22.呪縛の刺繍 猟犬の戒め
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そよ風が柔い薄茶の猫っ毛を遊ばせ、目を閉じる彼の頬も、また風がくすぐっている。はっきりと彫りの深い顔立ちではなく、どちらかというと穏やかな印象を与える眼鼻立ちなのだが、彼独特の強張ったような仏頂面が、優しさを欠いてみせた。
彼は事務机についていて、部屋には彼以外誰もいなかった。
彼は、自分専用の事務室にいる。
それ程広い部屋ではなかったが、必要十分な条件は満たしている。そこは影としての業務を円滑に行えるよう与えられた一室だ。勿論、館に設けられた一室なので、事務室と言うより、どちらかというと古き良きアパートメントの様相を呈している。
彼がぼんやりと眼を開く。
――何故、風が。
――珍しく居眠りをしていたのだろうか。
自分の些細な失態にため息をつく。
――仕事をしなければ。でも、何の?
ああ、自分はすっかり呆けてしまったのかと顔を拭う。
机の書類が目には入り、確認すると主へ提出しなければならないものだった。彼は書類を片手に、急いで部屋を出ると執務室へ向かう。
執務室へ通じる扉の前で伺いを立てようとした時に、扉が唐突に開いて、書類が彼の足元を舞う。すると、目の前にいる男性が屈んで書類を集めている事に驚いた。彼自身も急いでそれに加わる。主を屈ませた上、ぶちまけた書類まで拾わせていたのだ。
「あの……さま、申し訳ございませんでした」彼は思わず口を噤む。何かを言いあぐねたような。
「どうした? 珍しくぼんやりとして」
「先程、何をしてたのか忘れてしまって」
「大丈夫か……、疲れているんだろう」
何故か音が聞き取れない部分があったが、自分の事を言われているのだと分った。
「面目ないしだいでございます」
「休暇でも取ったらどうだ。お前全然休んでいないだろう」
「いえ、仕事が生き甲斐ですから」
「過労死されても困るからな、……の代わりなんてそうはいないと思うぞ」
「もったいないお言葉でございます」
主と執務室へ入ると、書類確認を願う。書類を丁寧に主は読みながら、独り頷いている。そうしていると、大雑把なノックの後、勝手にドアを開けて顔を出したのは隊長だった。
「お前等、暇そうだな」
「そのような事があるわけありません」
隊長が豪快に笑いながら入って来る。
「お前も暇そうだな」主が隊長へ笑いかけ、書類の整頓をしてから、彼へ手渡した。
暇そうと、問いかけ合う挨拶が持つ、意味の切なさに微かに目を伏せる。何事も無くいられる今を確かめ合う言葉。数分後には死に別れるかもしれない相手への、精一杯ユーモアを込めたやり取り。
主と隊長がソファへ向かうと、座って談笑を始めた。
穏やかな笑い声と、ざっくばらんな笑い声に彼は密かに微笑む。こうして僅かな休憩時間をみつけると、二人はよくお喋りをしている。彼はその時間に、ただ寄り添うのが好きだった。まるで今この時だけ、自分を取り巻く世界が、優しさに満ちているような気がするのだ。
「……、暇だろ。少しは休め」隊長がソファを遠慮なく叩いている。
――隊長、そのソファは、私達の給料何ヶ月分だと思っているんですか。
つい、心の中で本音を述べる。
「……にお茶を入れてもらおう。……も座ってくれ」
「では、遠慮なく」
「そうだ、……休暇を取らないか。この書類にサインしてくれ」主が低卓へ紙を差出す。
「いえ、私は」
腹の底を揺さぶるような重低音が聞こえる。彼は弾かれるように気付いて、周囲を見回した。
何か巨大な生き物の鳴声。
主人と隊長は何の反応も示していない。彼は手元の書面を見るが何故か読む事が出来なかった。
何かが苦しむような悲痛な鳴き声が聞こえる。
――これは何なのだろうか。
もう一度焦点を合わせようとすると、今度は簡単な手続き書類だというのが分かった。
彼は氏名欄へペンを走らせる。
――チェスカル・マルクル。
チェスカルは転がり落ちるような、感覚に捕らわれると、地面にうつ伏せで倒れている事に気が付いた。
「さあ、綺麗に刺繍してあげるわ、チェスカル・マルクル」
アデラインは糸を高速で引き寄せながら、中空に一抱えもありそうな図案を組上げていく。百足の姿が見えて来ると、ほぼ同時に――チェスカル・マルクル――という名が装飾的な書体で表れる。
アデラインが刺繍と呼ぶものが、完全に形を取ると両腕を振るような動作をする。そうした瞬間、刺繍は姿を消してしまった。チェスカルは周囲を警戒して見ていたが、そのまま何も起こらず、アデラインは手を大きく振るばかりだった。
「何故? これも偽名だというの」
「初めからお前になど、名前をやるわけがないだろう」
「どうして幻の中で偽名など騙れるの」
「好きに考えるがいいさ」
「けれどチェスカル、あなたは何て惨めなんでしょう。あなたが見た夢はあまりにも空っぽで、ゴミクズ同然ね」
チェスカルは小さく笑い出すと、我慢出来なくなって吐き出すように大笑いする。これ程おかしくて笑うのも久し振りだった。
「もう、そうなっては他者の心も分かるまい」
「そうか……そうね、気に入ったわ、チェスカル。今までよりも更に、あなたが欲しくなった。あなた達からは何一つ、誰の名前も引き出せなかった。驚いたわ、化物のよう」
ハルヒコが鼻で笑う。
「化物に化物と呼ばれる日が来るとは思わなかった」
「そうだわ。もしかしてあなた達は本当に人間ではないのかしら。隠喩でも蔑称でも隠語でもなく、本当に猟犬なのね。なんて悍ましい人間もいるものか。お前等、主と名乗る恥知らずに、名前を取られたのだろう。畜生以下の存在に堕とされて、飼われ続けているのか。何たる憐れ。のうのうと主を名乗り続ける、文字通りこれ程の外道がいるとは……」
発砲音と共にアデラインの額に穴が空く。
チェスカルとハルヒコが、霧の中にある狙撃位置を思わず追う。
「他人の家の御主人様への悪口は、その辺にしとけよ。ゲテモノ」
ルークが険を含んだ表情で現れる。
「ようやく来たか」チェスカルがため息をつく。
「そもそも、探してくださいよ」
「お前は探しても絶対に見つからないだろう」ハルヒコが飽きれたように頭を抱える。
「あら、失礼ね、ヒトの話しは最後まできちんと聞くものよ。奴隷以下の畜生にも劣る穢らわしい肉人形」
「よくもまあ、色々罵倒の言葉が出てくるものだ」ハルヒコは飽きれているよう。
「あなた達、心まで喰い付くされているでしょう。主に慰めとして求められたことはないかしら。とても可愛がってもらえたのではなくて? それはそれは、嬉しかったでしょう、心も身体も縛られているのだから」
「相変わらず下品極まりない奴だ」
「ぶっ殺してやりたい――でも、副隊長、ひとまずここから逃げますよ。解放して来ましたから」
「何の事だ?」
「捕まっていた土地神を逃して来ました。めっちゃ怒ってる」
「あなた、何を言って……」アデラインが糸を操作している。
「お前自分が幻覚に陥っている事に気が付かなかったみたいだな。ずっと捕まえている気になっていた」
「そんな……そんな事が、あるわけない。あんな化物を猟犬如きに触れるはずが」
巨大な重低音が空気を震わせている。肌がちりちりと微かに痛い。
――これはあの幻の中で聞いたはず。
金属が細かく擦れ合う音が、近付いて大きくなってくる。
「直ぐに来ます。早く逃げましょう。相手は神です。何をするか分からない」
「人々が……」
低く重たい一声が上がる。声へ視線を転じた瞬間、巨大な黒々とした百足が身を起こした姿で現れる。綺士よりも確実に大きい、体長は優に六メートル。
「ヤバい、もう来た」
綺士が停止する人々を一斉に下がらせ、広場を作る。明らかに綺士も迎え撃つ体勢を整えている。
建物の窓ガラスが百足を中心に割れ出した。音波のような存在に、気付いたと同時にチェスカル達は倒れ伏す。ルークはのた打ち回っている。
綺士がに突進すると百足を組み伏せようと揉み合っている。
「せっかく捕まえたのに……幻惑の王」
歌のような音が大気を震わせる。
――鼻歌。
チェスカルは頭の中が明滅して、思考という行為を失った。吐いて、吐瀉物に喉を詰まらせそうになる。
苦しい――。
ただ頭の中を弄る不遠慮な手があった。
息を吹き返すと、唐突に主の手が頭を抑え付けていることに気が付いた。その手はあらゆる尊厳を奪う手付きで、屈服を求めている。彼は小さくなって座り込んでいた。周りは何もない闇だった。
「……、お前には期待していたのに」
主の声色から落胆と諦めを感じ取った時、彼の口からは何も出て来なかった。
――不興を買ってしまった。
汗がうっすらと浮かんでいる。
「猟犬は幾らでもいるんだよ。忘れたのかい?」
主は小さく嘲笑う。
「ああ、……達ではなくて、お前が死ねばよかったのにね。猟犬って主に見棄てられるのが一番恐いんだろう。さて、今はどのような気分かな?」
主は優しい笑顔で彼の頭を撫でる。ペットを撫でるような、酷く優しい手付きだった。触れる手は喜びを喚起させるのに、押し付けられるような暗い感情に、視線を動かす事も出来なかった。
彼は何も言えない。身体が震えていた。自分自身でもよく分からないくらい恐ろしかった。
「可哀想な猟犬。仔犬みたいだね。親に見棄てられるのが、そんなに恐いのかい」
これは親に棄てられるような恐怖だけなのだろうか。もっと違う。もっとずっと、生きる事を否定されるような。存在そのものを侮蔑されるような苦痛が根底にあるような。
彼は迷う。言葉が出て来ない。主が問いかけて来ているのだ、早く答えなければならない。
「……お赦しください、今まで以上に、もっとお役に立ちますから」
「残念だな、それは当たり前の事を、今までしていなかったてことかな」
「違います、違います――どうか、お赦しください」
「あらら、語彙が無くなってしまったね。いいかい、僕は無能が嫌いなんだ。ゴミのような畜生にも劣る猟犬なぞ、何の存在価値がある。何の為に捨身の供物にしてやったと思っているんだ」
彼は身体を支え切れず崩しそうになると、主が頭を鷲掴みにした。
「動くな。誰が動いていいと言った」
その強い声に、彼は息を詰める。身体は一切の動きを止めて、瞬きすら出来なくなった。
主は腕を組んで彼を見下ろしている。穏やかな緑の眼が微笑む。
主が彼の眼前で指を数回鳴らす。
「僕の言葉一つで身体も自由になれないなんてね。酷く滑稽だ、愉快ではないか」
チェスカルは頭が真っ白になっていた。思考する方法が一切分からなくなっていのだ。主は内面すら掌握している。
「愚かな……、身体を楽にするといい」
彼は大きく呼吸を繰り返す。玉のような汗が額から頸へと伝う。
「僕の愛する穢らわしい猟犬、そろそろ終わりにしよう」
頭が真っ白のままだ。動く事が出来なくて、ただ主の為すがままになっているしかない。苦しくて、苦しくて。
息ができなくなりそうで――。
棄てないで。どうか、嫌わないで。
――あなたの為だけに私はいるのだから。
「では、死んでくれるかな。目障りだ。もう、二度と僕の前には現れるな」
彼の顔に脂汗が滲む。身につけているダガーを抜くと、首元へ持って行き、引き裂こうとした瞬間、重低音が轟き、彼はダガーを落とした。
チェスカルは現状を正しく捉えられた時、あ然としていた。チェスカル達三人は無防備にも地面に転がっている。遠く離れたところで綺士と百足が組み合っていた。
自分自身の思考に理解が及ばなかった。カイムに威圧された時の悲しみと苦痛を思い、胸を掻き抱く。必要無いと言われて、自害する事も厭わなかった自分。
あまりにも拙く幼い感情の動きは、一体どこから来るものなのか。
ルークがチェスカルの隣で、めそめそと泣いている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
チェスカルは背筋が寒くなる。彼はルークと似たりよったりな事をしていたのだろう。
――これが猟犬の性か。
猟犬に枷られた究極の戒め。それは、主への忠誠など美しいものではすまない。依存、畏敬、固執、愛慕、そして限り無い恐怖。主という絶対的存在に服従し、下僕でも奴隷ですらない、身体どころか心すら捧げた捨身の供物。
駄目だった。主から負の感情を向けられる幻覚だけには、逆らえなかった。
ステルスハウンドに固着する猟犬達の歴史は、虐待と苦痛、性愛と死にまみれている。
それでも主を愛さずにはいられない、猟犬の悲哀。
現当主の穏やかさに、チェスカルは遥か遠くから感謝を捧げる。
ダガーを鞘へ納めると、ルークを現実へ戻し、銃を手に伏せる危ういハルヒコを立たせる。
ルークが吐き戻してしまった。ハルヒコも気分が悪そうだ。
ルークがまだ潤んだ眼で顔を上げる。
「鬼畜な、カ……」
「あの方の名前は言うな――」ハルヒコの顔は真っ青だ。
「あれは百足の能力なのか? 確か先程、幻惑の王と綺士が言っていたな」
「……そうです、あの神は生物へ幻を見せます」
「幻の質が何か違うな」
「あれ、さっきの怖いのは多分、綺士への攻撃に巻き込まれたんだと思います。その生物に取って最も苦痛を伴う意識を引き出すような、攻撃的で強力な幻覚を見せた」
「神の目的はなんだ」
「あの百足は土地を統べる神獣です。付き合い方を知っていれば、人間に害悪だけをもたらす荒神ではありません。なので土地を荒らしている綺士に対して凄く怒ってる」
「護っているというのか」
「そうです。土地にはその場所に棲む者も含まれますから、神が勝てば村人は助かると思う」
「百足と綺士の戦いに、俺達は邪魔になる可能性は?」ハルヒコが髪を掻き上げる。
ルークは一瞬迷いをみせる。
「俺達の攻撃力は有用だと思う。でも、俺達自身が幻覚に対処出来ない場合は――自分達が死ぬだけ」




