29.過ちの代償
36
カイムは書類を引き潰した。
――僕は過ちを犯したかもしれない。
エマは隠し果せると信じていたのだろうか、あの悲しみの表情を。
どこまで知っているのだろう。何を知ってしまったのだろう。
エマを追い掛けるべきか。
追い掛けてどうする。
謝るのか。
何を。
何に。
謝罪は許されない。
仲間への冒涜だ。
ならエマは。
彼女は仲間ではないのか。
仲間だ。
でも猟犬ではない。
なのに何故、こんなにも苦しいのか。幸せにと願ったのに。もう二度と辛い思いはさせないと誓っていたのに。今一番、悲しい思いをさせているのは僕だ。
エマはヘルレアの事を知っているのだろうか。エマを屋敷へ行かせた時、この館に双生児の王であるヘルレアを招いていた事を。
どうすればいいのだろうか。
ここで誤魔化せば、余計に傷付けてしまうかもしれない。だが、面と向かって話して彼女の知らない事実まで話してしまったら。
――僕は何を考えている。まだエマに隠し続けられると思っているのか。
それこそエマへの愚弄だ。
こうなる事は分かって居たはずだ。それが考えていた時よりも、早まったにしか過ぎない。
幸いというには心情が追いつかないが、今、ヘルレアは居ない。王、本人が身近に居て訳を話すより、居ない状態の方がエマの動揺を、最小限に抑えられるかもしれない。でも、それはエマがヘルレアとの対談を知らなかった場合だ。もう全てを知っていたら、あるいは断片的な情報しか知らなかったら、そして、実際のところ何も知らなかったら。全てがカイムの思い違いだったなら。カイムはいったいどうするべきなのだろうか。最善と踏んでいたところ、最悪の心証を踏み抜いてしまったら。
エマは常に受け入れて来た。どんなに辛い事実でも、どれだけ過酷な現実でも。だが、今回の事はどうだ。ステルスハウンドの長であるカイムでさえ受け入れるのが難しい出来事だった。それを二十ばかりの、まだ女の子とさえ呼べる歳の女性にこれだけ残酷な現実を突き付けて、今までのようにいられるだろうか。
カイムが王の番いとなり、ステルスハウンドの館を主として治め、兵士、職員、その全てがヘルレアのものになる。今まで、それこそエマが生まれる遥か昔から、双生児とは敵として争い続けている。そして、その状況の最中で彼女は生まれたのだ。また、エマはステルスハウンドで、常に王は邪悪と見聞きして育って来たのだ。その双生児が、自らの主となる。王に己の命を預け、場合によっては綺士となり下僕になって使役される。これを絶望と言わずにいられようか。
カイムが立ち上がろうと机に手をつくと、机の装飾彫りが、手のひらに押し付けられた。カイムは目の覚める思いで、縁彫りに指を這わせた。蔦と枝葉の繋がる先には、二匹の蛇が絡まりあっている。カイムは唐突にその装飾が思い出されて再び椅子に腰を下ろした。
――これは間違い無く私情だ。
「……何を考えていた」
カイムはステルスハウンドの長だ。誰が傷付こうとも、しなくてはならない事がある。それがエマやジェイド、オルスタッド達が過酷な道に立たされたとしても。現に影の猟犬は人員の入れ替わりが活発だ。死地へ送り出すのを承知で、常に任務を遂行させている。そしてエマを仲間だというならば、尚更に特別扱いするべきではないのではないか。
――しかし、それでも駄目なのだ。
幼いエマが思い出されて、いつも逡巡してしまう。カイムは、エマが生まれた時から側に居た。歩き出した頃も知っているし、乳歯が全て生え変わった時も知っている。妹のように思って来た。
誰も蔑ろにするつもりはない。でも、エマだけは見届けてやりたいという思いがある。けして揺るがない幸福を約束してやりたい。今までの過酷な時間を忘れてしまうくらいに。
カイムは椅子の背もたれに、深くもたれ掛かり上を向いて強く目を閉じた。
結局は、後ろめたいのだ。エマの小さな変化に怯えて、どうしようもなく焦っている。余裕がある振りをして、内心はこんなにも揺れ動いていたのだ。いずれ知れると分かっていながら、心のどこかでこのまま何事もなかったのだと、振る舞い続けていられたら、そのように考えていた。
でも、それを続ける事は出来ない。いずれ破綻してしまう。
エマが何を知り、何を望んでいようとも、彼女自身がカイムに何も求めない限り、何もするまい。もう、隠したりはしない。これだけカイムの側近くにいるのだ、事実を知る権利はエマにもある。
しかし、たとえエマがカイムに何も聞かずとも、いずれその時は来るのだから。
執務室の扉がノックされた。一瞬、エマかと思ったが、直ぐに違うのだと納得した。ノックをした相手を招くと兵士であった。深刻な表情で書類を抱えている。
「影の猟犬、ジェイド・マーロンからの報告が入りました」
37
カイムが車から下りると、霧雨が降り道路を濡らしていた。そろそろ肌寒くなる季節が迫って来ていた。カイムは思わず背広のポケットに手を突っ込むと、ヘルハウンドと古びたネオンで書かれている店に入った。
「東占領区の爆心地はエルドラントという街である事が、衛星写真から分かった。周囲数十キロが吹っ飛んで全滅と来た。核か水爆でも使ったかと言いたいところだが……」
バー、ヘルハウンドで、カイムは玩具屋オリヴァン・リードと再会していた。
カイムは西アルケニア、東占領区の最新の動向を詳しく知る為に、オリヴァンに会いに来たのだ。
オリヴァンは相変わらずその姿は派手で、今回は半袖のワイシャツに逆巻く波が描かれていた。
オリヴァンはウイスキーを僅かに含むと、店で注文した葉巻を吸った。吐き出した煙は独特の芳香を放ち燻らせていた。カイムはといえばバーに来ていても、一応仕事の一貫なので炭酸水を飲むか飲まないかの程度で、口に運んでいた。
「破壊の規模はかなり大きいと予想していたが、そこまで深刻だとはね」
「深刻も深刻、大深刻ときたものだ。あの国は国民にはちと厳しい。救援も期待出来ないし、諸外国からの救援物資も被災地に届く可能性はゼロに近い。つまり駄目なら駄目で、そのまま放置だ。視察する連中は行くだろうがそれっきりで何もしないだろう」
「無惨なものだな。施政者は自国民を蔑ろどころか、初めから存在しないもののように振る舞っている。もし、王が紛れ込んだら好き放題に荒らしていくだろう」
「まさに打って付けの巣というわけだ。人間は食い放題。虐殺はし放題。飽きればポイッだ」
「そのような場所に影とヘルレアを送り込んでしまったうえ、ジェイドと王二人だけの組みを作って、東占領区の捜索をさせてしまった。まったく結果が見えない」
「生きてくれてりゃ万々歳、そうでないなら仕方なかったと神を恨め。神はいい。恨んで、恨んで、恨み倒そうとも何も文句は言ってこない。ところがどっこい、王を恨めば首が飛ぶどころか、挽肉になって食われちまう。お前達ステルスハウンドは、挽肉予備軍だってことを忘れるなよ」
「ステルスハウンド代表、その本人の前で血も涙も無い」
「お前にもそいつはないだろう」
「少なくとも本人の前で言わないくらいの礼儀は備えているよ」
「ところでどうだ。ヘルレア王は口説き落とせそうか」
「居ないものをどう口説けと言うんだ」
「違う、意識的な問題だ。正直言ってヘルレア王は、まだ子供だ。いくら美しかろうとロリコンで無い限り手を出すのは、色々な意味で辛いと思ってな」
「それは了解済みだ。王が子供なのは仕方がない。番いを得て初めて一次性徴が始まるのだから。こればかりはどうしようもないだろう。王が大人になっていたら、更にどうしようもないが」
「もしやお前、ロリコンか。だから、どうて……」
カイムはオリヴァンの口を叩くように塞いだ。
「こんなところで、なんていう話をするんだ。しかも大声で。分かっているだろう。馬鹿な事は言うな」
オリヴァンはけらけらと笑っている。
「悪い。悪ふざけが過ぎた。なんだ、お前の顔を見ると、からかいたくなるものでな」
「度が過ぎれば、頭から水を浴びる事になるぞ」
オリヴァンは怖い怖いと言って、ブランデーを回した。
「ところで用があるんじゃないのか」
「……オルスタッド以下二名、全員死亡と確定した」
「やはり東占領区にいたか。全員死亡とは、悔やむ事しか出来ないな。一応確認しておくが、蛇に殺されたって事でいいんだな」
「そのようだ」
オリヴァンはグラスを掲げると献杯を捧げ、カイムも倣って二人は中身を飲み干した。




