七. 1867年、水無月
1867年、水無月
―――伊東がその日は晩く迄起きている事に、藤堂 平助は何かがあると予感した。
新選組を離隊して御陵衛士に加盟して以降、時折「或る人物」の話を伊東から聞く様になった。
信用されている様でよかった、と藤堂は内心ホッとする。伊東を裏切る様で悪いが、新選組に関る情報が彼の口から出てくれば、即刻手を打たせて貰う。・・・代りに、其以外の部分であれば喜んで伊東の為の剣を振るおう。魁先生の異名に懸けてもいい。
併し、藤堂は常に見張られている視線を感じていた。其は伊東からではなく、彼と共に上洛した新選組時代に伊東派で括られていた者達からのものであった。特に在隊時は監察に従事したやり手である篠原 泰之進や伊東の右腕である内海 次郎の監視は厳しく、藤堂の行動には様々な制約が付き纏った。
・・・無理も無い。確かに自分は伊東やその弟三樹三郎とは親しい仲だが、他の衛士に関しては彼等の新選組入隊の切っ掛けとなった元治元年の隊士募集が初対面に等しかった。更に、原田や永倉といった試衛館派幹部との仲が評判であった事や、藤堂自身の優しいが故の迷い易さが衛士の不信を生んでいた。
『上客が来られる事になっているんだよ』
伊東は藤堂にも均しく耳に入れた。藤堂が曇り顔になるも、伊東は其を追及しない。まだ吹っ切れていないのだと、彼は思っている。上客というのは「或る人物」の来訪の事で、伊東派の衛士達はその人物が誰かを既に知っているらしい。
藤堂は厠に立つ振りをして部屋を出、其と無く伊東の部屋に立ち寄る。中から伊東の声が聞える。
「―――なるほど。遂に新選組は、幕臣に取り立てられる事になるのだね」
―――ぴくり。新選組の名が聴こえ、藤堂は聞き耳を立てる。同時に続きを聴く事に、躊躇いと恐怖を懐いた。
幕臣取り立て程の重要な話になれば隊内での機密事項に該するであろう事を、嘗ての幹部である藤堂は想像できた。新選組隊士しかこの重要事項を知りようが無い。
「―――そうなると、僕が新選組に措いてきた者達は大丈夫なのかい?」
―――やはり。藤堂の憶測は確証へ変った。試衛館派が御陵衛士に紛れ込んでいるのと同じ様に、伊東も自らの衛士となる者を新選組に残して来ている。・・・・・・密偵をさせる為に。
「・・・今のところは。なれど、そろそろかも知れませぬ。司さんなどは痺れを切らし始めております」
・・・・・・聞き憶えのある静かな声が、藤堂の予感を的中させる。
「そうか・・・彼等は血気盛んだからね。冷静な君を元締にして本当に良かったよ」
御陵衛士側の密偵は複数いる・・・・・・最も嫌だったのは、その複数の密偵の中にこの声が在る事だった。この声の主は試衛館派ではない雑多な流派の出身の内の一人だが、壬生浪士の時からの付き合いで。
三馬鹿と並んで『凸凹三人組』と呼ばれた、よくよく見知った人物だったからだ。
「君の御陵衛士での席は、いつでも用意できているよ。尾形君」
(おがっち――――!!)
「藤堂さん」
背後が完全に無防備になっていた。 !!藤堂は声を殺して振り返る。其処に居たのは斎藤 一だった。
「斎藤・・・・・・」
「しっ」
斎藤が人差し指を立てて黙らせる。斎藤は相変らずの無表情で、伊東と尾形の会話の続きを藤堂の後ろで聴いた。新選組隊士が切腹で叉減った事、武田観柳斎の動き。其等は斎藤が御陵衛士に移ってから不足していた情報であった。斎藤も叉藤堂と同様に、行動を制限されている。新選組時代に暗殺の仕事を共に果す機会の多かった篠原に認められていた事もあり、藤堂ほど監視は集中していなかったものの、其でも情報には不自由していた。
(尾形さんは黒だったか・・・・・・)
斎藤は有益な情報の恩恵を受けつつそう判断する。最後の話に尾形は、平さんと一さんは息災にしていますかと訊いた。
「・・・ああ。二人が健康でいられるよう、こちらも気をつけているよ」
・・・・・・伊東が申し訳無さそうに答えるのが聴こえた。
・・・・・・。斎藤は藤堂に向かって
「藤堂さんはもう部屋に帰ったら如何だ」
・・・唐突に言った。藤堂は既に揺らいでいる。斎藤は藤堂に己が新選組の間者だと伝えていない。
「斎藤・・・・・・!?」
藤堂は斎藤の素っ気無い口調に、動揺を隠せぬものとする。何で・・・・・・!と思わず声が漏れた。藤堂が如何様な真意をもって御陵衛士に加盟したか、其こそ斎藤が知る筈も無い。
「おぬしには関係の無い事だ」
「なっ・・・・・・」
斎藤にぴしゃりと言われ、藤堂は言葉を失った。自分は何も言わず、試衛館仲間を裏切る形で新選組を出て来ている。之が当然の反応なのかも知れない。
「・・・・・・」
・・・・・・確かに自分は見張られている。厠にしてはそろそろ時間が掛りすぎだ。此の侭此処に残れば、斎藤に対する監視も厳しくなる。
「・・・じゃ・・・・・・「だから、おぬしは何もしなくていい」
―――充分牽制に立っている。
藤堂は斎藤の顔を見上げた。斎藤の顔はこんな時でも面を貼りつけた様に表情が変らなかったが、声色だけが少し変った。
「―――尾形はんは伊東と通じてはりました」
・・・一方で、山崎も尾形と伊東の繋がりを突き止めた。朝早く、屯所へ戻ったその足で副長部屋へ向かい、土方に報告する。
「証拠は掴んだのか」
山崎に起された形となった土方は、少し待て。と言って顔を洗い、目を覚まさせた。山崎を自室に招き入れ、現在に至る。
「尾形はんが御陵衛士屯所である善立寺に入って行くのを目撃しました。丑寅の時刻です」
「丑寅の時刻に・・・・・・?」
土方は顔をしかめた。その様な時刻に出入など、確かに怪しい。其に、尾形と伊東の直接的な関係は伊東の在隊時には終ぞ確認する事が無かった。伊東自身ではなく監察方という職に伊東派が入り込んで尾形に接近した理由は、この時の為にあったのか。
「・・・恐らくは、離隊後の新選組(我等が隊)の動向や内情を報告する為の密偵かと・・・」
「・・・・・・まさしく、伊東側の斎藤という事か」
言い得て妙だった。斎藤と違う点といえば、斎藤はまだ新選組に情報を齎してくれない事だった。戻り易さを重視しての人選であったが、試衛館派幹部というだけで疑う者が御陵衛士側にも在るのかも知れない。
「―――如何する?」
土方は山崎に冷たい声で訊いた。土方が部下に対して決断を委ねる状況は一つしか無い。
「―――・・・密殺します」
・・・・・・山崎は腹を固めていたのか、顔色を変える事無く低い声で言った。土方は意地悪な笑みを浮べる。
「殺れるか」
「・・・・・・忍の技を使えば」
剣だけでは恐らく命迄は取れまい。尾形の剣も大概だが、山崎の剣と較ぶれば稽古より遙かに実戦的である事には相違無い。忍の刀は使えるが、其自体が忍に於いては最終手段でしかないものだ。
「始末の判断は山崎君に任せよう。只―――アイツは、色々と持ってそうだがな」
・・・・・・っ。山崎は流石に表情を険しくした。只殺すのは勿体無い。まだまだ尾形からは絞り取れる材料がある。土方はそう暗示している。
「―――拷問にでもかけますか」
「そこも山崎、お前に任せる。尤も、拷問でアイツが口を割るとは思い難いが。―――殺る時期だけは誤られたら困るぜ」
いつもは即断即決で処分を命じる土方に殺すのを止められた気がして、山崎は少し困惑した。
―――かん
・・・・・・湯気で籠った室内に、湯桶を置く音が高く響き亘る。湯を浴びて、俯く前髪の毛先から鼻頭、顎の先を滴る雫を尾形 俊太郎は掻き上げて拭った。伏し目がちのまつげはまだ水分を帯びている。尾形は朝方になって何事も無かったかの様に帰営し、暢気にも、前日から流せていない汗を流しに風呂に入っていた。
「・・・・・・」
尾形は湯に浸かり、ほぅ・・・と溜息を吐いた。湯気が視界を霞ませ、上気した感覚は気怠さを誘う。・・・・・・尾形は顔を仰のけて、ゆっくりと瞳を閉じた。
顎先から鎖骨にかけ、玉の汗が浮んでは流れた。
―――眠っているのではないかと思われる程の長い静寂が訪れる。・・・音を吸ってぴんと張り詰めた空気の中に混じる微かな殺気は、刻が過ぎる程濃厚になってゆく。併し尾形は立て掛けてある己の剣に手を伸ばさず
「―――崎さん」
・・・・・・目を開き、己の丁度真後ろに佇む山崎に向かって声を掛けた。
「・・・・・・何や」
・・・・・・山崎の観念した声が返ってくる。併し尾形が静寂を俟つより先に山崎は既に此処に居た。刻が過ぎれば過ぎる程に山崎の心の内でも緊張感が増していき、気配を隠すのが難しくなっていたが、始めの頃の隠れた殺気は尾形も気づけていたかは判らない。
奇襲と謂えば、入浴中或いは入浴後すぐか髪結中である。血は湯で流せるし、第一、人を殺しても判らない。
「甲子さんの間諜は、私だけではない」
「!?」
尾形は湯気が自身の表情まで隠す中、湿気を帯びた声で言った。
―――・・・。山崎は尾形の真意が測れず、無言でいた。吐かされる位なら自分から吐いて仕舞おうという肚なのか。
「少なくとも私以外に4名、伊東派が新選組に残っている」
「―――何で俺に言うねん」
尾形は山崎にこの時救われたと言っても過言ではない。だが山崎に救った気は無かったし、尾形も救われたい気は無かったと山崎は思っている。命欲しさに情報を売る男であったなら、山崎はここ迄翻弄されない。
「―――いかぬか」
―――そして尾形の方も、いい加減遣り難くなったのだろう。山崎にとって厄介な相手は山崎の事が厄介だ。
「―――・・・何を企んどるんや、あんた」
「―――何も。昔も今も、私のする事は変らぬ。そうだろう、崎さん」
湯船の中で湯が大きく波を立て、跳ねる。爪先から落ちる水滴が、簀子を濡らした。
「・・・・・・土方副長が私を信用為されぬ事も」
血管や筋肉に沿って流れる水が、締った肉体を強調する。黒光りする髪が背筋を隠すも、口の端が不気味に上がるのは隠さなかった。窓一枚隔てた向うに居る山崎には、その微笑は視えない。
―――急展開を迎えたのは、其から程無くしての事だった。
土方はドスドスと煩い速歩で廊下を進んだ。その日は監察・吉村 貫一郎が探索に出ている日であった。とは謂うも、元監察である山崎や尾形も同じ様に探索に出していた。全て土方の直接的な一つの命令に依るものであった。
「近藤さん、居るか?」
居ますよ~♪ 手をぶんぶん振る影と絶対に近藤じゃない声が返って来て、土方はムカッ!と殺意が芽生えた。このクソ忙しい時に。すぱぁん!!と佐倉よりも激しい音を立てて開き、近藤を怯えさせた。
「ト、トシ・・・此処は一応俺の部屋なんだが・・・・・・」
う・・・! 土方は勝手に開いて仕舞ってからこの部屋の主が近藤である事に気づいた。「近藤さん、居るか?」って訊いたくせに。
近藤の外出が多く沖田が代りに居着いているからすっかり忘れていた。てか近藤が居ない時にも居るって言うからさぁ~。
「すっ、済まねえ近藤さん」
土方が律儀に謝る。そんな土方に沖田がだから居るって言ったじゃないですか、と茶々を入れた。お前は黙ってろ!と土方が怒鳴る。
「ヒドイですよ、土方さん。最近私に全然仕事をくれない!」
ぷん!いい年した大人が頬を脹らませる。だが完全真面目モードの土方は如何にも上っ面な声で
「はいはい叉今度やっから我慢しろ」
とあしらう。がんっ!と沖田は適当に転がされている事にショックを受ける。之でも私だって真面目なのに。
「・・・・・・如何した?トシ」
土方の深刻さ加減に近藤が問題の大きさを察した。立ち上がり、総司、叉後でな。と言って沖田の手に大福を握らせる。あなた達は二十歳を超えた成人に一体何をしているんですか。
沖田が大福を両掌で掲げて崇めている間に近藤が部屋を出て行く。暫くして、薬湯を運んで来た佐倉が
「近藤局長。佐倉です。沖田先生のお薬をお持ち致しました」
と障子を開けると
「―――佐倉さん!私はいらない子なんです!!」
と、ボロボロ号泣しながら大福を頬張っていた。
「・・・・・・何の話ですか!!?」
「―――9人も・・・・・・!?」
近藤は予想を超えた人数に大声を上げ、開いた口が塞がらなかった。
―――この場に居たのは、土方に加え、山崎・尾形・吉村。いつしか見た顔触れである。彼等は土方の命に依り伊東一派の置き土産について調べを上げていた。その数、9人。
「茨木 司に関しては、裏が取れました」
茨木と同僚の吉村が報告する。尾形は全く顔色を変える事無く、山崎の隣に坐っている。目蓋が湿り気を含んだ様にゆっくりと一度、瞬いただけであった。
「佐野 七五三之助が唆したのでしょう」
佐野 七五三之助は伊東と共に入隊した謂わば伊東派の古株である。何故離隊しなかったのか、土方も疑問の眼で佐野を視ていた。
「―――中村 五郎と富川 十郎もです」
山崎が口を開いた。孰れも若く、行動に思考が表れ易かった。尾形が言っていた「少なくとも4名」というのは彼等の事だろう。
「・・・あと5人は?」
近藤が何も発言しない尾形に問う。山崎と吉村は横眼で隣の尾形を見る。残り5人の巧妙な置き土産を、彼等二人は陰から確認した。
「――――・・・」
・・・尾形はすらすらと、淀み無く名を挙げる。
「岡田 克巳・中井 三弥・木幡 勝之進・松本 俊蔵・高野 良右衛門」
孰れも、慶応2年終りから今年にかけて入隊してきた新入隊士の名だ。
「―――勤皇間者の可能性があるな」
土方は鋭い声で言った。
「―――尾形。奴等は何と言っていた?」
「6月に動き出すそうです」
伊東側の間者である事を山崎に表明した尾形がのこのこ此処に現れて無事であるのも不思議な話であるが、尾形は岡田以下新隊士と接触していた。向うの方が尾形を慕っていたのである。伊東が言ったのか尾形が身許を明かしていたのか、彼等は尾形を頼りにし、今後の計画について蟠り無く教えてくれた。
「・・・・・・幕臣取立の話は、彼等の耳にも入っている模様です」
吉村が形のいい眉を賢そうな額に近づけながら言った。
「彼等が動き出すのは、その時でしょう」
「―――局長、如何する?」
土方が近藤に意見を仰ぐ。近藤の決断は早く
「遣ろう」
と、言った。
「―――だが、之は外部に洩れれば厄介な事になる。之以上この件について知る者が出るのは宜しくない。我々だけで往くぞ」
・・・・・・。ふと、山崎が襖の向う側を見た。尾形も、吉村も、全員が襖に視線を向ける。ゆらりと影が大きく動き、逃げる様に消えた。
「・・・見落していた鼠がいた様だな」
土方がにやにや哂いながら山崎と尾形と吉村を順繰りに見る。鼠、と形容するだけあり、その眼は爪を出して戯れながら追う猫の様だ。襖の向うに誰が居たのか迄は判らないが、片手間で追える程度の人間である事は明かだった。
「・・・・・・念の為、鍬次郎さんを潜ませては如何でしょう」
・・・尾形は、あれで隠れた心算であった下手な影を見た後では導き出されない意見を言った。他の者には知らせないとも言ってある。
「―――大石を?」
近藤が聞いていたのか、と言いたげな声を上げる。いいじゃねえか近藤さん。と尾形の擁護に入ったのは、意外な事に土方であった。
「―――トシ?」
「使うのは俺達じゃねぇんだ」
・・・・・・! 山崎はすぐにぴんとくる。近藤は理解できない様で、困った様に頭を傾げていた。吉村もいまいち掴めておらず、途方に暮れた表情をしている。
尾形は取り澄ました顔をして茶を飲んでいる。土方は清々しい表情で煙管を吸っていた。根っこの奥の更に奥の深ぁ~~いところはこの二人は実は似ているのではないかと山崎は思った。
「・・・と、いう事です」
次に場面転換した時、尾形は伊東側のスパイにすっかり為り変っていた。御陵衛士屯所・善立寺に赴き、近藤・土方に報告した内容を伊東にも伝える。
「―――新選組にも、遂に新しい風が入って来る様になったんだね」
若き勤皇志士達の立ち上がろうとする姿を、伊東は先ず称賛した。『伊東、感★激』といつの間にか書かれた扇子が、此れ見よがしに顔の前に示される。スルーされるよりもイタイただ只管やめるのを待っているという尾形の挙動に、内海が
「・・・・・・済みません、何だか」
と深々と頭を下げて謝った。
「如何して謝るんだい!?内海!」
伊東は扇子を裏に返し、『心外だ!』と書かれた面を尾形と内海に見せる。だからいつ書いたんだよ。
「・・・其で、新選組側はどう対応されるのですか」
内海は呆れた溜息を吐いて、伊東の代りに必要事項を確認する。尾形は若しや壺に填っていたのか、口に手を当てて声を抑えていた。
「・・・・・・凡ては法度に遵うそうです」
・・・口から手を放し語り出した時には、唇に愛想は無く、物騒で非情な言葉を淡々と紡ぐ。
言い回しこそ直接的でないものの、彼等とて尾形が今もいる様な特殊な環境に2年いて、屍と化した仲間達の横を通り過ぎて来た者達である。其が何を意味しているか、わからない事は無い。
「何とか助けてあげたいものだね・・・・・・」
この時ばかりは、彼の意思伝達の手段である扇子は閉じられていた。
「七五三之助さんも残っている事ですしね」
仮にこの時伊東の扇子が開いて意思を発していれば、内海は今度こそ伊東の下を離反していただろう。
「御陵衛士に助けを求めて来る者も数多く在りましょう」
尾形はどちらの味方でもない様に、事実から得られる客観的な見込みだけを述べる。冷静な内海は尾形の冷静な行動を信用し、理性的な伊東は尾形の理性的な発言に衝き動かされる。
「そうか・・・では、こちらも対応を考えておく事としよう。土方君と交した契りがあるから御陵衛士への加盟を認める事は出来ないが出来る限りの保護はさせて貰う事にするよ。混乱も避けたい事だしね」
―――藤堂を監視していた服部 武雄が、伊東の部屋から出て来る尾形と出合う。
「尾形先生」
原田以上の身長と島田並みの重量をもつこの大男は、今でも尾形をこう呼ぶ。外見的には並べば尾形を余程優男に映し、剣の腕も沖田に勝ると噂される北辰一刀流の使い手であった。・・・いつの時期の沖田と較べているのかは判らないが。
尾形よりも年上でもあるこの男は、新選組入隊当初の上司が彼だったというだけで義理立てして呼び続ける。見るからに義理堅い、硬派な男だ。
「“あの方”は先生の差し金で動いているのですか」
服部が擦れ違いざまに、尾形にしか聴こえない様な小さな声で伝える。質まで硬い筋の徹った声には、僅かに疑いが込められていた。
「・・・・・・」
―――服部の視線に促がされ、尾形は善立寺の山門の先を眺め見る。尾形の瞳孔は波打った様にどくんと開いた。
武田観柳斎がわなわなわなと口を上下させ、後ずさって尻餅をつき、ころんと起き上がって逃げた。
「―――・・・関係は無い。後で始末をつけておく」
・・・尾形はすぐに通常の昏い眼に戻り、ぶっきらぼうな口調で返した。
「・・・そうですか」
・・・服部の声は変らず強張った侭だった。
「・・・・・・」
斎藤 一が箒で参道の掃除をしながら、尾形と服部の凸凹師弟を観察している。彼が行動を起すのは、意外と早い時期になりそうだ。
慶応3(1867)年6月10日、新選組に正式に幕臣取立の命が下る。新選組は幕府直参の身分となり、局長近藤は見廻組与頭格及び将軍への拝謁が許される『御目見得以上』の格式を受け、副長土方は見廻組全体の世話役・諸礼を仕切る見廻組肝煎格に任じられる。之に由り、彼等の方針は公式的に認められ、その影響力は完成されたと謂っていい。
沖田・永倉・井上・原田・山崎・尾形の副長助勤は見廻組格、吉村等諸士取調役兼監察は見廻組並、佐倉や八十八、伍長の島田等の隊士は見廻組御雇となった。
「―――その『格』は、斎藤に引き継がれる大事なモノだ。無下には扱うな」
今や近藤と同等に絶対的な存在となった土方が、尾形に厳しく釘を刺す。尾形は最早口答えせず
「・・・・・・心得ております」
と、静かに頭を下げた。
「今迄通りでいいという事ですよ、尾形さん。土方さんはホント素直じゃないので♪」
尾形に対する露骨な攻撃に周囲が辟易して不憫に思う中、沖田 総司が明るく茶化す。彼の絶妙な場の和ませ方は才能の域だと思う。
「総司っっ!!お前っっ!!微妙に事実を捻じ曲げた伝達をするなっ!!」
「嫌なら自分の口でちゃんと本当の気持ちを伝えてくださいよーう」
無自覚にも緊張していた山崎は沖田の目配せ(ウィンク)に不覚にも安堵の息を漏らす。同様に目配せを受けた尾形は、ぽかんとして彼を見ていた。
ずしっ
「・・・・・・!」
原田が頭の上に顎を乗せてくる。藤堂が離隊して以来原田はどこと無く元気が無いが、尾形に対するスキンシップは彼が助勤に復帰してから更に加速している。
「斎藤早く戻って来ないかなー・・・。・・・・・・平助も」
「まだ時機じゃないだろ。・・・・・・気長に俟とうぜ」
永倉が原田のもっさりとした頭の上に顎を乗せ、まったりと言った。・・・・・・藤堂がされていた事をされている様に思うのは気のせいか。
「なぁ、おがっち」
永倉は何かを察している様な口調で尾形に話し掛ける。・・・尾形は、頭上の原田と永倉をちらと見上げた。
―――一方で、近藤は京都守護職からの呼び出しを受けていた。
「・・・近藤・・・実はお前の部下達から、斯様な請願書を受け取っている」
「請願書・・・?」
会津藩主・松平 容保は提出された請願書を近藤に返した。差出人は佐野 七五三之助・茨木 司・中村 五郎に富川 十郎。孰れも伊東側の間者だ。
「中身は読ませて貰った」
・・・・・・。近藤は確認させて頂きます。と一言言ってすぐに請願書を読んだ。その内容は、会津藩に味方を願うものであり、新選組は武士としての誇りを捨てた、彼等は幕臣という栄誉に目が眩んで今まで取り立ててくれた会津藩への恩を忘れている、だが我等は違う、と書かれていた。武田みたいな文章だ。
・・・・・・恐らく、取り逃した鼠が佐野等に通告し、会津藩の後ろ盾を得る事を思いついたのだろう。会津藩が味方につけば、幾ら近藤達でも迂闊には手を出せない。
「・・・・・・屋敷は用意しておこう。後は自在に遣り給え」
容保は手紙の内容には触れず、只一言だけ言った。
「・・・はっ、宜しいのですか」
近藤が驚いた声で訊く。果してこの請願書をどう無かった事にしようか考えを巡らせている最中であった。今此処で否定する事は容易いが、近藤の駒もそろそろ背後を気にした方がよい状況に置かれつつある。
「お前は幕臣としての自覚がまだ薄い様だな」
容保は笑みを含ませて言う。会津藩にとってこの請願書の差出主は、佐幕思想と近藤の遣り方が気に入らない反抗的な芽に過ぎない。幕府の付した新選組への誉れは会津藩からの誉れでもあるし、今回の取り立てで近藤の遣り方は幕府御墨付きのものとなった。
「お前は認められたのだ。新選組の規則はお前だ、近藤。そして、新選組の規則は幕府の規則だ」
・・・・・・!はっ・・・! 近藤は頭を下げた。すぐに土方・山崎・尾形・吉村を呼び、一行は京都守護屋敷(会津屋敷)に向かう。
「・・・・・・」
・・・・・・藤堂はその日、伊東に暇を貰っていた。新選組に正式な幕臣取立の通達が届き、佐野 七五三之助等が動き出す日である。
藤堂と伊東は前日に話し合い、佐野等が戻って来る時には藤堂は屯所に居ない方がいいだろうという事で意見が合致した。佐野等御陵衛士側のスパイが戻って来る分にはいいが、新選組隊士が新たに局を脱して御陵衛士を恃るさまを見るのは、嘗てその場処を拠り処としていた藤堂にとって複雑な心境だろうと判断したのである。
「・・・ありがとうございます、伊東さん・・・・・・」
この時には御陵衛士の屯所は善立寺から東山月真院に移動していた。
無論、他の衛士達は伊東ほど藤堂を甘くは見ていない。衛士達は伊東の気遣いに、だから新選組を乗っ取れなかったんですよ、まぁそういうとこに惹かれたんですがね、と惚気とも言える小言を呟きながら対応の準備を進めていた。衛士の何人かは藤堂の監視につく。
「斎藤君は通常通り参加されるという事で、そこまで張りついておく必要は無かろう」
其より藤堂だ、という風に篠原は言った。
「・・・・・・」
藤堂はきゅっと口を引き結んだ。・・・拳をぎゅっ、と握り、覚悟を決める。
「・・・アイツは何処へ行こうとしてるんだ」
6月13日、藤堂はひとりで外出する。この日藤堂の監視役となったのは篠原 泰之進と阿部 十郎、富山 弥兵衛であった。阿部は兎角新選組を敵視していて元幹部である藤堂に容赦が無く、富山はスパイ経験があるので行動を判別するのに長けている。
「・・・・・・っ」
藤堂はちらと背後を流し眼で確認し、速歩で急いだ。
碁盤の目の様な町並だけに曲り角が多い。曲られて仕舞うと行方が掴めなくなるが、曲る時宜を図り間違えると対象と鉢合わせする。
「・・・・・・動きが見るからに不審だな」
・・・如何にも、藤堂は無闇矢鱈に角を曲り、ぐるぐると京の町を廻っている様に見えた。まるで篠原達監視の眼を翻弄しようと試みているかの様に。
「小癪な!」
阿部の頭にすぐ血が上る。警戒を強めて彼等が殺気立ってきた時、藤堂は碁盤の目から抜け、人気の無い路地へと入ってゆく。富山が
「そんなに気配を立てていると、相手に気づかれたりするよ」
と、林檎飴を食べながらのんびりと注意した。お前の林檎飴はどうなんだ。
「撒こうとしてるなら余りに非効率だし、僕等を引きつけたいんだったら余りにあざとすぎる。京の碁盤の目から出るのは結構大変だし、屯所移って初めての外出だから、道に迷ってる可能性が大きい気がするんだけど」
富山ががじがじ飴の部分を齧りながらすらすら言う。・・・篠原と阿部は同時に顔を見合わせる。人間、見かけに由らないものだ。否、間者や忍といった類は見かけに由らないのが当然だが。
「・・・あ、どっか入ったよ篠原さん」
「何処に入ったかを言え」
藤堂が角を曲り忽然と気配を消す。気配が消えるという事は別の気配に紛れて仕舞う、道の先は静まり返っていて気配を持たない、詰り建物の中に入ったと富山は即座に計算しながら、今度は林檎の部分をすぽすぽ口から出し入れしていた。
だっ!篠原と阿部は急いで藤堂の曲った角を曲る。藤堂の入った建物を目にした二人は、ぎょっと両眼を白黒させた。
「『女形』――――?」
「梅香ーー♪」
藤堂が他の観客に交じって、舞台上で踊る眼力の強い凛とした容貌の演者に歓声を上げる。『梅の香り』の芸名にぴったり合った濃い紅の衣裳に身を固めていた。
・・・実はこの女形役者、藤堂の友達で非番の日は一緒に酒を飲んだり美味しい物を食べに行ったりする仲なのだ。
(上手く時間を稼げたかな、俺・・・・・・と言っても、半分本気で道に迷ったんだけど・・・)
帰りの心配をする藤堂。之で帰れないなんて事になって無断外泊でもしようものなら、疑われるだけでは済まないな・・・と苦笑する。下手したら切腹ものだ、と新選組に居た頃の感覚で何でも考えて仕舞う。併し其が何故だか嬉しくて、妙に心が弾んだ。
(之でいいんだよな、斎藤・・・・・・)
藤堂が自分に言い聞かせる様に心の中で呟く。動けば足手纏いにしかならない自分をもどかしく感じた。
―――藤堂が衛士の中でも格別に用心深い者達を連れ出してくれた御蔭で、斎藤が立つ四条大橋には彼の見張りはいなかった。
彼は本の半年前にもこの橋で土佐浪士と斬り合いをしている。その時は確か、沖田と永倉、佐倉と一緒であったか。
にも拘らず、彼が此処で以前戦った者だと気づく者は誰も在ない。
・・・・・・斎藤が、持ち物を確認する様に己の胸倉に手を入れる。胸倉には僅かな膨らみがあり、内側には緩やかな弧を描いた曲面が挟まれていた。・・・・・・曲面には、のっぺりとした、斎藤自身と同じ表情の無い顔が描かれている。―――否、まさに斎藤そのものであった。きゅっと胸倉をきつく締め、スラリと右腰に差した刀を抜く。抜く手は左。之は斎藤の生来の利き手で、彼を特徴づける個性としてよく言及されている。
光る刀の反りを視るのは、眼光炯々としたきりっとした造形の顔で、造り物じみたぼんやりとした貌の斎藤とは全くの別人であった。―――・・・この男は、誰だ。
男が刀を振り下ろす。同じ刻、同じ京都で刀を抜いた新選組隊士が他に3人いた。彼等は誰も、明かせる名前を持ち合わせてはいなかった。
斬ッ!!
―――口火を切ったのは吉村の斬撃であった。
新隊士の一人が背後から斬られ、守護屋敷の一室に押し込まれる。先に席についていた他8人の間者は唖然とした顔で、一瞬にして動けなくなった仲間が倒れ込むさまを見つめていた。
ドサッ!!
・・・新選組側の人間はぴくりとも動かない。近藤は胡坐を掻いて腕を組み、土方は寛いだ姿勢で煙管を吸っている。山崎と尾形は二人共正坐していたが、山崎の方が神妙な顔つきでいるのに対し尾形の方は茶を飲んでいた。
「吉村アァァァ!!」
茨木 司が怒りに狂い、剣を抜いて吉村に襲い懸る。振りかぶって躯の線が綺麗に見えた。捻じ込む様に茨木の背腹を血塗れの刀が貫通し、茨木の向う側が小さな穴から一望できた。
「―――・・・背後ががら空きやで?」
・・・その“穴”も、止め処無く溢れる血に依って塞がれて仕舞うのだが。
「おーおー監察出身者もなかなか遣るじゃねえか」
部屋が瞬く間に紅い絵の具で塗りたくられていくのを、土方は芸術鑑賞でもしている様な眼で観つつ煙管の味を嗜んでいる。
「・・・トシ、往くぞ」
近藤が土方に耳打ちをして立ち上がる。近藤が離反者を見る眼は土方より冷たく、仕事は遣ったという様に最早生きた人間としての扱いを終えていた。
「・・・おうよ、近藤さん」
土方が風流者の如くふわりと立ち、近藤の後ろを歩く。土方が背中を見せた時に富川 十郎が斬り懸ったが、血しぶきを上げたのは富川の方だった。
「ーーーっ!働け尾形っっ!!」
土方でさえ自衛の為に剣を抜いた。なのに尾形は姿勢を正してまだ茶を飲んでいる。
「・・・・・・尾形。此処で一人でも逃すと後々困った事になるぞ。始末しておけ、ちゃんと」
「・・・・・・承知しております」
―――前髪に隠された真闇い眼は血に飢えて、口許はゾッとする程に哂っている。内から突き上げる衝動を必死に抑えている様だった。
「―――露払いを致します」
近藤が部屋を出るに先立って、尾形は重い腰をこの時は難無く上げた。土方の背後は山崎が護り、彼等の側面は吉村が薙ぎ掃う。
―――す、と尾形が襖を開く。逆の手は既に剣を抜いていた。
キン!!
尾形が会話をした事の無い隊士が目の前に居り、直後に刃がぶつかり合う。土方は口角が上がり煙管を噛んでいたが、近藤は驚いた。尾形は哂いを隠す努力さえもうしない。刺客は尾形の心底愉しげな顔に一瞬たじろいだ。併し直後、刺客の視界から尾形が消える。
「!?」
己の剣を受け止める力も急激に抜ける。刺客は愕いて反射的に剣を握る手に力を入れた。反動が働き、振り下ろされた筈の剣先が逆に天井を目指す。己の剣の形に気を取られたその刹那、尾形の顔が眼と鼻の間に現れ、懐を取られていた。
「“型”に囚われると、いざという時に使えない」
尾形は教授する様な口振りで言った。そこは矢張り文学師範である。身を以て教えるは今回の場合、かなり荒療治すぎる気もするが。あぁ、其と、と尾形は珍しく饒舌に続ける。
「眼に見たものが全てとは限らない」
ずん、と下から突き上げる衝撃。股下から尾形の剣が喰い込み、上に向かって一筋に割り裂かれる。
「あ・・・ッ、あああああああァアアッッ!!」
剣を鳩尾の辺りで抜くと血が盛大に噴き出すも、頭が無傷なので死に至るに遠い。刺客は解放され得ぬ激痛に絶叫し、のたうち回った。
「松本 主税だな・・・・・・」
土方が前へ進み出て、頭数に入れていなかった離反者の顔を確認する。血に濡れた尾形は入れ替りに後ろへ回り、閉める襖の奥へと消えて往った。
「誰だ、其は・・・・・・!?」
監察出身者3人の提出した離反者名簿の中には無かった名前だ。其どころか、近藤も知らない様な名前である。
「ここ一週間以内に入隊してきた奴だ。幕臣取立の名簿にも入れていない。近藤さんが知らないのも無理は無いだろうさ」
土方が松本の髪を引っ掴んで擡げ、近藤にその顔を見せる。近藤が肯いても土方はその髪を離さず、松本を見てニヤリと哂った。
「ひ・・・・・・!!」
尾形には無い系統の不気味さと怖ろしさが、土方の笑顔にはある。
「大方、取り逃した鼠が佐野等に告口って、急遽募った間者なんだろうよ。―――折角、尾形が口を利ける状態にしておいたんだ。
・・・別室で少し、拷問してみるか」
土方が陰気さの欠片も窺えない爽やかささえ感じる表情で松本を引き摺る。こう見ると確かに現代に通じるイケメンだ。遣っている事は鬼畜だが。
「叉その遊びか、トシ。幾ら仕事と趣味を兼ねると謂っても何かおかしいぞ、お前の遊び(それ)は。池田屋あたりからだよな、それ」
はぁ~。近藤が呆れた溜息を吐く。てか遊びって。妙な性癖のレッテルを貼られつつある土方は否定のツッコミを入れるかと思いきや
「俺だって色々溜ってんだよ!誰かのせいでな!てな訳で一発殴らせろ」
素晴しき剛田主義。松本が土方に連れて行かれ、程無くして此の世のものとは思えぬ悲鳴が聞えてくる。他の部屋でもドタドタと暴れる音と絶命の悲鳴が聞える。頼もしいけど、やっぱ変だわ新選組。
近藤は一人、遣ってる側だけが楽しい宴会芸でも見せられた後の様な面持ちで守護屋敷から出る。玄関にはどうどうと馬をあやす島田 魁と、身長の倍近くの丈を成す槍を持つ斜視気味の男が立っていた。
・・・近藤が島田に促がされて馬に乗り、槍を持った男に話し掛ける。
「・・・では、尾形等が取り逃した場合、恃むぞ。大石」
・・・・・・大石 鍬次郎という名の男は、近藤を極端に面積の少ない黒眼で見上げると、ニヤァ・・・と、先程嗜好的な笑みを見せた二人より群を抜いて危険な笑みを浮べ、酔った様に恍惚として言った。
「・・・承知」
・・・・・・。島田が、今も室内では血が飛び交っているであろう守護屋敷を一瞥して馬を走らせる。外側から見た京都守護屋敷は、いつもと変らず静かで安穏とした空気が流れている。
(・・・・・・無事に帰って来いよ、俊、崎―――)
(―――かっ、監察部が―――!!)
入隊してまだ数ヶ月の隊士達は、密室でどんどん自分達を追い詰めてゆく監察出身者3名の圧倒的な実力に、絶望感すら抱く。監察がこんなに剣に秀でた者揃いだなんて聞いていない。吉村 貫一郎は撃剣師範だから解らなくもないが、他の2人に関しては剣の噂など全く知らない。尾形は文学師範で現場にも出ぬらしいから非力な印象があったし、山崎は副長助勤に取り上げられる迄全くの無名だったと聞いている。万が一何かあった場合でも、数で攻めれば勝てる相手だと思っていた。
だが、剣に無名でも自分達では勝てない相手が、この新選組にはゴロゴロ存在している―――
だっ!隊士とは名ばかりの怯懦の連中が、出口へ奔り逃げ出そうとする。吉村が見事に正しい剣の形で背中を貫き、不快を露わにする。
「―――・・・新選組を、見縊らないで頂きたい」
・・・尾形がのっそりと横たえる敵から剣を抜き、山崎も叉振り向きざまに剣を敵から抜く。新たに3つの死体が生れ、3人の監察は鬼気迫る形相で残る敵に刃先を向けた。
「新選組に、小手先の者など存在しない。新選組を愚弄した代償は、その身を以て払って貰う!!」
―――残る対象は衛士側の間者が2名。新隊士という名の間者は1名。3対3というこの状況に、敵方も覚悟を決めたらしい。
「オオオオオオオーーーーッ!!」
佐野 七五三之助が尾形に向かって突っ込んで来る。尾形は嬉しそうに哂った。粗同じ頃合を計って、尾形の脳天に背後から剣が振り下ろされる。
グサッ!!
―――尾形の頭上に紅の雨が降り注ぐ。背後から彼に斬り懸った中村 五郎の血が首筋から大量に噴き出し、注いだものだった。即死。
「なかなかに人気者やな、尾形はん」
・・・・・・山崎が中村の雨を浴びながら軽口を叩く。
「―――・・・人気者?」
尾形は気にせず佐野の懐に入っていた。とは謂え避けなかった訳でもなく、身体を横にずらして片膝が地面に着く程姿勢を低くし、佐野の腹部に己の剣を真一文字に喰い込ませている。その所為で佐野の剣は中村の頭に命中し、弾き返った。
ズル・・・と佐野の腹から剣を抜き、這い出る様に身を反して立ち上がる。只、斬撃は浅かった様で原田の様な死に損ねの痕にしかならなかった。
「・・・・・・てっきり私は嫌われ者だと思っていたが」
「どの口が言うねん!」
山崎が同じく中村から剣を抜きながら突っ込む。どうっ、と中村の骸が倒れた。尾形が佐野の右向かいに立ち、剣を左に持ち替える。山崎は佐野の左向かいに立って、忍の剣を構えた。
「御二人共、後は佐野だけです!」
吉村が既に検視を始めつつ、叫ぶ。この首謀者だけは今此処で仕留めなければならない。
山崎と尾形が両側から佐野に渾身の剣を入れる。どちらも縦横無尽の剣で、佐野にとっては何処から己の身に入るのかが判らなかった。
「―――先刻、俺の事を言ってたやろ」
「―――先刻?」
―――山崎が叉尾形に突っ掛る。・・・・・・今度は尾形は軽く微笑んだ。不気味さも穏かさも感じさせない、からかう様な、新しい笑みで。
「“型”に囚わると、いざという時に使えん」
「崎さんは真面目だからな」
山崎が下に、尾形が上に剣を引き抜く。山崎のこの時の剣は天然理心流。自分が新選組隊士である事の誇りと、助勤仕事の完遂を籠め。山崎が佐野の背後へ回る。ここからは忍としての仕事だった。幾ら卑怯と言われようとも、確実に討ち、とどめを刺す。
「終りだ」 「終りや」
尾形は飽く迄正面に立ち、脳天から股下にかけ一直線に斬り落す。
―――ドサリ
佐野の身体は二人の攻撃を受け、見るも無惨な姿となっていた。
はぁ―――・・・一同は漸く安堵の溜息を吐く。
「―――・・・暗殺なんて久々やから気ぃ張ったわぁー」
念の為、この部屋で殺した9人の検視を手分けして行なう。山崎は死体の手首に冷静に指を当てながらも、本来の明るい表情に戻った。
「え、山崎先生は暗殺を為された事があるのですか?」
吉村は意外そうな口振りで山崎に尋ねる。も、視線は逸らさず死体に確り宛てた侭でいる。真面目な優等生とはこの事を謂うのだろう。
「壬生浪時代にな。あの頃は皆何かしら殺しおったで。・・・あ、尾形はんは初めてかも知れへんけどな?」
山崎は5年目にして漸く尾形の扱いを心得てきたのか、ようやっと絡む様になる。尾形は剣を手に持った侭くるりと振り返り
「・・・・・・何か。崎さん」
「・・・・・・な、何でも無いで・・・・・・」
・・・まだまだ相手は未知数らしい。其でも二人が監察だった頃には見る事の無かった光景である。・・・吉村は微笑ましく思いながらも、自身の同期である茨木 司の亡骸に視線を落した。
「にしてもあんた、型に囚わるとか眼に見たもんが全てじゃないとか、之から死ぬ相手によう説教したるな。俺には何も言わんかったんに」
山崎が先程の会話の続きをする。各々が3人目の検視を行なおうとしていた。佐野の手首を手に取り、中指と人差し指を当てる。
「土方副長の稽古ん時に俺に言って欲しかったわー。あんた、俺の剣のクセを知っとって黙ってたやろ」
「崎さんなら言わなくともすぐに気づくと思ったのだが、思っていたより遅かった」
「・・・・・・あんた、実は性格相当悪いやろ・・・・・・」
山崎がゲンナリした眼で尾形を見る。尾形は眼元を隠しながらも、口角をキュッと上げていた。当然だろうという微かな暗喩である。
「あんたは之から如何するん?・・・て訊くのも無駄な話かいな」
・・・訊いた直後、山崎が、ん、と眉を寄せる。手首から己の手を離し、切れた首筋に指を当てる。
「・・・・・・何でやのん」
吉村と尾形は既に検視を終え、立ち上がって山崎を待っている。・・・・・・山崎先生? 吉村が不思議がって山崎の方を見た。
山崎がもう一太刀浴びせようとする。
「・・・息しとんがな、コイツ」
佐野が突然立ち上がり、脇差を持った。山崎は太刀を振るう間も無く身を躱し、数間先の窓の前に着地する。
「ウォアアアアアアアァァァッッ!!」
―――押入れを背にしてぼぅっと立つ尾形に、佐野が抜き打ちで斬り懸る。尾形は身動ぎせず佐野の剣を受け止め、吉村が佐野の頬を傷つける。敵うべくも無かった。併し、佐野は死んでも死に切れぬらしく殆ど本能で吉村の身体を弾き、襖を破って外に飛び出した。
「大石はん!!」
監察が部屋を飛び出し佐野の行方を追い駆ける。併し返り血塗れのこの姿で屋敷の外に出る訳にはいかない。
「オオオオオオオオォォォ!!」
・・・佐野は一心に、或る場処を目指して奔った。伊東達御陵衛士の屯所である。
彼は併し、助かりたい訳ではなかった。伊東に伝えなければという使命感の為だけに奔っている。
この身体の創は、誰につけられたものなのかを。
御陵衛士の者達は皆、一欠片も疑っていない。何せ、3年掛けてじっくりと洗脳し、伊東派が有利に事を運べるよう早い時期から内に組み込んできた高仕様なのである。藤堂や斎藤は疑っても、あの男については盲点であるに違い無い。
―――新選組の参謀の恐ろしさを、佐野はこの時になって体感していた。
新選組の参謀は、参謀職が伊東の為に創られたものであっても真実は違う。伊東は去って仕舞う男だからである。
土方の事ではない。あの男は策士ではあるが、副長という揺るぎの無い立場にいる。
新選組の参謀はとんでもない鬼であった。新選組内でも騙された者は多かろう。否、隊内では抑々(そもそも)気づいている者が少ないかも知れぬ。此の侭あの男を組み込んでいれば、御陵衛士は殲滅される―――
―――・・・四条大橋に差し掛った処に、二人の男が立っている。一人は大石 鍬次郎、もう一人は知らない男だ。
「―――おぬしは佐野 七五三之助だな」
―――知らぬ男が進み出て、スッと左手で剣を抜く。確認と謂うよりは形式的にそう言っているだけで断定的な口調だ。
この男は佐野を知っている。
佐野も叉、貌に見憶えは無くも特徴的な口調・左手の太刀筋からその実像が浮び始めていた。相手も其を、隠そうとしていない。
佐野は新選組時代、三番隊に所属していた。
「悪いが、おぬしを此処から先に行かせる訳にはいかん。監察がここ迄太刀を喰らわせても猶斃れぬのなら、我等が相手をする迄だ」
佐野は絶望の中で死んでゆく事になった―――御陵衛士の内部は真黒である。頭脳も剣も、最早御陵衛士の中に敵う者など在ない。
「―――ゆくぞ」
―――斬。
―――・・・男の剣は一太刀からして監察方とは違っていた。之は監察方の剣で死んだ者には判らぬ事である。監察方の剣でも充分死ぬから、彼は余計な味を知る事になった。
大石 鍬次郎が槍を振り回し、佐野の腹を刺し貫く。ぐりぐりと槍を回してその穴を拡げ、橋の欄干まで追い詰める。大石は其でも飽き足りないらしく、だらしの無い笑顔を浮べて
「・・・隊長さん、俺、コイツはタダじゃ死なないと思うんですわ」
と言った。男は何も言わなかった。この男が無言なのは大方の場合、肯定を示している。大石も過去にこの男とは仕事を共にする事が多かった。そこでは大抵この男の指示に従い、自分は只殺るだけであった。大石というのは他者の血を浴びてその昂揚感や渇望を充たせれば其で良い、吸血鬼の様な男なのである。
「―――回収し易い様にしておくのだぞ。俺は之から任務に戻る。この事は他言無用に頼む」
「承知した」
―――其から、大石 鍬次郎は、念入すぎる程念入に何度も何度も槍を突き刺し、用心深い監察方でも流石にここ迄はしないだろうという程であった。人の原形を留めなくなる迄佐野を嬲った後、槍を抜いて只の血塊と化したそのモノを押し、鴨川の水流に突き落した。
後日、佐野の遺骸は新選組に拠って引き揚げられ、葬儀が執り行なわれた後、光縁寺に埋葬された。
佐野等に於けるこの事件は切腹として扱われた。とは謂えど、佐野が伊東と共に入隊した隊士である事は周知であったし、新隊士が10人ごっそり在なくなれば気の利く者は気づく。特に、山崎と最近は輪をかけて顔を合わさなくなった佐倉は勘づいているらしく、伊東派との攻防は未だ続いている事を漠然と理解していた。
「幹部(斎藤先生)が伊東一派につかれるだけでなく、新たな幹部(山崎監察達)の労力が伊東一派に費やされて仕舞うんですね・・・」
「まぁ、もう伊東先生の同志は新選組にはいませんし、山崎さんもそろそろ解放されるんじゃないですかね」
佐野等の葬儀を終えた日に、新選組は西本願寺から屯所を移した。今度は不動堂村である。不動堂村の屯所は、広間を中心としてその両脇に長廊下が通り、右側に平隊士達の部屋、左側に幹部の個室という造りとなっていた。以前と較べ、幹部と平隊士の部屋の行き来がし易くなっている。だからなのか
「うぃ~す」
一応部屋の外で挨拶らしき声はしたものの、勝手に障子を開き、或る平隊士が沖田の個室に入って来る。八十八だった。佐倉には到底真似できない無遠慮具合なのだが、そこは共に過した年月が埋めてくれるのか、或いは美人だと何を遣っても赦されるのか
「あ、山野さん」
と、沖田は何の違和感も無く迎え入れる。
「沖田先生!其は失礼なんです!」
「え?私何か失礼な事言いました?」
佐倉が憤慨して沖田に怒っていいのだよと注意する。だが言葉足らずで相手に全く伝わっていない。言いっ放しで佐倉は八十八を睨み
「何しに来たんですかね!」
と、湯呑を新たに用意しながら怒鳴る。八十八は菓子の入った袋を前に突き出しながら
「あぁん?お前ェにゃ用ねェよ」
と、額に青筋を立てた。額が白粉を塗ったが如く白いので青筋が目立つ。てか、仲が良いのか悪いのかどっちかにしない?
「きゃー♪ありがとうございますー♪」
沖田が年頃の女の子の様な喜び方をする。中性的な顔立ちもあって全然違和感が無いのだが、何でこの部屋だけ女子率高いの?
! こほんこほんと沖田が咳き込む。最近は、少し燥いだだけでもすぐ噎せたり、咳が出る様になっていた。八十八が眉をひそめる。
「まだ風邪引いてるんですかィ?うつすのだけは勘弁してくだせェよ。この時期の風邪は治り難い」
「すぐ風邪をうつされる身体の弱い人の方が悪いと思いますけどぉ~」
どん!佐倉が八十八の正坐する傍に、茶の並々入った湯呑を乱暴に置く。沖田に対する馴れ馴れしい態度に腹が立ったらしい。
「熱ッちぃ!湯ゥ飛んだじゃねェかお前!」
「あれ、山野さんの図太い神経でも熱さは感じるんですねえ?」
二人のいがみ合いが今回も始る。二人のキャットファイトは一度始るととどまる所を知らず、此の侭台詞を抽出し続けると一冊の本が出来ちゃいそうなのだが、其は避けたいので沖田に止めて貰う事にしよう。
「まぁまぁ佐倉さん、山野さんもこう遣って御見舞に来てくれた事ですし「御菓子に釣られちゃだめです先生!」
返り討ち。併し見舞と聞いて佐倉ははっとする。よく見てみれば、わざわざ沖田の好きな店まで足を運んで買って来た菓子だ。
如何して素直に「見舞に来た」と言わないのかねこの女男は・・・!
「尾形さんはお元気そうですか?」
「俺ァ平だから俊には全然会いませんでィ。沖田隊長の方が会う機会が多いんじゃねィですか」
佐倉の心の声と反省が聞える訳も無い二人はこんな会話をしている。
「私も全然会わないんですよ。山崎さんにもね。あの二人は最近忙しそうですね」
「っ!抑々(そもそも)、あの御二方は帰って来られているんですか?」
「帰っては来ているみたいですよ。先日、夜中に厠に立った時に屯所に上がって来るのを見ました。見たのは影なんですけどね」
佐倉が「山崎」という言葉を聞いて食いつく様に訊く。知りたいのは「御二方」ではなく山崎の方なのだろう。
八十八の人を食った様な笑顔の理由を知らない佐倉はむっとして、先手を打って遣ろうと八十八が口を開く前に厭みを述べた。
「お互いに立場も変った事ですし、山崎監察とはもっと色々と、沖田先生と3人でお茶でもしながらお話ししたいのにまだ一度も出来ていないんですよねえ?」
「おいィ、其って俊に対する恨みか?」
八十八がニヤニヤ哂いながら返す。
「誰とは言っていませんけど。其に、私は別に尾形先生には恨みはありませんから」
・・・遠回しに、尾形先生を友達にもつお前に対する当て擦りだよと言っている。尾形は自身の知らぬ処で勝手に隠れ蓑に使われている。
「おいおい、こっちだって俊をアイツに取られてんだぜィ?御蔭で俊が居ないからつまんねェったらありゃしねェ」
「山崎監察だって別に尾形先生と一緒に居たい訳じゃないと思いますケドね・・・てか、先生がいらっしゃらないから詰らないとかあるんですか?」
元々が辛口の佐倉だが、幾ら八十八を言い負かしたいからといって隠れ蓑の尾形をけちょんけちょんに貶しすぎである。八十八はぴきっときながらも敢て尾形の悪口に目を瞑り
「・・・お前、俊が羨ましいんだろ」
と、言った。
「・・・・・・・・・は!?」
佐倉は寝耳に水の反応をした。そんな心算で言った気など全く無いのだが。
只、3人での平穏な日常が叉あってもいいのではないかとは思っている。そんな慎ましやかな願いは藤堂・永倉・原田の三馬鹿や八十八等凸凹三人組も変らない筈だ。
「何言って・・・!「本当は“山崎 烝と”一緒に居たいんだろォ?」
・・・・・・。佐倉はぽかんと口を開けた侭、暫く固まっていた。ちら、と沖田と眼が合うとぼっ!と点火した様に顔が熱る。何故だろう。一番聞かれたくない男だったかも知れない。
そして、如何いう訳か其を否定できない蟠りが心の何処かに在る。其は以前も掘り起されそうになって、その度に覆い隠してきた感情。三馬鹿や凸凹三人組の人達とは少し違う、自分の女子の部分の願いが―――
併し、新選組に復帰する時点でその願いは捨て去り、忘却の彼方に追い遣って仕舞った。そして今は、もう気づきたくもない。
「なっ・・・!・・・莫迦莫迦しい。よく何でも彼でも色恋に結びつけて考えようとしますね。流石は恋愛体質山野 八十八。やまと屋の娘さんの他にどれだけの男と寝たんですか?」
な・・・・・・!今度は八十八が顔を真紅に染める番だった。其だけで数倍色気が益す。ガールズ‐トーク以外の何ものでもない光景に
(完全にばれてますね・・・・・・山野さんに)
と、沖田はぱくりと銀鍔を食べながら思う。そして之は、女として後悔の無い様にという最後の忠告かも知れない。
自分も山崎も、もう何も言わないのだから。
「・・・・・・大体、失礼ですよ。先生方はあんなにお忙しいのに、其を色恋のネタにするなんて。全く。いいですよね、何にも気づかずに言いたい放題言える人は」
佐倉がぶつぶつ言いながらもどこか失望しているのを、八十八は冷静な眼で観察していた。・・・軈て、フッ・・・と口角に気づくか気づかないかの淡い笑みを浮べる。その面妖な表情は、見た者が在れば男女問わず惹かれずにはいられぬ程妖艶であった。
―――そう。気づかずにいられたなら或いは、余計な事をせず平穏に余生を送れたかも知れない。
「っ・・・如何か如何か!頼みますですぞっ・・・!?」
武田は再三再四縋る様に近くの寺の僧に言った。寺院を逃げる様に出て、せかせかと足早に南へ歩く。
彼は今、薩摩藩邸へ行こうとしている。
薩摩藩邸は逆側の北に位置するが、遠回りして伏見街道へ向かう。寄り道せずに北へ真直ぐ行って仕舞うと、新選組の屯所である不動堂村を通らなければならない。其だけは避けなければならなかった。
鴨川銭取橋に出る。この橋を渡れば伏見街道で、この先東は伏見稲荷に東福寺と続く。
新選組にはもう居られなかった。佐野の切腹とその介錯人の名前を聞いて戦慄かぬ程、武田の頭脳は鈍くもないし図太くもなかった。佐野と伊東の関係を知り、其に介錯人の関係が加われば猶更である。
その介錯人は、隊を脱走して伊東の許を恃んだ隊士の切腹に際する介錯も行ない、その足で伊東に情報を売りに行っている。
―――自分の情報は凡て握られている。
武田は嘗てその者を信じ、凡てを打ち明けて仕舞っていた。彼の正体に気づいた時、新選組に対する裏切行為を土方に報告するでなくこの男は―――・・・己が逃げる事を選んだ。
「はぁ・・・はぁ・・・っ・・・・・「観さん」
・・・――――っ!銭取橋を半分渡った処で、武田は何者かに声を掛けられた。その瞬間に武田の歯はガチガチと鳴り出す。
・・・・・・最も耳慣れた響きを持つ声で、同時に最も恐ろしい、畏怖の対象の声だった。
「・・・・・・おっ・・・おおおおおおおお尾形くっ・・・尾形先生・・・・・・っ!!」
武田は腰を抜かして尻餅をつき、腕だけを使ってにじりにじりと後ずさる。尾形が足音も無くじりじりと迫り、互いの爪先が触れ合う手前で歩を止めた。
眼元を蔽う長い髪と、夜の暗闇で、尾形の表情は確認できない。
左手が剣を抜いているのを見て、武田は瞠目する。この男が左で剣を握るのを、武田観柳斎は初めて見た。
ズッ
「ぅあ・・・・・・・・・!!」
・・・・・・武田が悲鳴を上げる猶予さえ与えず、尾形の剣が武田の心の臓を貫く。武田は佐野と違って呆気無く死んだ。両眼も口もだらしなく大きく開き、早くも濁り始めている眼球が愕きと恐怖の眼差しで尾形を視ていた。
「・・・・・・観さん、貴方が若し私の事を新選組に通報する事を選んでいたなら、私は切腹も辞さない覚悟は出来ていた」
・・・・・・尾形が武田の胸から刀を抜く。突きが余りに正確に急所を捉えていたのか、刀を抜いても武田の躯から血が出る事は殆ど無く、精々切先に赤黒い玉がついている位であった。
「・・・・・・自分の為すべき事さえ違えなければ、こうなる事は無かっただろうに」
1年以上前にも尾形は、武田に同じ言葉を贈った。併し結局、武田観柳斎という男は最期迄その言葉を理解する事が出来なかった。
雲が切れて、蔽われていた月が銭取橋を明るく照らす。対照的に尾形の声は、雨の降る前の様に湿っていた。
同じ日に、近藤は幕府親藩会議に出席していた。幕府と特別な協力関係にある四藩(福井越前藩・伊予松山藩・土佐藩・薩摩藩)と、幕府関係者に拠るこの諮詢会議。幕臣として漸く四候との顔合わせを許された近藤は、信じられぬ事を耳にする事となる。
「は・・・・・・!?」
「局長。――――」
―――近藤はその日、真夜中に屯所に戻って来た。戻るなりすぐに奥へ進み、局長部屋に入って襖を閉めて仕舞う。
島田が近藤を迎えに赴くも、近藤は屯所に着く迄のその間、島田と一言も会話を交さなかった。始終険しげな表情で帰途に着き、屯所の門の前で馬から下りた時にやっと
「・・・・・・借りるぞ」
と、島田に背中を見せて一言だけ言った。
「・・・・・・はい」
・・・・・・島田は僅かに、哀しげな顔をした。
土方は既に眠りに就いていた。近藤を迎える気ではあったのだが、彼も連日の疲れが祟っている。気づいたらうつらうつらとしており明日に響いても困るので早めに床に就いていた。
副長の部屋の奥に、局長・近藤の部屋が在る。―――土方が丁度浅い眠りにある時に、自分の部屋の横の廊下を近藤が通る。
人の通り過ぎる気配を、土方は無意識ながらに感じた。
「・・・―――尾形」
―――近藤が、周囲が完全に再び静まり返ってから尾形の名を呼ぶ。すぐに襖が音も無く開き、襦袢を着た軽装の尾形が現れた。
「―――・・・此処に」