36.錯誤
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ヘルレアはジェイドを庇うように、片王との間に立った。ヘルレアがこれ程緊張しているのをジェイドは初めて見た。
片王は、ようやくヘルレアが視界に入ったのか、心臓を耳元から降ろして、頬を濡らしたまま顔を上げる。
「君は……」その声は低い。既に変声期を迎えている。
「私はヨルムンガンド・ヘルレイア――ヘルレアだ」
「そうか君が、僕の対。うん、ヘルレアか……ヘルレア。僕の名前も教えないとね。ヨルムンガンド・アレクシエル――クシエルだよ」
片王――クシエルは微笑んだ。
ここに来て初めて名前が明らかになった。今まで一切、片王の名は、どうしようとも漏れ出る事がなかった。ジェイドは頭の中で何度も名前を呼んで、その名を刻み付けた。
「僕の下僕を殺したのは君だろうか」
「そうだ。私の行く手を阻んだ」
「それは、悲しいね――身が引き裂かれるくらい」クシエルは心臓を撫でて大粒の涙を溢した。
「お前でも涙を流すのだな」
「当たり前だよ。下僕が死んだのだから。君のは下僕……じゃなさそうだね」ジェイドをまじまじと見ている。
「仲間だ」
「仲間?」クシエルは世にも珍しいものでも見るかのようにして笑い声を上げた。
「何がおかしい」
「人間が仲間なの? 下僕にしてしまえばいいのに」
「お前はそういう風にしか考えられないのか」
「どういう意味だろう」クシエルは可愛らしく首を傾げている。
「説明しても分かるまい」
「ヘルレアは不思議な子だね。君はまだ子供だろう。何故ここにいるの」
「お前を、クシエルを殺しに来た。他に理由があるか」
クシエルは今度こそ眼を大きく開いた。
「子供の君が、僕を。本気で言っているの」
「こんな事を冗談で言うわけがないだろう」
「男でもなく、女でもない幼い君が、この僕と対等に戦えると」
「戦わねばならないんだ」
「そう、いいけれど。元々殺さなければならないし、イオラの事もあるから」クシエルが心臓を見下ろすと、その瞳が強く青い蛍火を灯し、更に気温が下がっていく。
「行け、ジェイド。走れるだけ走れ」
「駄目だ」
「何を言う」
クシエルは上向くと、大きく口を開けた。心臓を含むと、呑み下す時に喉仏が大きく上下しするのが見えた。口が血まみれになっている。
ジェイドがクシエルに眼を取られた瞬間、身体の横を風が舞う。木が直線的に薙ぎ倒され、折れた木がささくれ立つ、荒れ果てた口が開いていた。ジェイドは何が起こったか理解出来ず、周囲を見回そうとすると、首に滑らかなものが巻き付いた。クシエルがジェイドの首に手を掛けて微笑んでいた。
「君はとてもいい身体をしているね」
ジェイドはまったく動けない。
「とても正しく身体を使っている」
「何を言って……」
「僕は残念ながらイオラを亡くしてしまった」
「どういう」ジェイドの答えなどクシエルは求めていない。
――ヘルレアはどうしたのだろうか。
愚かな事をした。ヘルレアの思慮を無視して留まってしまった。あれ程、逃げよと諭されながら。しかし、見届けなければならないと、いう思いと、既に逃げ切れないと、いう思いが足を縫い止めて、身動きが取れなかったのだ。
「ジェイド、屈め」その声にジェイドは咄嗟に従った。
――ヘルレア。
鈍い音が周囲に広がった。ヘルレアがクシエルの頭部を跳び蹴りで打ち据える。クシエルは後方に転がり雪が吹き飛ぶと、被っていた布が飛んだ。
クシエルが不思議そうにヘルレアを見ている。
「痛いのは初めてだ。うん、でも、こんなものか」
クシエルの反面ヘルレアは酷いものだった。外套は既に着ていなかった。服はズタズタで鼻と口から血を滴らせている。ヘルレアは口から血を飛ばすと残った袖で口元を拭った。
クシエルは雪の上に倒れたまま何か考えているようだった。
ヘルレアは跳躍すると、横になっているクシエルの上に伸し掛かったが、彼はいとも簡単に避けて立ち上がった。ヘルレアが体勢を立て直している間に、クシエルは何事もないように布を拾いに行って頭から被った。
「ねえ、やはり無理じゃないの」
ヘルレアは踵をクシエルへ落とすが、足を掴まれてしまった。彼はそのまま握り締める。
「ちょろちょろして邪魔だから、足を抜いてしまおうか」クシエルはヘルレアの足を関節とは逆に捻って外してしまった。ヘルレアが苦痛の叫びを上げると、今度は胴体から引き離そうと、肉を引き千切り始めた。血が溢れ出している。
「さすがに抵抗する感覚があるね。普通の人間みたいにはいかないようだ」
クシエルが大きく頭を振った瞬間、ジェイドは銃弾を白い背中に数発撃ち込み、乾いた音が上がった。クシエルがその動きを止めると、ヘルレアは僅かな瞬間を見逃さず足を引きずって彼から遠ざかる。
クシエルは不思議そうに背中を撫でている。その手に銃創からの血が滴っていた。
「ああ、人間も良くやるね。偉いよ」
ジェイドにクシエルの視線が突き刺さった。ヘルレアが背後からクシエルの首に腕を回し掴んだ。
「ジェイド、お前は大馬鹿者だ……逃げろ、頼む」ジェイドはその瞬間、逃げたら全てが終わると悟った。ヘルレアは死を感じている。おそらくジェイドを逃がすため形振り構わず戦うつもりだろうと、思わずにはおれなかった。
あのヘルレアが、だ。
「ここまで来たんだ。一蓮托生だヘルレア」
「馬鹿野郎」
「うん、いいね。気に入ったよ。下僕でもないのによく躾けられてる」クシエルは拍手をして笑っていた。
クシエルは、首に巻かれたヘルレアの腕を撫でた。ヘルレアの腕は血だらけで、クシエルは血のついた手のひらを舐めると、今度は爪を立てて梳いた。クシエルの白い服に花が咲いたように血が散った。
「ヘルレア、あの大男を守りたいのでしょう」
「あいつは預かり物だ。私とは関係ない」
「優しいのだね、ヘルレイア……でも、とても愚かしい」クシエルがヘルレアの腕を、肘から捩じ切った。大量の血が溢れてクシエルを真っ赤に染める。ヘルレアは転がり落ち、嘔吐していた。
「ヘルレア……もう、止めろ」
これが王同士の戦いと言えるだろうか。一方的に嬲られて引き裂かれていく。ヘルレアはクシエルの相手にすらなっていない。これが真の王と、未熟な王の違いなのだ。成熟した王というものが、どういう存在なのか完全に読み誤っていた。クシエルの言うとおり、あまりにも愚かだったのだ。人の目線で物事を計り楽観視し過ぎていた。
突っ伏しているヘルレアの引き千切られた肘は、完全に出血が止まらない。破損が酷く再生が難しいのだろう。
このままヘルレアを攫って逃れる術はないか。
王がいなければこの戦いには勝てない。それも成熟した王が。
――ヘルレアを失うわけにはいかない。
「クシエル――」ジェイドは思わず口にした。
「君は確か、ジェイドと言うのだろう」クシエルがジェイドへ歩み寄って来て、何か考えながら見回している。
ジェイドは無言でいるしか出来ない。
「瞳はアンバー、綺麗だ。狼みたいだね。手を出してごらん」ジェイドはクシエルに言われるがまま手を差し出した。
クシエルはジェイドの差し出した無骨な手に、自身の白く細長い手指を重ねた。
「ヘルレアはいい物を持って来た。君が欲しいのだけど簡単には納得しないだろうね。交渉にヘルレアを持ち出すのは重すぎるかな……」満身創痍のヘルレアをちらりと見る。
「何をする気だ」
「そうだ、いいものを見せてあげる。人間は人間同士で庇い合うのだろう。いい交渉材料になってくれそうだ」




