27.密やかな酒宴
33
淡い蝋燭を思わせる間接照明が、暗がりを照らしている。その部屋は殺風景でソファセットと、ガラスのテーブルだけが置かれている以外に何もなかった。その薄闇の中、独りの男がソファに身を預けていた。男はワイシャツを着崩し、ネクタイを緩めたスラックス姿であった。如何にも高級なジャケットが、ソファへ丁寧にたたまれて置いてある。
蜜色のブランデーを傾けて、密やかな灯りにグラスを透かしている。テーブルには値の張る高価なブランデーの瓶が置かれていて、酒は半分以上無くなっていた。
ライブラの会長、アンゼルクはふと何かを見つけたように目を上げた。それはまるで壁を這う小さな蜘蛛を目の端で捉えたかのようであった。何を考えていたわけではない。ただ口腔を濡らすブランデーに身を揺蕩わせていただけだ。
少しだけ神経質になっていたのかもしれない。この僅かな心の揺らぎがむず痒い。
普通ならどう反応すればいい。
――これは愚問か。
どうにも浮き足立ってしまうのは、当たり前に流れていく時間のように、当たり前ではないことが進んでいくからだ。まるで規則正しく刻まれる秒針のように、何もかもが手のひらで滑らかにステップを践んでいく。それに誤りはない。
――この僕が許さないからだ。
さて、これからどうしてやればいい。
“向こう側の女達”の采配がこうも望むように転がっていくとは思わなかった。あと、少しだけ手を加えてやればいいだけ。アンゼルクは完全な傍観者として立ち続けられる。こうして酒を飲んでゆっくり経過を待てばいいのだ。
邪魔が入るとすればステルスハウンドか。彼らの動きは注視すべきだろう。あまりにもヘルレアへ近付き過ぎた。今までに出来ていた歯車を崩しかねない。少し猟犬を甘く見過ぎたか。それ程気には掛けていなかった連中が台頭し、次はどのようなおもしろい景色が見られるだろうか、というのも案外一つの楽しみでもある、が。すべては均衡が大事なのだ。どちらかが過ぎれば、どちらかが落ちる。危ういところで踏み止まり足掻く滑稽さよ。
それにしても、一方は相変わらずの死と破壊、ついでに言うならもう一方は恋愛ごっこの駆け引きか。お笑い草だがあの王には奪い、食い荒らすことなど出来はしないのだろう。いっそ食い潰してしまっても、それはそれで悪くはないが、そうなればこの場合においては価値がなくなる。
ブランデーのグラスを回して弄ぶ。ソファに深く身を沈め、頬にグラスを当てがってみる。目を瞑るとあの青い瞳が蘇ってくる。あのどこまでも青く澄み切った、この世のどこを探そうとも見つけ出すことが出来ない比類ない深青。
アンゼルクはあの目を曇らせたいと常に思っていた。それこそアンゼルク自身の本能だと自負し、そしてその事自体に悦びを感じていた。
――王が怪物なら僕は何だ。
獣か。妖獣か。魔獣か。
それとも紛れもなく人間なのか。
アンゼルクは持っていたグラスを肘掛けに下ろすと、密やかに笑った。震える手の中から酒がこぼれて床を濡らした。
――さあ、証明してくれ。相対する王共。
踊り狂って、この悦びを分かち合おう。
34
コニエルはいったい何をしたというのだろう。それとも何かを見たのだろうか。エマが館に居ない間に何があったのだろう。友人のエルヴィラはコニエルが怯えている素振りをみせていたという。あの重装備の要塞のような館で何を怯える必要があるのか。何か誤りを犯したならばエマはカイム秘書でしかないが、それでも問いたださなければならない。カイムのためにならないことは処理しなくては。でもそれは、カイムがコニエルの事情を知らなかった場合だが。カイムに何かを問うたとしても直接的では意味がない。でないと、余計に隠されてしまう。なるべくコニエルの名前を出さずにそれとなく探りをいれてみよう。
エマはマツダを手伝って茶器の片付けをしている。廊下をマツダの後ろに付いて歩いていた。
「エマさん、もうカイム様のところへ戻っても構いませんよ」
「マツダさん一人だと大変ではありませんか。トレー二つ分ですよ」
「いえいえ、この爺にお任せください。カイム様と何かお話したい事があるのではありませんか」
エマは思わず口元を押さえてしまった。
「マツダさんは何でもお見通しね」
「それはあなたがこんなに小さな時から一緒なのですから」
マツダが手で赤ん坊を抱くような素振りをした。エマは小さな笑いが漏れて、鼻がくすぐったくなった。
茶器類をマツダに任せると、エマはカイムのいる執務室へ廊下を急いだ。
マツダとはカイムと同じくらい付き合いが長い。エマはこの館で生まれ育ったのだから。エマに取ってマツダは本当に祖父がいたら、このような人なのだろうなという指標だった。エマには父母双方の祖父母がいなかったので一番身近な老人がマツダだったのだ。
皆が本当に血の繋がった家族ならと何度考えたことか。しかし、それ以上に別の深い絆を感じているのは確かだ。常に怪物と生死をやり取りする過酷な環境で、何より強固な連帯感が生まれている。皆一様に双生児を命懸けで追い続け、綺士や使徒を殲滅しているのだ。これはステルスハウンドの使命なのだという。しかし、使命だからと言われて組織に居続ける人間はいない。皆、それぞれの目的と意志で猟犬でいるのだ。
――そして、私も。
銃を持つことは出来ないが、銃を持ち命懸けで戦う戦闘員の支えになることは出来る。だからこそ、こうして組織に居るのだ。
これからしようとしていることは、エマがステルスハウンドの一猟犬としてカイム等と向き合えるかどうかの話になるかもしれない。もし全てを隠され続けてるというならば、エマはまだ猟犬ですらない。
執務室の扉をノックして顔を覗かせると、カイムは既に書類仕事をしていた。
「エマはそのまま部屋に戻ったのかと思ったよ」
「ごめんなさいお邪魔して。少しお話がしたくて。けど、そんなに急ぎじゃないからまた今度」
「いや、いいよ構わない。下からの報告だから危急を要するってわけではないから」
カイムは書類を机の脇へまとめてからエマを見た。いつも通りカイムは穏やかにエマを見ている。エマはカイムの、その姿を見ていると今まで考えていたことが、口にできなくなりそうだった。
「本はどうだったかしら。間違っていなければ良いのだけれど」
「すまない。まだ本は見てないんだ。色々急用が出来てしまって」
「そんなこと謝らなくていいの。カイムが忙しい事くらい分かっているから。少し聞いてみただけ」
どう言葉を繋げばいいのか、エマは分からなくなってしまった。カイムも何もいわず静かに微笑んでいる。エマの言葉を待っているのだ。
「カイムは……お屋敷に帰らないのね」
「そうだね。時間がないから。近頃減ってはいるんだが、使徒の処理がね。なかなか骨が折れるよ。影の猟犬がいない今、余計に掃討が手間取る。近頃、奇っ怪な使徒もいるらしいし」
「そう、前線で働く兵士達は命懸けだものね」
「本当によくやってくれてると思うよ」
「この館もエルヴィラみたいな兵士がいるから安全なのだものね」
「エルヴィラ……か、たしか館の衛兵だね。エマの友達だとかいう」
「そう、親友よ。そういえば、カイム。私がお屋敷に行っている間、警備区域に変更があったとか。急に司令が出て戸惑ったらしいわよ」
エマはカイムの顔をさり気なく見るが、カイムの穏やかな顔には曇りの欠片もなかった。
「それでエルヴィラから聞いたのだけど、同じく衛兵をしている同僚が、何かしでかしてしまったらしくて、酷く落ち込んでいるらしいの。エルヴィラが心配していてカイムのところに話が来ていないか聞いてくれって彼女に頼まれてしまって」
「エマが業務に口出しするなんて珍しいね」
さり気なくカイムは書類を手元に引き寄せた。
カイムは怒っているのだろうか。書類を流し読みながらペンでサインを入れている。
「心配いらないよ。守衛部署からの上奏はないしだれも誤りは犯していない。平時と同じで何の滞りもなく遂行されている。エマは何も気にする事はないよ」
有無を言わせない物言いだ。これ以上聞くなとカイムは言っているのだ。これ程厳しい態度を受けたことがエマにはない。カイムが怒っているとは言わない、これは紛れもない拒絶だ。
「そう、エルヴィラにはそう伝えておく。お仕事の邪魔してごめんなさい」
エマは何故か無性に泣きたくなった。カイムはやはり何かを隠している。それと同時にエマはカイムの不興を買ったことが恐ろしくて切なくてたまらなかった。幼子が唯一絶対の親から見棄てられるようなこの感覚。
――カイムにとって、私は何。
カイムはいつだって優しい。いつだって、どんな時も。そうしてエマを守るのだ。目を背けたい事実から、仲間の死の叫びから。エマは今まで何をして来た。全てが終わってから、ただ悲しみ、静かに絶望するのだ。
また、何も出来なかったと。
「カイム、私は猟犬になれるの?」
カイムの笑顔が一瞬揺れた。緑の瞳がエマから離れるのを彼女は感じた。
カイムは何も言わなかった。ただ一つだけためため息を付いた。
「カイムお願い、教えて。私は生まれた時からここに、ステルスハウンドに居るの。支えられたかは分からないけれど、多くを見てきた。仲間の死も、様々な憎しみも、共に歩んで来た。私はいったい何」
ああ、私は何を言っているんだ。コニエルは、留守中の出来事は。こんな事を話すために来たわけじゃない。どうして。カイムを困らせたくない。だから見てみぬふりしてきたのに。――こんな。
「エマは自由になりなさい。僕から言えるのはそれだけだよ」
エマの目に溢れていた涙が溢れそうになった。カイムは深く目を閉じて、あの優しい緑の瞳が見えなくなってしまった。エマは踵を返して静かに扉を閉めて袖で涙を拭い、その場を立ち去った。




