エピローグ2
※
――私は死んだのだろうか。
言葉を引きずり目を醒ます。
その瞬間に、ここがよく見知った館の別館、医療棟だと理解した。
少しだけ手狭に感じる薄暗い個室。しかし、病院の個室と思えば些か広い。
窓のカーテンは閉じられている。部屋は薄暗いが照明が点いていた。廊下への扉は開放され、差し込む明りが部屋との落差で強く感じる。
一体何が起こって医療棟などにいるのか。
そう、事故を起こした。
山道で車が燃え盛り、手を差し伸べられて――。
――それは、誰に?
オルスタッドはそれ以上思い出せなかった。
医療棟へ来てからこれで何度目になるのだろう。目を醒しては同じ事を考えて、考えている内に気を失って自分を見失う。
混乱している。そして、最も忘れてはいけない何かを、決定的に思い出せなくなっている気がする。
どれだけの時が過ぎたのか。
何にしろ損なったものを取り戻せるだけの時間を、費やしていないのだけは確かだった。
汗が額に浮いていた。身体が弱く震える。身体を静める為に、自分の体調へと感覚を澄ませた。
オルスタッドは自分の内側へ意識を向け続ける。しかし、彼は一瞬で獲物を捕える素早い視線へ変えた。部屋の中へ止めどなく目を走らせ続ける。気配がする。限りなく闇く静かなものがいる。開いたドアの中程から、どういう仕掛けか、よく分からないものが貼り付くように覗いている。立って身体を折り曲げているのではなく、完全に壁へ取り付いてヤモリのようだ。それは面を着けていて、長い口吻と立ち耳が、ルークの天犬地味た容貌に似ている。しかしその色は暗過ぎて虚空に穴が空いているかのよう。オルスタッドが見つめていると、全身闇いイヌが、驚くべき愚鈍さで壁を這い、四足で床に降りてきた。
そのイヌは腰の曲がった老人のような姿勢で、胸に手を当て頭を垂れる。これは近現代から我が国では、立礼においては最敬礼を意味する。動作一つ取っても物音一つしない。
「分からないあなたではないでしょう。長い間、本当にお疲れさまでした」
――これが噂で聞く、地獄の番犬。
「私からあの方へ言葉を伝える事は?」
「お赦しください。小生にはあの方とやらは図りかねます」
オルスタッドは主人にすら棄てられたのだと、胸に痛みが走った。だが、直ぐに感覚は鈍麻し、意識がふわふわとして眠ってしまいそうになる。
「……はて、でもどなたかが独り言を仰っていましたな――ただ、誇りに思うと」
オルスタッドは息を呑む。涙がこめかみを伝うのをはっきりと感じ取れた。
彼は意識が散じないよう、懸命に意識を保たせ続ける。明らかにカイムは、オルスタッドへ夢を見せようと局所集中的に操作している。
――忘れられてはいない。棄てられてはいない。
あらゆる過酷な任務に耐えて来た猟犬としての生涯。他の猟犬とはまた違う、自ら望んで選んだ道とはいえ苦しく辛い事には変わりがなかった。そして、また他の兵士のように骸となって帰還した――あるいは帰る事も出来なかった――とは違い、手負いとなって地獄の番犬から直に死を賜る、その幸と不幸。穏やかな主の顔を思い出し、オルスタッドは微笑む。
――お言葉を頂戴出来ただけでも、十分ではないのか。
「では、参りましょうか。恐れは無用に御座います」
番犬が何かを握っているようだったが、何も見えなかった。
オルスタッドは夢に誘われるまま目を瞑る。もう、抵抗はしなかった。
「――終わらない夢を約束しよう、か」
オルスタッドは微笑む。
優しい声がぽつんぽつんと心に溢れて来た。
……お帰り、よく帰って来たね。
いつの間にか主人の元へ帰った事に気が付いた。何の任務に赴いていたかと考えるが、ただ日向にいるような心地よさで主人の顔を見ていた。
緑の瞳が優しげに細められ、微笑んでいる。
オルスタッドは不思議な感覚に頸を傾げる。
――任務はどうなったのでしょうか?
……もう、いいんだよ。
――いいのですか、何故でしょう。
……一緒に廃園へ行こう。
――お伴させて頂けるのですか。
オルスタッドが喜びに相好を崩した瞬間、遠くからか、それとも近くからなのか、声なき哄笑が上がった。ただそれは呼気だけで繰り返されて、彼の耳にまとわり付いた。
オルスタッドはその不快な音で、自分が夢を見ている事に気付く。現実へ引き戻されると、猟犬として養った感覚で、直ぐ反射的に周囲を見回した。
その哄笑は番犬がもたらしたものはない事が分かった。番犬は無言で近付いて来る。長い間、夢を見ていた気になっていたが、愚鈍な番犬は今だオルスタッドの側へは来ていなかった。
そろそろと番犬が近寄って来て、オルスタッドの足元へようやく辿り着く。――その一歩。怒りのような何かが爆発的に部屋へ満ちた。
瞬間、番犬が先程では考えられない速さ飛び退ると、いなくなってしまった。
どこかで青い火が灯る。
彼の身の内で激しい炎が燃え盛った。なのに炎はまるで闇を照らす事がない。闇の中で炎は荒れ狂い、オルスタッドを脅かしている。この、けして消えない炎が、身体を凍り付かせているのが分かる。酷く寒々しくて、身体の芯まで犯しているのが分かった。
滲むように白い手が闇に浮かび上がる。白くほっそりとした手だった。手は闇を探っていた。何ものも触れられないはずの闇の中を、白い手が伸びてくる。手は闇を舐め取るようにゆっくりと動いていた。
青い炎が荒れている。
白い手が闇を弄ると、冷や汗が額を流れ落ちた。
――炎が。
これは現実ではない。
手が近付いて来る程、炎はその動きを激しくした。炎と手が互いに呼び合っている。
何故――。
何をしている。
目的は。
――オルスタッドを探している。
これは、いつか見た、青。
そして、差し伸べられたのは――。
高みに立つ子供がオルスタッドを見下ろしていた。手には巨大な岩塊を持ち、赤い液体が伝い落ちる。オルスタッドは子供へ目が釘付けになる。子供が頸を傾げると風が吹いた。
青い双眸がオルスタッドを睥睨する。子供は僅かに低い哄笑を上げ始める。
オルスタッドはいつの間にか、自分の手が真っ赤に染まっている事に気が付いた。
――騙して、傷付けて、無視した。
――無いもののように振る舞って。
――人の想いも踏み躙った。
――邪魔になったら、どうした?
――この、ひとごろし。
自分自身を責立てる声が、止められなくなった。分かっている。知っている。だから、受け取ってくれる。護ってくれる。
そして、気付く。
夢が見られなくなっていた。
子供がいつの間にか平坦な場所にいる。
『可哀想な生き物』
子供が手を伸ばすと、いつの間にか闇を弄る手と重なり合う。はっきり見えるようになると、全身に凄まじいミミズ腫れが彫られたように走っていた。見るだけで痛々しいというのに、本人は全く気にしている様子がない。
『逃げる場所をあげようか』
子供が笑み崩れる。
『夢を見せてあげる』
『終わらない夢を約束しよう』
オルスタッドは言葉に出来ない怒りを覚え、夢の中で、夢を断ち切る様に抵抗する。
――お救い下さい。
――どうか、どうか。
「目を覚ませ、お前の主は業魔だ!」
耳へ直接語りかけられ、オルスタッドは身を竦ませた。彼はいつの間にか再び現実へ戻っていた。荒れた息を繰り返し、周囲を窺う。確かにベッド脇へ子供が立っていたような気がする。だが、誰もいなかった。
穏やかな風がオルスタッドの頬を撫でた。
風で汗がひんやりと冷たい。風に息をつくと、カーテンがたなびいているのが分かった。
オルスタッドは今までとは違う気配がある事に気付いた。誰かが確実に居る。そして、隠す気が全くないのだと分かった。それはあまりに自然だったからだ。地獄の番犬のように鍛え上げられて気配を消しているような、ある種無理をしたような異物感がない。
気配はあまりにも大きくて、それはどこか凍てつくような――。
彼には気配の中心が直ぐに分かり、眼で捉えた。しかし、そこにあるのは余りにも小さい影だった。
「オルスタッド、目を醒ましたな。私が誰か分かるか」
黒い髪に青い瞳。薄闇の中で仄かに灯る双眸がオルスタッドを見つめている。でも、悪夢に見た存在ではないと直ぐに分かった。
その子供は一人立っていた。
「……ヨルムンガンド」
「ヘルレアだ」
「我が死神はこんなにも美しいのか……」
「馬鹿を言うな」
「ずっとお会いしてみたかった」
「奇矯な事だ」
「喜ばしい」
「もうお前の心は半分喰われてる」
「知っています。もう心のどこかが自分のものではないところに居ます」
「分かるんだな」
「今も私の中にいます。私はどうなるのでしょう」
「お前次第だ」
「私、次第?」
「クシエルを受け入れれば、命は永らえられるはず……」
「拒否すれば」
「聞かなくても、そんな事分かるだろう――お前は死ぬ」
「ヘルレアから直接お聞きしたかったので、これで満足です」
「お前はどうする気だ。どちらにしろボンボンの掃除屋に片付けられるぞ」
「このような二択、迷う必要も何もないでしょう――私は猟犬のまま死にます」
ヘルレアが暗く笑う。
「猟犬は、馬鹿ばかりだな」
「光栄です、ヘルレア」
「どうしようもない馬鹿野郎に、私がもう一つ選択肢をやろうか」
「どう言う事ですか?」
「私の綺士にしてやるって事だよ。綺士になれば、損傷は全てなかった事になる」
「そんな事が許されるのですか? しかし、猟犬ではいられなくなってしまうのでは」
「生きてれば何とかなるだろう。ただし、もう二度と普通には生きられないし、何より、人と同じ時間は生きられなくなる。さあ、どうする」
「迷うはずなどありましょうか」
ヘルレアは伏し目がちに微笑む。
ナイフを抜く音がしてオルスタッドは身体を強張らせたが、ヘルレアは手にするナイフを、いとも簡単に手で折ってしまった。
すると真っ二つのナイフから、仄かに青い紋様が滲み出て来て、中空に踊る。それは薄暗がりであまりにも幻想的に灯っている。
「なんと、神秘的な」
「オルスタッド、今私は事情があって綺紋が使えない。綺士を下すには綺紋が必要なんだ。だから、ナイフの綺紋を解いて無理矢理お前に綺述する」
オルスタッドは何を答えるべきか分からず、無言のまま通した。
「もう、これで私の武器はお前だけになる」
「お側におりましょう」
オルスタッドの脳裏にカイムの顔が過る。
――もうあの方のお側に居ても、お役には立てないのだから。せめて、違う道で。
ヘルレアはその小さく白い手を差し出すと、浮かんでいる綺紋が手へ吸い込まれて行く。すると手のひらには、紋様が青く灯って、浮かび上がっている。造形があまりにも精緻で、彼はついぼんやりと見つめてしまう。
「……全部が全部出来損ないで、いい思いはさせてやれないかもしれない。今までよりも更に、過酷になると想像に難くない――すまない、私のオルスタッド」
その声はあまりにも優しく悲しげだった。
オルスタッドは自分の選択が間違っていないのだと、微笑む。米上に涙が一粒溢れる。
オルスタッドは恭しく手を取った。
――ヨルムンガンド・ヘルレイア。
全身全霊を以ってお仕え致します。
つづく




