【旧作版】黄昏公園におかえり
前に掲載した掌編「午前零時の二人」を元ネタにした短編です。
昔、霊感が強い友達が心霊スポットに行った後「幽霊が生きてる人間をからかって遊んでた」という謎の感想を漏らしたのがきっかけで生まれたお話。
真っ暗だ。
タカヤが意識を取り戻して、まず最初に抱いた感想がそれだった。
暗すぎて、目を開けているのか閉じているのかもわからないのだ。視覚が全くあてにならなかった。
耳の方はどうやら無事なようで、すぐ近くで誰かが話し合っている声が聞こえてくる。
「あら~、ご愁傷様~」
「若いのにかわいそうだ。きっと親御さんも深く悲しむだろうね」
「ま、仕方ないだろ」
「ポチ子は仲間が増えて嬉しいのだよー?」
何だかすごく湿っぽい内容を話しているのに、近所のおばさん達がよくやっている井戸端会議のノリなのは気のせいだろうか。放っておいたら「あらやだー、ちょっとー」とか言い出すんじゃないだろうか、この集団。
「ほれ、皆の者下がるが良い。このままではらちがあかぬじゃろうて」
わいわいと騒ぐ井戸端会議の集団をたしなめたのは、老獪な口調に似合わない凛と澄んだ少女の声だった。自分と同じ歳かもっと若いか。声だけならそんな印象がする。
「いい加減に現実を見ろ、少年。嘆いたところでどうしようもないことよの」
パチ、と真っ暗に沈んだ視界の奥で、何かが弾けるような音がした。
目を開く。違う。目を開いていたことに今気が付いたのだ。今まで見えていなかっただけで。あるいは、見ようとしていなかっただけで?
眩しさすら感じることなく、鮮やかに開かれた世界は金色に染まっていた。
黄昏の空、オレンジとイエローの陰影を映す雲。
その空を背負って微笑んでいるのは、長い髪の毛を肩から垂らし、こちらを覗き込んでいる和装の少女だった。
――ああ、これは夢だ。
タカヤは勝手に自分を納得させた。
どうにもおかしいと思った。これは間違いなく夢オチだ。
夕暮れの空をバックに、いつの時代のお姫様かという感じの豪勢な着物を着た美少女に、現実を見ろとか言われた。つまり夢の時間はもうおしまいってことだ。
せっかく美少女が出てきたんだから、もうちょっといい思いをしてからおはようございますと言いたい。
そんな愚にも付かないことを、彼女いない暦=年齢のタカヤは考えたのだが。
「愚か者め。夢なんぞではない。幽霊は眠らぬから夢など見ぬわ。お主はもう死んでおるのだぞ」
「あーはいはい、幽霊で死んで……って、はい?」
死んでいる、と言った。
夢みたいに綺麗な少女の残酷な言葉が、妙にリアルな感触で心を突き刺す。
何の、冗談だろう。
死ぬようなできごとなんて、そうそう起こるわけがなかった。 まだ十七歳だから寿命なんて当分先の話で、五体満足いたって健康。思いあまって死を選ぶような悩みはない。豊かで平和な現代日本の、特別なことなど何もない高校生が――。
「そんな簡単に死ぬかよ?」
「事故死など、別に珍しくもなかろ? まぁ、変わった事故ではあったがのう」
「じ……事故?」
「どうやら死んだ時の記憶が抜けておるようじゃが、現実じゃ。人の世に戻ることは叶わぬ。諦めることじゃな」
起きあがる。身体が妙に軽いのに、目の前を黒く塗りつぶされていくような不安を覚える。何だかふわふわとした感覚に包まれていた。
わからない。信じられない。事故なんて、記憶にかすりもしないのに、どうして。
絶対に死んでなんかいない。足だってきちんとある。身体は透き通ったりしていない。服装は桜台東高校の男子制服だ。学校帰りだから当たり前だった。
「いやいやまたまた、ご冗談を。ホラ、俺はちゃんと生きているだろ?」
「お主の頭はハチの巣のようにすかすかじゃな。少し現実を見てくるがよいぞ? 泣いて帰ってくるなら慰めてやらんこともない」
着物美少女は、心の底から呆れた様子で深いため息をついた。さすがにタカヤもむっと来る。こちらは足もきちんと二本生えた立派な人間だ。時代劇から飛び出してきたようなコスプレ少女に、どうしてそこまで言われなくてはならないのだ。
「誰の頭がハチの巣だ! じゃあな!」
可愛いと思ったのに、性格の悪い女の子だ。大またに歩き出したタカヤは、自宅へと向かう。
ここで気づけばよかったのだ。学校から家に帰る途中だったはずの自分が、どうして公園なんかにいたのか。どうして鞄ひとつ持っていないのか。どうして――それを何も疑問に思わなかったのか。
――ああ、やっぱりこんなのは夢だ。
夢に決まっている。夢じゃなければ何だ。早く目を覚ませ自分。
だけど容赦なく、黄昏色の空は青く深く暗く、沈んで。
タカヤはなす術もなくあの公園に戻ってきた。
少女が言ったとおりに、ほとんど泣きそうになりながら。
街の明かりが遠い住宅街では、少しだけ夜空の星がくっきりと見える。
タカヤは一人とぼとぼと公園の門をくぐる。
着物美少女は外灯のついた公園の入り口近く、ブランコに座ってゆらゆらと揺らししていた。結構大きく揺らしているのに、金属のこすれあうキィキィと鳴る音が聞こえないのが不思議だ。地面に付くくらいに長い着物の裾は、ブランコが作りだす風にふわりと揺らめく。
タカヤは静かに少女の元へと歩み寄っていった。
「俺が悪かった」
正しいのは、この少女の方だ。
彼女はブランコを揺らすのをやめて、まるで旧知の友人を迎え入れるかのようにタカヤに手を差し伸べた。
「泣き言ならば聞いてやるぞ」
聞いて欲しかった。切実に、誰かと話をしたかった。
家に帰ってみたものの、もぬけの殻で誰もいなかったのだ。夜遅くになって目を真っ赤に泣き腫らした母親と、表情が能面のように凍りついている父親と、うつむいたまま顔をあげようとしない妹が揃って帰って来た。
彼らの誰一人として、タカヤに気が付かなかった。何度も声をかけた。何度も目の前に立ってみた。気づかない。目も合わない。
言葉少なに、父が妹に言った。
――忌引きになるから、三日くらい学校を休むことになるけど、いいな?
誰のための忌引きなのかは、聞けなかった。
たとえ声が届くのだとしても、言えなかった。
ただ現実を見せ付けられて、タカヤはこの美少女が言ったことを思い出したのだ。
――少しは現実を見てくるがよいぞ?
現実は、どうしようもなく残酷だった。
タカヤは何も覚えていない。何も覚えていないけれど、状況証拠に自分の死を認めさせられてしまった。それが悲しいくて、やりせない。
「誰も俺のことが見えていないんだ。声も全然届かなくて……」
「幽霊じゃからな」
「それどころか、壁をすり抜けたりとかできちゃうんだけど、どういうこと?」
「実体がないからな」
「俺、本当に死んでいるのか?」
「……そこに座れ、皆を紹介しよう」
タカヤの手を取って、自分が座っていたブランコに座らせると、少女は暗がりに向かって声を上げた。
「皆の者、集え。久方ぶりの客人じゃぞ」
ぽつり、ぽつりと、少女の周りに光が浮かびあがっていく。ゆらり揺らめきながら空を走る白い焔。それは怪談でよく出てくる『人魂』というやつによく似ている。
タカヤは喉の奥で生まれつつある悲鳴を飲みこんで、ブランコの鎖をきつく握った。幽霊だ。いや幽霊なのは自分もだ。
錯乱して口をパクパクさせるタカヤの目の前で、人魂は周りを取り囲み、そしてゆっくりと人の姿をとっていく。
一人は二十代半ばくらいの小奇麗な女性。もう一人は皮製のライダースーツに身を包んだ無精ひげのいかつい青年。三人目がどこにでもいそうなスーツ姿の中年サラリーマン。
四人目の小さな女の子だけ妙に異次元。着ているものはストライプ柄のシャツにデニムのオーバーオールと普通なのだが、頭にはピンと立った三角形の耳が。そしてお知りにはくるんと巻いたふさふさの尻尾が。妙にリアルな質感だ。というか、ぴこぴこと動いている、ぶんぶん揺れている。何だ、これ。
「何だ、結局戻ってきたのね、この子」
「まぁ、事故死だから仕方ねぇよ。俺だってしばらくは記憶飛んだからなぁ」
「しかし、自分の子供くらいの年代の子が死ぬのはやはり見ていて辛いものがあるよ」
「だから姫様が連れてきたのだよ?」
あんまりにも緩いテンションで雑談を始められたので、幽霊が出た恐怖も、そもそも自分が幽霊らしい絶望も、ものの見事に崩された。
何だかこの状況には覚えがある。そう、和服美少女に起こされる前だ。ご愁傷様~、とか軽いノリで話し合っていた集団がいたではないか。
「あの時、井戸端会議していた奴ら?」
四人に囲まれて人一倍偉そうに腕を組んでいた和服美少女が、いぶかしげに眉根を寄せる。きょろきょろと辺りを見回し、首をかしげた。
「この公園に井戸なんぞないが。まぁ、よいわ。お主、これからどうするかえ? 諦めて成仏するならそれもよし。もし行き場がないなら、わらわが面倒を見てやらんこともない」
「……というか、全然状況が読めん。何でこの公園こんなに幽霊いんの? というか、よくよく考えたら俺はあんたの名前も知らん」
「それもそうじゃな」
着物の袖で口元を隠し、和服美少女はそれこそお姫様みたいに上品な仕草で笑った。
「わらわはアゲハ。本当の名前かどうかは知らぬ。着物の柄がアゲハ蝶だからそう名乗っておる。よろしゅう頼む」
自分が幽霊だということも忘れて、思わずときめきそうになる。もし今身体と心臓があったら、不整脈を連打しているに違いなかった。仕方ない、思春期なのだ。彼女いない歴イコール年齢の草食系なのだ。
「あ、あたしは詩乃っていうの。シノお姉さんって呼んでね。ちなみに死因はコードレスバンジーね!」
女性が超笑顔で何だかすごく嫌な自己紹介をし。コードレスバンジーて。つまり自殺?
「俺のことはトウカイと呼んでくれ。お前とは事故死仲間だな!」
無精ひげ青年がやたら力強く仲間宣言をかまし。どうしてだろう、あまり仲間扱いされたくない。
「私は山田といいます。生前はシステムエンジニアをしておりました」
おじさんがのんびりと普通の自己紹介をし。ダメだ、この面子の中だと普通過ぎて逆にヤバイ。
「ポチ子はねこまたならぬ、いぬまたなのだよー。五十年生きてるよー。この中では姫様の次に年上だよー!」
犬耳幼女がぶんぶん尻尾を振りながら、よくわからない設定を披露した。いぬまた?
「……えーと、高谷隆哉です。苗字も名前もタカヤです、よろしく」
正直ついていけん、と思いながら、タカヤは己の自己紹介をした。
両親が半ばシャレでつけたこの名前は、一発で覚えてもらえるという点においては非常に便利だ。苗字で呼ばれているのか名前で呼ばれているのか、全くわけがわからないという弊害があるが。あと、地味に変なあだ名をつけられて、多感な思春期に地味なコンプレックスを植え付けられるという実害が。
「そっかー、じゃああだ名はタカタカでいっかー」
「タカヤ二乗がいいんじゃね?」
「勝手にあだ名をつけないでください! あんたら幽霊でしょうが!? もっとこう、幽霊らしい何かないんすか! うらみつらみとか!」
人のコンプレックスを好き放題に行ってくれる。思わず全力でツッコミを入れると、幽霊の面々は一様に顔を見合わせて、きょとんとする。
「うーん、失恋のショックで自殺したはずなんだけどー、もう十年くらい前だし、ぶっちゃけ相手の顔もよく覚えてないっていうか……」
「俺、まだまだバイク乗りたいから成仏してないだけだしよ」
「娘が結婚するまでは死んでも死に切れないんですよ」
「ポチ子はよーかいだからゆーれいじゃないんだよー」
「数百年もいると、恨みなんぞどうでもよくなるものじゃよ」
ダメだ、こいつら早く何とかしないと。
タカヤはがっくりとうなだれる。何だろう、人が悲壮な想いを抱えているというのに、この緩いテンションは。悲しくないのか。辛くないのか。こんな惰性にまみれな生態(死態?)の幽霊が存在していいのか。
わけもわからないうちに死んで途方に暮れている自分の気持ちなんて、どうでもいいものにされてしまったみたいだ。
そこに、白いたおやかな手が差し出される。顔を上げると、アゲハが綺麗な顔で微笑んでいた。
「人は誰しも死ぬ。この公園は、死してなお涅槃に旅立てぬ半端者の巣窟じゃ。気が済むまでいるがよい。黄昏公園はお前を歓迎する」
「黄昏公園?」
「この公園の、我々の間での呼び名じゃよ」
振り返る。公園の入り口、門になっている部分にはまったプレートには《ゆうやけ公園》と記されていた。
「わらわたちは、生まれ来る朝からも眠りゆく夜からも遠ざかった、永遠の黄昏にいるのじゃよ」
そういって、アゲハはとても綺麗な顔で笑った。
どこか空虚に、笑った。
アゲハ。数百年前のことなので、詳しい死因は不明。享年十六歳(推定)。
佐藤詩乃。十年前、結婚詐欺にあい、借金を抱えた末にマンションの屋上から投身自殺。享年二十三歳。
東海道真二郎。五年前、バイクで走行中、路上に飛び出した猫を避けようとして転倒事故を起こし死亡。享年二十六歳。
山田征一。半年前、忘年会の帰り、泥酔状態で真冬の路上で眠りこみ、心不全により死亡。享年四十三歳。
高谷隆哉。先日、学校から帰宅途中、工事中のビルの鉄骨が歩道に落下、その下敷きとなって死亡。享年十七歳。
「ちょっと待ってくださいよ。山田さんだけ、何でそんな死因なんですか!」
「いやぁ、ちょっと飲みすぎてしまいまして。いわゆる凍死ですね。あはは」
「そこ、照れるところじゃないっすよ!」
どうしよう、ツッコミが止まらない。
改めて話を聞いてみれば、ここにいる面々は生まれも育ちも死んだ時期すらもバラバラだった。共通事項といえば、死んでからアゲハに誘われてここにいついたらしいということだ。
「俺は死んだ時のこと覚えていないんだけど、死んだ場所はこの近くだったんですか?」
「あ、あたしあそこのマンション」
シノ姉さんが公園のすぐ脇にある、十階建てのマンションを指さす。
「でも、トウカイは隣の県で死んだっていうし、山田さんもこの公園で死んだわけじゃないわ。多分、地縛霊なのはあたしとアゲハだけかしら」
幽霊によって微妙に行動範囲が違うらしい。タカヤは幽霊の意外なバリエーションに、感心していた。
そんな場合じゃないのは重々承知しているわけだが、実際、この公園でだらだらとだべっている以外にすることが思いつかなかった。着々と順応している自分が怖い。
ポチ子が尻尾を千切れんばかりに振りながら、耳をぴょこぴょこさせて、座っているアゲハの膝元にごろごろと頭をすりつけ甘えている。この動きは、犬というよりもむしろ猫っぽい。
「タカヤ二乗は、一キロくらい離れたところの歩道で死んだのだよー。ポチ子、頑張ってタカタカを運んだのだよー」
「おお、そうか! ポチ子は頑張ったのじゃな」
「頑張ったのだよー」
「頑張ったのは認めてやるから、そのあだ名やめろよ」
「じゃあタカタカ」
「それもやめろ」
――全く、何をしているんだか。
アゲハに頭を撫でられてご機嫌のポチ子に、タカヤはやんわりと釘をさす。このままだと、本気で微妙なあだ名が定着しかねない。
なしくずしに、この妙に陽気な幽霊集団の一員扱いされているけれども、こんなところでまったりしている場合なんだろうか。
本音をいうと、タカヤはまだ自分が死んだということを納得していなかった。死んだ時のことはさっぱり思い出せないし、自分の死体だって見ていない。状況を聞くに見たくもないけど。
だけど自分が幽霊になっているのも死んだというのは、決して揺るがない事実で。時が経っても、夢オチが訪れるわけでもなく。
本当にこのまま、終わってしまうんだろうか。
続きを読みたい漫画だってあったし、隣のクラスにちょっと気になる女子だっていた。夏休みには家族で旅行にいく約束もあったのに。
――もう、話すこともできないじゃないか……。
あまりにも理不尽で、突然すぎる。どうしてこんな目にあったんだろう。何か悪いことでもしただろうか。
悶々と考え込むタカヤの顔を、いつの間にか目の前に回りこんでいたポチ子が見つめていた。
「タカタカ、むずかしー顔するのよくないのだよー。あくりょーになってしまうのだよー」
「ならねぇよ。あと、タカタカって呼ぶな」
「いや、なるぞ。特にお主のように死んで日が浅い幽霊は、悪い感情に流されやすい。あんまり難しく考えないことじゃな」
涼しい顔をして、アゲハが横槍をだす。
「難しく考えるな、って……。無茶言うなよ。俺、まだ十七だぞ!? 酒タバコどころか、車の免許も取れないんだぞ!」
「わらわはお主より若くして死んだわけだがのう?」
ためいきひとつついて、アゲハはすっとタカヤの額あたりに指を突きつける。タカヤは思わず押し黙って、その指先を見つめた。
「辛い思いをしたくないなら、さっさと成仏しておくことじゃ。家族の元に戻って、お主のために捧げられた弔いを受け入れて、四十八日の後に旅立つがいい。それが一番幸せで、楽に済む方法じゃ」
淡々と語るアゲハの顔は、恐ろしく無表情で、タカヤは何だか急に目の前にいる少女が得体の知れないバケモノに見えてくる。
実際、そうなのかもしれない。数百年の時を越えてもまだこの世界に留まっている幽霊は、ただの人間には到底理解できない、底知れぬ何かを知っていてもおかしくはないのだ。
――だって、変じゃないか。
この公園の幽霊たちはみんな、明るくて、気楽で。死んでいるなんて嘘みたいで。まるで平気な顔をしている。
「この公園は、死してなお、生ける人の世に在り続けたい者を肯定する。じゃが、それには条件がある」
風もないのに――あったとしても、幽霊の自分達には意味がないもののはずなのに、アゲハの髪が揺れた。
「憎むな。嘆くな。羨むな。絶望するな。人生は一度きりだ。生まれ変われば今のお前は消える。お前がお前のままで在り続けたいならば、自分が死者であることを認めて、生きる人間を呪うな」
彼女の言葉には、有無を言わせない強さがあった。
――そんなこと、言われても……。
真意を問い返せずに、タカヤは黙ってベンチにへたり込む。そこに――。
「あっ、いけない! もうすぐ水曜日午前零時じゃない?」
空気を読まない底抜けに明るい声で、シノ姉さんが叫んだ。
「シノちゃんさぁ、マジメな空気台無しだぜ?」
呆れた様子でトウカイが無精ひげの目立つあごをさする。
「そうだね。せっかくアゲハちゃんがマジメな話をしているのに」
山田さんも難色を示している。
「シノ姉はいつものことなのだよー」
ポチ子だけがさっきからノリが変わらない。
「まぁ、シノじゃから仕方ない」
アゲハが先ほどの気迫はどこへやら、ひたすら怠惰に頷いた。
事情を知らないタカヤだけが、頭の中を「?」でいっぱいにしている。そんな中、シノさんはシャキッと立ち上がって、敬礼のマネをした。
「もう、みんな酷い! それじゃ、時間だからいってくる!」
「「「「いってらっしゃい」」」」
お見送りの合唱を背に、シノ姉さんは軽やかなステップで駆けていった。
何だか気が抜けて、タカヤは呆然とその後ろ姿を見送る。
「……どこにいったんすか」
「あそこ」
誰にともなく呟いた言葉に、トウカイが答えた。公園のすぐ隣に建っている古びたマンションの、屋上あたりを指差す。何だか果てしなく嫌な予感がしながら、タカヤもそこを見上げた。
少しして、屋上にシノ姉さんの小さな姿が現れる。元気いっぱいに大手を振って、ひょいと高い柵を乗り越えて。
かすかにだけれど、やたらに元気いっぱいな声が聞こえてきた。
「佐藤詩乃、とっびまーす!」
「えっ!? あ……!?」
シノ姉さんの身体が、宙に舞った。
「うわああああぁぁぁぁぁぁあああ!?」
何だかそんなオチのような気はしていたが、タカヤは落ちていく彼女の姿に絶叫する。ここからだとその瞬間が見えることはないとわかっていても、目をつぶった。音が聞こえないように耳も塞いだ、が。
驚くほどに何も起こらなかった。 五分も経たない内に、へらっとしながらシノ姉さんが帰還する。
「はーい、今週の幽霊業務終了のお知らせー!」
「こ、今週の?」
恐る恐るきくタカヤに、彼女はやっぱりへらへら笑って答えた。
「うん、水曜の夜に飛び降りたから。今でもこの時間になると飛んじゃうの」
――ああ、この人やっぱり、幽霊なんだ……。
今更のように納得する。できれば、そんな習性は知りたくなかった。心から知りたくなかった。
「あー。私も時々、クセでタクシーに乗って、家に帰りますよ。途中で気づいて戻ってくるんですけどね」
「山田さん、それで『怪奇! 消える乗客!』って怪談記事に載ったもんなぁ!」
明るく楽しげに和気藹々と、幽霊たちは笑いあう。
憎まず、嘆かず、羨まず、絶望しない。その境地がこれなんだとしたら、自分には少しばかりハードルが高すぎる。
タカヤは、幽霊としてやっていく自信が、かなりなくなっていた。
「……しばらく、考えてきます」
ぽつり呟いて、タカヤは公園を後にした。
行くあてなど、どこにもなかったけど。
桜台東高校の二年D組教室。
自分が座っていた机には、菊の花が飾られていた。クラスは湿っぽい空気で、誰もが菊の花から目をそらしつつ、いつもより控えめな声で話している。
悼んでもらえるのは、いつまでだろう。一ヶ月か、十日か、一週間か。
案外、三日もすればいつも通りになって、バカ話に花を咲かせるのかもしれない。こうして席に座っていても、誰一人自分の存在には気づかないんだから。
タカヤはぼんやりと、ついこの間まで当たり前のように通っていた教室に佇んでいた。
担任教師が告げる。クラスメイトの高谷が事故に遭って――。
「……ここにいるっての」
小学校以来の長い付き合いになる親友の田村も、よくゲームや漫画を貸し借りしていた横山も、まるでタカヤの存在には気づかない。
気分が滅入ってきて、タカヤは学校を出た。
ぼんやりと、死んだ時と同じ帰路をたどる。
普通に、家に帰っただけだった。欲しい漫画もなかったし、ゲーセンに行こうと田村を誘ったら、委員会で遅くなるって言ったから、諦めてさっさと帰ってしまった。
通学路の途中に、工事中のビルがあるのは知っていた。だけど、事故が起こるなんて夢にも思わなかった。今だって、悪い夢じゃないかと思っている。
例のビルの工事は、さすがに中断している様子だ。事故現場を囲う簡易の柵が作られていて、歩道は迂回路になっていた。迂回路の脇には真新しい菊の花束が添えられている。
「嘘だ……」
何も覚えていない。何も知らない。だから、死んだなんて、嘘だ。
そう思いたいのに、思えない。自分が死んでいることを肯定するような事実ばかり、見つけてしまう。
――家族の元に戻って、お主のために捧げられた弔いを受け入れろ。
アゲハの言葉が脳裏によぎる。
そうやって、穏やかに旅立つのが一番幸せなんだと。
何となく、それは理解できた。どうにもならないのだから、それを受け入れて眠って、考えることをやめればいいんだろう。きっとそれは、正しい。
自然と、タカヤは自宅に引き寄せられていた。
一方、黄昏公園では、悠々自適の幽霊たちが頭をつき合わせて相談ごとをはじめていた。
「タカタカが戻ってこないのだよー」
ポチ子の尻尾は下がりっぱなしだ。ポチ子に限らず、全員の間に「まずいことをしたかも」的空気はありありとしていた。
「シノちゃんが空気読まずに飛ぶからさぁ。タカヤ二乗の奴、ドン引きしたんだって」
「仕方ないじゃない、そういう幽霊なんだもの、私!」
トウカイの言葉に、シノ姉さんがムッとした顔で抗議する。山田さんが心配そうに公園の入り口を見やり、ため息を吐いた。
「まぁ、過ぎたことをいっても仕方がないよ」
「そうじゃな。そろそろ様子を見に行った方がいい頃合じゃ」
アゲハは着物のふところから、小さなお手玉を一つ取り出す。
彼女がまとう着物と似た、蝶々の模様が入ったちりめん生地でつくられたその玉に、そっと口付けた。お手玉にふわりと金色の光が宿る。それは、昼から夜に至る刹那の、黄昏空のように輝く。
「ポチ子や。お主、タカヤの匂いを覚えているかえ?」
「任せてなのだよー」
お手玉をもらったポチ子は、そのまま軽やかに宙返りをした。すると犬耳幼女の姿は消えうせ、かわりにお手玉を咥えた茶色い毛並みの日本犬が姿を現す。
「うむ、ではトウカイよ、頼まれてくれるか」
「了解!」
トウカイは口笛ひとつ吹き、空に向かって格好つけながら指を鳴らす。
二つ並んだブランコが、風もないのにぐらりと揺れた。黒ずんだ鎖が悲鳴をあげ、ブランコの間を黒く大きな影が走ってくる。
それは、トウカイの前でピタリと止まって、全貌を現した。
――バイクだ。
「よし、ポチ子、荷台に乗れ。飛ばすから落ちずに、きちんと匂いをたどってくれよ?」
バイクにまたがったトウカイの後ろに、お手玉を加えたポチ子がすとん、と飛び乗る。エンジンが咆哮を上げた。
「じゃ、ちょっと家出少年捕まえてくっから、ここで待っていな!」
「家出とは言わぬ気がするが、まぁ、いい。連れて行ってくれ」
幽霊といぬまたを乗せたバイクが、風を切り走り出す。
その姿が車道に消えていくのを見守って、シノがため息をついた。
「いいなぁ、トウカイ。幽霊になってもバイク乗ってどこにでも行けるの」
「私も、タクシーで家に帰ったりしているけどね」
「でも、山田さんは、せいぜい町内くらいでしょ? トウカイってその気になれば海外でもいけるんじゃない? 私なんてこの近辺しか出歩けないのよ。つまんない」
子供のように、シノ姉さんが頬を膨らませるのを、アゲハは隣でおかしそうに笑みをかみ殺している。
「シノは地縛霊だから仕方がないのう。わらわなんぞ、この公園の外に出られぬのじゃから。まだマシであろう?」
「アゲハはいいじゃない。分身の術使えるんだから」
「莫迦者。分身の術などではないわ。お主とて、あと何十年かすれば妙な術のひとつやふたつ使えるようになろう。五十年生きた犬にだって、変化の術くらい使えるのじゃからな」
「そんなに待てなーい……」
「いいじゃないか、その内ふらっといけるようになると思うよ」
山田さんが朗らかに笑い、そして苦笑を漏らす。
「それよりも私は、トウカイ君が騒ぎを起こしていないか心配だね。怪奇特集に載るのは私だけで充分だよ」
――その頃。
「久し振りの単車は気持ちいいなぁ!」
「…………」
「どっちだ! 右か? 左か!」
アゲハから預かったお手玉を咥えていたので、ポチ子には返事ができなかった。返事をするにしても、どこに向かって返事をすればいいのかよくわからない。とりあえず、首を右に振ると、それでわかったようで、バイクも綺麗な弧を描いて、T字路を右に曲がった。
曲がったところで出あった乗用車の運転手が、驚きのあまりに目を見開き、甲高いブレーキ音を鳴らして車を急停車させるのを見る。
それに伴って、他のブレーキ音も重なり、威嚇するかのようなクラクションも重なっていく。とりあえず、事故にはいたらなかったようで何よりだ。
お手玉を咥えたまま、ポチ子は首を上げる。
バイクを駆るトウカイの体には、本来ならば頭があるはずの部分に何もない。首から上が、ない。
東海道真二郎。かつては峠の覇者と呼ばれたバイク野郎。うっかり首が吹っ飛ぶほど凄まじい事故死をしてしまってからは、各地の峠を走っては、首無しライダー都市伝説の主人公に抜擢されてきた男。
――トウカイがゆーれいを増やしそうなのだよ……。
まだ明るい街中に出現するには、あんまりオススメできない幽霊だった。
タカヤは自宅に帰りついていた。
誰もいない。無人の家の中に、嗅ぎなれない線香の匂いが染み付いている。
恐らく、自分の通夜が始まった頃だろう。しばらく、誰も帰ってこない。
「変だよな。俺、ここにいるのに、通夜とかさ」
遺体に向かっていくら手を合わせても、そこにもう、高谷隆哉という人間は存在しない。も抜けの殻だ。
空は暮れなずみ、ひと気がない部屋には柔らかい金色の光が下りている。
夕焼け空が綺麗だなんて、生きている時には全然気にしたことがなかった。
住みなれたこの家に、帰ってこられない日が来るなんて思いもしなかった。
諦めて、死んだことを認めて、見送られて、ここではないどこかに――たとえば、天国と呼ばれるところに行って。
それは幸せだろうか。本当にそうだろうか。
そこに家族はいない。友人もいない。今までの人生で手に入れてきたものは、何一つもっていけない。
それは――本当に幸せだろうか。
ガチャ、と扉の開く音がした。
入ってきたのは、妹の佳苗だった。
ずっと泣いていたんだろうか。真っ赤に腫らした目元をごしごしとこすりながら入ってきて、窓際に背を預けるタカヤにはまるで気づかず、前を素通りする。部屋の隅に置いてあった鞄の中身を漁っているところをみると、何か忘れ物があって取りに来たのかもしれない。
「佳苗」
名前を、呼んでみる。
そこそこ仲が良い、普通の兄妹だったと思う。お互い思春期に入ってからは、さすがに少しは距離ができたけど、それでも漫画の貸し借りをしたり、一緒にお笑い番組を見て笑ったり、そういうことを当たり前にして過ごしてきた。
「佳苗、聴こえるか?」
知っている。気づいていない。聴こえていない。
わかっていても、どこかで期待していた。
いつものように「お兄ちゃん」て、返事をするんじゃないかって。
佳苗はこちらには目もくれない。目的の物を見つけたらしく、自分の鞄に詰め込む。そして、仏壇代わりに用意された、小さなテーブルに載せられた焼香台と菊が生けられた花瓶、申し訳程度に飾られた小さな写真立てに目を止める。
高校の入学前に、制服のサイズあわせをしたついでに撮った写真だ。
「お兄ちゃん」
佳苗はこちらに背を向けて、写真の中のタカヤに話しかける。
「どうして、死んじゃったの?」
「そんなの、俺がききたいよ」
聴こえていないとわかっていながら、呟かずにはいられなかった。
「お父さんもお母さんも、泣いてるよ」
「俺だって、泣きたいよ」
「私だって、いっぱい泣いたんだからね」
「……知ってるよ、そんなこと!」
見ていればわかる。家族が悲しんでいることくらい。友達にだって、泣いてくれる奴がたくさんいるだろう。
――だけど。
すぐそこにいても、言葉も通じない。姿さえ見てもらえない。ちゃんと答えているのに、何も伝わらない。伝えられない。
今泣いている人間のどれだけが、自分のことを覚えていれくれるだろう。
一ヶ月もすれば、あのクラスを満たしている重い空気だって、何ごともなかったかのように消えているだろう。
だから、諦めて旅立つのが、幸せなんだって。
そんなこと、受け入れられるわけがない。
「もう会えないんだよ?」
佳苗の呟きに、熱くなっていた頭の芯が、すっと温度を失っていった。
会えない。すぐそこにいるのに、届かない。
幽霊と生きている人間がいるのは、同じようでいて、きっと別の世界だから。
アゲハの言葉を借りれば、昼からも夜からも取り残された、永遠の黄昏の中にあるから。一度この黄昏にきたら、元の世界には戻れない。
死という名の夜に向かう以外に、道はない。朝はやってこない。
――それなら、こちら側にきてもらえばいい。
身の回りの人間が全員死んでしまえば、きっと寂しくない。永遠の黄昏も、得体のしれない夜も。
そこにいて触れられる。言葉が伝わる。人間だった頃に当たり前だった全てが、また手に入る。
「佳苗……」
妹に、手を伸ばした。ああ、そうだ。連れて行けばいいんだ。妹も、両親も、友人も誰もかも。連れて行ってしまえば、誰も、泣かなくていい――。
「お主はそれで本当に満足かえ?」
ふいに、アゲハの声が耳朶に響いた。
「――っっ!」
思わず伸ばしかけた手を引っ込める。目の前に一羽のアゲハ蝶がふわりと舞い、タカヤの肩に止まった。
「だから、難しく考えるなと言ったじゃろうて。お前は、案外頭が弱いのう」
「あ、アゲハ!?」
「いかにも、わらわはアゲハじゃ」
「え、蝶に変身とかできんの? ってか、地縛霊なんじゃ」
「無駄に長く幽霊をやっておると、妙な特技が身につくものでな」
肩にとまった蝶はふわりとまた舞い上がる。窓から外を覗くと、バイクを背にしたトウカイと、お手玉を加えた日本犬の姿があった。あの尻尾のくるんとした感じは、もしやポチ子だろうか。
「お主があの娘を本気でこちら側に引き込みたいというなら、わらわはもう止めはせんよ。じゃが、あの娘にも……世間に生きる大体の人間には、死んだら悲しむ人間がたくさんいることを覚えておくことじゃな。お主も、身にしみてわかっているとは思うがな」
――ああ、そうだ。簡単なことじゃないか。
「やっと、アゲハに言われたこと、わかった気がする」
自分が死んで悲しまれるのと同じくらい、世界中の人間にも悲しんでくれる人が存在しているだろう。気づかないだけで、恐らくいるのだ。思わぬところで、自分の存在を悼んでくれている人が。
だから、これ以上悲しみに巻き込んじゃいけない。
人は誰しもいつか死ぬけれども、納得した死に方ができるのなんてほんの一握りだけだ。死んだ方も、生きる方も、簡単に受け入れられるはずもないから。諦めて旅立つのは、残された人にとっても、一番幸せな結末なんだということ。
「シノとて、今でこそあんな阿呆になっておるが、最初からそうじゃったわけではない。山田も、あの公園に来たばかりの頃は、ふらふらと辺りをさまよっておったしな。トウカイは……あやつは最初からあんなだ。例外じゃな」
「……トウカイさんらしいすね」
「うむ。どうやら完全に我に返ったようじゃの。悪霊にならずに済んで良きことじゃ。どうする? このまま逝くのかえ?」
ひらひらと舞いながら、蝶はアゲハの声音で囁く。
このまま逝く。通夜を終えて、葬式を終えて、小さな箱に骨を詰め込まれて。
捧げられたお経を聞きながら、四十八日の後に旅に出る。
そこで高谷隆哉という存在は、本当の意味で終わってしまう。その先にもし何かがあるのだとしても、この世界からは消えてなくなる。
それが、一番穏やかで、優しい結末。
今なら、それもいいかと思えた。永遠に存在し続ければ、自分が容赦なく忘れ去られていく様を見なければいけない。妹が自分の年齢を追い越すのだって、何年も先の話じゃない。きっと滅入るイベントに違いない。
だから、眠ってしまうのがいい。
さよならを、しなければ。
自分が生きてきた、この世界に。
「佳苗」
もう一度、名前を呼んだ。
聞こえないのはわかっている。伝わらないのもわかっている。
「父さんと、母さんに、伝えて。早く死んで、ごめんって」
ただの、自己満足かもしれないけど。
「死にたくなかったけど、生きたかったけど……仕方ないもんな」
届かない場所に、手を伸ばした。
小さい頃のことを思い出す。走って、転んで、泣きやまない小さな妹の手を握って、家まで歩いたいつかの日。
あの時も今日みたいに、綺麗な黄昏だった。世界が金色だった。
「――今まで、ずっと、ありがとう」
それは、何の偶然だったんだろう。
窓も開けていないのに、何もいないはずなのに。
カーテンが一瞬、ふわりと動いて。
「……お兄ちゃん?」
佳苗が、振り返った。
タカヤは笑った。多分、見えてはいないだろうな、と思いながらも。
案の定、佳苗は首をかしげて。
だけど、涙をためた目元をぬぐって、微笑んだ。
その笑顔が見られただけで、一瞬の奇跡には充分な価値がある。
自分を悼んでくれた全ての人の幸せを願うだけの、意味が生まれる。
小さな頃のことを、もうひとつ思い出した。
まだ自分と妹が小学生の頃だ。亡くなった祖母の葬式の帰り道だった。
人の死を悲しみ泣き続けられるほどは大人じゃなくて、人の死から無邪気に目をそらせるほどは子供じゃなかった。
「お兄ちゃん、おばあちゃんは天国にいけたの?」
「いけたんじゃないかなぁ」
「天国にいけない人はゆうれいになるんだよね?」
「うーん、うちのばあちゃんは大丈夫じゃないかな」
「ゆうれいさんは、天国にいけなかったら、どこにいるのかな」
「うーん? その辺を歩いているんだよ、きっと」
ほら、その辺に。と指さしたら、妹は火がついたように泣き出した。
何もいないって、冗談だって、言い聞かせるのに苦労した。
今だったら、もうちょっといい答えを言ってやることができるのに。
幽霊なんて、何も怖いもんじゃない。だって、元は人間なんだから。
人間と同じように、泣いたり笑ったり怒ったりしながら、日々を過ごしているに決まっている。
「タカヤ二乗、成仏しちまったのかなー」
トウカイが公園に捨てられていた雑誌のページをめくりつつ、呟く。
三流ゴシップ誌の安っぽい誌面に、『納涼! 怪奇特集第一弾 白昼の市街地を疾走する首なしライダー』なる見出しが躍っている。
「あれから半月かぁ。大人しく線香焚かれているのかもねー」
シノ姉さんが呟きつつその誌面を覗き込んで、げんなりとした。
「もう……。この公園から二人目の怪談デビューじゃないの。やめてよね。変なオカルトマニアが肝試ししにきたらどうすんのよ」
「俺はこの公園内で目撃されたわけじゃなないから、いいだろ?」
「むしろ、シノちゃんの飛び降り癖のせいで、あのマンションがオカルトマニアの間で話題になっているらしいけどね」
「え、ホント!?」
山田さんにやんわりと指摘され、シノ姉さんが慌てふためいた。
バス停からすぐそこ、駅まで徒歩十五分。決して酷い立地ではないにも関わらず、彼女が飛び降りしたマンションは、1LDK三万円の破格の家賃だ。
「昔ならともかく、今は怨念つるっと忘れちゃったから、よほど霊感ある人じゃないと見えないと思うわよ」
「でもまぁ、一度悪い噂がつくと、なかなかねぇ」
「もうそろそろ時効よ」
現在進行形でコードレスバンジーを続けているにも関わらず、シノ姉さんは厚かましく時効を主張する。
「シノ姉さんがこの公園でいちばん怪談になっているのだよー」
「ポチ子まで! 酷いわ!」
尻尾ふりふり、耳ぴょこぴょこさせながら満面の笑顔でそんなことを言うポチ子に、彼女は大げさに鳴きまねをして崩れ落ちた。
空が暮れなずむ黄昏時。
薄く流れる雲はオレンジ色。西の金色から東のラベンダーへと、美しいグラデーションで染まっていく。
「皆のもの、静かにせい」
滑り台のてっぺんにある手すりに腰掛けていたアゲハが、ひらりと地面に降り立った。
すたすたと、公園の入り口にある門へと歩いていく。
誰からともなく、その後ろにぞろぞろとついていった。
「全く、遠慮せずに入ってくればいいものを」
「いや、何か楽しんでいるところ、悪いかなー……っと」
「こやつらが騒がしいのはいつものことじゃ」
アゲハは不敵に笑んで、手を差し出す。
「ようこそ、黄昏公園へ」
白く美しい彼女の手に、タカヤは自分の手を重ねた。
今だったら、天国にいかなかった幽霊がどこに行くのか、答えられるよ。
生まれだす朝でもなく、死にゆく夜でもなく。
黄昏時で立ち止まっているのが、幽霊なんだって。
だから、もう少しだけ。
自分が好きだった人の未来を、ほんの少しだけ、ここで立ち止まって見ていたい。
それは明日終わるかもしれないし、妹が自分の年齢を追い越すくらいかもしれないし、幽霊として再会してしまうくらい、先かもしれないけれど、
「えーと……? ただいま、かな?」
タカヤは、黄昏公園に帰って来た。ほんの少しの未来が欲しくて。
幽霊四人と妖怪一匹が、微笑む。
――おかえりなさい。
キャラは気に入ってるので、いつか設定をもうちょっといじくって長編にリライトしたいなぁ、と思っている作品です。