【うつくしき夏空】
※残酷描写含みます
五つになったばかりの頃、両親が死んだ。
他人よりも物心がつく時期が早く、そしてすこしばかり厄介な事情により、そのことを克明に覚えている。覚えていないほうが幸せだった。
父親も母親も、私を護るためにその命を散らした。
そのことをむざむざと、確認させられるからだ。
始まりは、火事の記憶である。轟々と音を立てて燃え盛る炎、崩れ落ちる木造家屋。吹き付ける熱気はちりちりと産毛を逆立てる。幼かった私は母に手を引かれ、父に導かれるようにして劫火の中を脱出した。
上等な沓は履いてはいたが、それこそ有って無いようなものだ。幼子の視界は狭く、矮躯は障害物だらけの焦土を過ぎた速さで抜けることなど出来はしない。途中で何度も転びかけた幼い我が子を見かね、母は私を抱き上げて負ぶい紐で赤ん坊のように身体に括りつけた。私は幼いなりにいっぱしのつもりであったが、その時はどうしても「歩きます」と言えなかった。実際にそこまでの体力と根性は育っていなかったし、この状況下、子供の強がりは時間の無駄であり足手まといでしかないことをわかってもいたからである。
前を行く父は、戦鎧に身を包んでいた。その具足に踏みしめられたものが音を立て、蹴られたものが地面に転がる。手に握られていたのは愛用の槍。やわい沓でも通れるよう地を踏み固め、ときおり進路を遮る倒木をどかし、鋭利な草を掃い、手にした得物で油断なく周囲を伺い、後に続く母と私のために最低限の道を作っていた。
今でも覚えている。前をゆく父の広い背には、三人分の食物の他、布で固く括られた木箱が有った。当時の私より重く、しかし決して置いてゆくことが出来ない大事な荷。それこそ、私達が何者かから逃げざるを得ない理由の一つ。
父の通った跡を辿るように歩く母は、黒炭が美しい衣を汚し棘が白皙の頬を切り裂いたとて、一度もその歩を緩めなかった。母の髪や袷から漂ういつもの香は、やがて汗と土の匂いに紛れ、揉まれるように薄れ、跡形も無く消えていく。
ありありと。今でも、覚えている。
親子三人の逃避行は、突如終わりを告げた。焼け焦げた大地に果てが見えたと思ったら、目の前に広大な河川が現れたのである。流れは緩やかだが向こう岸が見えぬほどに広く、水深も浅からぬ大河の様。先の嵐で橋が壊れ放置され、渡し守りもその場にいない荒廃した水域は、まさしく行き止まりだった。
父は周囲をくまなく調べ、少し離れた場所に置き去りにされていた小舟を見つけた。ただ、長く使われていない木造の舟底は塗装が剥げ、櫂こそ無事であったが全体的に頼りなげである。成人二人と子供一人の重量を乗せるとなると不安が残った。まして、決して棄てることの出来ない荷物も有るとならば。
父は背負っていた半分の荷を母に預け、具足のまま川に入り、妻と子が乗った襤褸舟を流れへと押し出した。自分は後から泳いで渡るつもりだったのだろう。
無情な飛矢がその肩に命中したのは、手が舟から離れたその瞬間である。
掠れた悲鳴をあげる母の眼前、父は突き刺さった矢をそのままに浅瀬に向き直る。追手がわらわらと岸に現れていた。舟はもう流れにのっている、しかし陸の退路は無い。
父は、私達に背を向けたまま荷を川底に捨て、槍を構えた。見る間に遠ざかっていくその姿、母は何度も父の名を呼び、私もその時何かを言ったように思う。だが、父は得物を構えてのちただの一度もこちらを振り向くことは無く。
それは、「道を作る」者の姿。文字通り背水のまま、死地へ向かう男の背中だった。
たった一人の武人に、大勢が襲い掛かる。その何人かを打ち払い、なぎ倒し、足場の悪い場所で必死に戦う父。舟に向かって弓を引く者は、父の投げた槍によって突き倒される。母は父の名を呼ぶのをやめ、頼りない櫂を握り締めた。この状況でやれることは一つしかなかったからだ。
全身に傷を負った男が、泥水に伏した頃。母子を乗せた小舟は矢の届かないほど遠く離れた場所に居た。そしてその事実こそ、背水の武人が使命を貫き通せた証。
陸の追っ手から脱したとみるや、母は櫂を握っていない方の手で木箱の入った布袋を握り締めた。ささくれた木片により肌は擦り剥け、白い指の隙間から血が滲んでいた。母が痛がっていると感じた私は、いつか父が教えてくれたように自分の袖で母の手を包もうとした。
母は片方の腕で私を抱きしめ、涙を零さず泣いた。
辛苦の旅はそこで終わったわけではない。むしろ、それからが始まりであった。
追手の姿を見かけてから私達は向こう岸に渡ることを諦め、人目を避けながら川下へと流れることを選んだ。火を熾せず浄水のすべが無い場では、病気を運ぶ夏場の水など含むことは出来ない。干し飯と兵糧丸で空腹を凌ぎ、ときおり気紛れに降る雨で喉を湿らせた。
我慢出来たのは上辺だけ、味も水分も無い乾いた携帯食は幼子の喉では上手く飲み込めず消化も出来ず、揺れる舟上で何度も吐き戻す。母は自分の口で何度か噛み、ふやかしてから私に口移しで食べさせた。雨水は私に優先的に飲ませ、日照りの昼は衣を脱いで頭から被り私の上に影をつくった。掠れた声で、童謡や子守唄を口ずさんでくれた。幅が狭まり急流となる場では眠らず櫂を漕ぎ、舟底からの浸水は手で掻き出し、小さな我が子を抱きしめ、箱入りだった娘はやせ細った腕で必死に舟を繰った。
距離としてはわずかであったろうが幼子にとっては気の遠くなるような時間、しばらく後に河川の道は終わりとなる。幾度かの分かれ道の後、幅が更に狭まり、流れがせき止められる堤防が姿を現したのだ。近くに新たな人里が在る証。
母は、細心の注意を払いながら小舟を岸に寄せ、足がつくほどの浅瀬となってからはみずから降りて子と荷の乗ったそれを陸へと押した。美しかった衣は今や見る影も無く、朽ちかけた襤褸舟も最早ただの木片に等しい。幼子の背でもようやく水底につま先が付くかという頃合い、母は荷物を細背に負い、私を船から降ろした。途端に襤褸舟は分解するように転覆し、私も顎まで水に浸かる。流れは緩やかであったが気を抜くと沈みかける私を母は何度も励まし、自身も重い荷によろけながら、親子は這う這うの体で上陸を果たした。
夏場であったのが不幸であり、幸い。ずぶ濡れの衣を丹念に絞って水気を切り、休む間も無く人目を避けるようにして移動する。遠くにとある民家を発見した時、そこで久しぶりに母の瞳に輝きが宿った。私も歩き通しで限界であり、その辺りの記憶はあやふやだ。母がそこに助けを求めに入っていったのを確認した直後、意識が暗転したことのみ覚えている。
気が付いた時、その民家の粗末な藁床に寝かされており、傍に母が居た。我が子が高熱の中意識を取り戻したことに気づかず、横顔を向けて。あの時と同じ顔、同じ雰囲気で、木箱をささくれた指で撫でながら、掠れた声で唄っていた。
父が昔好きだと言っていた、恋の唄を。
体力気力がおざなりに回復していく中途、しかし私達はまたもそこから出ていかざるを得なくなる。どうやら追手が捜索の目を広げているらしい。私達は敵方からすると重罪人であり、多額の懸賞金が賭けられたお尋ね者なのだ。この民家の近くにも兵士が訪れ、隠し立てをすると同じ罪人と見なし斬首に処すると。村々を調査の隊が見回っており、明日明後日辺りにこの家にも兵士らが訪れるやもしれぬと。
もとより得たいの知れぬ親子を介抱してくれた貧乏農家、情報を得た時点ではした金目当てに私達を売ることも出来たであろうにそれをせず、厚意で匿ってくれた。礼こそ言えど不満など出るはずもない。母は手持ちのわずかな銀を彼らに差し出し丁寧に頭を下げ、木箱を背負い、未だ引かぬ熱で足元が覚束ない私の手を引き、急いで民家から出た。人目につかない真夜中の出来事であった。休息は不十分と知れていたが、重い荷を背負った女と幼子の鈍足だからこそ、危機を悟った時点で動かざるを得なかったのだ。
最悪の体調、切羽詰まった現状であったというのに、その夜の空はなんとうつくしかったことか。星々は満天であり、群青がかった暗闇からこちらを導くよう輝いている。霞んだ視界でもそれは明瞭で、朦朧とした意識の中でも私は思ったものだ、綺麗だな、と。
あの夜空は、あまりに綺麗過ぎた。
疲労困憊に加え栄養不良、高熱による体力の低下、休息不十分。数日であれどここまでの旅路は、数えで五つの身にはさすがに過酷すぎた。限界は、訪れるべくして訪れる。
繋いでいた母の手から滑り落ちるように、私は地面に伏した。不調を大人に伝えるすべを知らぬ、こどもらしい限界表示だった。
母が叫ぶ声すら遠くの世界の出来事で、私は幼心に「死」を感じた。普通の幼子であったら何も考えず事切れたのだろうが、可愛げの無い気性ゆえ、不思議なほど静かな理性が生まれた。すべてが終わるのはこういうことだろうか、と。
それまで劫火の延長のように続いている苦しみが終わるだろうことがむしろ嬉しかった。遠のいていく意識と同様、これでやっと楽になるのだと、本能的にそう確信出来たから。
しかし。
……まるで何かに押し戻されるように、意識は覚醒した。
身体があつい。夏の暑気でなく、高熱による身の内から燃えるような熱さでもなく、それは自然の気温でもおのれの持ちうる体温でもなかった。――あえて言うなれば、今まで遠くに居たものが急に近くに迫り、近すぎる距離から圧倒的な光と熱を叩き込んできたような、そんな感覚に近い。
あつい。
同時に、衝撃と苦痛と、遠のいていたはずの何もかもが踵を返すよう襲ってきた。安息の「死」への逃げ場など無かった。まるで新たなものが外から内から私を否が応でも揺さぶって、「生」の坩堝へと突き落としてゆくかのような。
くるしい。
あつい、あつい。
くるしい。
あつい!
たまらずかっと目を見開く、その瞬間に視界に入ったもの。
今度は母が「道を作る」者となり、こちらを見下ろしていた。
草生したそこだけ、まるで昼間のように明るい。焚火が生まれたわけでなく、人の手による灯りでもない。
満点の星空、何よりも明るいと思っていたそれよりも更に強い輝きで、私の全身が光っていた。髪の一筋、肌の表面までも光り輝いている。
そしてそんな私を見つめ、母は泣きながら笑っていた。その唇が、何かを言う。私は不思議に思って母に手を伸ばした。しかし母はその手を避けるように身をよじり、そして私に今度ははっきりとした声で言ったのだ。
さあ、逃げなさい、生きるのよ、と。
疑問も拒否も言わせないそぶりで、母は立ち上がった。その膝から落ちたのは、布を解かれたあの木箱。蓋が開けられ、その内部が剥きだされていた。――中身は、空。
何も考えられず、何も言えないまま、私は起き上がりその背を見送った。よろつく足取りで私から離れていった母を。
いつの間にか体調が嘘のように回復し、苦痛や湧き出る熱さも引いて、全身が不自然に軽くなっていた。しかし、声が出てこない。母の後も追えない。涙だけが流れ、滔々と頬を伝った。黒い地面に落ちるその雫さえ、まるで空に浮かぶ星のように輝いている。
山中の暗闇に突如現れた不自然な灯り、長時間煌々と光るものを遠くから見とがめたのか、周囲に人の気が集ってきた。民家の近くに逗留していた追手の一派だろう。
現れた大人の集団は、自分たちが手にしている灯りよりも強い輝きを放つ子供を発見し、口々に何かを言い、私がそれに応えないと見るや何人かが弓矢をつがえた。
私は、恐怖も何も浮かばない心地でそれを見やった。
矢が放たれる。あの日、父の肩に突き刺さったものと同じ殺意は、先ず私の脚に命中した。しかし泥だらけの衣を突き破りこそすれ、肌に刺さることは無く弾かれる。痛みすら無く。
驚愕の視線は、慄きと恐怖に変わる。次いだ矢は、今度は幼子であろうと容赦無く致命傷を狙って放たれた。ただ、それだけであった。
私は胸や腿に不格好にぶら下がった自分の身の丈ほどの矢を見下ろし、それを引き抜く。裂かれた衣は完全に襤褸となった。
一歩進むと、目の前の青い顔をした大人達は弓を下ろし、腰の刀を抜いた。それがどれだけの切れ味なのか、私は一応知ってはいたが、もう何も感じない。威嚇の声をあげ、何人かが斬りかかる。幼子の矮躯など両断されそうな一撃は、されど私の小さな額で止まった。髪の一筋も切ること敵わず―――逆に弾かれるように、最初の大人は後方に転げた。何人かの刃は無惨な音を立て、半ばより折れた。
彼らははくはくと口を開閉する。まるで巨岩に斬れない刀で斬りかかった阿呆のように。
目の前のことを受け入れられない素振りで大人達はちっぽけな子供に攻撃を繰り出す。弓矢、刀、槍、そのどれもが私を傷つけるに至らなかった。私に素手で掴みかかるものもいたが、軽く身を捩る程度で全てを振り払うことが出来る。髪を鷲掴んできた手首を強めに握ると、みしりという音と共に大人達は大袈裟な声をあげて痛がり、瞬時に握力をなくした。まるで、体格を置き去りに膂力が逆転したかのような容易さだった。手にした燃え差しの火灯を投げつけられもしたが、それが直撃しても襤褸と化した衣が焼き切れるのみで、本体の私は火傷ひとつしなかった。
やがて全ての武器が折れ砕け、何をしても無駄だと悟った時。彼らは漸く、畏怖で凍り付いたように動けなくなった。物々しい恰好をした大人達は、自分たちの半分の身の丈ほどの裸の幼子がぼろぼろの沓で歩くさなか、まるで小動物のように縮こまりその場に立ち尽くす。そっちが攻撃してもしなくとも、もう何もする気がないというに。
私は呆然とする大人達を背に、反撃することも口止めもすることもなく走ってその場を後にした。
だって母が言ったのだ、「逃げなさい」と。
残酷なほどに美しく静かな夏の夜。
光輝く星々、それよりも眩い光が私の身の内より湧き出て周囲を照らす。鉢合わせた獣や人は、皆怖れと畏れを以て私に道を譲った。近寄ってくる吸血虫は焼け焦げ、風さえも私を避けるようにする。今よりもっと平和だった頃、鳴る音が怖いと言って母にしがみついたおばけのような木々さえ、シンと静まり返って異形を見送っているかのようだ。
その全てに、何も抱けない。私はただ、一人で走り、走りに飽いてからは歩いて進んだ。疲労も何も無い。自分が何者になってしまったのか、それすらわからない。わからなかったけれど、とにかく心境は波の無い海のようで、ひたすらに静謐で、そして無性にかなしかった。
どのくらい歩いただろうか。かなしい心地は、前方に転がる一つの骸を見て完全に空となる。
それは息絶えた母の姿だった。
私に逃げよと言ったまま去った母は、そのままの姿で力尽きていた。穏やかに目を閉じ、泥だらけの衣で草むらに伏し、永遠に沈黙していた。
完全に大人のそれ以上となった膂力で難なく母のやせ細った身体を抱き起こす。まるで玩具のように軽かった。勢い余って無碍に扱いそうになり、慌ててやり直す。記憶に残る父が母を抱きしめる時のように、そっと優しく。
内から出る光が、母の安らかな死に顔を無情に照らした。ふと、彼女が光り輝く私を見つめながら何か言っていた、その唇の動きを唐突に思い出す。
母はこう言っていた。
――ごめんなさい、ごめんなさい。私はこの子を死なせることなんて出来ない、――
繰り返していたのは父の名と、謝罪。そう言って、かの人に幾度も謝っていたのだ。
悟る。彼女は我が子を生かしたのだと。あの箱の「中身」を使って。亡き夫との誓いを破って。そして恐らくは、己が命と引き換えに。
幼子の目の前で息絶える様を見せないよう、その心に傷を残さないよう、最期の力でその場から離れたのだろう。
私が小さく、弱かったばかりに。
止んだと思っていた涙がまた、溢れ出す。ぽろぽろと、光り輝く雨のようにあとからあとから零れ落ちる。母の冷たくなった頬に落ちる涙は瞬時にただの水滴と化し、泥でこわばった髪や地面に沁み込む水滴は時間を置いて徐々に光を失う。私の声にならない感情と共に明滅するよう、なんとも醜く不自然な光。
慧眼というには歪過ぎ、あまりに無様なそれは、残酷明確な結論となって私の内側を灼く。みずみずしくやわらかかった幼子の心は、無慈悲なまでの光熱で呆気なく焦土と化していく。
―――父も母も私の前に道を作った。それも導きではなく、ただ後ろに続く者のために作っただけの片道。みずから剣山の地に倒れ伏し、この身を踏みしめ行くがいいと私に示した。躊躇うも振り返るも赦さない、おのれは共に歩くを諦めた一本道を。
―――みずからを犠牲にせざるを得ないほど、そうしなければ道を作り得ないほどに、私が小さく弱かったから。
幼い異形を見守るよう、同調するよう、満天の星が輝く。
私を独りにした光は、彼らが見えなくなっていくと同時におさまっていった。