ゴミ箱の花
鶏は鳴かないが日が照っていることは悲鳴で分かる。
鶏の代替として今では、日本中でこのネジとセンマイの集合体が起こされる者の代理として悲鳴をあげていることが容易に推測できる。
こんな悲鳴をあげてくれる代理もそうそういるものではない。
しかも今日は余計に頭に悲鳴が響く。宿酔があるようだ。
酒のせいで重くなっている頭と体を起こして考えてみた。、まるでピーナッツだ。
もし昨日飲んだ酒がオイルだったならネジとゼンマイように
毎日、同じ仕事仕事で機会のような私の潤滑油となりえたのだろうかと想像をしてみるがオイルは味が悪そうだと完結した。
昨日宿酔になってしまったのは当然、理由がある。
私もいい年だ。自分の酒貯蔵タンクの容量は承知しているのだがストレスは簡単に容量基準をオーバーさせる。
「自分の思い通りになる人生というのは面白くない」というのは理解できる。
しかし、こと仕事に関しては当てはまらない。
仕事が自分の思い通りに運んでいければ、どんなにいいだろうかと思う。
できればストレスを受けずに生きていきたいが、そんなことは夢物語だ。
それならば、なるべくストレスを感じずに最小に抑えたいものだとぐわんぐわんする頭を引き連れて仕事の準備をする。
重い頭と体に重い背広が圧し掛かる。そして鞄が手から肩に。
これはもう拷問と相違ないように思うが私が選んだ仕事であるから愚痴をこぼしてばかりもいられない。
あまり広くない道に空き缶が立っていた。ゴミ箱は見当たらないが近くにはあるのではないかと思う。
私はここに空き缶が置いた無責任な人のことを想像しイライラが増し更にストレスが圧し掛かってきた。
こんなことですらストレスを感じてしまう自分の許容水位の低さに更にイライラするという不の螺旋構造。
この空き缶を見て見ぬふりをするべきか悩む。私は悩むときは立ち止まってしまう癖がある。そして考えるのだ。
「私がここにある私の所有物ではない空き缶をゴミ箱を見つけてまで捨ててやる義理はない。」という意見と
「こんな真ん中あたりに空き缶が立っていては人や車の通行の妨げになる。」という意見が
私の頭の中の11人の私が議会の中で議論していた。
結果的に後者の意見が9:2で採用された。空き缶を右手に持ちゴミ箱を見つけるまで共にする。
ゴミ箱を発見した。ゴミ箱は佇んでいた。
しかし空き缶がゴミ箱から溢れている。
その溢れているゴミ箱のそばにも空いた缶や空き瓶がある。
なんとマナーが悪いことかと思いイライラが募った。
置かれている缶や瓶もかなり古い、錆がきてしまっている。
収集車はここに訪れないのだろうかと思いつつ
私はそこに空き缶を置き、会社へ向かった。
翌日、通勤していると思わしき知らない人が道に落ちているおそらく空き缶であろう缶を
拾っていた。
跡をつけてみると昨日、私が捨てたゴミ箱の所へ行き空き缶を捨ててどこかへ行ってしまった。
私はこのゴミ箱の全てを理解した気持ちになった。
今までの通勤で空き缶が捨てられているのをあまり見なかったのは拾っている
私の知らない親切な方々がいたからだと。
このゴミ箱にある缶や瓶は人々の親切が募っていったのだ。
周りに立っている古びた瓶や缶は親切の容量を超えたものだった。
なんと美しいのだろうか。事情を知らなかった私自身を情けなく思った。
私はなんでこんなにストレスを受けているのかと社会を恨んだこともあったが
今日から考えを変えることを誓った。
私は私が知らない親切な人々がいらっしゃるおかげで
この程度のストレスで済んでいると。
ストレスを笑い飛ばせる気がした。