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道を作る星  作者: KEITA
番外編
7/10

二、日永②


 鼓動がうるさい。

 抱えるに大きすぎるものが、ちっぽけな私の胸を揺らしている。


「こ、此方こっち

 あれから私の顔を呆けたように見つめた彼は、私の手をぎゅっと握るや否やおもむろに歩き出した。突然のことに驚く暇無く、私は「きゃっ」とちいさな悲鳴を上げる。彼が斜めに背負っていた槍が、後ろを向きざま膝に軽く当たったのだ。

 さほど痛くはなかったが、当ててしまった彼の方が青い顔となった。

「あっ、ごめんっ、申し訳ないっ」

 先端に刃は付いておらず大人用の長さでもないが、それでも斜め掛けをしてやっと背負える木棒である。手を繋いだ近さではどうしても隣の人間に当たってしまう。そのことに気づいた彼は、私からぱっと手を放した。

 温みが離れていき、無性に寂しさを覚える。

「す、一寸すこし待って」

 続いて彼は朱縄に手を掛けた。括られている槍を外して位置を調整しようとしているらしいが、しかし上手くいかないようだ。

 槍は剣よりも長く、長い分片手では持ち続けられないほど重い。そして、子供の背丈ではやはり、長すぎる。彼はおろおろと私を見て、縄を見て、長すぎる槍を見て、私をまた見て、自分の手を見下ろして。

「ま、待ってて、今、」

「……何処かに、行くの?」

「う、ん。でも、」

 どもりながら、しきりに長い荷物と格闘する彼が何をしたいのか云いたいことが何なのか、不思議と理解出来た。要は私を何処かに連れて行きたい、そのために手を繋ぎたい、でも槍を背負ったままでは繋げられない、ということ。

 私は知らず袷の前を押さえる。胸が何か温かいものでぎゅうと包まれたようだ。苦しいのに心地よい、そんな気持ち。

(そんなこと、)

 手を繋がないと連れていけない・・・・・・・と思っている彼にもどかしくなって、はっきりした声で言う。

「だいじょうぶ、着いていくから」



 前をゆく彼の髪から、嗅ぎ慣れない匂いがする。

「速かったら、言って」

「うん」

 躊躇いつつ先だって歩き出した彼の背は、私よりもだいぶ広く大きく見えた。実際は少しばかり背が高いだけだったのに。

(おおきい)

 姿勢が良くて、歩の幅が広い。後ろを向いているのに胸を張っているのがわかる。大人ではないのに、私とそう変わらない歳だろうに、私とどこまでも違う。

 そして今更ながら気づいたのが、彼は武門の子だということだ。小袖の背中側、襟近くに黒糸で家紋らしきものが縫い取りされている。漆黒の文様は、士華における武家の証。

 背負われた槍が、まるで私と彼の世界を隔てるように揺れている。

(とおい)

 ゆっくり歩いてくれているだろうに、私は小走りだ。先ほどまで歩き通しだった疲れもある。

(まって)

 この人の後について歩けることが嬉しく、誇らしく、でもやはり寂しい。先ほど、手を繋げなくともいいと見栄を張ったのに。まったくもって、気持ちが安定しない。

 止んだと思っていた花びらの雪が、再び舞い降りてくる。しかし多くは前をゆく彼にぶつかり、後ろに着いてゆく私に触れることなく宙へと躍った。凛とした背中、その槍。

 馬鹿なことであるが、その時の私はこう思ったのだ。まるで、彼に護られているみたい、と。彼の歩く後にどこまでも着いてゆきたい、そうすれば安心なのだ、と。

 出逢ったばかりなのに。ただ、連れ立って歩いているだけなのに。

 気持ちがまた、甘く苦しく揺れる。やわな脚が、まるで疲れを忘れたかのように動く。

(……すき)

 時折横顔で振り返って、ちゃんと私が着いて来ているか確かめるように眼差しを与えてくれるこの人が、苦しいほどに好きだと思った。



 橋を渡って河川沿いをしばらく歩き、水域が広まってきたところで彼は立ち止まった。私に待つよう言って、小走りで向かったのは小さな土手。……の上に在る、簡素な家屋。当時の私は詳しく知らなかったが、そこは舟を出す渡し守の仮宿であった。

 その入口にて声をあげて人を呼ばった彼は、出てきた大人とぼそぼそと喋っている。何言かやり取りし、そして何かを受け取り、またこちらへと駆けるように戻ってきた。心細いと思う暇の無い素早さだった。

「これ、預けておいたんだ。兄上から頂いたものだけれど、俺一人で食べるのは少し、恥ずかしかった」

 戻ってきた彼は、少し息を弾ませながら私に何かを差し出す。片手の平に載せられたのは、ねじられた紙包み。そっと開くと、中から紅緋色をした飴玉が顔を出す。

「わあ」

 私の顔が輝いたのを見て、彼も嬉しそうに笑った。


 川の細流せせらぎが聴こえる。先刻さっきまではつまらないと思っていたのに、どうして今はこんなにも優しく耳に心地よく響くのだろう。

 古代、区画内の水流は重要だった。特に舟は、宴やはらえの際に多く使用されてきたらしい。らしいというのは、私が物心つくころには利用する者がめっきりと少なくなり川岸の風景も寂しくなっていたゆえである。私はこの国に生まれ育ちながら、この国の風物詩を殆ど知らなかった。

 カラコロ、と口の中の飴玉を転がしながら、そんな川べりを二人で歩く。

「此処へは、一人で来るんだ」

 今度は、手を繋げていた。彼は目立つ朱縄ごと、背負った槍を渡し守に預けてきたのだ。身分の高い家の子供らしく爪先は綺麗だが、掌と指の腹の一部分のみ硬くなっている不思議な手。その温み。

(あたたかい)

「屋敷はいつも慌ただしくて。父上や兄上が御多忙で、最近は滅多に戻らない。俺は末子だし妾腹だから、放っておかれてるんだ」

「しょうふく、ってなあに?」

「……いてもいなくてもいい、どうでもいい存在ってこと」

 がり、と飴玉を噛み砕く音がした。見上げると、綺麗な眼差しが陰りを帯びている。私は繋いだ手をきゅっと強く握った。

「あのね、わたくしも今日、はじめて一人で館を出たの。誰もわたくしを見てくれなくて、かなしくなって……今日、生まれ日だったのに」

「えっそうなのか!?」

「うん」

 七つになったのよ、と続けた私は、彼を励ますどころか復活してしまった内なる憤りで顔を顰めてしまった。

 そう、七つになったのに。誰も賀の祝いをしてくれなかった。神家の子は三と五と七の歳において、無病息災を祈る行事があるのに。それを教えてくれた乳母でさえ、今日は朝から――

「ひどいのよ、わ、わたくしはずっとこの日を楽しみにしてた、のに、うっうう、あぁっ」

 考えれば考えるほど自分が哀れで、そのことに胸がいっぱいになり、私は立ち止まってぼろぼろと泣きだした。最悪なことに、口を開けて泣いたせいで溶けかけの飴玉がぽとり、と地面に落ちてしまう。それがかなしくてまた私の目から涙が溢れた。

「うわぁああん」

「あっ……」

 彼は慌て、おろおろとしながら手に力を込める。私達が元来た道を戻っていた最中だったが、ふと軌道を外れて道の端に引っ張り込まれた。頭上に降り注いでいた陽光が遮られ、影となった場所。大きな夢見草の樹の下。

「な、泣かないで」

 ぎこちない手つきで頭を撫でられる。手首の辺りから、私が好きだなと思う匂い。吹く風は白い花弁を攫い、視界の外側でもどかしく躍った。

「口開けて。新しいの……ほら、あげる」

 カロン、と紅い飴玉が入ってくる。私はしゃくりあげながら、もごもごと口を動かした。でも涙はまだ出てくる。

「そうだ、面白い歌がある。唄ってやろう、」

 私と向かい合って両手を握った彼は、こほんと咳払いするなり唄い出した。知らない音程、不思議な詩。童歌でも子守唄でもない、当時の私には理解不能な言の葉。

「……」

 ぽかんとした。こんな変なお唄、今まで聴いたことがない。

「~~と、気に入ったか!?」

「なんか、ひぇん(変)」

「え……」

 がっかりしたような彼の顔が可笑しくて、私は知らず泣き止んで笑っていた。

 涙と一緒に溶ける飴玉は甘く、せせらぎの音は優しく、黒い幹越しに見えた空はどこまでも青かったのを憶えている。


「きみはこれから、何処かに行くつもりだったのか?」

「……帰ろうと、思っていたの。でも、帰り道がわからなくて……」

「居録書……屋敷の名前はわかる? それか、家の人の名前は」

 涙が引っ込んでから、また歩き出す。屋敷への道をゆっくりと辿りつつ、私達は色々な話をした。そしてお互いのことをわずかなりとも知った。

 私の生まれ育った館は士華居住区の右京にしのみや、彼の生家は左京ひがしのみやに在るということ。右京の更に西端に流れる河川とこの小さな橋は彼の住む館から遠く離れてはいるが、景色が良いのでよく散歩に来るということ。先ほどの渡し守や近くの警備を担当する役所人とも知り合いだということ。尤も、彼の生家は代々続く武官なので、配下に連なる役人や関連職の面々は皆、彼のことを知っているとか。そのお陰で、彼は区画内であればそれなりに自由が許されているとのこと。

 私は無知で世間知らずであったが、身分の高い――居住区で「京」を名乗れる部分はわずかだ――士華の子として、一人で出歩くことがどれだけ貴重で稀な体験かくらいは知っている。今の私と彼が如何に珍しい状態で出逢っていることも。

「神家は武家や文家よりしきたりが多く、決まりも厳しいと聞いた。きみは神家の子供なのに、どうやって屋敷を抜け出せたんだ?」

 彼もまた、こちらの服飾を見てどの家の出かすぐ判っていた。私が着ているのは紅藤色の小袖と珊瑚色の単衣。袖の外側には神職の証、茜で染めた糸で家紋が縫い取りしてある。

「あのね、禿見習いの上着を羽織ったの。髪飾りをこうしてはずして、お膳を持ってこそこそって歩いたらね、誰もわたくしに気づかなかったわ」

「うわ、すごいな。そんなやり方、はじめて聞いた」

 きみは姿隠しの達人だな。そんなことを言われて、私は得意気になった。好きだと思う人に褒められておだてられて、高鳴る鼓動と一緒に気持ちもどんどん上向く。先ほどまで大泣きしていたのに、自分でも単純なものだ。

「今日は門のまえの守り人もおるすにしていたの。簡単に抜け出せたのよ」

「へえ……。でも、それはおかしい感じがする」

「え?」

 隣を歩きながら相槌を打ってくれていた彼の横顔が、少し難しいものになっている。

「神家の守衛が昼から持ち場を離れるなんて。普通じゃない」

「――?」

「今は『水鏡』が揺れているのに……どうしてだろう」

 水鏡みかがみ。それは神家の学びとして習ったものだ。王宮の奥に鎮座する、この国の卜占が要。森羅万象を映し出し、限られた者に未来を見通す力を授ける、神器。

 しかし、当時の私が解ったのはそれだけだ。なぜ彼は急に難しい顔になってしまったのか、どうして私の華麗なる家出を褒めてくれないのか。

「――」

「あ、ええと、」

 不安を覚え、またも泣きそうな顔になってしまっていたらしい。こちらを見下ろした彼の顔が困ったようになる。如何に賢しいといえど当時の彼もまた、違和感を他人に上手く伝えられる経験を積んでいなかった。

 今の私には薄らと想像がつく。彼の言いたかったことを補足するなら、『今現在は国境くにさかいが厳しい状態の時勢であり、士華区画といえどもしもの場合が無いとは言い切れない。なのにどうして、神家の最低限の護りである門番が居なくなっていたのか』……ということなのだろう。まあ、説明出来たところで当時の私はますます理解から遠ざかっただろうが。

「ごめん。俺もよく、わからない」

「……そう」

 目の前のこの人は私より二つ年上で、しかも神家でなく武家で、男子で。齢と性別の差、そして見え隠れする意識環境の差は、そのまま知識と見識の差であった。

 詰まってしまった話題を変えるよう、彼は思い出したように言う。

「――ええと、そうだ。今日は、きみの生まれ日だったよね。俺はきみと違う家の出だけれど、祝いの言の葉を贈ってもいいだろうか」

「! 贈ってくれるの?」

「神家のしきたりに問題が無くて、きみが、その、嬉しいと、思ってくれるのなら」

 嬉しくないはずがない。しかしその時の私はやはり、馬鹿みたいに気持ちが舞い上がったことを隠したくて、なんでもないことのように「しきたりにもんだいは無いと思う」と返したのを覚えている。

 そんな私のお粗末な演技を見破ったのかどうかは定かではないが、彼は微笑んで言の葉を贈ってくれた。


日永はるに生まれし貴女が、これからも健やかでありますよう。生まれ日、おめでとう」


「――ありがとう!」

 単純極まりないがその瞬間、薄情な乳母や家の者に対する憤りがまるで風に飛ばされる霞のように消えたのだ。

 青空を背に、笑顔で祝ってくれたこの人が居たから。



「きょうだいはいる? 俺は兄上が三人いる」

「いないわ。あにうえ、っていうのは飴をくれたかた?」

「うん。一番上の兄上が、務め先から文と一緒に送ってくださった」

 はらはらと水流の上面を滑ってゆく花弁。口の中の飴玉が噛み砕けるくらい小さくなった頃には私達二人も随分と打ち解けて、会話も弾んでいた。

「二番目と三番目の兄上らとは、その……あまり、交流が無いけれど。三人とも成人の儀を済まされていて、今は各々役職に就き国中に散っている。一番上の兄上はよく文をくれるしたまに品物も送ってくださる。父上とはあまり話したことは無いが、兄上とはよくやり取りをする」

「仲よしなのね」

「うん!」

 彼の声と表情とがぱっと輝き、私はまたも鼓動が跳ねる。

「兄上は俺のことをいつもこども扱いするけれど、頼りがいがあって優しいし、嫡男として申し分ないと家の者は言っているし、」

 極焦茶の瞳をきらきらとさせて怒涛の如く「兄上」を語り始める彼。

「本当にすごい方なんだ! 俺なんかと違って頭が良いしなんでも知ってる。俺なんかと違って……、」

「あなたも、とてもかしこいと思うわ。たくさんむつかしい言葉を知っているもの」

 本心からそう言うと、彼はまたほんのり頬を染めて小さな声で「ありがとう」と返してくれた。しかし「兄上」語りは止まず、むしろ堰を切ったように喋り出す。

「でも、俺の兄上はもっとすごい。文武両方を極めておられるばかりか、大変な人格者で皆に慕われているんだ。俺もいつかは兄上のようになりたいと思っている。才が及ばずとも、昨今は世が乱れているから少しでも兄上の助けになりたいんだ」

「ふうん」

 この人の笑顔は好きだ。だが、今話している内容が私に与える感情は、純粋な快さではなかった。不快ではないが、何かこごりのようなものが少しずつ、私の中に積もっていく。

「俺は母上が病で亡くなってから本家に引き取られたのだけど、父上はずっと出かけておられるし、肩身が狭かった。普通に過ごせるようになったのは兄上のお陰だから。恩返しがしたい」

(「父上」「母上」ってよべるひとが、いるんだ)

 嫉妬とも、寂寥とも、羨みとも。そのどれもが真であり、どれかが欠けてもその時の私の気持ちを表すことは出来ない。

「俺は学問も剣技も遅れて習いだしたから、武門としてはどれも未熟だ。でも、兄上は槍術の才を認めてくださった。『槍は剣よりも広く大きい範囲を振れるのだから、自分の身を護るだけでなく、後ろに続く者のために道をも作ることが出来る。それを極めろ』と。俺は身体が大きくないし扱うに大変だけど、いつか国一の遣い手になってみせる。そして兄上を手助けするんだ」

 こちらの様子に気づくことなく、紅潮した頬で希望を語る彼。その中心に存在するもの。――羨ましくて、妬ましくて、寂しい。でも、さっき泣いてこの人を困らせてしまったばかりだ。もう泣けないし、簡単に吐き出すには今の気持ちは重すぎる。それはほぼ本能的に解った。

(とおい)

 この人と私の間にまたも見えた、飛び越えることの出来ない川幅のような溝。手を繋いでいるのに、それはくっきりと足下に現れている。

 かなしかった。

(とおいのが、かなしい)

 先ほどの表面的な我儘と違って、私の奥深いところに根ざすこのどろどろとした昏い心地は、出逢ったばかりのこの人に打ち明けるものではない。好きだと思う彼の笑顔を曇らせてしまう。

(かなしいのに、はなれたくない)

 今までに無い気持ちの背反がまた、私を翻弄する。

(きらわれたく、ない)


「……いいなあ。わたくしも……『あにうえ』が、ほしい」

「じゃあ、きみを妹にしてもらうよう兄上に頼んでみるよ!」

「……そんなこと、できるの?」

「兄上は仰ってた、兄弟というものに血の濃さは関係が無いんだって。例え血の繋がりがなくとも、心と心がそうあれば、誰でも兄弟になれるんだって。そう云って義兄弟になった者達は古代から沢山いるんだって」

 心と心が、そうあれば。

「勿論、どこの家の出とかは関係が無いと思うよ。心が繋がっていればいいんだ」

 心が、繋がっていれば。

「俺の兄上は優しくて度量の広い方だから、受け容れてくださる。妹が出来るのは初めてだってきっと喜ぶ!!」

「―――ほんとう?」

「うん!!」

「…………。うれしい」

 地に落ちて薄汚れた花びらのようだった私の心は、その時、彼の優しさと明るさに、確かに救われた。



 河川が道から逸れ、夢見草の通りを過ぎ行き、喋りながら歩くことしばし。見覚えのある建物が見えてきた。

「あ! わたくしの館!」

「良かった、合っていた」

 袖で指して大きな声をあげた私に、彼は微笑みかける。繋いだ手を放しながら。

「もうここから先は、一人で戻れるね」

「うん! ……ねえ、一緒には、こないの? 萩に言って、お茶を用意してもらうわ。一緒にお菓子を食べましょうよ」

「ごめん、一緒には行けない。俺はここで帰るよ。神家の中には、武家を良く思っていない者もいるから」

「え……?」

 どういうこと、と首をかしげる。

「俺もうまく、説明できないけれど。父上と兄上は多くの人を動かす職務に就いているから、家の者は気をつけないといけないんだ。例え妾ふ……庶子でも、やってはいけないことくらいは俺もわかっている。兄上の足手まといになるわけにいかない」

「あし……?」

(「あしでまとい」?「しょし」?)

 わからない言葉が多かったけれど、彼はどうやら私の家の者に姿を見られたくないのだ、と当時の私は理解した。そしてまた、寂しくなった。彼の笑顔が、柔らかいながら有無を言わせない空気を纏っていたからだ。寂しいけれどこれ以上、我儘を言ってはいけない。

 でも、やっぱり寂しい。それに……悔しい。

「――そう。わかった」

 びゅう、とまた強めの風が吹く。私は髪に手をやって乱れを直してから、家を出てからずっと付けていた飾りを外す。

「なら、これをあげるわ。持っていって」

「え」

 それを両手で差し出すと、彼は驚いた風に目を瞬かせた。次いで困った風に髪飾りに視線を落とす。薄紅の桜花を模った摘み細工、その周囲に朱紐で円を描き赤糸で縫い付けてあるそれは、私のお気に入りのひとつ。

「あげる。お礼よ」

「で、でも、俺は男子おのこだから、それは、」

「お花がはずかしいの? なら、これだけ持っていって」

 私は摘み細工の根元に口をつけ、歯で留め糸を噛み切った。はらり、と朱紐が垂れ、それを引っ張ると簡単に抜ける。

 目の前の彼が、ぽかんとした表情になっている。妙な高揚感が胸を満たす。してやったり、という心地だろうか。年上の、何もかも先をゆく彼を、逆に追い抜いてやったような幼稚な錯覚。

「はい」

「――」

 朱色の紐だけ手渡された彼は、もう一度目をぱちくりとさせた。

「どうして、」

「だってあなたがかけていた縄、とってもきれいなあかだったもの。あなたはきっと、赤いろが似合うのよ」

「――」

 どきどきと高鳴る胸、袷の辺りに手を当てる。拳を握ったので持っていた布の花がぐしゃりと潰れたけれど、構わない。

「あげる! じゃあね!!」

 緊張と寂しさを誤魔化し散らすように大きな声をあげ、私はそのまま振り返らず館へと走っていった。士華らしいきちんとした別れの挨拶も忘れて、急に襲ってきた恥ずかしさのままに。

 なので、彼がどういう表情で見送ってくれたのかは、わからない。


 その時の私は愚かにも、彼とはすぐにまた逢える、再会出来ると信じていた。

 愚かにも。









「お嬢様! お部屋にいらしてくださいと言ったのに、どこへおられたのですか! 探しましたよ!!」

「ごめんなさい、でも、」

「大変なことになりました、よくお聞きください。落ち着いて、」

「萩がおちついていないわ」

「……。申し訳ございません。いいですか、お嬢様。


 旦那様が―――おじい様が、お亡くなりになりました」



 私を取り巻くすべてが変わったと知ったのは、その直後のことだ。



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