おでんとスイーツ
感謝って言うはやさしいけど、なかなか本当にはできんもんなんよw
正月に帰らないかわりに、クリスマス前の休講日を帰郷に当てた。
そして、ぼろぼろになって戻る、やっと座れた片道二時間の、満員電車の中。
事故物件にルームシェアして住むほどの貧乏学生生活を送っているのには訳がある。
両親との不和だ。
家族は小、中、高のどす黒い思い出の中に、グレーに埋もれている。身に受けた愛情は一生ものの財産で、人生の土台になるものだ。わたしにも、確かにそれがある。だから、こんなしょうもない大学生になっているのだが。
げんなりした気分で駅に降り立つ。おとつい発った時より、確実に寒くなっている。外に出ると雪が積もっていた。
夕方だ。街のイルミネーションが融雪された黒い道路に反射されていた。
サイズの合っていないダッフルの前を掻き合わせ、ほうっと白い息を吐く。
さあ、幽霊下宿に戻ろう。
そう思ったら、少し気分が軽くなった。
バス停から下宿まで徒歩で行く。
歩いているうちにどんどん暗くなってゆくし、つま先も冷たくなってきた。
すれ違う学生たちは、これから飲みに行くか、バイトに行くか、みんな目的を持っているようだ。クリスマスが近くなると、学生は二種類に分かれる。
稼ぎ時と思うか、年に一度のビッグイベントに浮かれるのか、とにかく目的のある人種。
それと、盆も正月も関係ない、ぼっちな人種。わたしは後者だ。
小高い丘を背にした下宿だまりがどんどん近づいてくる。
見慣れた風景の中に戻ってゆく。安心感のようなものが沸いてくるが、同時に強烈などす黒い感じが蘇る。
我が愛すべき幽霊アパートに帰り、誰もいない暗い窓を見上げた瞬間、その正体に思い当たった。
罪悪感。
幽霊なんかどうでもいいくらいに疲れていた。
台所の明かりをつけると、クスクスクス…と小さい笑い声が聞こえてきたし、居間兼自部屋のソファにコートを投げた時には突然トイレが流れる音が聞こえた。
暖房をつける。
雑多に並んだテキストのブックエンドにしていた、ニッカのウィスキーを引っ張り出し、台所へ。
コンロにはおでんの鍋があった。
それには触れずに、やかんをかける。
剥き出しの窓から、冷気が入り込んできたのでカーテンをかける。
そうしている間も、コップがカタカタ鳴ったり、ヒソヒソヒソ…とささやくような声が漂ったりした。
まあ、幽霊アパートだから。
普通ですよ、はは、とか呟きながら、カタカタ鳴るコップの一つを取る。
お湯割りを飲むんだよ、それくらい許しやがれぃ。
まもなくお湯が沸く。
お湯割りを作って一口飲んでから、あれ、ハイジはどこに行ったのかな、と思った。
今日帰ることは知っているはずだし、わたしがいる時に外出する場合は必ず置手紙をしてゆくハイジだけど、何のメモ書きもない。おでんが作ってあるということは、夕食までには帰ってくるのだろうけれど。
飲んでいると、例のブルマおたく幽霊が現われた。ペーターである。ここのところ、よく出現しやがる。
だけど、こっちもペーター防止策を講じてある。ペーターがブルマ語りする前に、すかさずテレビをつけると良い。賑やかなCMやバラエティーが流れると、ペーターは一気に薄くなり、そのうち消えてしまうのだ。
それで、ペーターを無視して居間に行き、テレビをつけた。
ゲラゲラ笑い声が聞こえるバラエティ番組が流れ始めたが、次の瞬間、いきなり砂嵐が画面を襲い、わたしは久しぶりに身が凍る思いをした。
来る。きっと来る。
…砂嵐の中に、ものすごい死に顔の長い髪の女性を見てしまった。
「ああもう勘弁してくれよもう嫌なんだよあああああああ」
テレビを消して台所に戻ってみたら、ペーターがようこそとばかりに語りだすじゃないか。
「三つ編みの少女とブルマの相性が良いことは周知の事実だが、この抜群の相性の理由について考えてみたことがある者は滅多にいない」
サダコと対面するか、幽霊のブルマ語りを聞くか、わたしに与えられた選択肢は、この上もなくしょうもない。
仕方ないのでテーブルに着き、お湯割りの続きを飲み始めた。
飲んで酔って何もわからなくなっちまえ。
「あのう…、お酒ばかり飲むのって、身体によくないですよ」
ふいに女の子の声がしたので飛び上がった。
恐る恐る振り向くと、長い髪を豪華にカールさせて、化粧もばっちりで、ちゃんとしたブランドものの服を着た子がケーキの箱を持って立っている。
「これ、届けに来たんです。ハイジと一緒にどうぞって思ったけど、お酒だけ飲んでいるなら、今食べてください」
ことん、と、ネイルの施された綺麗な手がケーキの箱をテーブルに置いた。
どうやらこの子は本当の人間だ、幽霊じゃない。
ああ、そうか。この子が。
「クララ…さんですか」
そんな名の日本人がいるわけないのだが、あだ名しか聞いていないのだから、そう呼ぶしかない。
クララはにっこりした。美人だった。
「はい」
と、クララは言った。
クララは想像以上の美人だったし、お金持ちのお嬢さんみたいだったし、声も可愛いし、性格も良さそうだ。
ハイジ待ちの空虚な時間を一緒に過ごすには申し分ない相手なんだが、問題は。
「ブルマ…」
ペーターが、目の色を変えていた。
クララはぎょっとして目の前の幽霊を見ている。そりゃそうだろう、こんなにはっきり見えているんだからな。
「ハイジから聞いてませんか。ここ、幽霊下宿でして」
説明している間にも、ペーターは怪しい動きを始めていた。
妙に前かがみの姿勢で立ち上がり、ちょっと息を切らしている。
(この、生臭幽霊が)
わたしは食卓塩の蓋を開け、ぱっぱっと振りかけてやった。
ペーターが消えたので、客人には向かいの席に座っていただくが、コーヒーを入れている間に悲鳴が聞こえた。振り向くと、似たような背格好の男の幽霊が何人も群がり、座っているクララを囲んでいるじゃないか。
「きゃ・・・きゃあっ」
顔を覆っているクララの髪の毛をさわったり、耳に息を吹きかけたり、連中やりたい放題である。
どれがペーターやら、似たり寄ったりで分からない。
(ペーターの群れがクララを襲っている)
(早くなんとかしないと)
きゃあきゃあ悲鳴を上げ続けるクララに向かい、食卓塩を振りかけてやった。
うちの食卓塩の除霊効果は半端ない。
なにしろ生まれついての除霊体質のハイジが毎日触っているからな。
ハイジのパワーが移っているのかもしれない。
「塩かけなよーあははー」
と、自分の留守中に何かあった場合について、ハイジは言っている。
確かに強烈な塩なんだが、だからと言って。
「ふっ…」
誰もいなくなった椅子に、わたしは文字通り腰を抜かした。
冷たい床に尻もちを着いた。がちがちと歯が鳴る。
塩の除霊パワーがいくら強烈だからと言って、肉体のある人間まで消滅してしまうものだろうか。
…否。
腰がたたないわたしは、テーブルに縋りつきながら立ち上がった。
確かにケーキの箱がある。たぶん、セ●アで買ったのであろう箱にリボンがかかっている。ケーキは手作りらしい。
震える指でケーキの箱に触れたその時、軽い音を立てて台所のドアが開いた。
ぼんやりした顔のハイジが戻ってきた。
「クララねぇ、ずっと病気だったんだー」
ほかほかの大根を噛みながら、もごもごとハイジは言った。
「急だったからびっくりしたよー。今日うちに来るって言ってたから、飲み物でも買いに行こうとしてたら連絡が入ってね」
それで書き置きする暇もなかったのか。
淡々と言いながら、ハイジは旺盛な食欲を見せる。
湯気のたつ白飯に勢いよく振りかけられた「のりたま」とか、豆板醤が効いた春雨サラダとか、もりもり食べている。
ハイジのホッペはつやつやで、相変わらず生気に満ちている。
わたしも大根を口に入れた。
じんわりうま味が広がる。体を毒していた疲れが癒されてゆくようだ。
「旨いねこれ」
「んー」
練り物をもがもが噛みながらハイジが言った。
「クララにも食べてもらいたかったなー」
手作りケーキをどうしても届けたかったんだろう。
食べてもらいたかったんだろう。
ここは、幽霊と人間が交流しやすい場所になっているみたいだから、クララも来やすかったんだろうな。
と、すると。
「ここが幽霊アパートで良かった」
可愛らしいタルトに合掌し、口に入れながらわたしは言った。
するとハイジは、友達が亡くなったばかりなのに、何だかとても幸せそうに、嬉しそうに笑った。
「あははー、生きてて良かったし、クララも生きてこれてよかったって思ってるよー」
高そうなイチゴを使ったスイーツを食べながら、ふと気が付いた。
わたしをさいなむ、どす黒い罪悪感の正体。
おでんも、ごはんも、春雨も、今はもう死んでしまった女の子が作ったデザートですら、光が込められている。
食べてしまったら永遠に失われる輝き。
そして思う。ああ、美味しかったって。
わたしが飲んで酔っ払うはずだったニッカで酔いつぶれ、テーブルに突っ伏してしまったハイジを眺めながら、お湯割りのお代わりを作った。
「感謝、か」
いつの日か、混じりけのない澄んだ思いで、ただ、ありがとうって思えるようになるのか。
感情を爆発させ、言葉をぶつけ合う関係も、いつかは。
クララぁ、ケーキありがとう、美味しかったぁー。
ハイジが子供みたいな声で寝言を言った。
甘味でもピリ辛でも、なんでも合う。
全て包み込む母のような存在。
それがODEN。