たったひとつの例外
取り返しのつかない言葉を言ってしまった……。リノは感情のままに、クリスに怒鳴ってしまってから気づいたがもう遅い。
最悪の、自分が言われたらもっとも嫌な事を、よりにもよって、恩人のクリスに怒鳴り散らしてしまった……。
「……あっ、い、いっ……や」
すぐに、先ほどの言葉を否定したかったが、声が出なかった。何らかの力が働き、その力はクリスへの謝罪を許してくれなかった。
まるで、このまま二人が引き裂かれるのが望みと言うように、自分の心を侵しているドロドロと穢いもの。
リノの心は既に、大半がソレによって侵されていたのだ。自我とは違う、悍ましい感情。かつて、アレフの傍にいた、幼馴染三人と同じように、リノも堕ちようとしていた。自力ではどうしようもない。
言葉を発せずにいると、クリスがリノを見ていることに気づいた。
その顔は、酷い事を言った人間に対する怒りや、侮蔑の表情などではなく、とても穏やかで慈しむような……そんな表情でリノを見つめていた。それには、悪感情など欠片も見られなかった。
ただ、ひとつ、その慈しみに溢れた眼差しをしている、両目から流れている涙を除けば……。優しい顔で、クリスは静かに、泣いていた。最愛の妹だと思っていた、存在に……家族を否定された。
笑いながら泣く、それはまるで、哀しき聖女の存在そのものが、剥き出しとなっているようだった。教会にいる神官たちはその顔を見て、誰も言葉を発することが出来なくなっていた。
「リノちゃん、正直に言って頂いて、ありがとうございます。やはり、リノちゃんは優しいのですね……」
心無い罵倒をされたにも関わらず、献身の聖女が発したのは、少女に対する感謝だった。
「ごめんね……ごめんね。リノちゃんの苦しみに、気づいてあげられなかった……。リノちゃんは、私を家族として受け入れてくれて。リノちゃんの孤独を、癒してあげられているなんて、リノちゃんの支えになれてる、なんて……そんな、ことを思い込んで。私は勘違いして……本当に愚か、です。私は、結局、何もわかってなかったのに」
聖女の懺悔は続く。その悲哀な気持ちは、見ている方にまで伝わり、周りの人間の方が先に参ってしまいそうなほどだった。
「これ以上、私は、リノちゃんに悲しい思いをさせたくありません! だから、リノちゃん。女神の祝福を受けたら、勇者様にリノちゃんを引き取っていただけるように、私からお願いしようと思います」
「えっ……? お、ね……クリス、さ」
「……私は、私は、リノちゃんの家族には、成れませんでしたけど。リノちゃんが好きだと言った勇者様だったら、絶対にリノちゃんを幸せにしてくれると信じてますから」
そう言いながら、クリスは笑顔をリノに向ける。それは、心から祝福しているような、だが、少し寂しそうに見える笑顔だった。
「リノちゃんには、幸せになってもらいたいんです。私の傍ではそれが叶わないのでしたら……私じゃ孤独を癒せないのなら……リノちゃんが望む人に託したいのです。リノちゃんを絶対に一人にはしないって……私、そう言ったじゃありませんか? だから、リノちゃんが孤独に感じない様に、私は……」
そう言ったところで、クリスは急に顔を下に向ける。下に向けた顔から、ポタポタと、教会の床に涙が零れ出していた……。まるで本当は、リノと離れ離れになるなど、嫌だと主張するように大量の涙が零れる。
声を出さずに大泣きしている聖女に、リノも、周りの神官も、何を言えるというのだろうか? これほどの決意で、話している聖女に話しかけられる者など誰も居なかった。
やがて、涙を流し終えた、聖女は顔を上げ、再びリノを見つめて言葉を発する。
「だから、私は……。リノちゃんから離れます。リノちゃんの幸せのために」
決意をした笑顔でクリスはそう言い放った。それは、自分の感情を殺し、相手の事を考えたからこそ、出た結論だ。
嫌われている自分が傍にいると、少女は幸せになれない。だから、自分は消えると、そう言っているのだ。
周りの神官にもその決意が伝わったのか、その場で泣き出す神官も居た。聖女のあまりの悲壮な決意に、精神が保てなくなってしまい、崩れ落ちた者もいた。
己すらも犠牲にし、ひたすらに相手の幸せを望む姿は、まさに理想の思い描いた聖女という存在そのものではなかろうか? その高潔さに、皆は献身の聖女に眼を向ける。
その向けられる眼は、尊敬の眼差し。同時に、この聖女になら人の運命を託せるという確信。
クリスは知らず知らずのうちに、教会の者達の心すら掴んでいたのだ。王都にも献身の聖女の存在が刻まれた瞬間である。
「ダナック様、お願いがあります」
聖女が神官のダナックに声を掛ける。
「な、なんですじゃ? 聖女様」
「リノの女神の祝福、私が授けても宜しいでしょうか?」
「聖女様自らがですか!?」
「ええ、お願いします。リノちゃんに対して、最後に何かしてあげたいのです。もう、私には、リノちゃんを支えてあげることは出来ませんから……」
寂しく聖女がダナックに微笑むと、聖女の想いを理解したダナックはその心を汲む。リノは終始震えていて、何を考えているのかすら分からない。
ハヤトの洗脳と、クリスの決別の言葉で、もう彼女の心は壊れかけていた。
「それではリノちゃん。私から、そして、女神様からリノちゃんに最後の贈り物を授けます」
クリスは祝福を授けるべく、リノがいる中心の台の対面側に移動する。ここで、女神からスキルと呼ばれる、異能の力が授けられるのだ。
その力は、役に立ったり役に立たなかったり様々だが、ここで優秀なスキルを得たものは、魔王討伐や人材育成など、今後の人生を変えてしまうほどのモノを得たりする。
今、その力をリノも授かる時が来たのである。
「我、遣わされし、御使いなり。この、神の子に、女神の新たな祝福を授けたまえ!」
聖女であるクリスは、女神の祝福を授けられる資格も持っていたので、リノに対して祝福を与えることが出来た。
クリスが女神に祈りを捧げると、虹色の光がリノの真上に現れ、ゆっくりと、リノの身体の中へと入っていった。
「おお、虹の光とは珍しい! これは珍しいスキルに違いありませんぞ!」
年寄りの神官は、長年スキルに対しての祝福を見てきたが、虹色は滅多に見たことがなかった。光の色である程度の授けられるスキルは把握できるのだが、虹は、未知数だったので、彼は大いに興奮した。
「これで、祝福はリノに無事届けられました……。お疲れさまです、リノちゃん。今まで、ありがとうございました。短い間でしたが、貴女と家族になれて、とても幸せでした」
クリスはリノに深くお辞儀をすると、そのまま、リノの横を通り抜け、教会の出口へと向かった。これで、クリスとリノは完全に別たれてしまう。
リノは勇者と家族になり、クリスはアレフと旅を再開するだろう。
――なんらかの、例外がなければだが
「こ、これは! なんと珍しいスキルだっ!!」
スキルサーチャーでリノのスキルを見た、年寄りの神官は、年甲斐もなく興奮していた。ガヤガヤと他の神官たちも集まる。年寄りの反応にどんなスキルなのか興味を持ったのだ。
「ゼフティ殿、一体、この少女は何のスキルを授かったのですか?」
我慢できなくなった神官が、年寄りの神官に聞く。ゼフティはコホンと、一呼吸おいて皆に話し始めた。
「少女が授かったスキルは『精神完全防御』だ! 悪意のある、精神干渉に対して完全に防ぎ、また受けている効果を無効化する、何百年に一度の珍しいスキルだぞ!」
「おお、素晴らしい! だが、精神を歪めるような危険なスキル持ちは現在ではいないからの。珍しいスキルではあるが、宝の持ち腐れという奴かの……時代が時代なら大活躍だっただろうに」
神官たちはワイワイ騒いでいるが、二人の人物はそれぞれ、違った状況に陥っていた。
一人は、偽りの悪意を植え付けられ汚泥のように心を侵していた、汚い感情が浄化され、本物の気持ちが復活していく少女……。それと同時に、悪意に心を操られていた記憶も少女の中で渦巻く。
洗脳を完全に解いたからと言って、解かれる前にやっていたことをなしには出来ない。そんな都合の良い事はありえない。心にある悪意は全て取り除けても、過去は変えられないのだから……。
そう、やってしまった……大事な人を傷つけた記憶も、余すところなく残っており、心が浄化され正常となった心に、今度は犯した罪が刺さり始める。
自由になってからも、少女は深い自己嫌悪と苦しみに苛まれるのである。魅了とは、洗脳とは、それほどまでに業が深いのだ。
一方、もう一人の人物とは先ほどまで哀しい決意を語っていた聖女である。彼女は直前まで泣いていたとは思えないような……驚愕の表情で神官たちの話を聞いていた。
この時の悲哀に満ち溢れていた、聖女の真意とは……。
リノちゃん洗脳耐性カンスト。