24.地を統べる神、天与の器なる猟犬
28
綺士と百足が絡み合っている。どちらが押しているのか判断出来ない程、力が拮抗している。
いつの間にか霧が薄くなって来ていた。周りの風景がかなり見渡せる。アデラインに操られている人間が男女ペアで手を組みあったまま静止している姿が、遠くまで延々と見えた。中には子供も混ざっており、通りは人間で埋め尽くされている。おそらくチェスカル達から見えない道路にも、人間が留め置かれている。
――既に村人全員が綺士の手中にある。
早く解放しなければ、アデラインに利用されてしまう。
ルークが人々を見て眉をひそめると、勢い込んでチェスカルにしがみつく。
「副隊長、転化させてください」
「時間は四分だ、守れるのか」
「絶対に決まりは守ります」
「駄目なら射殺する」
ルークは頷く。そうすると彼が、取っ組み合う神獣と綺士へ向けて、何の躊躇いもなく駆け出した。ルークの足元から、金の砂が沸き立ち始める。それは徐々に激しさを増し、黄金の砂が風に巻かれて吹き荒れる。巨大な嵐となってその姿が完全に呑まれた時、あまりにも大きな――体長四メートル程の――純金の犬が現れた。
天犬――。
毛並みはまさに黄金。切れ長の目は人身と同じ水色。口吻は長く、耳は鋭く立ち、引き締まった体躯と四肢、立尾が犬らしい。転化したルークは綺士へ喰らいついた。
――天与の器。
ルークは神々の寵愛を受けたという異能の一つ、獣身転化の持つ稀有な人間だった。
そしてその反面、ヘルレアが人狼と嘲笑ったように、獣とも蔑まれる、複雑な生まれでもあった。
チェスカルとハルヒコは綺士の脳天を、徹底的に撃ち据える。いかな綺士でも脳を破壊されれば知能に異常を来たすようである。
巨大な犬になったルークが、綺士の腕を毟り取る。彼が飛び退ると、今度が神獣が綺士の身体に巻き付いた。硬いものを咀嚼するような重い音が止めどなく上がる。
甲高い綺士の悲鳴が空気を震わせる。不快な音だが、幻覚を呼ぶ事はない。
神獣は幻惑係の攻撃をしなくなっていた。
「この戦いってどこまでいけばメドが立つんでしょう」
「ヘルレアの倒し方は完全に綺紋頼みだった。物理攻撃一辺倒ではどこまで破壊すればいいのか現状不明だ。今は神獣がいるだけ有利だが」
ルークが今度は脚に喰らいついている。純金の強い被毛がどす黒く染まっていく。
――後三分。
「ルーク、攻撃に集中し過ぎるな」
犬が綺士の脚に喰らいついたまま、鼻に皺を寄せ、大きな唸り声を上げる。
「あいつ、大丈夫なんでしょうか」
「まだ、我を忘れるような状態にはないようだ」
綺士が耳に突き刺さる超高音の悲鳴を上げる。ルークがのた打ち回って口に泡を溜める。チェスカルとハルヒコも膝を折って耳を塞ぐ。だが直ぐに、綺士の脳天へ攻撃を再開した。
「ワ、ワワわ、ンちちちゃん達ががが、邪魔くサイ、わね。ニにニににニンゲ、ンはニンゲンどうしで殺りあうといいわ」
アデラインが百足の空きを見て糸を手繰り始めた。
舞踏していた男女が手を一斉に離し、チェスカル達へ向かって押し寄せて来る。
「銃は使うな普通の人間だ」チェスカルは痛みで頭を振る。
チェスカルとハルヒコはふらつきながらも、体勢を整えて向かい打つ。
チェスカルは襲って来る村人が、なるべく怪我を負わないような体術でいなし続ける。ハルヒコはさすがに対人における格闘が得意なだけあって、軽く受け流せていた。だが、避けても避けても、切りがない。更におそらく気絶させようが、操られている為に意味がないだろう。これでは、猟犬達の体力ばかりが削られていく。
チェスカルは糸がなんとか切れないものかと躍起になって、ダガーを空間に振るってみたが、やはり一切実体化していないようで、何も手応えがなかった。しかし、実体化していてもダガー程度では糸を切断ないのは、先程確認済みだったのだが。
チェスカルは懸命に考える。
外法の捕縛術は媒介や術式の記述を頻繁に用いる。ミラの肩口あった百足と名前の入墨“刺繍”を切除出来れば、術が解ける可能性がかなり高い。だが、切除する方法がそもそも無きに等しい。攻撃を仕掛けてくる相手の肩口を、正確に切りつけえぐり取るなど、幾ら優秀な影の猟犬でも、危険過ぎて出来ない。たとえもし、術を解除出来たとしても、後に失血死させてしまうだろう。
チェスカルはルークをちらりと覗う。先程からルークの攻撃が見境なくなり始めていた。恐怖心というものを喪失して来ている。そろそろルークを人身に戻すべきか。制限は四分といえど、それは、時と場合による。敵が強くルークが夢中になればなるほど、取り返しがつかなくなってしまう。
「ルーク! もう限界だ戻れ」
天犬は猛烈な勢いで綺士に攻撃を続けていて、チェスカルの声が耳に入っていないようだった。猛り狂い始めている。
「不味いぞ」
「この馬鹿猟犬止まれ、撃ち殺させるな!」ハルヒコが叫ぶ。
ルークの猛攻で綺士は完全に押されていた。その空きを突いて百足がアデラインを完全に捕らえて、締め付け始める。骨を折るような重い音が止めどなく響き渡る。
さすがの綺士も呻いている。
「……いやよ、痛いわ。こんな畜生共から、いいようにされるなんて。悔しい、赦さない。もう、いい。もういいわ――皆、殺してやる」
百足に巻き付かれている綺士が、大きく身体を揺する。まるで木の幹が折れるような音がすると、血が百足の身体から吹き出した。
神獣が攻撃を受けたのかと思いきや、百足に何の変化も起こっていない。そうすると、綺士に巻き付いた百足の身体に出来た隙間から綺士の腕が生えてきた。
「腕を出す為に身体を自切したのか」
綺士は新しく生えた腕を大きく広げる。すると、チェスカルとハルヒコへ襲いかかっていた人間が、勢いよく中へ飛んで行った。上空を見ると、数え切れない程の人間が束になって一箇所に集まっている。チェスカル達がいる場所は、完全に翳りの中に置かれた。
チェスカルは何が起ころうとしているのか、一瞬で分かった。
――ああ、駄目だ。動作が追い付かない。
「みんな、お疲れ様!」アデラインは狂喜を孕んで哄笑する。
弦を弾く一際巨大な音――。
チェスカルはまるで、自分が低速の世界へ落ちてしまったのだと思った。大量の血液と肉片と臓物が、上空から殺到して来たのだ。その重みにチェスカルは俯いた、立っていられず脚が崩れる。血と肉の臭気に吐き気を催して、知らず知らのうちに口を覆っていた。
凄まじい豪雨が降るような濡れた音は、永遠に終わらないかのように錯覚してしまう。
だが、その中でも酷く悲痛な鳴き声が聞こえる。チェスカルは一瞬で、その鳴き声が神獣のものだと分かった。
ようやく血肉の雨が止んだ時、誰もが崩折れていた。皆、赤いどころかどす黒く、ハルヒコやルークどころか、チェスカルも動けなくなっていた。
何かを噛み損ねたような音を出して、綺士が神獣の束縛から開放された。神獣は明らかに呆然としている。人間のチェスカルにも分かった。あの無機質にも感じる百足の神には、人を慈しむ心がある。
「――ああ、すっきりした。今度こそ本当にお掃除しましょうか。ねえ、皆様」
綺士の身体が傷一つ無く再生されていた。
――あの綺士はかつては人だったのだ。
異形である百足の神すら、人を思う心があるというのに。
現実の理不尽さ、残酷さにチェスカルは叫び出したくなった。そして、自分の無力さ、無能さを、ただ謝りたい少女がいた。
綺士へ銃の狙いを定める。
「……ハルヒコ、ルーク。まだ、動けるか」
「動けます」ハルヒコが頷く。
ルークが攻撃の体勢に入っている。
「ルーク、もう人身に戻れ」
ルークがチェスカルを不満気に見ている。しかし、チェスカルが頸を振る。そうすると、ルークの獣身は金色の砂となって溶け、涙ぐむ人身のルークが現れた。
唐突にアデラインがチェスカル達を見る。
「あら、あなた達は……運命というものに寵愛されているのかしら。ごめんなさい、お呼ばれしてしまったみたいなの」
「何を言っている」チェスカルはいつでも撃てる態勢にあるが、綺士の言葉を遮れなかった。
「私が使う糸っていうのは、象徴として扱われ易いわ。先程言った運命がそうね。ノルニルが紡ぐ糸は運命を定めるものなのよ。そして“女達”もまた、采配と称して、己が望むように世界のモノゴトを動かしていく。それは人間が抗えない以上、運命とも言えるのではないかしら。案外、“女達”はその伝説にあるノルニル自身なのやもしれないわね」
アデラインの姿が影のようになると、白衣を羽織った女が現れた。
「そう、そしてそんな“女達”が動かすモノゴトはね、小さな流れから全てが始まるの。それはいつしか本流となって、双生児の勝敗を決めるわ。全てのモノゴトは馬鹿らしいくらい、ご都合主義的に進むのよ――おそらくあなた達は小さな流れ以前、水滴のようなものかしら」
女は可愛らしく微笑むと髪を払う。
「だから今は殺さないであげる――今まさに、あの方が私を呼んだ、だから私はあなた達を生かす、この世界は君達三人の死を望んでいないのよ。楽しみね、また会いましょう……私の素敵なチェスカル」
アデラインは一人で納得しているようだった。
綺士は鼻で嘲笑う。
「では、ごきげんよう、血塗れのクソ猟犬共」
アデラインは一瞬で消えてしまった。そして、神獣もどこにもいなかった。
ルークが血と肉片にまみれてすすり泣いている。ハルヒコも血と臓物の泥濘で、動けず座り込んでいる。チェスカルもまた身体が言う事を聞かなかった。
終わった。
終わってしまった。
何も出来なかった。
何一つとして救えなかった。
ブドウちゃんに村へ帰れるようにすると、約束したというのに――。
「……あの神獣、死にます。消滅する。なので、村も消えるでしょう。庇護の無いこの土地はもう駄目だ」
ルークがうわ言のように喋っている。
「ブドウちゃん待ってるな……」
「せめて結果だけでも、責任を持って伝えて帰ろう。それが私達に出来るブドウちゃんへの誠意だ」
29
さすがのチェスカル達でも血塗れ臓物塗れ、服ズタズタの傷だらけでは、外界には接触出来ず、心苦しさはありつつも、身綺麗にする為に民家の水道を借りる事にした。車に戻れば着替えがある為、いくらなんでも住民の服を借りる事はなかったが、身体を清潔にした後、血肉に汚れる服をもう一度着るのは辛かった。チェスカルとハルヒコの様相といえば、上は肌着に下はズボンという、酷い有様で、更に言えばルークはもっと酷く、ズボンだけで歩いている。
電気水道はミラの時と同じように問題なく通っている。あのアデラインという綺士が完璧な人形劇を行っていたのは明らかだった。
水道を借りた家を出る。ハルヒコが民家へ振り返ると深く深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ルークがハルヒコを真似てぎこちなく頭を下げた。自然、チェスカルも頭を垂れる。頭を深く下げるという礼の取り方に慣れていないので、その所作が正しいものなのかは自信がなかったが、相手へのこれ以上ない謝罪の気持ちが、伝わるようにと願った。
皆、無言のままだった。
そうして妖樹の森を貫く道を徒歩で進み続けると、オンボロ自動車が三人の眼の前に現れた。来た時と同じように座席に着き、森を離れるのだった。
病院の自動ドアを入ると一斉に視線が集まってくる。チェスカルとハルヒコ、特にチェスカル自身へだが、視線が突き刺さるようだった。チェスカルは当たり前だが服は着替え直している、しかし、アデラインに糸でズタズタにされていて傷だらけだった。それを、乱雑な手当てでもって人前に出て来たのだから、見たくなくても嫌でも目に入ってしまうだろう。
「診察を早めにしてもらいますか」
受け付けの女性がチェスカルをまじまじと見ている。
「いえ、受診をするわけではありません。面会をしたいのですが。数日前、保護された子供と面会した、泰西民間軍事保障の者です」
「失礼しました。直ぐにご案内致します」
少し待っていると案内の看護師が、チェスカル達を見て驚いていた。その看護師は軽く礼をすると、ブドウちゃんの部屋へ案内してくれる。
エレベーターに乗った。
「……ブドウちゃんはずっと待っていました。もうあの子は帰れないのでしょうか」
「力が及びませんでした」
今のチェスカルには、これ以上の言葉は許されなかった。猟犬が人へ語るべき物事は本当に少ない。
エレベーターが開くと相変わらず賑やかな子供達の声が響いている。ブドウちゃんの部屋をノックして開くと、ブドウちゃんは廊下を覗き込むようにしている。チェスカル達を見留めたと思うと、裸足でベッドからおりてチェスカルに縋り付いた。チェスカルは溢れそうになる言葉を呑み込んだ、その瞬間、ブドウちゃんは一筋の涙を溢した。そうしていると、声の無い涙を止めどなく溢れさせた。
――この子は気付いてしまった。
――本当はとても敏い子なのだろう。
チェスカルはどうしようもない、やるせない気持ちを抱いて、ブドウちゃんの目線の高さへ屈んだ。そうすると、ブドウちゃんはチェスカルの傷だらけの頬を優しく手で包んだ。何度も何度も頷いてから、口を動かした。
……ありがとう、ありがとう。
……ごめんなさい。
チェスカルは自分の心を乱さないようにするので精一杯だった。少女の思いやりがあまりにも傷を抉るようだった。
「……ブドウちゃん、私達では村を救う事は出来なかった。約束を守れなかった」
ブドウちゃんは頷いた。チェスカル、ハルヒコ、ルークをしっかり見つめると、その泣き顔は懸命に微笑みを作ろうとしていた。
これ程大人びた優しい少女を、チェスカルは見たことがなかった。
――願わくはもう二度と会わないことを。猟犬などに一生関わりませんように。
この子は孤児となってしまった。誰かよい義理の両親に迎えられればいい。
長くはブドウちゃんと面会していられなかった。チェスカル達は病院を出て車に戻った。
ルークがまた泣いている。珍しくハルヒコも静かに泣いていた。チェスカルは泣けない自分を酷く卑しいもののように感じた。血というものは本当に心を蝕んで行くのかも知れない。もうチェスカルはどんなに身体を清めようとしても、染み付いた血を落とすことは出来ないのだと分かっていた。
――ならば、せめて。
チェスカルはうっすらと微笑む。
幸福を祈り続けよう。
名前の無い穢れた猟犬から。
名前を持つ君へ。




