9月に変わった頃、博士は伶菜の墓参りに出向いた。
関東圏の9月にしては日中の残暑が厳しく、まだ夏のように暑かった。
レイは止めたかったが、父親たっての希望で行かざる得なく、せめてもと暑さを避けて午前中の早い時間に行ったものの、やはり病身の身体には厳しく、暑さに当てられ、疲れた博士はロッキングチェアーに座り、揺れに任せてうとうとした。
「父さん、聞いてよ。あの人ったらね。私の事を“レイお嬢様”なんて呼んだのよ。しかも会社のあるビルの前でよ!もう恥ずかしくてすぐにやめさせたけど」
どうせ呼ばれるならドクターと呼ばれたいと、レイはぷりぷり怒って博士に話した。
――ああ、これは彼らの護衛が始まった頃の出来事だったな。
「まあ形式上、私が依頼人でお前は娘だからお嬢様だ。日本語としては合ってるぞ」
「そういう問題じゃないわよ。私はとっくに成人した大人なのよ。大人に向かってお嬢様はないわよって言ったら『当グループでお披露目されてない方は、そう呼ぶよう決まっております』ってしれっと嘘を言ったのよ!」
レイは日本語も話せるし、読めるが、それはあくまで生活するに困らない程度といったもの。
日本語には敬語という種類があって、それは相手をリスペクトして使われるもの程度の理解で、正確なところまではよく知らなかった。
だから警護が始まった日から『お嬢様』呼びも、未婚の女性に対する敬称程度に思っていたが、周りの反応がどうも怪しくてレイはリアムに尋ねたという。
リアムは大笑いしながら、日本でそういう言葉遣いはそんな体験カフェやドラマでしか使われていない呼び方だと教えてくれた。
そのカフェのURLがあったので見てみたけど、レイは無言で閉じた。
こんな呼ばれ方、会社近辺で同僚に聞かれたらと思うと、どこの秋葉原か池袋かと思われてしまう。
これでも博士課程を修了し、ドクターと呼ばれるスペシャリスト。セキュリティーや暗号化に関しては、一流の知識を持つ専門家として雇われているのだ。
即刻、レイは行ってらっしゃいませも、お帰りなさいませも、お嬢様呼びも敬語もやめてほしいと申し入れたそうだ。
だが、当の藍野は困った顔をして、「あなたは依頼人の娘で失礼な口をきけば、自分は案件を下ろされたり最悪クビになる、せめて“様”はつけさせて欲しい」と言った。
自分はそんなことで苦情は言わない、心配する必要はないと言っても、会話は無線を通じて常時録音されてチェックされているのだ、駄目ですとお互い一歩も引かず、結局さん付けとですます調に落ち着いたという。
「でね、頭にきたから次の日、全部英語にしてやったわ。腹が立つことに英語でも完璧なのよ。あの人たち」
レイは不満顔で、日本人って英語は不得意じゃなかったのか、騙されたと文句を言った。
「じゃあ“My lady”とでも呼ばれたか?」
図星だったレイはぎくりとして顔を背け、想像した博士はこらえきれず、くつくつと笑い声を漏らした。
「彼、それはもう、見事なキングス(イングリッシュ)だったわ」
ぜんっぜん、様になってなんかなかったわよ、とレイは悔しそうに言った。
「彼らは普段、グループ内の幹部やその家族を相手にしているからな。言葉遣いに厳しいのだろう。レイは大学時代、ドイツ語選択じゃなかったか?」
レイは博士の問いに渋い顔をした。
「リアムがいるから、もうドイツ語も忘れちゃったわよ。悔しいわね。一度でいいから出し抜いてみたいわ。何かないかしら」
何とか藍野に一泡吹かせたいと必死で思案するレイに、博士は満足そうに言った。
「彼といるとレイは本当に楽しそうだな。父さんは安心だよ」
博士はそう言って嬉しそうに微笑んだ。
13歳の事件以来、誰に誘われてもイエスと言わなかった娘は、ようやく傍にいたい人物を見つけたようだ。
――ずいぶんと遅い春だが、最後まで見られないのは残念だな。
肩口にブランケットを掛けられて、博士は目を覚ました。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら。でも、楽しそうな顔で寝てたわね」
レイはふわりと笑った。
そんな風に笑えば、彼も一発で振り向くだろうにと、博士は親ばかな事を思う。
「ああ。とてもいい夢だったよ」
「あら、どんな夢?」
「レイが怒っていたな」
博士がそう話すと、途端にレイは口をへの字に曲げ、不満顔になった。
「全然よくないじゃない!」
願わくば、レイの想いが彼に届きますように。
そう願って、また目を閉じた。




