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死を恋う神に花束を 白百合を携える 純黒なる死の天使  作者: 高坂 八尋
第ニ章 猟犬の掟

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14.魔幻の囁き

16



 これは牢獄だ――。


 霧が薄っすらと立ち込める森。木々の間隔は狭く、密集している。ほぼ平地なので、遠くまで見渡せば、立ち並ぶ木が、霧にぼけて重なり合って見える。太い幹が伸ばした枝葉は、互いに噛み合って、それこそ天幕のようだった。

 光がほぼ地上には差さない。下草は乏しく、地表は太い根が絡み合う姿が裸になっていた。

 チェスカルは自分が森の中にいることに気がついた。本当にただ気がついた。別に気を失っていたわけでも、何かから追われて逃げて、この森へと行き着いたわけではない。

 身体にも何の異常はなく、ただ森にわだかまる暑さが不快なだけだった。

 妖魔以上の何かに、仕掛けられた。

 (ゴースト)は血気類の専門家ではないが、闘うことは、勿論できる。だが、それはある一定の格に対する妖魔であって、人間には手出しできない類のものが、恐るべき数存在している。ヨルムンガンドとすら渡り合う妖魔が、確実にこの世には存在するとされている。

「何故、こんな事に……」

 チェスカルは一人だ。ハルヒコやルークは、見渡す限りではいない。下手に動く事もできずチェスカルは、ただ森の中佇んでいる。

 その手には銃を持っているが、役に立つのかさえ分からなかった。電子機器の類も動作すらしない。

 何かの罠だったのか。

 そもそもルークが手引したようなものだ。あのどうしようもないお調子者を、後で説教しなければならない――後があればの話しだが。

 チェスカルは地面に座り込む。しかしそれは地面というより根の塊だった。

 早く村へ行かなければいけないというのに。このようなところで、足止めを食えば食う程、命が失われかねない。

 しかしこうなれば、まず自分の命を救ってやらねばなるまい。

 敵が妖魔の場合どうするべきか。

 この森は襲って来た妖魔が持つ縄張りの内だろう。普通に歩いて出られるとは思えない。チェスカル自身が放置されている事にも、おそらく意味がある。獲物を簡単に逃がはずはないからだ。

 ――闘わねばならないか。

 いっそ、血を流すという手もなくはない。妖魔を流血で誘い戦闘に持ち込む。これだけ知力も力もある妖魔だ、自分の狩り場に他の血気類は入れまい。だがそれは、勿論あまりにも捨て身過ぎる。最後の最後に行うべき手段だ。

 妖魔の能力が未知数なだけ、手を考える事が難しく、汎用的なものしか手数にいれられない。

 しかし、ここで延々答えの出ない事を考えても仕方がないと、チェスカルは立ち上がる。

「正直、歩く事さえ危険だが」

 ダガーを抜くとチェスカルは木に大きく傷をつける。

「物事は基本に帰すべし」

 出られる保証も、目標すらなく歩き出すと、木につけた傷が見えなくなる前に、切り傷を増やす。霧が立ち込めているので、少々傷は見失いやすいので、慎重過ぎる程、確認を怠らなかった。結局やっている事はパン屑を撒いて歩いているのと変わらない。

 チェスカルは猟犬なだけ、どうしても攻撃的な手を選びやすいが、ひとまず煩雑な考えを押しやって、これ程単純で穏やかな作業を選ぶ事にした。出られないと決めつけて、何も流血するまで自傷することもない。

 木につけた切り傷が確実に見えるように、何度も振り返りながら歩く。平地であるのは有り難いが、見渡せども樹木が生え揃う森が延々と続いているので、さすがのチェスカルでも心が折れそうになる。

 よくある展開で、進む先にはもう既に切り傷があり、自分は同じところを()()()()と周っていたとしたら。

 チェスカルはぞっとする思いで歩き続ける。

 ――暑い。

 むせ返るような暑さに汗を腕で拭う。体感的に気温が上がっているような。

 チェスカルは何度も腕で顔を拭って、息をついた、その瞬間、数歩先に子供が独りで立っていた。

 ――これは幻惑だ。

 体格から察するに五才の女児が、何の理由も無さげに、ぽつんと佇んでいる。

 ダークブラウンの柔らかそうな髪を胸まで伸ばしていて、顔立ちは慎ましやかで愛らしい。トレーナーとスカートを履いていて、特別裕福でも、貧しいというわけでもない、一般家庭の子供だという事が分かる。

 女児の焦点はどこに合っているのか今一判別が難しかった。ぼんやりと視線は虚空を揺れている。

 チェスカルが様子を見ていると、女児はスカートへ手を掛けて、自分でまくり上げてしまった。心理的に一瞬目を逸らしたが、視線を戻すとショーツを履いていない。その下生えのまだ無い部分から、更に下へ行くと、生々しい出血が続いていた。年齢的にぎりぎり経血かと過ぎったものの、自分の愚かさに固く目を閉じる。

 交渉の後だ。正しくは暴行されている。チェスカルは顔を(しか)める。幻覚の意味が分からなかった。

 女児は何かを喋っているが、チェスカルには何も聞こえなかった。元々声を出していないよう。

 この幻覚の目的が一切理解出来ない。女児の容貌は自国の一地域で見られる系統であり、珍しくはない。チェスカルに向かって、暴行された女児の訴えを聞かせて何がしたいというのだろうか。

 あまりの無意味さと痛々しさに、意識を逸らそうとする。

 音がぽつんと溢れる。

『……お兄ちゃん』

 チェスカルは耳が確かに捉えた言葉に、身も心も束縛される。

 呼ばれ慣れない呼称に、すっかり捕らわれて、女児を見つめていた。

 これは聞いてはいけなかったのかもしれない。知ってはいけなかったのかもしれない。

 心臓が大きく鼓動を打って、女児から後退りする。

 ――名前の庇護を破って来たというのか?

 一体どれ程の血気類だというのだろう。

 女児が一言大きく口を動かす。

 ……愛しているわ。

 チェスカルにはそれだけが読み取れた。

 少女は全身を青く光を灯したかと思うと、滲むように消えていった。

 チェスカルは木に寄り掛かって座り込むと、顔を拭う。

 ――何を言おうが、所詮は幻。

 そう自分に言い聞かせて、幻を堅牢な心から追い出す。

 チェスカルは一時、動く事を止めた。目を閉じ気息を調える。自分を御する術をチェスカルは知っている。何も知らない幼子ではない。

 そして何より、あまりにも血を見過ぎていた。

 チェスカルは立ち上がる。女児がいた場所には何もなかった。

 これ程までにはっきりとした幻を見せられるのは並の妖魔ではないだろう。分かってはいたが、幻覚を仕掛ける種類で高位の妖魔となると、正直、どういった形で身体を損なわせて来るか分からない。

 幻覚を引き出されている時点で、体力を削られている可能性もある。あるいはこの世界そのものが幻であるという、最悪の事態もありうるのだ。

 チェスカルは再び木に切り傷を付けながら歩き出した。正直、妖魔について門外漢のチェスカルには、どうにもならない階級の妖魔だ。

 いっそ、本当に血を流すかと考える。

 それでも歩き続けていると、足元がおぼつかない程(くら)くなっている事に気が付いた。チェスカルは空を見上げた――つもりになった。枝葉が密集し過ぎて黒々としている。僅かな切れ間から、恵みのように漏れていた灯火も失われつつあった。

 それから幾らもしない時を置いて、妖樹の森は闇に呑まれた。完全に射陽がなくなると、チェスカルは動けなくなってしまう。

 彼は一つため息をつく。

「お許し下さい、カイム様」

 眼を閉じて頸を振った。それは何かを断ち切るような、目を覚まさせるような動作だった。

 密集する樹木の輪郭線が、牢獄のような線の集まりになって見えてくる。物体の輪郭がはっきりと澄んで見えて、()()()()()で見るよりも、注意深く周囲を観察出来る。

 気温がめっきり下がって来た。見えはしないが、おそらく息は白い。

 チェスカルは寒さで見動きが取りづらくなって、木に寄りかかり、座り込んでいる。暗闇の中、感覚を限界まで研ぎ澄まして周囲の様子を捉える。血気類の気配は薄い。チェスカルはどちらかというと、使徒と対人専門の兵士なので、血気類は馴染まない。

 そうして周囲に気を配っていると、背後がほの明るい事に気が付いた。

仔犬(パピー)、こんなところにいると怒られるよ」

 茶目っ気があるのに、どことなく冷たくて、でも優しい声。

 その声の主が見たくて、チェスカルは思わず幹から顔を出す。

 褪せたような色の金髪と、濃緑色の瞳をした青年が屈んでいる。側には少年が座っていた。

「何故、(いえ)に帰らないんだい」

「よく分かりません。(あそこ)()()なのですか?」

「そうだよ、君のいえだ。ご飯を食べて、寝て、遊んで、勉強する。それで、後もう少し大きくなったら、働くところ」

「そうか、そうなのか……でも、何か大事なことを忘れてしまった気がするんです。絶対に忘れてはいけないはずなのに」

「辛いかい?」青年が深く瞬く。

「誰かを傷付けてしまう気がします」

 青年が少年の頭を優しく撫でる。

 青年は小さく頷くと、仄かに微笑む。

「大丈夫、気にしないで。僕が君の代わりに背負うから。もう、君は気にしなくてもいい」

「よく分かりません」

 青年がにっこり笑う。

「それでいいんだよ。分からなくても、恐がる必要はない」

 少年はそれにつられてか、まだ幼さの残る笑顔を見せた。そうしていると、いつの間にか声を上げて、嬉しそうにしている。

 青年はそれをただ穏やかに見守っていた。

「そうだ、まだ、名前をあげていないね」

「名前?」

「そう、仔犬のままでは困るだろう」

「仔犬では恥ずかしいですね」

()()()名前は僕が付けてあげよう」

「あのいえにいる偉い方が、着けるのではないのですか」

 青年が吹き出している。少年がぽかんとしていると、優しく両ほっぺをつねられた。

「帰ろうか。僕はお腹が空いてしまったよ」

「ぼく……私もです。帰りましょう」

 青年が立ち上がると、少年へ手を差し出したので、その大きな手を取って立ち上がる。そのまま青年が少年の手を握って、手を引いてくれる。

「今日は僕も仔犬と一緒に夕食を摂ろうかな。今日の献立はなんだろうね」

「そういう突発的な行為はいけないって、教わりました」

 二人の人影は青く燃え尽き、消え去ってしまった。チェスカルはあまりにも懐かしい光景を、思わず噛み締めてしまった。どこか切ない情景だというのに、笑いが込み上げて仕方がなかった。若い、あまりにも若過ぎる主人に、当時のチェスカルは一切、件の青年が主どころか重役に爪先すら掛ける存在だとも思っていなかった。

 ――カイム様は迎えに来てくださった。

 ()()()()()()など下手をすればどうなるか分からなかった。それを(おもんぱか)って仔犬一匹の為に力を振るって、自ら足を運ぶという異例の行為をしたのだ。

 また、主人には如何程の暇があるというのだろう。仔犬の為に少ない時間を割いてくれた。


 何の苦労も感じさせないよう。


 ただ穏やかで優しく。


 寄り添う姿を思い出す。


 生きて帰らねばと、チェスカルはため息をつく。

 寒さで身体に震えが来る。

 身の置き場を変えようとした時、知らず知らずのうちに、身体が動かなくなっている事に気が付いた。

「結局、これか?」

 ただ、気配だけ探っていると、自然、俯いて来る。そのうち身体の重みに従って、ほとんど倒れかかっていた。

 仄かに灯るものが側にいる。

 女児が口を動かして何かを言う素振りをしている。血塗れの手を胸に当てていた。

 ――ああ、これが妖魔の手管だったのか。

 女児が倒れているチェスカルを覗き込む。彼女の身体が青く蛍火を灯している。

 それはとても幻想的な光景で、神秘すら感じられる。チェスカルは、ふ、とヘルレアの瞳を思い出したが、小さく頸を振る。

 ――あれだけ苛烈な青は、この世に一つしか存在し得ない。

 どこまでも静かでいて、そして相反するように燃え盛る瞳。そこに見い出せる生と死は、あまりにも鮮やかに過ぎた。

 ――比べるまでもない、なんと薄ぼけたことか。

 女児はゆっくりと手を伸ばし、チェスカルへ触れようとしている。触れられる間際、チェスカルはほんのり笑うと、ダガーを女児の()()()()()の首へ一閃させる。

 彼女は仰け反りその勢いで後退した。頸から血を飛沫(しぶき)上げさせている。

「ここまで実体があるとは思わなかった」

 定まらない重心にふらついているかと思うと、全身青い光に塗り潰されて、人型をした光の塊になった。

 何か音がぽつりぽつりと溢れだして、曲のような繋がりを持って聞こえ出す。しかし、耳を傾けても乱雑過ぎて理解出来なかった。

 光の塊は既に行き場を見失っているようだ。次第に青い光が消えて行くと、そこに現れたのは妖人だった。擦れたような姿が、初めに見た妖人と大差ない。

 この妖魔は完全な幻惑を行うのではなく、格下の生物を操りながら、それらに幻を投影させる。

 幻は見た者の体力を奪い、徐々に動けなくさせていくという種類だろうとも、体感していた。

 また、妖樹の森を歩かせる事によって、獲物の体力低下への自覚を、(くら)ましていたのだ。

 しかし、そもそも初めの頃、チェスカルは女児のようなものへ、実体があるとは思わなかった。完全な幻と思い込まされていた。幻想的な演出によって、人間に誤った認識を植え付けていたのだ。

 妖魔の知性というには(いささ)か手が込み過ぎているようにも感じられるが、チェスカル程度の知識では図り知れない、神に等しい魔性もいるというのだから、所詮、人間には分かりかねるのだろう。

 身体は少し衰弱しているが、座っていれば動くようになりそうだった。

 チェスカルは小さく微笑む。

 ――これは一つでも解決したと言えるのだろうか。

 ハルヒコとルークは同じ境遇に置かれているのか。ならば、彼等はどうしている。ルークは――あれは何の心配もいらないだろう。馬鹿だが、チェスカルよりも命のやり取りになれている。

 ハルヒコは体力馬鹿だな。体力に物を言わせて、なんとか答えをみつけるだろう。

 ハルヒコやルークは(ゴースト)だ、心配いらない。

 しかし、村の人達は違う。

 ――ああ、早く村を救わなければ。

 ――()()()()私はおそらく何も持たなかっただろう。それと同じように、人々もまた何も持ち得ないのだろうから。


 ごめんよ、もう名も知らない妹――。


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