33.王の下僕
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大粒の雪が降り続け、争いの跡を掻き消していく。しかし、荒れた木々は生々しく激しい戦いの傷痕を残していた。綺士が死んだ事で、静寂が再び訪れ、ジェイドとヘルレアの声だけが周囲の静けさを乱していた。
「以前の綺士の方が弱い気がしたが、あの時に王は結構傷を負っていたな。しかし、今回の方があまり傷を負わなかった」
「綺士との戦い方を学習しただけだ。蛇の王を舐めるなよ。一度戦えば身体の構造が分かる。強さも性質も違えど、綺士は綺士だ。使徒は言わずもがな、だ」
「王は綺士の弱点を、今まで知らなかったのか?」
「私には綺士がいない分、構造が分かりづらい。と、いうか知らない」
黒い染みだらけの綺士の死体は、既に巌のように転がって雪を積もらせている。今まで生きて動いていたとは到底思えない頑強さでもって、その場に静止していた。
「ところでシャマシュは大丈夫なのか。あのネズミに何があった。切られたみたいだが死んだのか、壊れたのか」
「シャマシュは生き物ではないから死なない。念の為に綺紋の媒介にしていたが、こうも役にたつとは思わなかった」
ヘルレアがシャムシエルと呼ばわると、綺士の死体から液体が収束するようにヘルレアの元へ飛んできた。徐々にシャマシュの形を取り、完全に元の姿に戻ると、金属のようになった。光を反射しない黒鉛のような身体に、青く細い綺紋が見えている。ヘルレアが細かい文字の一つを指でなぞると芝が生えるように、細かい毛が生え揃い、いつものシャマシュの顔が出て来た。
「シャムシエルとやらはとんでもないな。ただのペットだなどと嘘をつくな」
「人間にとっては異質でも私には普通の玩具だからな」
ヘルレアは綺士の死体へ近づくと、落ちている心臓を拾って表面を調べている。心臓の表面には焼印のような文字が刻まれている。ヘルレアはその文字を指でなぞった。
「“黒い日輪”。大層な名前だな。おそらく綺士の元になった人間は、こうして心臓に綺紋を刻まれて、綺士となるのだろう」
「と、言う事はヘルレアもこうして綺士を造るということか」
「だろうな」
「まるで他人事だな」
「私は綺士を持たないからな。どうするべきかは幼い頃に、本能で分かるらしいが、私は成長し過ぎた。既に思考が先に立って分からない」
「それは本当か」
「嘘をついてどうする。お前達猟犬には喜ばしい事じゃないのか」ヘルレアは綺士の心臓を投げ捨てた。
「時と場合による」
ヘルレアがステルスハウンドの主となるならば、たった一つの傷があっても困るのだ。本来なら、双生児の一方が劣るのはあり得ない。それでなくともヘルレアは育ちからして、弱い立場にある。これ以上の劣勢は許されない。
「どういう風の吹き回しだ。あれ程忌み嫌っていたヨルムンガンドだぞ。双生児のその一人に欠陥があるのは、歓迎こそすれ忌む事はないだろう」ヘルレアはにっと笑った。
王からヨルムンガンドという言葉が出たとき鳥肌が立った。何一つ事実と相違なく、ジェイド自身の問題だった。ジェイドはヘルレアを王と呼ぶ事に、慣れ過ぎてしまったのだ。ヘルレアはヨルムンガンド、世界蛇だ。いくら形態が同じでも人間ではない。種族も異なれば、出自もまったく違う。本来、雑談が出来るような存在ではない。
それを組織に連れ込もうというのだ。今こうしてヘルレアと居るのが奇跡のような状態だというのに、これ以上をステルスハウンド――カイムは望んでいる。
「……本当にカイムの番いになる気はないのか」
「くどい」
「今だからこそ言うのだ」
「あの頃と、何の変化があった?」
「全てが変わった」
「私には何が変わったのか分からない」
「何が不満なんだ。組織の大きさか。それともカイムが気に入らないのか。他に事情が――」
「このようなところでする話ではない。これだけ強靭な綺士が現れたと言うことは王がいる可能性が高い。ここいらをうろついていれば出会えるかもな」ヘルレアはジェイドを急かした。
――何故王は、番いの話題を避けるのか。
初めは王が接触を了解して自ら館に訪れたというのに、何故今はまるで禁句のように扱う。カイムとヘルレアの間に何があった。
「待て、王」
「何ぼさっとしてる」
「お前、何かを恐れているのか」
「何を馬鹿な事を……恐れなど私には無益だ。恐れは人間のような脆弱な存在に必要なものだ」
「本当にそうなのか」
話は止めだ、とヘルレアは手で示した。
ジェイドはヘルレアの前に回った。
「これ以上歩いても無駄になるだけだ。王の体力は無尽蔵かもしれないが、人間である俺では消耗していくばかりだ。戦うべき時に戦えなくなってしまう」
「確かに一理あるな。ここに留まり続けるかはおいといて休むとしよう」
二人は休める場所を探したが、結局死んだ綺士が横たわる、出来合いのちょっとした広場に腰を下ろした。ヘルレアは相変わらず雪の上に平気で座っている。ジェイドは木の根に座っていたが、王が捨てた綺士の心臓が気になり拾いに行った。
心臓はジェイドの拳くらいの大きさで、綺士の身体を考えるとかなり小さい方だ。これは寧ろ人間の心臓と表現した方が自然だ。王が言ったとおり、奇妙に流麗な文字らしきものが焼印されている。
「これが綺紋か」
「どうした。物珍しいか」
「王が綺紋を使うところは見るが、まじまじと綺紋自体を見たことがないからな」
「見せてやろうか」
ヘルレアが雪の積もった地面に、木の枝で一文字だけ書いてみせた。その文字が青く灯り、雪が盛り上がって小さく飛び跳ねた。雪で出来たうさぎが本当に動いている。綺紋も青く灯り続けて文字がよく見えた。
「小さい綺士か?」
「まさか、ただの玩具だよ。感情も、欲も、生理もない。雪の固まりだ。贋物にしかすぎない。本物の生物の複雑さ、精緻さには遠く及ばない。所詮は文字の創り出す幻のようなものだ」
何故か王が、寂しそうに見えた。ヘルレアは時折、酷く寂しげな顔をする。まるで哀惜にも似た何か――。
ジェイドが屈んで手を差し出すと寄って来て手の上に乗った。確かにただ冷たいだけの雪だ。それが綺紋で生き物のように動き、ジェイドの挙動にも応えた。
「贋物だろうが何だろうが、子供は喜ぶだろう。それで良いと思うけどな」
「溶けるぞ」ヘルレアは同じ文字を何個も書いて雪うさぎを量産している。
うさぎが増えるに連れて、真っ白い雪に、青い光が下から差し込んでくるように見える。
ジェイドは呆然とその景色を見ている。
――これは何なのだろう。
これ程、虚しいと思った事はない。
「お前に会って、今が一番後悔している」
「何故と、問うてもいいのか?」
ジェイドは何も答えられなかった。
人の目線に立てる世界蛇を、心から優しいと思ってしまった。ただただ双生児への憎しみだけで生き続けていたかったはずなのに。側にいて会話を重ねる度に、ヘルレアは心に寄り添って来た。知らないうちに、こんなにも側近くに来てしまった。
しかし、ヘルレアは紛れもなく王だ。多くを殺め、人を翻弄し、苦痛を撒き散らす。何も残さず、何も生み出さず、全てを混沌に沈めてしまう。
まさしく、死の王。
――だが。
「ヨルムンガンド・ヘルレア、どうかお前の片割れを殺してくれ」
ヘルレアは驚いたのか、持っていた枝を落とした。
「その呼び方をされるのは久し振りだ。でも、そういう時は、ヨルムンガンド・ヘルレイアと呼ぶべきだ――言われるまでもない。私は、私の為に片割れを殺す」
王は不敵に笑ってみせた。
この王なら何かを変えられるかもしれない。
世界に渦巻く強大な蛇、ヨルムンガンド。
今は二尾で食い合っているが、いずれどちらかが食い尽くされる。
その時は、そう遠くないだろう。




