一、日永①
本編読了後推奨の番外編です
大昔の偉人はこう云ったそうだ。「無知は恥、しかしそれ以上に恥ずべきは知を自ら棄てた者だ」と。
私が知ってることといえば極わずかで、しかもその殆どが他人様からの伝聞、書物から拾い上げた借り物の知識。よって、多少――いや、大いに不透明な部分があるやもしれない。
しかし、色の付いた硝子であっても透かして見えるものは見える。通された光は変色してはいても、確かに存在を伝えてくる。例え眼が曇っていても、見ようと凝らせば折々の動きを捉えられるように。
檻の中でも耳を澄ませば、聴こえる音が在る。格子の隙間から手を伸ばせば、触れる温度もある。人で在る限り知ろうとする思いは、身体を突き動かす願いは、誰にも閉ざすことは出来ない。
心に、嘘はつけない。
私は小さな頃から愚鈍で無知なこどもであったから、憶えも全体的にぼんやりとしている。例えば乳母にあの頃はこうだったわね、などと話しかけられても、上手く思い出せない。困ったことに、その忘れ癖は成長してからも続いた。つい最近の出来事であったとしても、そんなことはあっただろうかそれは果たして自分なのだろうかという疑問が頭の中を霞ませ、返す言葉も要領を得ていないものになるのだ。そんな私に周囲の者は呆れ、困惑しやがて諦めた。
しかし、そんな私でも忘れ得ぬものは有った。その事実が在るからこそ、ぼんやりとしながらも己を失わず病まずにいられた。たったひとつの、何よりも大事で大切な記憶のお陰で。
瞼を閉じれば今でも鮮明に浮かぶ、新雪と見紛うばかりの花弁の舞。
次に瞼を開ければ花吹雪の中、一本の槍を背負い、こちらを見つめる少年が居るのだ。
その情景を思い浮かべるごと、花嵐が私の中に巻き起こる。凪めいていたものは蹴散らされ、薄霞は細波と共に消える。曇りは拭われ、くっきりとした輪郭が像を結び耳の内側にも音が押し寄せるのだ。そして私の「記憶」は、そこから始まる。
……情景の記憶と云うには、些か欲張り過ぎたかもしれない。要は、その人が居たからこそ花は花であり美しく、風は風であり嵐となった。初めて抱いた感情、近い距離で感じた熱と心地よさ。その人が笑いかけてくれたからこそ、私は「憶える」ことが出来たのだ。
その人が、花吹雪の中での初恋が。
私のすべてだった。
憶えている。あの日見た空の美しさを、繋いだ手の暖かさを。
力の無い、知識も足りない世間知らずの小娘であるが、憶えている限りのものをここに記しておこうと思う。
それが、私とあの人の、生きた証だから。
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物心ついた頃には、両親はいなかった。
先祖は建国の義臣、由緒正しき血筋の家。武と文と神、国における三本の柱のうち一本、代々神事を司り纏めることを義務付けられた一族。傍流であっても、その伝統からはおおよそ逸れない。男に生まれたのなら文官もしくは神職となり、女と生まれたなら神に貞節を捧げるか王臣に嫁すか美貌と推挙あらば王の側に仕える身となる。私はそういう家に生まれた。
名家と書けば響きは良いかもしれないが、所詮は吹けば飛ぶような弱小国における一士華である。加えて、私の生まれ年は稀に見る凶作の年だったらしい。既に国威は下火、施政者も在りし時の興盛を謳うばかりで何の改革案も策も無し、霊圧が高い国境の自然区域の護りも甘くなり、いずれ周辺国に吸収されるのも時間の問題といった時勢。ただ、国民の多くはそんなことよりも今日明日をどう過ごすのか考えるのに忙しく、まして自我が未熟な幼子に国の行く末を憂う見識が備わっているはずもない。
私は、「父」「母」と呼べる存在がいないままに育った。
数えで、七つになったばかりの頃。
その日、屋敷の人手はいつにも増して少なかった。館主である祖父が朝から夜まで留守にしているのはいつものことだったが、常ならば私の傍にいる乳母らまで大慌てで支度をしており、何やら屋敷中が上から下までばたばたと慌ただしかった。
幼い頃から聞き分けはよくおとなしいだけが取り柄であった私であるが、その日だけはどうしてだが虫の居所が悪かった。今日はいつもより早く起きた、苦手な食べ物をきちんと残さず食べた、ついでに外は快晴だ。なのにどうして、目の前の大人達は私を見ないのだろう。優しい乳母でさえ、「お部屋にいらしてくださいね」と言ったきりこちらに構おうとせずあくせくしている。
何度も繰り返すようで恐縮だが私は愚鈍で無知、しかし大人の言うことはよく聞くこどもであった。なのに、その日に限ってはそういった大人達の態度が我慢ならなかった。人手が足りなくなった屋敷の門前と門後は守衛もが消え、伝統と格式のある館ならぬ喧騒に包まれている。理由はわからないが、こどもの私にとって深く追求するものでもなかった。重要なのは「私の」今の気持ちだ。
いつもの袷の上に下働き用の作業衣を被り、片付け終えた膳を両手にいかにも忙しそうな素振りで廊下を進めば誰もその姿を咎めない。この屋敷は見習いの禿も居る。
館の扉は開け放たれ、正門までの敷石は幾多の大人達がひっきりなしに行き来していた。大通りに続く道からの出入りが激しく、その応対に躍起になっているようだ。ただ、前述のように門番はその場にいない。ふと、中庭側から喧騒が大きくなった。人が多くなったことで、何やら揉め事が起きたようだ。正門から何人かそちらへと向かい、がらりと空いた外への出口。
そういうわけでその日、私は人生初の反抗を試みた。お嬢様の家出である。
季節は晩春、穀雨の手前。夢見草が盛りを過ぎ、あとは散るばかり。
はらはらと白い花弁が降ってくる中を、私は一人で歩いていた。天子のおわす内裏から見て右に位置する「京」の一箇所、一定の間隔で造営された屋敷と盤の目が如く整備された人工道。中央を走る大通りは人気が多く家の者に見つかる可能性が高いので、それより外れた小道をゆく。
柔らかな若葉の緑、均された黄土と擦り減った石道の灰黒、道行く人々。いつも牛車の上から眺めていた外の景色を今、私は私自身の足で歩いている。こんなことは殆ど初めてだった。常日頃より出歩くことが少ないやわな身体であったが、その日は何か怒りのようなものが私の身体を突き動かし、どんどん先へ先へと進んだ。最初こそこわごわとしていたが、そこは未知への興味と幼子らしい適応で直ぐに慣れた。
治安の比較的良い士華の居区だったといえ、あの頃の行動がどれだけ周囲の迷惑と危険を省みない行いだったのかは、今の私が一番良く知っている。この時勢下で、身なりの良い世間知らずの女子が一人無防備に出歩き、奇跡的に何事も無かったあの日。偶然にも諸々の歯車が噛み合っていたというか、本当に運が良かったといえる。もう、あんなひとときは二度と訪れまい。
ともかく、そうして歩を進めるうちいつの間にか屋敷からだいぶ離れており、見たこともない場所に辿り着く。苦労知らずな女童の脚なので然程長くも多くも歩いてはいなかったであろうが、その時の私は驕りと歪な達成感に満ちていた。こんなにも遠くに来た、自分の足でここまで歩いた、屋敷の皆の鼻を明かしてやったのだと。それは返せば己の裡に、こんなにも巨きな不満が眠っていたということだ。
ちっぽけな私は、ちっぽけな心を躍らせていた。開放感にも似た高揚がそこにはあった。乳母も侍女も優しく、甘える場が無かったわけではない。欲しいものは示せば与えられ、過ぎた我儘はちゃんと窘められる。きちんとした教育の場。屋敷の者は皆、幼い私に優しい。優しいがゆえに、消えない不満。
(どうして、)
どうして、私には両親がいないのだろう。
(なぜ、)
なぜ、皆はそのわけを教えてくれないのだろう。
屋敷より少しばかり離れた場所、それは浅い河川に架かった小さな橋の上であった。傍に大きな夢見草の樹があり、最後の盛りとばかりに桜花を満開にさせている。ただ、川のせせらぎは車の簾越しよりも大きく聴こえたが想像していたよりも変化が少なく、降る花弁もどこか虚しい。
その時の私にとって、その場所は静かすぎた。
(つまらない)
生まれ育った家をこっそり抜け出し、ここまで一人で歩いてきた最中には高揚感があったのに、瞬時にその気持ちが萎んだ。異国の書物にも謳われているという我が国の古式ゆかしい情景の趣は、小さい頃から当たり前のように慣れ親しんでいるこどもにとっては当たり前の景色でしかなく、今更興味を覚えるものでもない。いつもと違う行動をしたのにいつも通りの、つまらない静けさ。
足元の痺れからじわじわと這い上がるように、不安が押し寄せる。もとより箱の中で育ったこども、しかしいつもなら駄々を捏ねられる相手はここにはいない。当たり前だ、一人で出て来てしまったのだから。誰に何も言わずに。
乳母が寝物語に語っていた寓話を思い出す。聞かん坊のこどもは、底無し沼より這い出てくる悪い妖に攫われてしまうのですよ、と。ここは沼地ではないはずだけど、静かな水場という意味では一緒だ。どうして私はこんなところに来てしまったのか。
戻ろう、と踵を返したところでふと気づいた。ここは一体何処だろう。今更ながら、無知な箱入り娘にとって迷い子となるに十二分な距離を歩いていたのだ。
「萩、」
乳母の名を呼んではみたが、駆け付けてくれるはずもない。当たり前だし、自業自得だ。
泣きそうになったその時、風が吹いた。
地に落ちた花びらが巻き上げられ、旋回し、私の視界を覆う。
「……ッ」
吹きつける圧というより、更なる空恐ろしさで私は目を瞑った。ついでに耳も塞ぐ。押し寄せる白い花弁が、まるで別の世界へと誘ってくるようで。次に目を開けたら、いつもの屋敷のいつもの自分の部屋に居たらよいのに。
風は私の切り揃えた黒髪を煽り、乱し、お気に入りの花をあしらった飾りをも揺らす。音が鳴ったはずであるが、その時の私は両耳を必死に塞いでいたのでわからない。近づいてきたであろう新たな音の存在にさえ、気づいていなかった。
かくして、風が収まった時に目蓋をおそるおそる開いた私は。
あの人に、出逢った。
先ず印象づいたのは、その人の身体に巻き付いている朱色だ。
雪のように真白い花弁が舞い躍る古びた欄干の前、檜皮屋根の赤茶と抜けるような天青を背後にその人は立っていた。滅紫色の袴、花びらより明度を落とした白の小袖。紐で袖を絡げるように纏めており、それとは別に鮮やかな朱縄が一本、胴の前に掛けられている。
なんて鮮やかな朱だろう。
背には、長く大きな木槍が一本。朱縄で括られたそれはしかし、その時の私には瞬時に判別がつかないものだった。まるで細長い木がその人の肩から斜めに生えたようだとも思った。槍という武具自体、初めて見たのだ。
いや、それ以上に。
「……」
髷として結われていない、簡素に括った短めの黒髪が風に吹かれてそよぐ。
この国において女子は十三、男子は十五で成人の儀を迎える。それまでに髪はある程度伸ばすのが士華としての決まりだが、こどものうちに伸ばし過ぎるのは邪気を集めるとされる。その人の髪は、肩を越す程度で切りそろえられている私のそれより若干長い程度。少しばかり視線の位置も高いが、おそらく齢は私とそう変わらない。成人前の、十は越えていないだろう幼いこどもだ。
そして、幼年期の士華の男女は兄弟姉妹を除きほぼ別々の世界で過ごし、育てられるのがこの国の習わし。装いよりも何よりも、身についた立ち姿で瞬時に判った、性別の違い。
お互いに、生まれて初めて見る同じ年ごろの異性であったのだ。
「……」
「……」
お互いに呆然と視線を合わせたまま、しばし時が過ぎる。予想外の事態が起きた時、私は乳母の手を握るか後ろに隠れるかするのが常だったのだが、今はそのどちらも出来はしない。
何より、目の前に突如現れたこの人に、興味が湧いてやまない。
(どうして、)
どうしてだろう、と先ほどとは違った感慨で思った。生成りの上の鮮やかな朱が眼に焼き付いた直後、やや高い位置から見下ろす極焦茶の瞳と出逢った瞬間から、びりっとした形の掴めない痛みが私を貫いた。転んだわけでも、繕いの手習いでしくじって指先を刺してしまったわけでもないのに。
どうして、私はこの人から目を離せないの。
全く未知の存在、姿を見られないよう隠れなさいとまで云われている「男子」という生き物だからだろうか。正体不明の慄きが脚を震わす。
私は、この人をこわいと思っているのだろうか。
じり、と心持ち後ろに下がった私の足元を認めたのか、ぱちくり、と私を映す黒の瞳が瞬く。その瞬間、なぜか舐められたくないと感じた。自分の未知なる部分から、またもこみ上げるもの。今までに感じたことの無い、初対面の個人に対しての負けん気というものだった。
「……、本日は、お日柄も良く。はじめまして」
後ろに下がりそうになった脚を踏みしめ、私は隠れた袖の中で拳を握りつつ挨拶を放つ。放った瞬間、しまったと思った。声がそうとわかるほどに震えてしまったのだ。
目の前の少年は、吹き出すことはしなかった。ただ、もう一回瞬きをした後、ぽつりと呟いた。
「――良かった、人間だ」と。
(……?)
おじい様や屋敷の老いた侍従らと違って、その音はしわがれていないし高い。しかし禿見習いや遊び相手の侍女らと違って芯に太さがある、不思議な声だ。しかしそんなことより、気になるのは。
笑われなかったのはいいとして、この少年はどうして私に挨拶を返さず、意味不明なことを言うのだろう。負けん気と恥ずかしさの直後に襲ったのは、疑問が綯い交ぜになった悔しさだった。
解らないことが、悔しい。この人の目に、私はどう映っているの?
(なぜ、)
なぜ、出逢ったばかりのこの人に、私はここまで感情をかき乱されているのだろう。
それが顔に出ていたのか、槍を背負った少年の視線が戸惑ったように泳ぐ。強い色をした黒に毛先が淡い睫毛がかぶさり、けぶるようになったその様にも私の視線は奪われた。伏し目がちになると途端に優しくなる瞳。
「失礼をば、いたしました」
袴の両端で握られていた拳が解かれ、すっと真っ直ぐに添えられる。
「……、は、は、晴れたるこの日にお初にお目にかかること、尊き導きとぞんじます」
遅れて士華らしい口上で挨拶を返してくれたが、語頭が意味無く繰り返された上に早口で、不自然に小さい。そして俯く勢いで顔を伏せてしまったので表情も読めない。
ただ、この人の鼻筋は通っていて、眉は凛々しくて、睫毛が長いんだということはわかった。
じっと見つめていると、少年の頬の色がうっすらと変わってくる。まるで、頬紅をはたいたかのようにぼぉっと赤くなってきていた。下に向けた顔を動かしつつ、ちらちらこちらを見つめてくるので、私自身も頬が熱くなってくる。
解らない。どうして自分がこんな状態になるのか解らない。解らないけれど。
(しりたい)
「……」
「……」
ふと、気づいたことがあった。
それを見た私は深く考えはしなかった。ただ、気が付いたら自然に足を踏み出し、手を伸ばしていた。彼がちょうど頭を下げていたから、視線がこちらに向いていなかったから、言い訳をするならそんなところだ。
触れた黒髪は、しっかりと硬い。そのまま指で払うと、はらはらと零れ落ちる。
「―――花びらが、」
「―――!」
私の袖の下の耳が、無言のまま赤くなった。釣られてこちらも頬を更に熱くさせた次の瞬間、伸ばした腕と逆の方から、絡げられた小袖の腕が伸びる。剥き出しの手首と肘の裏。
私より陽に焼けた大きな手は、そのままお返しのように私の髪を払った。
零れる花びら。
「………君も、」
近い距離で囁くように呟かれた声は、先ほどの行儀的な挨拶の声と違うものを纏っていた。柔らかくて、とても優しい。今まで嗅いだことの無い匂い、感じたことの無い温度、そして感情。
向かい合わせのように腕を伸ばし合い、触れ合い、袖の内側で見つめ合い、その瞬間に解ったのだ。
ああ、この人が好き、と。