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道を作る星  作者: KEITA
番外編
8/10

三、夜長


 ジジ、と灯芯の燃える音が聴こえる。

 それほどまでに静かな夜。


 私は寝所の中敷の上に座っていた。装いは白絹色の寝間着。香木の皮で織られた枕は二つ、褥の幅は広く上筵ふとんも二枚。

 俯くと、結い上げていない素のままの黒髪がさらりと零れ落ちる。白の袷から伸びる自分の首に、埃などついていないだろうか。膝の上に載せた手は、わずかな照明下で黒ずんで見えないだろうか。ここに来る時は必ず湯殿にて身体を清めてくる。

 頬に垂れかかる髪のひとすじを耳にかけた。下ろすと背中の半ごろを越える長さ。水気を丹念に拭ったので、触れても冷たくはないはずだ。

 懐炉が必要な程ではないが、さすがに薄着ではいられないそぞろ寒さがある。虫の音は密やかに、枯れ木の葉が落ち、風は色無きとされる晩秋の節。

 成人の儀を済ませ、半年余り。


 あの、花散る晩春のひとときから早七年の歳月が過ぎ去っていた。



 ことん、と微かな物音がして、寝所の引き戸が静かに開く。木張りの廊下に立つしっかりとした両の足とすらりとした流しの小袖、黒の帯。そのまま視線を移し顔を上げれば、だいぶ高い位置から見下ろしてくる瞳と出逢う。

 両手指を中敷につき、背筋を伸ばしたままその姿に頭を下げる。迎え入れるようにかしこまる私の頭上に、疲れたような低い声が降ってきた。

「………まだ、起きていたのか。早く寝なさい」

(また、それだ)

 私は震えそうになった肩に力を入れつつ、その姿勢のまま挨拶を返す。

「お帰りなさいませ、我が君」

「た、……。こんな夜更けまで起きていると身体に毒だよ。早く寝なさい」

「わたくしは平気です。それよりも、我が君、」

 声まで震えそうになる自分を叱咤しながら。


「今宵こそ、務めを果たさせてくださいませ」


 数拍の遅れののち、頭上ではあ、とため息が吐かれた。疲労の籠った瞳で私を見つめる、私の年上の夫のものだ。――否、未だ・・夫となっていない男性の。

「……早く、寝なさい」

 返された言の葉は、それだけ。

 それきり、彼は背を向けて私の前から去った。殆ど足音がしないのに力強さを感じる男性の素足、広い肩、疲れてはいても背筋の伸びた後ろ姿が遠ざかっていく。

「――」

 私は肩を強張らせたまま見送った。かつて早歩きで着いていった背中とはまったく違うようでいて、やはり似ている背中を。



 あの日、七つの生まれ日に人生初の冒険をし終えた春の午後。

 屋敷に戻った私を待ち構えていたのは青ざめた乳母の顔と、祖父の訃報であった。内裏業務の最中、突如倒れて意識不明となり、そのまま現場で息を引き取ったらしい。

 内裏おうきゅうにおける神祇官長、つまり国内の神事を全て取りまとめる役職に就いていた私の祖父は、ここのところ多忙を極めていた。齢は当時五十に届くか否かといった程度であり、神祇官としては充分現役の域。ただ、神器である「水鏡」の揺れが昨年より収まらず、内裏務めの神官は不休で祈祷し、日々の業務に加え神器の様子見に励まねばならなかった。その蓄積された疲労が体力諸々を削ったのだろう、とは副官の言葉。実にご立派であった、文字通り肝胆を砕き脳漿を絞り神事に身を捧げた、殉職だとそう結論付けられた。

 問題は、その死があまりに突然であり、家の者は何ひとつ準備が出来ていない状態であったこと。

 私の祖父の急逝――屋敷の主人が務め先にてそのまま死亡したという一報は、齎されるなり屋敷中を混乱の渦に叩き落とした。それほどまでに急な報せであったのだ。

 侍従長曰く「旦那様は命を削る危険のある神事おしごとの際、必ず前もって我々に通達する」「中途より予定が変更になった場合、また神事が長引く場合は必ずそういった旨の文を寄越される」「此度はその報せが何も無かった」「内裏に何度使いをやっても返事が来なかった」「かのような状態で急逝を報されても信じられるわけがない」。

 最古参の侍従と主治医曰く「旦那様は自身の心身を誰より精緻に把握しておられた」「予期せぬ不調がお身体を襲ったにせよ、主治医に検死をさせず診書も見せず死亡通知のみで勝手に火葬とは、理不尽にすぎる」。


 そして私の乳母曰く、「お嬢様の成人を待たず旦那様が逝かれるなど、あり得ない」。


 ……ともかく、当時は屋敷の者すべてが主人の訃報に呆然とし、魂を失った。あの日、朝から館中が騒がしく混乱していたのは、雇われの牛飼いや下働きらが説明を求め内外から集っていたせいだったらしい。

 当時の私はというと愚鈍で無知な上にあまりに幼く、事態をすぐには呑み込めなかった。祖父と会話したことは物心ついた頃から数えるほどしか無かったし、それだけ祖父は忙しくしており私にとって血の繋がった家族と呼ぶに遠すぎる存在だったから。しかしその日から皆が暗い面持ちとなり空気が重くなってしまったこと、そしてどんどん変わってゆく環境を感じ取るごと、「自分にとって決定的なものが失われ、今までのようにはいかなくなったのだ」という事実は否が応でも理解していった。自分がこどもでいられた時期は、もう終わってしまったのだと。

 あの日、彼に違和感を指摘されたように、門番がいなくなったのはその前触れで。屋敷からはどんどん人がいなくなり、物がなくなり。最後まで残ってくれた乳母も、更のままで私の傍には居られなくなり。彼女は泣いていたが、最後は私自身が実家に戻るよう説得した。ちっぽけな己が確実に出せる、最後の結論であったから。

 そしてほぼすべてを失った天涯孤独の私は、遠縁の神家に養子という形で引き取られることとなった。


―――それからしばらくの間、記憶が殊更におぼろげだ。どういう家に引き取られどういう教育を受けたのかということは儀礼手順のように追記できるが、私個人が何を考え何を行動したのかだとか、具体的なことをはっきりと思い出せない。

 何故と問われたとしても、上手く答えることが出来ない。ただ、親戚の屋敷にて過ごした成人までの時間は、色も匂いも感触も無い濃い霞が周囲を漂っていたかのようだった。暗闇に手灯無しで放り出され、取りあえず歩いてはみたものの自分が何処を向いているのかすらわからない。漂う霞はもとよりぼんやりとした私自身の視界を更に悪くさせ、手を伸ばすとただ無情な冷たさが生膚を打つ。空は見えなくなり、風も感じず、誰かの熱と香りを抱くことも無く、ただ唯刻が過ぎゆくのを眺める。例えるならば、そんな数年間。

 私を引き取った親戚の男は、神家の者にしては野心家であった。私のことは最初から出世と伝手がための道具として見ており、あわよくば王の側へ仕えさせようとさえしていた。ただ、目まぐるしく変わる時勢と不安定な内裏の権力推移を見るに、王族よりもその傍にて威勢を増す者らに近づくことに利点を見出し、矛先を変更。容姿を磨き上げはしたがぼんやりと憶えの悪い私の不出来さを見限ったのか、文官の、さほど重要でない位の者に嫁がせようとした。

 だが。

 私が成人の儀を迎えたその年、またも情勢が変わったのだ。


 当時、内裏と国境を行き来できる士華で最も高い位に在った武家当主――いわば国軍の長が、急死。彼の嫡子も同時期に死亡。また、二人の息子も次々に行方知れずとなる。

 後を継いだのは、成人したての末子。私とは二つしか違わない歳若い少年が、急遽国内屈指の名家当主となったのである。


 私の養父はしめたと思っただろう。新しい当主はあまりに若く、庶子であるため後ろ盾がいない。ここで強い縁を結んでおけば、国内最大の武家を操り権力を握ることも可能だと。幸いなことに新当主には未だ妻がおらず、こちらには結び合わせるに丁度良い同じ年ごろの義娘がいる。物覚えの悪さ、愚鈍さはこの際目くらましだ。要は形さえ整えられれば良い、と。

 私は、そういうわけで歳若き武家当主に嫁がされることとなった。

 そして。



 嫁いでより数週間が経ったが、未だに夫は指一本触れてこない。初夜でさえ、私は一人で寝所に取り残された。

 そして、毎日毎晩、彼は不自然に私を避ける。

 挨拶さえも、返してかけては口を噤むという徹底ぶり。



 灯芯の燃える音は、これほど虚しいものだっただろうか。

 私はそんなことを考えながら一人きりの寝床の上、拳を握っていた。

 何かが燃える音、募る感情、胸が締めつけられるような苦しさ。

 なぜ、これほどまでに苦しいのか。

 どうして、置いて行かれることがこんなにもかなしくて――寂しいのか。

(……そんなこと、)

 そんなこと、考えるだけ無駄だ。理由なんて決まっている、最初からわかっているだろうに。

 答えは、私の想いは。七年前から、ひとつしかない。




「―――我が君ッ……!!」



 声を限りに呼ぶと、薄暗い廊下にてその人が振り返った。相変わらず疲労の籠った昏い目をしているが、よく見ると視線が、揺れている。私自身がそう願いたいのだ。

(おねがい、)

 私は寝間着のまま走り寄りながら、大声をあげた。

「お願いいたします、どうか、どうかお情けを。至らぬ点などございましたら、すべて直します!」

 はしたない、みっともないなどと考える余裕が無かった。私は昔からそうだ、普段は火種が少ない分、一旦燃え上がったらその熱を抑えることが出来ない。今の勢いを殺してしまったら、次は二度と無いかもしれないのだ。

 かち合う視線。光の見当たらない水面に視えない花びらが舞い降り、見えない水底が揺らぐ。しかしせせらぎの音は聴こえない。

(もう、)

 もう、美しいことを言っていられない。

「お願いです、お情けをちょうだいしたく!! 月のものはきております、お世継ぎは必ず産みます、どうかそれまでは御心のままにこの躰を好きになさってください、不肖なれど精一杯奉仕させていただきます、わたくしを、」

 妻にしてくださいませ。その言の葉はまるで刃で両断されたかのよう、途切れる。いつの間にか目の前に立っていたかの人に、その昏い瞳に射すくめられて。

「そのようなことは、軽々しく言ってはならない」

 今までで最も低く、感情の無い冷たい声音。

「貴女は娼妓にでもなりたいのか。由緒正しき神家の娘が、身を売る真似をしたいと」

 せせらぎの音は聴こえない。こちらを覗き込む瞳に在るのは底の見えない、真っ暗闇の沼。

 私は、息を飲み込んだ。そして、言った。

「―――我が君が、お望みとあらば」





 どさり、と些か乱暴に寝床に押し倒される。

「本当に、良いのか。武家の男に好きにされても」

「は、い」

 覆いかぶさってくる大きな影、他人の熱。

(ううん、違う)

「貴女は簡単に頷くが、思った以上に酷い目に遭う。痛くとも苦しくとも、労わりなど期待できない。それでもいいのか」

「どうぞ、お好きに、」

 目を瞑った。どんな目に遭ったって、痛い思いをしたって。どうして拒めるだろう。


(だって、このひとは)


 この人は。




「……………」

 長い沈黙と、無音の刻が過ぎゆく。

「……………?」


 待つに長すぎる時間が経ち、私は恐る恐る目蓋を開けた。

 頬に、ぽつり、と何かが落ちる。


「……………出来るわけが、ない」


 出逢った視線は、揺れていた。水面を通すように、光が。


「貴女を、乱暴に扱うなど、出来ない」


 水底が。


「出来るわけがないだろう………ッ」


 あの頃出逢った瞳が、あの頃の熱のままに、私を見つめて泣いていた。



 婚礼の日。

 私は夫となる人と対面し、長らく止まっていた自分の刻がまた動き出したのを感じた。

 下げていたこうべを上げ、視線を移し。そしてその人と目が合った瞬間、自分の周囲を漂っていた厚い靄が瞬時に晴れ渡ったのだ。


 鮮やかな、朱。


 武家らしい白の胴服はおりの下は深緑の小袖、そして袷の色は色濃い蘇芳。斜めに入ったその赤いろが、私から意識を刹那奪った。

 呼び覚まされる過去の記憶、ありありと蘇る色彩の奔流。柔らかな若葉の緑、均された黄土と擦り減った石道の灰黒。夢見草の白、襷がけられた朱縄の赤。強い黒の瞳、被さる色の薄い睫毛、こちらを見つめる――


『―――貴女に予め云うことが有る。私は、貴女を妻として見ることは無い』


 しかし、その瞳にかつてあった光は殆ど無く。ただ唯、疲労と諦念が色濃く重なり、まるで底無し沼のように濁っており。

 まるで私を、知らない者のように見据えていた。


『この婚姻に意味などありはしない。世継ぎは望まない。貴女も私のことを夫として見る必要は無い』


 ……夢見草の樹の下で笑い合い、飴玉を舐めながら手を繋いで歩いたあの日。あれから、七年。私の初恋の人は、私よりも大きく成長し多くのものをその手に受け取り――それゆえに他者から痛めつけられ、多くのものを奪われていた。

 声は低く落ち着いた男性のものとなり背は人並み以上に、そしてしっかりと逞しい体格を得ると引き換えに。青空のような笑顔はうしなわれ、表情から未来への希望は感じられなくなり。まるで、日光が届かなくなり生き物が死滅してしまった水底のような瞳。


『所詮、お飾りの夫婦めおとだ』


 彼はうろのような心を抱えたまま、私と再会したのだった。



 灯芯は燃え尽き、周囲は暗闇が覆う。


「――私はこの家の当主であるが、あくまで他に順当な者がいなくなったゆえ『次』までの繋ぎとして据えられたに過ぎない。実質、権力は無きに等しく財も人も他の者が管理している。……貴女はこんな惨めな男に嫁ぐべきではなかった……」


 この屋敷には人が少ない。最高位といっていい武家なのに、その当主が住んでいるというのに、使用人は夜になると母屋から消えてしまう。厩には痩せ馬が一頭のみ、庭は荒れ果て昼間もくりやに最低限の給仕が来るのみで、身の回りの世話をする禿すらいない。私達は士華らしからぬ慎ましく侘しい生活を強いられている。

(でも)

 でも、それがなんだろう。


「別所にゆけば人も居る。しかし誰一人として実質的な味方がいない。私も力が無いゆえに、貴女を護ることが出来ない。……貴女も私とあまり関わらない方がいい。お飾りの夫婦めおとなれば、周囲は取り込むを諦めるし害そうとする者もいない。頃合いを見計らって離縁すれば、貴女は傷つけられること無くすぐに実家に戻れよう」


 無情な静けさと暗闇が周囲を包んでいるのに、あなたが近くにいるだけで、寂しさを感じなくなる。

 あたたかい。

(それをどうやってあなたに伝えられるだろう)


「なのにどうして、貴女は私に――俺に、構う。最初に云っただろう、俺は貴女を妻とはしないと!! ……貴女も神家の者ならわかるだろう、俺に天運は見えないし俺なんかに構ったところで大した益は無いと。俺なんかに、」

「わたくしは、愚鈍で無知だから」


 あたたかい暗闇の中で、そっと、あなたの頬に手を伸ばす。


「そんなこと、しらないわ。ただ、初めて逢った時からあなたが好きだったの。あなただけを『我が君』と呼びたかった。それだけよ」

「―――どうして、」

 どうしてかって?


(そんなの、)


「言ったでしょう。初めて逢った時から・・・・・・・・・好きなのよ」

「……!!」


 灯りなど無いのに。彼の瞳が見開かれ、瞬き、そして新たななみだが零れるのがありありとわかった。

 手のひらに、清らかな雫。

 遠い日のせせらぎの音が、聴こえる。


「……出逢った瞬間とき、直ぐにわかった。貴女があの時の少女だと。初めて逢った時、あまりに可憐で儚くて夢見草の精霊かと思ったんだ。……貴女と再び出逢えるまで、もしかしたらあれは俺が考えた理想の存在、ただの夢だったのかと」

「……」

「ずっとずっと、忘れられなかった。否、あの時の思い出こそ今の俺のすべてだ。初めて貴女を見たときの光景、貴女の纏っていた衣と髪飾り、貴女の表情、貴女に語ったことすべて憶えているしあの時交わした言葉のひとひらも忘れ得ない。……ほんの数刻にも満たない時間を、共にしただけだったのに」


 痛いほどに解る。私も同じだったから。


「……先行きへの展望があり、貴女に出逢えたあの頃の俺は暢気な幸せのさなかにあった。……貴女とも、すぐにまた逢えると。しかし、」

「……」


 大切な人に可愛がられ、何ひとつ不自由の無い豊かな生活。しかしそれは。


「父上が亡くなり、あ、兄上までも亡くなった……! 信の置ける部下の者らも左遷され、もしくは自刃し、二人の兄すら家族諸共行方が知れなくなり、まるであつらえたかのように俺に継承権が巡ってきた。誰も事態の不自然さを追求しようとしない。誰一人として信用ならない世界に身一つで放り出されてしまった。俺は今の世を渡るにあまりに愚鈍で、後ろ盾が無いゆえ意見も通らず、なんの力も持ち得ない……!」


 自分にとって巨きな存在を喪って。初めて気づくのだ、日常と幸福が桜花の如く儚いものであったと。己自身が、誰かの用意した薄氷の上で踊っていただけなのだと。


「兄上を喪い、俺は人生のしるべが消えてしまった。兄上には子がいなかったゆえ、『繋ぎ』としての使命感も持てない。最早、成り上がる気力も無くその意味も見いだせない。この家は、もう終わりだ。否、この国自体が終わりに向かって動き出している。……俺は……お、俺も直に誰かに殺されるッ」


 無邪気に無垢に無知のまま過ごせた「こども」の時間はそうして終わる。残酷で無情な、大人の世界を識ってゆくのだ。


「あ、貴女に、辛い思いをさせたく、ないッ。俺は妻など、まして子など、得るべきではない……ッ」


 はらはらと。あの時の花びらが涙のかたちとなって、私に降ってくる。

 そのすべてを受け止めるよう、両の手を開いて伸ばした。


「なら、わたくしも共に居させて。あなた一人を逝かせはしない。共に、死を、」

「ッ駄目だ、駄目だ! 貴女が死ぬなど耐え切れない!!」

「わたくしも耐えられない。あなたがわたくしを置いてゆくなんて」


 またも、はっとしたように彼が私を見る。


「……おじい様が亡くなった時、乳母が教えてくれたの。わたくしの両親は、私が生まれる前後に亡くなった。母は産褥で、父は……おじい様に殺されたのですって」


 あの日の記憶をたどりながら、ぽつぽつと話す。


「母は、わたくしと同じ神家の一人娘で。内裏人おうぞくの側に仕えるため、小さい頃から殊更に厳しく育てられた。……成人の儀を迎えると同時に婚姻が結ばれるはずだったのに、当日に母は逃げ出した。おじい様の政敵である別の神家の者に唆されて、その男と駆け落ちをしてしまったそうなの」

「――」


 彼が息をも潜めてじっと聞いてくれている。愚かな娘の、愚かな生い立ちを。


「おじい様の手の者が母を見つけた時、母は既にわたくしを身ごもっていた」


 私は息を大きめに吸い込む。いとしい人の居るこの空気が、冷え切った臓腑を温めてくれますように。


「おじい様に無理やり連れ戻された後も、母はずっと父に再会出来るのを信じていた。しかしわたくしを産み落としてのち、肥立ちが悪く儚くなってしまった。父親にあたる男は、側妃候補の神女を惑わせ不義を働かせた罪でおじい様が弾劾。一族は地位を剥奪され、当人は斬首刑に処された」


 別れ際、これらを打ち明けてくれた乳母は言った。『しかし、内実は違うのですよ』と。

 ……私の父に当たるその男は、牢の中から私の祖父に懇願したそうだ。『どうか彼女に一目逢わせてください』と。


「『旦那様は、その様子が赦せなかったそうです。まるで母君を本気で好いているような口ぶり、表情だったことが。気が付いたら腰に携えていた宝剣を抜き、幾度も斬りつけていたとのこと。男はその怪我がもとで亡くなりました。もとより斬首が決まっていたゆえに不問にされましたが、旦那様は母君の死後、己の行為を悔やみ、それからずっと罪の意識に苛まれていらっしゃいました』……」


 何やら苦笑とも哀笑ともつかぬものが私の唇にせりあがってきた。自分で話していてなんとおかしく、悪夢のような真実まことだろう。


「おかしな話でしょう? 神祇の長が、そんな血生臭い過去を持っていたのよ。自分の祖父が、母を追い込み父を殺した張本人だったの。裏ではこの上なく穢れを纏っていながら表では綺麗な顔をして神を讃え崇める真似をして、そんな男がわたくしのたった一人の血縁だった……ッ」


 私の全身があたたかいもので包まれた。彼が、抱きしめてくれたのだ。


「――――わ、わかっているの。わたくしが七つの歳まで健やかに育ったのも、神家の直系にも関わらず締め付けが少なく自由が利く身だったのも、全部ぜんぶ祖父のはからいだったこと。祖父が――おじい様が身を粉にして働き、政敵に隙を見せずわたくしを『隠し』続けてきたからこそ、わたくしは無事に過ごせていた。萩がぜんぶ、ぜんぶ教えてくれた……!」


 あんなものが亡き娘への償いのつもりだったのか。否、それには至らずとも、あのつまらなくも穏やかな環境こそが、祖父のせめてもの贖いだったのだろう。

 例え、孫娘に「父」「母」と呼べる存在を用意できなくとも。


「でも、肝心要のおじい様ご本人が後継を定める前に亡くなってしまっては元も子も無い。他に縁組みもせず、わたくし一人を『隠す』ために色々なものを犠牲にして、たった一人で矢面に立って……。だから、自分が死んだ後はこんなことになってしまうのよ。ほんとう、ずるいおじい様……」


 乳母はこのことを話しながら幾度も、幾度も私に懇願した。「どうか旦那様をお恨みにならないでくださいませ」と。恨む以前に、恨み言をぶつける相手がもういないのに。

(何もかも黙ったまま、私を置いて逝ってしまった)


「おじい様はきっと、死ぬつもりはなかった。おじい様の死は、形は違えどあなたのお兄様の死と同じ匂いがするの。わたくしは不肖だけれど神家の娘だから、こういう勘は外れたことが無いのよ。おそらく、……」

「……」


 あの日、日永ひながの午前に悠々と散歩が出来る穏やかなひとときは永遠に終わった。今や士華区画内であっても治安は保障出来ず、毎日のように各地で混乱が起きている。そして権力を巡る醜い争いが人材を無闇に喪わせ、施政の土台を脆い砂へと化してゆく。一度作り出されてしまった負の流れは、崩壊へ至るまで誰にも止められないのだろう。

 人のいない侘しいこの屋敷は、さながらこの国の士華の縮図だ。人口流出は既に始まっている。この国に居る限り未来は望めないと判断した者らが、どんどん逃げ出していく。足掻こうとした者も、一手でも誤ったらそのまま昏き渦に呑まれる。自由や改革を望む者、内外に厄介な影響力を持つ者は――そうやって、始末されてゆく。

 本物の嵐が近い。


「この国は本当に――終わりに向かって、いるのね」


 その一端を少しでも識ってしまったら、とてもとても、この世界に居られない。耐え切れない。私達はたいそうな志を抱くにはあまりに凡人で、持ち得る力も弱く、ちっぽけなものしか望めないから。

 でも、だからこそ。

「……」

「ねえ、」

 無言のまま私を抱きしめてくれるあたたかな存在へ、語り掛ける。ここから先は追憶でも予測でもなく、ただの私の在りのままの気持ち。

「わたくしは実家に戻ったって、ひとりぼっち。居る場所なんて無い。わたくしを育ててくれた乳母は安全な隣国へと避難させてしまったし、もうこの国には何も恋しいと思うものが無い。財も力も何もかもいらない。でも、あなたと出逢ってまたすべてが変わった」

「……」

「今は、何よりあなたが、恋しい」

 手を伸ばす。大好きなあなたの、大好きな髪。今は成人の証、髷として結われているそれ。

 最初から気づいていた。そこに組み込まれた紐は、くすんだ朱色をしていること。袷の蘇芳といい、この人は緑深き山々に色づく紅葉の如く赤いろを自然に身に纏い、見事に着こなしている。

 うぬぼれでなければ、その切っ掛けは。

はじめ、言い方を間違えてしまってごめんなさい。殿方をその気にさせるすべがわからなくて、あのようなことしか言えなかったの。でも、本心のひとつでもある」

 いざなうように、躊躇いを溶かすように。いとしいひとの髪の朱を撫でる。前述したが、はしたないと思う気持ちなんて既に無い。


 束の間の我儘だとわかってる。

 でも私は、あなたと触れ合う瞬間ひとときだけは心のままに生きたいの。

 ろくでもない世界でも、あなたがいる限りは、優しい瞬間を夢見ていたい。


「この世で一番、あなたが欲しい。あなたは?」


 朱色がはらりとほどけ、硬めの黒髪といとおしい熱が降ってくる。と、彼はそこで動作を止め、身を起こして私から離れた。

 そうして中敷の上から降り、素床の上で膝を畳み手をつき、こちらに向かって深々と頭を下げる。反応するよう私は跳ね起きて、同じように畏まる。

「今更ながら、婚礼の夜をやり直させて欲しい」

「は、はいっ!」

 暗闇に目が慣れて来ていた。括り紐が解かれた黒髪、そのつむじの辺りから、夫となる男性の声。


「遅くなって申し訳なかった。――どうか、私と妹背めおとになってほしい。私は、いや俺は、どうしようもなく貴女が欲しい」


 かあっと頬が熱くなる。

 無論、こちらも深々と頭を下げ、新婚初夜のやり直しをした。




「ひとつ、頼みが、」

「はい」

「『我が君』ではなく―――名で、呼んでくれないか」

 私が彼の名を呼ぶと、彼は一瞬沈黙した。そして柔らかい声で続ける。

「ありがとう。実は今日、俺は生まれ日だったんだ」

「!」

 言いたいことは沢山あったが、それを上回る沢山の想いが余計な口を噤ませた。私は急いで、でも心を込めて言の葉を贈る。


夜長あきに生まれしあなたが、これからも末永く幸せでありますように。生まれ日、おめでとう……!」


 想いの応えは、大好きな匂いと熱のかたちで私に返ってきた。





 ……自覚が罪深くも、私はあなたが今の環境に堕ちてきたことに安堵を覚えている。


 以前、家族を語るあなたに抱いた嫉妬と寂しさを、今は感じないからだ。

(あなたが、近い)

 その事実が、罪深くも嬉しい。

 人生の導たる存在を喪い、多くの者に痛めつけられ苦しんできたあなたには、死んでも言えない。けれど、この仄暗い安堵を抱えつつあなたを労われることが、重くも深い私の想いだから。

(約束するわ、これからはずっと傍にいる。あなたが進む背中についてゆく)


 ちっぽけな私が、ちっぽけなりに出来ることがやっと解った。初めて恋した唯一のあなたと再び出逢って想いを通わせ心身を重ね合わせ、ようやく己の裡に落とし込めた。言わば人生の、指針として。

 私は愚鈍で無知な小娘だが、これだけは譲れない。どんな人間だって、大切なものを護るための努力はしておかしくないはずだ。


「………ねえ、あの歌を唄って頂戴」

「……変だと言っていなかったか?」

「今は、わかるの。あれは……恋の唄だった。そうでしょう?」

「………うん」


 こめかみに流れた私の涙。そこに口づけてくれたあなたの唇が、優しい音を紡ぎ出す。

 本物の無情な嵐がこのひとときを引き裂くまでは、夢見草の花びら舞う幻想に浸っていたい。現実からの逃避ではなく、その逆だ。あの日の思い出は私の未熟な心を護る盾となり、いとしい人との甘やかな時間は過酷な世界を生き抜くための希望の光となるだろうから。

(この世を、あなたと、生きてゆく)

 漫ろ寒さ迫る晩秋、風の音さえ聴こえない夜半。あたたかさと鼓動とあなたの唄だけを感じ取りながら思った。

 あなたと、あなたとの間に生まれたものだけは護り抜く。そのための労力は惜しまず、この心が心のままに生きる道を選べたのなら、どんな未来になったとしても私は決して後悔しない。



 例え、どんな未来になったって。



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