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1.死の王

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 無数に瞬く光が、夜空の底一面に広がっている。空は光に食い潰されて星の輝きはなく、濁った薄闇が垂れ込めて、赤い航空障害灯がでたらめな一番星のように、幾つも散っていた。窓から見下ろす街は、人々の営みが存在することを確かに示している。光は静止することなく、蝋燭のように揺れ、あるいは流れ去りを繰り返した。ビルの谷間に車が光の列を作り、大蛇のようにうねっていて絶えることをしらなかった。

 男は窓辺に立ち尽くして、流れ行く光の帯を眺めていた。彼が幼い頃から、ほとんど変わらない光景だ。彼は幼い頃、よく父親に連れられて、執務室の窓から街を眺めていた。消えることなく輝き続ける眼下の星々は、どれだけ長い時間見続けても飽きることがなかった。

 褪せたような金髪の若い男だった。柔らかく緩く巻いた短髪はワックスで固められ、斜めに流れる前髪が細い眉にかかっている。濃緑の瞳は、壮年を迎えたばかりの瑞々しい樹葉を連想させた。細い顎が頼りなげで、少年のようにさえ見える容貌だった。

 彼はいつも背広に、皺一つないワイシャツとネクタイを締めている。ベストを着るのも習慣付いていて、その三つ揃え姿はどのような場所でも変わらなかった。知人は、彼のどこか時代錯誤な装いを年寄り臭いと言ったものだが、彼の半生においての着衣は常に変わることがなかった。彼の一族は高価な特注品の背広を、代々同じ店で仕立て続けている。

 彼は窓辺から離れると、父から受け継いだ机の椅子に身を沈めた。窓を背にして置かれている木製の机は、かなり大型である。まるで王の墳墓として作られた一室に、石棺が置かれているかのような佇まいだ。机の縁には蔦が絡まり合う意匠が施されており、二匹の蛇が互いの尾を食らい合う姿が無限大の形を表して、一つ配されていた。カイムの父親もまた、その父親から譲り受けたのだと彼は聞いていた。彼は所在無げに、机上のファイルを繰る。

 その男は、通称“ステルスハウンド”と呼ばれる組織の代表、カイム・ノヴェクであった。

 深夜過ぎの個人用執務室である。ステルスハウンドにおいては、元々人の出入りが激しい部屋ではないのだが、現在カイムのいる階層は人払いしているので、彼以外に人は居らず小綺麗な廃墟のようであった。

 ――処刑を待つ気分は、このようなものか。

 どれだけ手元の紙面に集中しようとしても、頭の中で繰り返すのは胸の悪くなるような台詞ばかり。言葉を探している。自分が一番傷つかない言葉を。取り繕わなければ、向き合うことさえ出来そうにない。

 ――おぞましい。

 それは自分に対する言葉なのか、これから向き合わねばならない相手に対する言葉なのかが、今一自分でも分からなかった。ただ、自分がこの世で最も忌むべきものの一つに、頼り、身を任せなければならない、その事実が何より自分の弱さを象徴していて、どうにもやるせない。今までの全てが無価値であったと、否定するようなものだ。

 人、時間、思いを全て置き去りにしてきた。それが無意味であったと言わねばならない屈辱。これは、彼を信じて共に戦って来た者達への裏切りなのだ。もう、既に引き返せないところまで来ている。

 長い間一人で過ごしていた。彼が人を払ったのは日が暮れる大分前の事だった。何も口にする気が起きず、水差しも用意された時のまま水をたたえている。静かな夜だった。それは、どこか雪の降りしきる生家の庭を思い起こさせた。まっさらに何もかもを覆い尽くすような。

 静寂の中で電話が高らかに鳴り響いた、カイムは夢から覚めたような思いで受話器を取った。

 覚悟は出来ているはずだ。何のために長い月日を費やしたのか。

「通してくれ。話が終わるまで誰も部屋に近づけるな」

 受話器を置くと、再び部屋は静まり返った。嘆息が漏れた。これから戦わなければならない。孤独な戦いだ。頼れるものはない。言葉を誤れば命はないのだから。

 今までの抗争に、一つの終わりが迫っている。区切り、変化によって次代の闘争が始まろうとしている。

 どれほども待たずに扉が開かれた。伺いのノックもないままに、どこか投げやりに一人の子供が部屋に入ってくる。群青の外套を羽織って、フードを深く被っているので顔は窺えないが、フードの(かげ)りに青い蛍火が幽鬼のように揺れているのが見える。

「何が欲しい」

 静かで、それでいて強い問いかけの声だった。説明も、釈明も受け付けない。

 絶対的な力と、自信に満ちた怪物の王。この世界で、存在するのは一対のみ。“向こう側の女達”の血を引く双生児の片割れ――そして、同時に今だに寄る辺を持たない孤独な王でもあった。

 唐突な問いかけに、カイムは何も答えられなかった。ただ、その姿を見つめ続けることしかできない。カイムより頭一つ以上小さく、折れそうな程に細い子供が、淵に凝る闇そのもののように思えた。暗い部屋の中で、子供は確かな存在感を放っている。何がどうと言えるわけではなく、ただただこの世の全てを拒絶しているような、あるいは全てを呑み込んでいくような。ひどく抽象的な言葉でしか、表現できないものを備えているのだ。

「……とにかく、扉を閉めて頂きたい」

 馬鹿なことを言った、そう思った。ここに来て第一声が、何の意味もなさないものになるとは。

「この階には私達しか居ないのだから、扉を閉める意味はないのでは」

「形式的なものと受け取ってくれればいい。聞いているとは思うが、僕はカイム・ノヴェクという。猟犬の棲家へようこそ。王、ヘルレア」

 ヘルレアは素直に扉を閉めて、自分からソファの一つに深く腰掛け脚を組んだ。カイムが向かい側のソファに座ると、ヘルレアはフードを落とす。若い。年齢的には十代半ば。

 顕になった黒髪は前髪を作っておらず、全て編み込まれ結われて挙げられている。

 幼さが残るヘルレアの顔は血色がまるで見られず、青くすら見える白い顔は人工物の様に整っていた。輪郭に凹凸がなく顎が小さいので顔が小さく見える。眉骨に高さはあまりなく、眉は細く流れるようでいて、睫毛の豊かな青い目が、見る者の視線を捉えて離さない。とにかく、その瞳は人間離れしている。常に淡く光を帯びているようでいて、その青い瞳は深く濃い。

 顔の構成要素に難がなさ過ぎて、特徴がまるでない。およそカイムの知る人間の誰とも当てはまらなかった。

 ――この顔を見るのは二度目になる。

 カイムはヘルレアから視線を外した。

 ヘルレアは気のない様子で部屋を見回した。

「警備兵さえ居ないのだな」

「あなたが本気で僕を殺そうと思ったら、どんなに精鋭の警備兵であっても用をなさないのだから、いっそのこと誰も置かないほうが、話の邪魔にならなくてよいでしょう」

「私には自暴自棄な考えにしか思えないけれど」

「その言いようは、おおむね正しいでしょう。確かに僕は、自棄になっているのかもしれない。あなたを探し出し、こうして招いているくらいなのだから。――ノイマン会長が亡くなった今、協定は破棄されたに等しい。あなたを見つけ出すのは以前より容易くなっていました」

 協会員が数万にも及ぶ巨大組織、ライブラの会長であるノイマン・クレスが死亡したのは、数ヶ月前だった。ヘルレアの庇護を全面的にしていたのは会長であり、協会組織内外からの強い圧力からも守り続けていた。それ故にノイマン会長の死以前、カイム等も他の組織同様にヘルレアとは一切接触が取れなかった。

「ノイマンの死で、近頃、私に接触を取ろうとする者達の動きは激しくなっていた。やはり、彼の存在は大きかった。協定のお陰で、私は今までかなり自由に動き回れていたから。このまま期限(﹅﹅)までやり過ごそうと考えられるくらいに。でも、今になってこの終わりも近い時に、死んでしまうなんてね。采配と言う他はないみたいだ」

「僕にはノイマン会長のお考えは理解できない。あれほど必死になって探した幼少のあなたを、今まで何をするでもなく、現在まで理由も公表しないままに、自由を保証していたなどと。会長が亡くなっていなければ、本当にあなたの死を持って終わりになっていた」

「――見誤ればあらゆるものに先はないと、ノイマンはよく分かっていた。分かるからこそ、私を自由にしたあの人の手腕には、恐ろしいものがある。人でありながら目先の正しさに囚われるのではなく、先を、先を読み続けて。私をここまで連れて来たのは、お前ではなく、紛れもなくノイマンだ」

「彼は現状の全てを了解済みだと?」

「“女達”の采配を侮ってはいけない。全く関係のないところから、自らの望むように事態を波及させる。会長の死と、私の気紛れは双方の思惑が複雑に効果した結果だ。私は言ったはず、この時期に会長が死ぬのは采配だと。この偶然を作り出すために、何年も前から水面下で動く者達がいた」

「僕は無能で、愚かだった。暴力を振りまく片王(こども)の姿さえまともに見られないまま、現在まで来てしまったのです。それも、采配だということですか? 何年も費やして、何も得られず、失うばかりだった。既に、形振り構っていられなくなってしまった。あの片王は、苛烈にすぎる。――あなたを失えば、次はない」

「ふらふらと人間のように生きてきた私ならば、お前たちの意に沿う存在になると?」

「少なくとも、あなたは僕達の知る限りでは、人間へ暴力をもたらしたことはない」

 ヘルレアは引きつるような小さな笑いを零した。

「……ノイマンが私を自由にしたのは、私に人への支配や破壊以外の興味を与えるためだったのだろう。あの男は、誰よりも破滅的な人間だった。白と黒、両極端の危険な賭けにでたのだから」

「それが事実なら、ノイマン会長は賭けに勝ったということですね」

「どうだろうな、まだ結果など出ていないのだから。ただ、言えることは私が満足しているということだけ」

 満足している。カイムは、その言葉の意味するところが真に、ノイマンの意図通りに物事が働いたのだという証のように感じた。死と破壊、あるいは支配。おそらくそれが全てであるはずの双生児に、経験や知識でもって与えたものは大きかったのだ。それは、しかし同時にヘルレアの遠くない死を孕んでいた。双生児の生そのもの、本能とも言える根幹を脅かされたに等しいヘルレアは、もはや生に対する執着がなくなっているようだった。

――人倫に縛られた無意識が、王を蝕んでいるといってもいい。

「あなたは、生きることを望まないのですか。その子供のままの姿で、性も得ずに死んでいくというのですか」

 双子は性別を持たない。事実、カイムの前に座るヘルレアは、十代半ばにしてはすんなりとし過ぎていた。身長は年齢相応にあるが、その体は性差が現れる前の子供にしか過ぎなかった。

「死にたいわけではない。けれど、生きたいと思うわけでもない。ただ、あえて言うなら面倒なだけ。自棄になっているのは私の方なのかもしれない。どちらにしても、私にとっては選びがたいものが多すぎる」

「……あなたは人の、僕の言葉を聞いてくださる。もし、人の目線に立つこともできるなら、人の嘆きが聴こえませんか。叫ぶような、縋り付くような生きたいという願いを聴いたことはありませんか。あなたなら、その手一つで多くのものを変えられるかもしれないというのに、面倒だからと、おそらくあなたが今まで得たであろうものを、全て捨ててしまえるのですか」

「私は捨てられる。そういう生き物なのだろうと思う――でも、理解もできる。嘆きが聴こえないわけではないから」

「ならば、生きるという選択をしてはくださいませんか。あなたの死は、あまりに多くのものを奪いすぎる。少しでも命を永らえる意思があるならば、僕らは協力を惜しみません」

(つが)いを与えてくれるというの」

 ヘルレアは声高く笑い声を上げた。

 双生児の寿命は短い。既にヘルレアは、十代半ばにして死期を迎えつつあった。しかし、唯一双生児を永らえさせる方法がある。人間を番とし、自らの巣を作るのだ。性を生まれつき持たない王は、人間の男女双方ともに番いになることが可能だった。人間の性に合わせて、王は性を選ぶ。

「私がこのまま伴侶を持たなければ、本来の闘争が始まる前に全て終えられるというのに、生き長らえさせてどうするというの。いつ終わるともしれない争いを本当に始めると? それで何の意味がある。お前たちの嫌う、余計な犠牲者を増やすかもしれないというのに」

 ヘルレアがこのまま死んでしまえば、もう一方の王が人間社会を支配することになる――あの、暴君が。

「それでも、あの片王を絶対に勝たせるわけにはいかないのです。あなたという牽制する者を失えば、後はもう、なし崩しにしか事は運ばなくなる。あなたが人の世をさまよっている間、あの片王は既に多くの犠牲者を出している。このままあなたを死なせてしまえば、あの片王の性質からして人間が蹂躙し尽くされてしまうのは目に見えているのです……あなたならば、みすみす無慈悲なまねをすることはない。そう、我々は信じています」

「思い違いをしてはいけない。言葉を交わせるからといって、私が人にとって善良だとは限らないのだから」

 静な怒りが感じられた。ヘルレアの青い瞳が鮮やかに湧き立つと、なお一層に冴え冴えと闇に灯された。同時に、室温が急激に下がっていく。ヘルレアから波紋が広がっていくように、周囲に紗が掛かっていった。低卓の表面には薄っすらと霜が降り、絨毯は波が引いていくように色を失い、直ぐに部屋全体が白く色褪せていった。室内のどことも分からない場所から、軋む音が絶え間なく弾けている。カイムの呼気が白く煙る。ヘルレア自身の口元に変化はなく、強い意志を宿す瞳だけが、カイムを見据えている。

 情動が周囲に波及している。全てを静止させるほどの力。

 カイムは早々に感覚を失いつつある手を、無意識にこすり合わせない様に、強く組んだ。震えで歯がかち合わないように、くいしばる。それでも身体の震えは止めようがなかった。

 次の言葉を誤れば、先はない。何を言うべきか、言うべきでないか。圧倒的な力の差は、自由意志を押し潰す。

 ――それでも、言わねばならない。

「僕は少なくとも、こうして向き合い、会話ができるあなたの方が、今は信じられる。未来のことは誰にも分からないと、人は考えます。だからこの先もしも、などと言う議論は無意味でしかないのです。もう、今はこれしかないというならば、どの様なものにでも縋り付くしかない。あなたが人を虐げるというのなら、僕は戦い続けるだけです。今度はあなたの敵として――その場限りでしかない、慰めの救いで構わない」

 カイムは深い息を吐いた。それはまるで、長い間積み重ねた感情を吐露するような、絞りだすようなものだった。諦めや、失望を隠すつもりは既になかったのだ。目の前に居る子供を、恐ろしいと感じないわけではない。それでも、綱渡りにもにた危うい現状にいる自分自身を忘れるほどに、縋る手を払いのける子供にどうしようもない憤りを覚えずにはいられなかった。これは、ひどく身勝手な思いなのだろうとカイムは解っていた。

 眼前の王は、辛抱強い。あるいは、優しいと言ってもいい。それが、王の在るべき姿を狂わせている。

 ヘルレアは窓辺へ行って、無言でその景色を眺め始めた。凍えるような寒さに満ちた一室で、その背中は本当に小さく、寄る辺のなさを感じさせる。ヘルレアはカイムへ振り返ると、ただ見つめ続けた。しばらくすると、部屋が温もりを取り戻してくる。

「お前たちが望むことは……何が欲しい」

「第一にあなたの延命を、我々は最も望んでいます。その為に、ここへお招きしました。先程も申しましたが、片王だけが生き残るという事態は避けられる」

「私が、このままお前達に与してもいいと言ったらどうする?」

「我々の組織に立たれてもよい、ということですか。ならば、ステルスハウンドの代表である僕が番いとなる形を希望します」

「残念、お人形みたいな人に興味はない」

 カイムは、ヘルレアのあまりにも軽い調子の言葉に、初めは何を言っているのかが判らなかった。意味が飲み込めてきた瞬間に、血がさっと頭から遠ざかっていく感覚があり、先ほどとは違う意味で寒くなった。カイムは固まるしかできなかった。この段になって、好みの問題を挙げられるとは思ってもみなかった。しかも容姿についてという、カイムに取ってどうにもならず、またこの際どうでもいいとしか思えない部分についてだ。カイムは何か言葉を継がなくてはと、焦るが呻き声が漏れるばかりで意味をなさない。

 引き留める間もなく、王はひらひらと手を振って、立ち去っていった。

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