20.未熟な王
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唸り声は歩く程に大きくなっていき、濁った声は懊悩のようでいて耳を塞ぎたくなる。ジェイドは使徒の影に注意しながら森を歩き、なおかつ、その足運びは速かった。王、一人で幾体もの蛇を相手にさせるわけにはいかない。たとえジェイドが王に取って役立たずの足手まといだとしても、数体の足留めくらいは出来るはずだ。たとえそれで命を落としたとしても、組織の意向は貫かれ、カイムの采配は遵守される。その為にジェイドはカイムの側に――王の側に居るのだから。
険しい森を進んでいると、微かに牛に似ていながらそれよりも低く重い鳴き声が、幾つも聞こえて来た。重いものが打つかる音が幾度も上がり、その度に鳴き声が囃し立てるように響き渡っていた。ジェイドは音へ向かって更に速度を上げて動き出すと、金属が擦れ合うような耳に突き刺さる今までと異なる音も届いて来る。
音のする場所の近くまで来ると、黒い巌が子供と向き合い立っているのが見えた。見間違うはずもない、王だ。王の前に居る怪物は使徒より一回り大きく、使徒と比べると骨格もより強靭に張り出している。
王と、おそらく綺士は互いに間合いを取り合っているが、森に隠れている使徒が、横からヘルレアを妨害しようと時折向かってくるので、王の方が体勢を崩し易かった。王は使徒どもに囲われて、綺士と対峙している。
ヘルレアの背後から使徒が忍び寄って来ているが、傍からも走り込んで来る蛇がいた。ジェイドは王の背後を狙う蛇へ狙いを定めて銃を放った。ジェイドの存在に気付いていなかった蛇が、突然後頭部を撃たれたので対処出来ず崩折れ、雪に突っ伏した。王は傍から迫っていた蛇を蹴り倒すと、背後を振り返り、倒れた使徒の側へ寄り頭を踏み潰した。綺士はジェイドの存在に気が付いて、雄叫びを上げた。それと同時に使徒が倣って騒ぎ出すと、ジェイドは王の元へと走った。
「本物の馬鹿だな、お前は」
「今頃気付いたか」
「来たのなら精々働いてもらうぞ。使徒の足留めをしろ。とどめは私が差すから、それ以上は動くな。邪魔だ」
「了解」
ジェイドは興奮した使徒達の脚を狙って銃を撃ち始めた。ヘルレアは綺士へ突進して行くと、体の大きさが全く異なるというのに、掴み合いの力比べを始めた。両者の力は拮抗するどころか、王が少し押している。綺士の足元の雪が擦れて、地面が露出していた。
「この図体のでかい化け物め、とっとと親の元へ帰って血でも啜っていろ」
ヘルレアの足元が陥没して、綺士の体が持ち上がり、そのまま背後へ投げ飛ばした。かなりの重量がある綺士が放物線を描いて、使徒の上に落ちた。潰れた使徒の血が雪を染め、直ぐに立ち上がった綺士も半分贓物でぬらぬらと光っている。
「こちらに投げるな、潰す気か」
「生きているんだからいいだろう。文句を言うな。覚悟の上で来たのだろう」
「俺は犬死にする為に来たわけではない」
「猟犬が犬死にとは笑わせる」
綺士は何の痛手も受けている様子はなく、ヘルレアへと向かって来ると両の鋭い爪で切りつける。金属が擦れる音の中で、ヘルレアは上体だけ爪を躱し、外套の腰辺りからナイフを出した。黒い刀身に青く光る文字が刻まれていて、時折、光が波のように強弱を付けて走っていた。ヘルレアはナイフを順手に持つと爪を刃で切りつけた。耳鳴りのような高い音が響き渡って、ジェイドは一瞬、二人に気を取られた。ヘルレアが爪を受け止める度に、幾度も震えの来る高い音がこだましていた。ジェイドが使徒を銃で抑えていると、鈍い音がしてから重い物が落ちた。ジェイドが使徒を躱していると、その重い音の正体が視界に偶然入り分かった。綺士の爪が折れて地面へと落ちた音だったのだ。ヘルレアは今も綺士の爪に対してナイフで応戦しているが、次第に爪が刃こぼれを起こし始めていた。あの小さなナイフに強靭なはずの綺士が備える爪が負けてぼろぼろになって行く。
王は一歩間合いを詰めると懐に入って、大きく切りつけた。綺士が金属を掻くような声音で悲鳴を上げた。
「人の姿を表せ、元人間。恐ろしくて姿も表せないか。王に対して不遜ではないか」
ヘルレアは蹴りを入れると、綺士は吹っ飛び木に叩きつけられた。雪が雪崩れ落ち舞い上がる。綺士は雪の中から起き上がり立ち直ると、既に胸まで受けていた切り傷が消えていた。爪は根元から折れて落ちると、直ぐに新しい爪が生え変わった。鼻息荒く粉雪を舞い上げると、綺士は王へ飛ぶように体当たりをして来たが、ヘルレアはそれを両手で受け止めた。その瞬間にナイフを落としてしまった。
「我の王と、対をなす双生児の王よ。これから死ぬ未熟で矮小な王に敬意など必要ない」図太く濁った声で綺士は嗤った。
「侮るな。たかが下僕が何を言う」
使徒は喋れず、親となる綺士が居なければ本能の赴くままに行動するが、綺士は喋り、王の意思に反しない限り自分の考えを持って行動するものだった。即ち、綺士は自立した存在であり個としての性質が如実に現れる。
ヘルレアが綺士の腕を掴んで振り上げようとした時、綺士が地面に爪を立て力を入れて、王を逆に宙へ飛ばした。綺士は王を追い掛けて跳躍すると、王の体を搔き撫でようと両手を広げて爪を立てた。ヘルレアは中空で上体を立て直し両腕で爪を受け止めたが、切り裂かれて血がしぶく。ヘルレアは自分の血を浴び真っ赤に染まりながら、そのまま綺士の爪を握りしめて素手で爪を折り、握った爪を綺士の肩に突き刺した。綺士は悶絶してヘルレアを弾き飛ばし、地面に叩きつけられた。
ジェイドはヘルレアの方へ向かう使徒を撃ち、何とか足留めをしていた。王の邪魔にならなければいいので、動きを封じられればジェイドの役目は果たした事になる。しかし、ジェイドの思う以上にヘルレアは綺士に苦戦している。番いのいない王だ。ある程度は覚悟していたが王の血を見る事になるとは思いもしなかった。
「無事か、王。動けないなどと言ってくれるなよ」
「笑わせるな。ただのかすり傷だ」
「血まみれなのは気のせいか」
「お前は、私の敵か?」
「中立と言わせてもらおう」
ヘルレアは血まみれの両腕を払い、血を飛ばした。切り裂かれた外套の間から傷が見えているが、既に肉が盛り上がって来ている。綺士の爪を握った手がざっくりと切れているが、ヘルレアは何事もないかのように手を開いたり閉じたりしている。普通なら腕が千切れているところだが、そこはさすがに王というところだろう。
飛び込んで来た使徒の首をヘルレアは通り掛かりで捻ると、綺士の方へ走って行った。
綺士は自身の爪を肩から抜き、既に体勢を立て直している。ヘルレアは真正面から飛び蹴りをするが、脚を掴まれ地面に打ち据えられてしまった。王は厚く雪の積もった地面に叩きつけられたにも関わらず、音は空気を震わすように鳴り渡った。しかし、綺士に持ち上げられた途端、王はそのまま逆さの体勢で綺士の脚を抱いて、音がする程力を込めた。石がかち割れていくような音が轟くなか、綺士は王の脚を掴んだまま、抱かれた方の脚を高く蹴り上げるが、王はその傷付いた腕を放すことはなかった。綺士の脚は次第に滑らかさを失い、関節がどこにあるのか分からなくなっていった。熟れきった果物が絞られたように、血と肉が挽肉になってしまった。高い悲痛な声を上げる綺士はいよいよ耐えられなくなったのか、ヘルレアを引き剥がそうと捕まえていた手を離し、両腕を使って爪で王の全身を引っ掻いた。しかし、王は腕を放そうとせず、背中を傷だらけにしながらも更に引き絞って、次第にくびれさせていく。綺士は体勢を崩して斜めに傾くと、ヘルレアはそのまま脚を絞り取った。そして、王は転げ落ちると直ぐに跳び退り、持っていた綺士の脚を放った。血が尾を引いて、重い音を立てて肉片の状態になった脚が打ち捨てられる。
「その損壊の仕方では再生しずらいだろう」
綺士は何も答えられる状態じゃないのか、脚を引きずって、それでも王へ向かって走っているが、不恰好な身体の為に速度が出ていない。その間千切られた方の脚は血が止まり、少しづつ脈を打っているが、なかなか肉が盛り上がらず燻っていた。王の言う通り無茶苦茶に引き潰された肉体は再生力を滞らせている。王は余裕を持って落としたナイフを拾いに行くと、綺士の元へ駆けていった。ヘルレアは綺士の腕を押さえ込み、逆手でナイフを握って綺士の身体を切り開くように引き裂いた。血が果肉を切断したように飛沫、王はねっとりとした血潮を真正面から受け、皮を剥がされたような姿になっていた。耳元で直接叫ばれたような悲鳴が周囲を巡ると、王はそのまま切り口へ腕を突っ込み贓物を引き摺り出そうするように力を入れた。肉塊が引き出されそうになった瞬間、綺士は腕でヘルレアを引き払って逃げ去り、飛び出た塊を身の内へ納めようともがいていた。
王は全身を赤黒く染め、血に縁取られた青い瞳は強く燐光を灯している。歯を剥き出して綺士と向かい合う姿は、獣を通り越して怪物そのものだった。ジェイドはいつの間にか無意識の内に勘違いをしていた。あれだけ幼く、愛らしい姿を見せても、所詮、本性は王である双生児の片割れだったのだ。
王はナイフを構えて、突き刺す姿勢で綺士の懐に突進する。しかし、王は綺士に横殴りにされて体勢を崩してしまいよろけたが、同時に回し蹴りを食らわせて脇腹の強靭な鱗の装甲を打ち砕いた。綺士は再生の追い付かない連撃に耐えかねたのか、膝から崩れ折れた。途端、綺士は空を仰ぎ遠吠えを初めて、空気が打ち震えた。ジェイドは空気が騒ついた気がして、使徒から一瞬気が削がれ使徒を撃ち損じて、ヘルレアの元へ走らせてしまった。王は飛び掛かって来た使徒の首をナイフで搔き切ると、蹴り飛ばして腹を粉砕した。遠吠えが続くなか、ヘルレアも一瞬だけ中腰になって周囲を警戒していたが、直ぐに意識を綺士へ向けて、剥き出しにされた喉笛を狙って刃を向けた。だが、ヘルレアは躓くように急な立ち止まり方をしてジェイドを振り返った。
「使徒が湧いた。どれくらい数が来るか分からない。奴らはどこかに潜んでいたらしい。人に隠形して気配を隠していたようだ。ジェイド、覚悟しておけ」
「弾が足りなくならない事を祈るよ」
周囲の森が一斉にさざめき始めて、生き物の濃厚な気配が迫りつつあった。
綺士は遠吠えを止めるとヘルレアを見る。
「王よ、あなたの言う通り少々侮り過ぎたようだ……」
「お前と話す理由はもうない。消えろ」
ヘルレアはナイフを投げると追い掛けるように直走った。綺士に正確無比な弾丸のようなナイフが胸へ突き刺さると、小さな柄を握ってそのまま哭いてのたうち回っている。先ほどといい、今回といい、ナイフの刀身は短いというのに、強靭な装甲を備えるはずの綺士を切り裂いて、身の内、その奥深くまで傷を負わせている。ジェイドはヘルレアの持っていたナイフの刀身が淡く光っており、綺紋が記されていた事を思い出した。その綺紋こそが綺士を殺傷する程の威力を発揮させていたのだろう。
ヘルレアは綺士の胸の前へ滑り込むと、ナイフを捻りながら、より奥へ奥へと食い込ませていった。血がヘルレアの手を伝って滝のように流れた。その瞬間、数十匹の使徒が樹木の合間から躍り出て、一斉に王と綺士を中心にして周りに集まって来た。
「まだ、血を浴び足りないということか?」ヘルレアは冷たく笑った。




