26.差し伸べられた手
32
シャマシュは時折何かを調べる様に周囲を見ている。ヘルレアが言ったように、何かジェイドには分からない感覚器官で受容しているらしく、まるで明後日の方向とも思える虚空を見ている時もあった。
足元は険しさを失い均された様に平坦な場所が続いていて、ヘルレアはもとより、ジェイドに取ってもシャマシュは遅く感じられ、追い抜いてしまいそうだった。二人が黙々と歩いていると樹々の切れ間から道路へ出た。今度は森の中を進むのではなく、シャマシュは道路へと浮遊を始めた。
ジェイドは周囲を見渡す。
「この雪だ。外出も減って目立たないだろう」
「今更、人間に見つかっても、大して影響はなさそうだがな」
舗装された道路は車二台がすれ違える程広く、視界も同様に開けていて、山に沿って曲がりくねった道の先までよく見えた。道路は走行された様子がなく、まっさらな粉雪が積もっていて、ヘルレアとジェイドが進むと足跡が刻まれて行く。
雪は完全に止んで鈍い色の空と、山の稜線が描くなだらかな輪郭が浮き彫りになっていた。風は凪ぎ、そよとも吹かずに、雪を抱いた樹葉は静かに佇んでいる。二人の雪を踏み締める音だけがしている。
「シャマシュの探索能力はどれだけ信用できる?」
「そうだな、具体的に言えば昔ライヴラで、ある男の捜索する仕事を受けたんだが、結果を言えばそいつは既にバラされて下水道に流されていた。その肉片がマンホールの蓋に挟まっててな、シャマシュがそれを見つけたんだ――この程度だが、質問はあるか」
「で? 誰が下水道から男の残骸を引き揚げた」
「勿論、私はやらない。金を払って引き揚げさせた」
「だろうな。俺には下水道に入って汚水を浚う王など想像出来ない」
「私もやろうと思えばやる。膝下くらいの血海から指輪を浚ったことがあるしな」
「王ならそれはあり得そうだが、それはいったいどんな状況だ」
「協会員には色々あるのさ。あまり聞くと面倒な事になるぞ」
「今の状況以上に面倒な事があるか」
「……あるみたいだな」シャマシュはいつの間にか高く飛び上がっており、ヘルレアがそれを見ると走り出した。
木が切り払われ道路に沿って断崖が露出するその先に、巨大なクレーターが姿を現した。その場所までは相当な距離があるが、広範囲に及んで灰燼に沈んでいる。既に数日経過している様だが大気は塵芥に曇り、抉れた縁が滲んでいた。
ジェイドは思わず身を乗り出した。
「これが、気配の源」
「言い訳にしかならないが、これだけ規模が大きくても、実際に気配を発する力の駆動点は文字――綺紋であるだけ小さい。それに、時間が経過し過ぎて気配が曖昧になっていた様で、距離感が掴めなかった」
「王を責める気はない。だが、あまりにも唐突に過ぎて、これからどう対応するべきか」
「ここから幾ら片割れを探そうとしても無理があるし、既に居るとも思えない。見付けられるとしたら再び力を行使した時だけだ。それなら、まずはオルスタッドという男を探すべきだと思う」
「確実な方を選ぶべきか」
「シャマシュはまだ、存在を見失っていない」
シャマシュは車道へ戻り、二人を見て、まるでまだかと言っているかの様だ。ジェイドとヘルレアは崖向こうに広がる惨状から目を離せずにいたが、何も出来る事はないので、その場を去るしかなかった。
ヘルレアはいつになく、足を早めていた。無残な有様を見た興奮か、片王を見失った焦りか、ジェイドには計りかねたが、王が心に何らかの動きを生じさせているのは明らかだった。
ジェイドはほとんど走る様にしてヘルレアに続いて行くと、シャマシュは急降下して姿が見えなくなった。王の背中を追いかけてシャマシュの降りて行った場所を探した。
シャマシュが旋回浮遊をしてジェイド達を待っていた。その真下には雪に埋もれた車が、木に衝突したそのままの姿で残されていた。車は前面が潰れ、フロントガラスもひしゃげている。ジェイドは急いで車内を見るが、誰も乗って居なかった。ひとまず遺体がなかった事に安堵したが、血痕がまざまざと残っており、ジェイドはその出血量に眉を顰めた。
ジェイドが車から顔を上げると、ヘルレアが張り出した岩場を見ていた。
「どうした。何か気になる事でもあるのか」
「いや、なんでもない」
「これ以上は追えないか?」
ジェイドの言葉に、ヘルレアはシャマシュを確認している。シャマシュは相変わらずふわふわと定まらない動きで、目線の高さを浮遊していた。その手にはオルスタッドのペンライトが大事そうに握られている。
「追えるが……その出血量でこの場からいなくなったと考えると、おそらく何者かの助けがあったのではないかと思われる。今この状態で他人を助ける余裕があるのは、私としては不思議だが人同士ならばあり得なくはないか。なんとか生き延びてくれているといいが」
ジェイドは、初めてヘルレアが失踪者を案じる素振りや懸念を口に上らせた事に、少しだけ安堵を覚えた。王はオルスタッド達の事など、今まで、些末で気にかけるような事柄でないような態度を一貫し続けていたのだ。王がじれればジェイド達の思惑は全てが反故になる。ならば王の意志を確認できただけ希望が見えたと言っても過言ではない。
――ヘルレアの意志一つで明暗が決まる。
王がここでオルスタッドを見捨てれば、俺達に先はない。
ジェイドにはここが何かの分かれ目のように思えてならなかった。もしこれからヘルレアと――どんな形であれ――付き合わなくてはならなかったとき、人に対してどれだけ真摯に向き合えるかで関係性が変わる。ステルスハウンドはただの宿り木に終わるか、あるいは王が番いを持たない協力者になるか。
ヘルレアは先程見つめていた岩場の周辺を慎重に見ていた。端から見てもヘルレアの異変は見て取れた。
「王、どうした?」
「濃厚な血の臭いがしているんだが、これは少し前嗅いだような癖のある……綺士なのか」
「それが本当だとしたら何があったというんだ。血だらけでひしゃげた車と、綺士の血が残され――」
「そこで待っていろ」
ヘルレアが車道を外れ森に入ってしまう。しばらくするとジェイドの本へ戻って来た。その片手には巨大などす黒い物体を掴んでいた。
「猟犬の血に惑わされていた。こいつは綺士の頭だ。森の奥まったところに打ち捨てられていた」
巨大な頭は既に硬直していて、本当にただの岩か何かにしか見えなかった。
「オルスタッドが殺したというのか」
「こんな事が人間に出来るか。綺士の頭をもぐなど無理だろう」
「オルスタッドと綺士の間に何かあったのは明白だ。直ぐに追わせてくれ。あいつは優秀な猟犬なんだ。失うわけにはいかない」
「お前達は自らを蔑称とも取れる呼び名で呼ばわるのだな」
「俺はこの呼び名が心底気に入っていてな。猟犬は獲物をけして追う事を止めず、食らいついたら二度と放さないからだ」
「食らいつくにも限度がある」
ヘルレアは綺士の頭をかなぐり捨てて、大岩に登ると事故車を猊下した。ジェイドは王の冷たく凍った顔を見上げる。青い瞳がジェイドが一生涯見ることのない景色を眺めている気がした。ヘルレアは立ち竦むジェイドを見つけたようで、視線を手前へ落とすと、王はジェイドへ手を差し出した。青い瞳が一心にジェイドヘ注がれている。ジェイドが手を伸ばすと細い手指が力強く彼の手を掴んで、一息に岩の上に持ち上げた。ヘルレアの横に立ち周囲を見回してみると事故車がよく見えた。
ヘルレアがジェイドを見上げる。
「何かを取りこぼしたような気がしただけだ」
「いったい何のことだ」
ヘルレアはジェイドに薄く笑ってみせてから、大岩から飛び降りるとシャマシュを促した。灰白色の獣がまっさらな雪が積もる道を避けて、森の中へ入って行った。




