一難去ってまた一難
「あ……あああ、腕がああああ! 僕の、僕の右腕があああああああ!!!」
人気のない、薄暗く静かなスラムの行き止まりの通路で、男の絶叫が響き渡る。そこには、右腕を……いや、既に右肩のみとなってしまった部分を必死に押さえて喚き散らす勇者がいた。
「ごめんな、お前の話を聞いてたら。あまりの怒りに、つい力を入れ過ぎて思わず斬り落としてしまったよ」
俯きながら英雄が言う。幼馴染達の事で、気落ちしていたような男の声ではなかった。まるで、最初から誘っていたような冷徹な声。
斬られた右腕の痛みが今頃来たのか、ハヤトは苦痛に歪んだ顔でアレフから距離を取るために、後ずさる。
アレフは俯いていた顔を上げると、ハヤトにゆっくりと近づいていく。ハヤトの心に恐怖が宿る。
「ま、待てアレフ……いや、アレフ様!! 降参だっ、そう、降参だよ! 僕の負けだ! もう終わりにしよう。君の勝ちだよ。君から奪った幼馴染達も返す! 他の女性の魅了も全部解除するよ。約束する!」
向かってくる死神に向かって出来る限りの命乞いを始めるハヤト。それを聞いても、アレフの表情に変化はない。ハヤトの焦りは更に加速する。
「悪い話じゃないだろっ! 幼馴染達は全員、君の事が大好きだったんだ……。今も、君の事が大好きだろうさ。ああ! そうだ! クリスも勿論、君の物だよ……! 君は幼馴染四人との絆と愛を取り戻し、ハーレムを作って救世の旅を続ける! 良いんじゃないのかこれ、まさにハッピーエンドだろ!?」
なんとか、アレフの怒りを鎮めるために、男が好きそうな結末を並べ立てるハヤト。もう、彼の頭の中にはいかに自分がこの場を生き残るかしかない。
しかし、アレフの歩みは止まらない。むしろ、怒りは更に増していた。
「ま、待てよ!! 確かに僕は君の幼馴染達に手を出した! だけど、悪いことばかりじゃないんだ。僕が散々教え込んだ甲斐もあって、アリア達は凄く具合が良いんだよ? 良い感じに締まるし、最高に気持ちいいんだ! 君もきっと満足できるって! 三人とも、大好きな君のためなら喜んで奉仕してくれる筈さ!」
もはや、命乞いをしてるのか、煽ってるのか分かったものではない。
自分が何を口走ってるのかすら気付かないほどに、ハヤトは焦っていた。
「なあ、ハヤト。ちょっと思ったことがあるんだが」
アレフが歩みを止め、ハヤトに話しかける。
「な、なんだアレフ? いやアレフ様、どうしたんですか? 聞きたいことがあるなら何でもこたえ……」
ハヤトは歩みを止めてくれたアレフに希望を見出し、出来る限り媚びを売ろうとする。だが……。
「左腕だけって、バランス悪いよな?」
投げかけられた言葉は、希望などではなく。
アレフが、神速の速さでハヤトに向かって、斬り付ける。ハヤトは斬られたことに気づかなかった。
「え……? アレフ、何を言って」
ハヤトが、アレフの問いにようやく言葉を返そうとした時。
――ボトリ、と再び嫌な音が聞こえた。
音はハヤトの方から聞こえて来た。何かが落ちた音の方にハヤトが目を向けると。
自分の、左腕が、地面に転がっていた……。
「……へっ……えっ? あれ、ぼくの、左腕が、何でころ、がって……」
状況を把握できないハヤトは、間抜けた声でつぶやく。今の彼は、両腕が既に失くなっていた。
「あっ……ああっ……ああああ! ひ、ひだりうでえええええ!! 僕のうでがあああああ!!!!」
ハヤトは再び、絶叫する。こんなに絶叫していたら、いくらスラムの裏道とはいえ、普通なら誰かしら気づくであろう。
だが、ハヤトの叫びが聞こえる事は無い。ここら辺一帯は、アレフが既に防音魔法を掛けていたため、どんなに大声で泣き叫んでも声など届かないのだから。
「おお、良い感じになったな。ハヤト。前よりも男前じゃないか」
ニッコリと笑顔を作ったアレフがハヤトに語りかける。両腕を失ったハヤトには当然、そんな言葉を聞く余裕はない。ひたすら、左腕を失った事実に泣き叫ぶだけである。
「そんなに泣き叫ぶと疲れるだろ? 少し座って落ち着けよ、ハヤト!」
宥めるように声を掛けるアレフだが、言葉とは裏腹にアロンダイトを構えはじめ、横に一閃した。
――グラリと、ハヤトの身体が後方に倒れる。
ふらついたわけではない、物理的に立てなくなってしまったのだ。何故なら、身体が倒れた彼に対し、彼の両足だけがその場に立っていたからだ。
倒れた彼を見ると、両足の太ももの途中から下が消えていた…否、今も立っていた。足だけが。
太い血管が通っている太ももの途中まで切断された彼は、大量の出血で意識を失いかける。
それを見越した、アレフは彼の元に即座に駆け寄ると、治療魔法を唱え始めた。様々な勇者の力を持つ彼は、簡単な回復魔法なら使えるのだ。
大量に出血するはずだった、切断された足…いや、太もも部分の傷は塞がれ。ついでに両肩の切断面も治療してやるアレフ。
これによって、ハヤトは一命を取り留めるが、歪に修復された結果、彼の両手足は二度とくっ付く事は無い。この瞬間、彼はただの芋虫になり果てたのだ。
「ふぅ、危なかったなハヤト。これで命に別状はないよ。良かった」
アレフは命を救った医者のようにやり遂げた顔をしてハヤトに優しく語りかける。
「……もう、殺せよ。殺せよアレフ! こんなの……生きてるとは、呼べないだろ……う……うううう」
ハヤトは絶望して、アレフに殺すように求めるも。同時に、こんな状態でも生きていることに安堵している自分の生き汚さに涙が止まらなかった…。
こんな状態でも、彼はまだ死にたくなかったのだ。
「無理するなよ……ハヤト。お前……死にたくないって顔してるぞ? いいじゃねぇか。生きろよ。一人じゃもう生きていけないだろうけど、生きてれば良いことあるさ」
爽やかな顔でハヤトを慰めるアレフ。良い事を言っているが、こんな状態にした奴に言われたい言葉ではないだろう。
「僕を、殺さないのか……こんな惨めな状態になったから、殺すのはやめたと?」
ハヤトは、今のアレフなら絶対に殺してくると思っただけに真意を問う。もう、人間的にはほぼ殺されたようなものだが、それでも命はまだある。
「ああ、殺そうかと思ったけど、やめた。もう満足したよ。お前は好きに生きればいい」
「そうか、こんな状態にしたんだから……絶対に、僕は、礼など言わないからな……」
今でも、自分の状態を見直すと発狂しそうになるハヤトは、怒りを込めた声でアレフに告げる。
「そんな必要無いさ。じゃあな、ハヤト。俺はもう許したから、お前が此処から生きて帰れることを祈ってるよ」
アレフは、そう言うとハヤトに背を向けて行き止まりの通路の入り口側へと去っていく。
残されたハヤトは、自分の状態を改めて確認し、悲観していたが……同時に、生き残った事に対しての喜びもあった。五体不満足にはなったが、一応生き延びたのだ……。
……だが、絶望はまだ終わらない。
コツ、コツと破滅を告げる足音が、ハヤトに近づいてきていた。ハヤトは、再び不安に襲われる。
人影は小さく、まだ子供であると分かる。しかし彼を見るその眼は、強烈な殺意に溢れていた。
更に、その手には護身用に持っていた、小さなナイフを握りしめて……。
やがて、その人物はハヤトの目の前で止まる。
ハヤトが、歩いてきた人物を見て、悲鳴を上げた。
――狂気の笑みを宿した、少女が其処にいた。
自業自得と言っていい災難。