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六. 1867年、卯月

1867年、卯月


伊東一派が離隊してから、組織編制は再び大きく変った。

特に変化が著しかったのは副長助勤と監察方で、監察方は大部分が伊東派に染められていた為殆どが御陵衛士として出て往った。従来の監察方は吉村 貫一郎だけであり、他は殺しが趣味と豪語し実際にも暗殺した人数だけは試衛館派並みの大石 鍬次郎、近藤が才を惜しんで新選組に残留する事になった茨木 司、亡き谷 三十郎の形見でもある彼の息子・谷 周平が就いた。監察方は他にもいるが、他の者達は優秀であった為に書かない。

副長助勤については、斎藤や藤堂の名が無いのは言わずもがな谷 三十郎と松原 忠司の死、伊東の実弟である鈴木 三樹三郎の脱退に由って半数に迄激減していた。その上、この時点で沖田は労咳と迄は判らなくも誰が見ても違和感を覚える程に体調が悪化しており、助勤職の人材確保は急務だった。その為、土方の宣言通り山崎と尾形が副長助勤に復帰した。尾形は3年、山崎は実に5年振りの助勤職であった。

この様に、副長助勤を決めるのに相当な努力の跡が見える中でも、一人、生きながらにしてその職から外された者が在た。

武田観柳斎である。

―――遂に武田は、権力を行使する権利さえ完全に失った。

「尾ぉ形君んんんーーー!!」

武田は半狂乱になった。今迄ずっと見下していた相手が自分を差し置いて昇格したのだ。否、山崎はともかくとして尾形に関しては只其だけの単純な相手ではなく、武田にとっては幹部の死線を共にくぐった仲間で、悩みを打ち明ける事の出来る相談相手で―――・・・実はいい男なのではないかと思い始めていた。一緒に食事に行く機会も多かったから、友情も芽生えていたのかも知れない。だから、裏切られたと思ったのだろう。彼がこの編制を知って最初に向かったのは、尾形の居る場処だった。

「観さん・・・・・・?」

武田の凄まじい剣幕と形相に、尾形は流石に驚いて立ち上がった。尾形はまだ自身の荷物を監察部屋から助勤部屋に移していない。

状況を呑み込む時間も与えられずに尾形は胸倉を攫み懸られ、其の侭壁に押しつけられた。

「一体之はどういう事ですなのか!?」

・・・・・・武田はボロボロ泣いている。幸い、荷物の移動はまだ始っていない者が多くこの部屋には吉村しか居なかった。

私ノ闘争―――・・・吉村が部屋を出て行こうとするのを尾形が止めさせた。

「抜け駆けですのか!?こう遣って、僕を油断させて・・・・・・僕の弱みを握って・・・・・・ずっと、僕の副長助勤の座を奪う機を狙っていたのですのかっ!!」

弱み・・・・・・?吉村は動きは止められつつも冷静な頭で武田の言葉を分析する。尾形に視線を送ったが、彼は首を横に振った。

「・・・観さん、意味が解らない」

独走する隊規への或る種のブレーキ役として貢献していた伊東が去ってすぐという事もあり、大事にならないよう尾形も気を遣っている様だった。併し武田は聴く耳を持たない。

「一体、どんな手を使って副長助勤の座に・・・・・・!!」

「止めや」

入口から冷やかではっきりと聞き取れる声が響いた。武田は・・・はっ!として尾形の胸倉から手を放した。土方だと勘違いした様だ。だが、入口の襖に背を預けて此方を見ていたのは、今回の編制で副長助勤に成り上がったもう一人の非試衛館派隊士・山崎 烝だった。武田は山崎と解ると否や

「山崎君・・・・・・!!」

山崎にも食って懸った。

「ふ・っ・・・二人して僕を嵌めたのですますな!でないと君達二人に副長助勤の座なんて・・・「獲れねんて?」

山崎が、武田が言い終えるのを俟たずに言う。武田の言葉を聞く必要性も感じない。武田は今迄と違う山崎の雰囲気に恐怖が湧いた。はぁ・・・と山崎は落胆の溜息を吐き

「其で何で俺や尾形はんがあんたを陥れなあかんねん。んな暇あったら技の方磨いとるわ」

「な・・・何ですのかその口の利き方・・・・・・僕は副長助勤だったのですますよ・・・・・・?先輩に向かってその様な・・・・・・」

「あんたこそ、いつまで幹部の心算でおんねや」

―――本来の山崎は、鬼の様に厳しい。

武田の先輩面や口先での権勢など、山崎には無意味だ。その孰れもが凡て通って来た道で、背景も含めて知り尽しているからである。その事を知らない武田は震え上がった。

「―――其に、あんたの決り(ルール)で謂うたら助勤に対する呼び名は“先生”やろ?尾形はんが助勤から監察に異動(うつ)ってからあんたが何を言うたのか・・・・・・耳に入らん筈は無いで」

怖い・・・ 山崎の異動後に入隊した吉村も初めて見る彼の姿に怯える。尾形は既に免疫があるのか、暢気に乱れた着物を直していた。

「・・・ま、確かに今回は実力やないかも知れへんがな。其でもあんたは関係無いで」

山崎が室内にするりと入り、己の荷物を持ち運ぼうと手を伸ばした。すると武田は手を上げられると思ったのか、ひっ!と引きつった声を上げる。山崎は眉をひそめ、何やのん?と呆れた。

「・・・・・・あんた其でも新選組隊士なんか」

山崎が荷物を引き上げて、監察の部屋を出て往く。吉村がお疲れさまでした、と礼をする。ほなな、と返す山崎の顔は、一緒に仕事をしていた頃の力を抜いた時と変らない、人懐こい表情だった。

「あんたに俺はともかく尾形はんを超える実力があったら、新選組(ここ)には居らんでいい筈やろ」

―――武田に背を向けた侭山崎は言い、答えが返ってくるのを俟たず彼は監察部屋を去る。武田の口から真実が出てくる事は無い。

武田は酷く狼狽した。山崎は凡てを看破(みぬ)いている。武田は、隊内での立場の危うさから伊東に取り入っていたが、御陵衛士への加盟に際してはいい様に躱されて仕舞い、離隊する事が出来なかった。之迄協力関係を結んでいたので断られる事は無いだろうと思いながらも隠れてこそこそ遣っていたが、凡てばれている。早く逃げなければ。

―――武田はこの時、山崎の仕掛けた罠に掛ったと謂っていい。

・・・尾形は泣き崩れる武田を見下ろす。彼の命の期限の導火線に火が点けられた気がした。




「―――ごほっ、ごほ、ごほっ・・・・・・!」

けほっ・・・・ 沖田は立っていられなくなり、壁に手をついてうずくまって仕舞う。・・・いつに無く怠い。咳が続く所為か、空気を吸うと喉がひりひりする。体内に入った空気が喉や肺を撫ぜると、新たな咳が誘われる。

ひゅーひゅーと、気道が悲鳴を上げている。ぼんやりと他人事の様にその喘鳴を聞いていた。が

「うぐ・・・・・・!!」

突如喉の奥から突き上げる吐き気に襲われ、沖田は咄嗟に口を手で押えた。壁を掴む指先が爪を立てる。だめだ・・・・・・今はまだ・・・!

「ごふ・・・・・・っ!」

・・・・・・掌に収まり切れぬ血液が指を伝う。沖田はもう片方の手を上に添え、血を隠した。床には散っていない。併し己の着る物には吐いた血が飛び散っている。

「・・・・・・」

沖田は呆然と、着物を染める鮮血の拡がりを見ていた。自分ではもう止められない。残された時間は、後少ししか、無い。


「近藤先生~っ♪」

沖田が近藤の部屋に居坐る事は別に珍しい光景ではない。今日も沖田はいつもの様に、近藤の部屋でまったりのんびり寛ぎに来ていた。

「先日言ってた美味しいおまんじゅうくださ~い♪」

沖田は来るなり近藤に纏わりつき、餌を俟つ犬の様に両手で空気を掻き、眼をきらきらさせて饅頭を催促した。

「総司・・・お前、俺に会いにより菓子が目当てで来ているな?」

近藤が苦笑しつつ戸棚から饅頭の箱を持って来る。いつ来ても菓子は尽きる事無く補充されているところに近藤の愛を感じる。

沖田は違いますよう。と口先を突き出し

「御菓子を、持ってらっしゃる近藤先生が、好きなんです♪一石二鳥♪」

「ああ、そうか・・・・・・」

近藤はしっくりこない様に首を傾げて肯く。そこは怒っていいところだと思うが。沖田は嬉しそうに饅頭を頬張った。

「近藤先生」

ん、と近藤は背中を預けてくる沖田にいつもと違うものを感じた。今日はやけにぺっとり人にくっつきたがる。人恋しいと感じる時が今この齢になってもあるのか、と意外に思う。

「・・・今日は甘えただな、総司」

「え、そうですか?」

沖田は初耳という風に聞き返す。本人は無意識だったらしい。自分自身でその感情を掴めていないらしく、困った様な表情を浮べた。

「―――ああ。子供(あの頃)に返ったみたいだぞ?」

近藤と沖田の関係はもう15年にもなる。初めて出会った時は近藤は既に大人で、沖田はまだ成長期も迎えぬ子供であったから、必然師弟であると同時に親子の様な間柄にもなった。沖田はとかく泣き虫な子供で、幼い内に両親と死別した事もあって情緒不安定なところがあった。姉二人に育てられた末っ子という事もあってか、甘えん坊でもあったのだ。

「・・・やめてくださいよ、恥かしい」

稽古では近藤自身も雰囲気ががらりと変ったので沖田も泣きながらついていったが、稽古が終ると近藤や土方、井上の袖を片時も離さない。土方には鬱陶しい!!と怒鳴られて泣き、素直でない彼が不器用ながら謝る迄手を離さず立ちすくむという忍耐力を見せつけた。ふ・・・と沖田が思い出して口許を弛ませる。だがすぐに唇を噛んだ。

「ごほっ!ごほっごほっ、がはっ・・・・・・!」

「総司!?」

激しい咳が止らない沖田の背を近藤が摩る。少し痩せた様に感じられる。布越しから感じる身体の温かさに、近藤は顔を顰めた。

「総司お前、熱があるじゃないか!風邪は治したんじゃなかったのか!?」

「やだなぁ、近藤先生。ごほっ。私は昔から体温が高かったじゃないですか。忘れて仕舞ったんですか?」

そうおどけて言う沖田だが、声は所々で掠れている。顔色も明かに悪いが、眼だけは意地でも認めないとばかりに揺るがない。

・・・近藤は溜息を吐いた。

「・・・本当に今日のお前は子供返りだな。この部屋には別に居てもいいから、休め。今布団を敷く」

「いえ、近藤先生、私は・・・・・・!」

沖田は慌てて立ち上がり、近藤の手を止めようとする。病人扱いされるのが嫌なのだ。足手纏いになどなりたくない。だが近藤は

「人間誰だって体調は崩す。休まなければ治らないのも誰しもだ。だから休んで早く治せ」

と言うのだった。・・・・・・段々と、自分が情けなくなってくる。

「ちょっと待っとけ。今、尾形か山崎に薬を・・・」

近藤が部屋を出ようとした丁度その時、襖の向う側から、―――近藤さん、居るか?と言う声が聞えてきた。

「・・・トシか」

―――近藤が襖を開ける。其処には土方が立っていた。沖田は思わずげ、という顔をした。この光景を最も見られたくない相手だ。

併し居たのは土方だけでなく、山崎や尾形といった新副長助勤もであった。

「―――――・・・・・?」

「おお、お前達、丁度いい処に」

近藤が意に介さない態度で声を掛ける。土方は室内に居る沖田を視界には入れるも、眼中には無い様子で話を始めた。

「―――近藤さん、尾形を之から貰ってくぜ」

?? 近藤と沖田はぽかんとした顔で土方を見る。沖田は以前にも之に似た状況に遭遇した事がある様な気がする。

「はぁ・・・まぁいいが」

之に似た言葉を以前、自分も言った様な気がする。

「尾形君は男だぞ?」

「あんたもか!!師弟揃って!!」

近藤がいつぞやの沖田と似た様な勘違いをする。―――あぁ!と沖田は完全に思い出した。佐倉が副長小姓に配属された時の出来事だ。

「佐倉さん(わたし)の次は尾形さん(近藤先生)ですか?欲張りですよ土方さん」

「はぁ!?何言ってやがる!!」

沖田のおちょくりに土方はいつも通り反応した。沖田は何と無くホッとする。さっきの違和は一体何だったのだろう。併し。

「―――禁令を犯した奴が出たんでな」

土方が近藤に一言言って去ろうとする。沖田は寝耳に水の情報にはっと耳を疑った。土方は何故知らせもせず自分を措いて往くのか。

「ちょっと―――!俟ってください土方さん!!」

山崎と尾形が彼を気に掛けるそぶりも見せず土方の後に続く。土方は苛立った様子で・・・何だ。と低い声で言った。

「・・・・・・隊規違反という事は切腹ですよね?―――介錯(それ)は私の仕事の筈で―――・・・」

「病人は黙ってろ!」

「な――――・・・・・・!!」

沖田は眼を見開いて絶句する。自分だって副長助勤である―――こんな体調(からだ)でも。こんな隔離する様な事、しないで欲しい。

「そんな―――・・・嫌です!私はまだ動けます!!」

まだ―――・・・ぽろりと出てきた沖田の気弱な部分に、土方はカッとなった。そんな事で誤魔化しがいつまでも通ると思っているのか。

「こんな如何でもいい時に動いて、いざという時に使えなくなったら困るって言ってんだ!!」

土方が声を張り上げる。知らず知らずだった。土方と沖田が嘗て見た事の無い位激しい視線で睨み合う。山崎は流石に表情を曇らせ、二人の厳しい情況に居た堪れなくなってきていた。

「何の騒ぎです!?」

ばたばたと転がる様に走る音が聞え、第三者の小さな影が姿を現した。・・・佐倉だ。山崎は何故か佐倉だと知ると緊張が少し和らいだ。

「土方副長に沖田先生に・・・・・・山崎監察―――・・・?」

顔触れから状況を理解しようとする佐倉の首根っこを土方が掴み、沖田に向かって抛り投げる。全く想像し得なかった事に沖田は佐倉を受け止め切れず、近藤の部屋に佐倉が飛び込んで来る事を許して仕舞った。近藤が、こら!トシ!と注意する。

「ごほっ!ごほ、ごほ・・・・・・」

胸を圧迫されて沖田が咳き込む。佐倉が急いで起き上がり、沖田から離れた。大丈夫なんですか・・・・・・? 佐倉が訝しげな声で問う。

「佐倉は、返品だ」

土方がぴしゃりと言い放った。―――は・・・?と佐倉は訳が解らないという顔をする。沖田は咳を続けた侭土方を睨みつける。

「俺は之から暫く部屋を空ける。だから小姓は必要無い。―――佐倉、その間、お前は総司の看病だ」

「なっ!?また!?」

「必要―――・・・ありません―――!!」

沖田は息を切らしながら、其でも頑として聴かない。・・・ふ、と沖田は口を押えていた手を離すと、口角を歪ませて嗤った。

「・・・・・・返品は承っていませんよ、土方さん。返品するにしても、8日以内が筋だと思いませんか?もう其以上は経っています」

「だから俺が居ない間と言っただろうが。戻って来たら勿論返して貰う。大体、売り手が買い手より商品を必要とするなんざ、お前は絶対に商売に向いてねぇな」

土方も嫌な笑みを浮べて沖田の皮肉に皮肉で返す。だが困るのは佐倉だ。えっ、私商品!?突っ込みたいが突っ込める空気でない。

「・・・・・・余計な御世話です」

・・・・・・沖田は苦虫を噛み潰した様な表情をした。顔が白い。・・・土方はもう「治せ」とは言わなかった。

「ふん。買い手が求めてきた時に『売れません』と言う様なちんけな商売だけはすんじゃねぇぞ。そんな事になっていたら、石田散(にがい)薬を飲ませるからな」

沖田はサーッと益々顔の血の気が引いた。石田散薬といえば、土方の生家で製造している日本酒で飲むあれである。服用だけでなく製造過程にも日本酒が織り込んである、酒の塊とも謂える代物だ。あんなの薬じゃない。

「ーーー・・・・・・」

「おっ、沖田先生!?」

フッ。土方は珍しく沖田に完勝した。子供の頃のトラウマというのは強烈だ。単なる酒の塊であるにも拘らず薬扱いをされているので子供の頃の沖田も例外無く稽古で傷をつくる度に追い駆けられて飲まされた。だから沖田は現在に至るまで酒が大っ嫌いなのである。

「―――行くぞ」

土方は山崎と尾形に声を掛け歩き始める。だが、すぐに・・・近藤さん。と言って足を止める。振り返り

「総司が無理しないよう頼む」

―――と、少し口籠らせながら言った。柄にもなくて決りが悪いのだろう。―――あぁ、昔と何にも変っちゃいないじゃないか。

「―――ああ。ここは任せて行ってこい」

近藤はあの頃と変らない屈託の無い笑顔で見送る。山崎と尾形は近藤のその顔を見る事無く前へと進む。彼等は己の立場を弁えている。己が之から為す事も、共生とは程遠いものであると、解っていた。



―――尾形がすらりと刀を抜き、男の左後ろに回る。

「―――・・・尾形 俊太郎である」

水が刀を伝って零れ、ぴちゃり・・・と地面に注がれる。尾形は刀に清めの水を掛けた柄杓を、配膳係に渡す。刀を大きく振り、構えた。遠く刀の切っ先が向いた斜交(はすか)けの座には、山崎が居る。

伊東が御陵衛士として脱退した僅か3週間後、新選組から脱走者が出た。田中 寅蔵。禁門の変後に入隊し撃剣師範を務めた男である。この男の切腹の儀の介錯を、尾形が行なう。検視役は山崎 烝。

『―――副介錯人を置かなくても?』

山崎は田中の切腹に際して、土方に問うた。切腹の儀は目にした事なら無くも無いが、自らが行なうのは初めてになる。

『必要無い。尾形に全部させよう』

土方は非情な眼で答えた。

介錯には普通、正副がいるらしい。正が仕損じればすかさず副が討つのだが、副を用意しないという事は失敗できない事になる。

尾形も介錯を行なうのは初めての筈だ。が。

『なに、尾形なら殺るさ』

・・・・・・。介錯どころか、山崎は入隊してこの方尾形が真剣を握った姿すら見た事が無い。常に汚れ仕事から逃げ回っていた印象がある。其を御するだけの力が今の土方にはある、という事なのだろう。

『其より山崎君。今回は見ものだぞ。同僚の初舞台を確と見届けなければな』

土方は眼を細めて微笑った。残酷な笑みだ。・・・・・・この男は、尾形を鬼にしようとしている。

『―――其に山崎君。君にも感覚を取り戻して貰わなければなるまい』

田中 寅蔵は尊攘論者で、伊東に接近していたという記述が遺されている。今回の脱走も、御陵衛士への合流が動機であった。

―――尾形がこの男をどう捌くのかが、見ものだった。

「・・・・・・・・・」

只の一太刀を浴びせるだけだが、尾形の生死が懸っている。

伊東との繋がりの嫌疑が未だ晴れぬ尾形が伊東と繋がる田中を斬れるか斬れぬかに依って彼の明暗が分れる。斬る技があるか如何かについては此処では求めていない。その事に関して、土方は既に知っている。

「―――四方山の、花咲き乱る 時なれば 萩も咲くさく 武蔵野までも」

・・・・・・田中が辞世の句を詠み上げながら肌脱ぎをする。―――ほう?俳句に理解のある土方が口を歪ませて嗤った。何と挑戦的な句だろう。

田中は尾形と伊東の繋がりを知らなかった様で、介錯が尾形と知った時の動揺は特に見られなかった。或いは、其が田中の潔さだったのかも知れない。只、沖田や永倉といった人斬りで見慣れた名前ではなかった為に、上手く()れ、と言った。

「・・・・・・無名の者で済まぬな」

尾形はそう返した。

「あんたみたいな頭良さそうなのが何で伊東先生に誘われなかったのかが不思議だ」

田中が背後の尾形に話し掛ける。

「―――文学師範のあんたが、今此処で人を殺っているのも叉不思議だ」

田中が自らの腹に刀を突き立てる。左腹から右に向かって引き回し、刃を引き抜いて田中は前のめりになる。ここにきて山崎は寒気がした。

「―――そうかね」

この時、田中は尾形が微笑ったのが判った。背後に立っているにも拘らず。

先程とは違う男が立っている様に感じた。自分よりは目に見えて肉づきの薄い男から放たれる、先程とは全く異なる空気。

撃剣師範の中でもこの様な空気を放てるのは、沖田や永倉、斎藤くらいだ。併し孰れとも質が違う。斎藤が少し近い気がするが、切腹という無抵抗の相手を前にした時に彼等はこんな微笑(かお)はしない。―――之ではまるで、大石 鍬次郎ではないか。

師範にならなかった大石でさえ、腕の高さとその狂気から噂になりつつある。

「―――寅さん。ゆくぞ」

―――如何して、この男は今迄日の目を見る事も無く、ひっそりと隊内に居たのか

「――――・・・も・・・・・・う・・・・・・も・どれ・・・な・・・・・・い・ぞ・・・・・・」

斬ッ!!

「―――――・・・」

山崎が気づいた時、田中の首は皮一枚で繋がって胸に抱かれていた。血が噴き出す。紅よりも猶深い(あか)が尾形の着物の裾を濡らした。

「・・・・・・想像以上だぜ・・・・・・・・・!」

土方もごくりと唾を呑む。之が原田の見た剣技かと腑に落ちる。なるほど之は凄まじい。

だが其よりも怖ろしかったのは、刀を振り下ろす瞬間から変った尾形の雰囲気だった。人を斬る事で人のもつ空気が変る事自体は少なくない。特に斬り初めは人を殺した興奮から幾日経ってもがらりと変った空気が戻らない事もある。でも尾形は違う。

初めて斬った興奮ではなく、久々に人を斬った事で何らかの感覚が呼び起されたかの様だった。

「―――崎さん」

尾形が首を切り取って、検視役である山崎に田中の絶命を確認させる。之には尾形の方が余程慣れているかの様な手つきだった。

「・・・・・・」

山崎が確認し、尾形が首を下ろす。山崎と尾形の眼が正面で合う。つり上がった目尻と長く切れ込んだ目尻が持つ瞳は同じものだった。

「―――よく遣った。尾形、山崎」

土方が座から下り、介錯人と検視役を呼び出した。山崎と尾形の夫々の眼を見て、満足した様に笑みを浮べる。

「・・・戻った様だな」

―――あの頃に。山崎は肯いた。この男はすぐに感を取り戻せた様だ。5年前、土方がそう仕込んだし、尾形の今の介錯を目にすれば否が応にも刻まれた感覚が蘇ってくる。寧ろ互いに、逆であるよりも新鮮で生々しかったかも知れない。

「―――行くぞ」

「は」

ぎらぎらした瞳の山崎と、碧血に身を染めた尾形が土方について白縁屏風を抜け、切腹の座から去る。

二人が隊服を着たのは文久3(1863)年の八月十八日の政変以来で、天下の大幹部であっても浅葱姿の彼等を終ぞ見なかった者も在る。一年程度で廃止された浅葱を彼等が再び身に纏った今日、浅葱という色が彼等に示すものを再確認せざるを得なかった。

「ーーーー・・・・・・!!」

こそこそ隠れて浅葱(切腹)を見た武田は、恐怖でガチガチと歯を鳴らしていた。あの尾形までも、人を介錯(ころ)した。

土方は、再びあの恐怖体制に新選組を戻そうとしている。あの頃は別に其で良かった。自分はいつだって、口一つで隊士の運命を左右していたから。

だが、今は―――

運命を他者に握られている。握っているのは副長土方や局長近藤ではなく、自分から副長助勤の座を奪った尾形や山崎の様な気がした。



「なにっ、尾形に介錯をさせたのか!?」

後日、報告という形で田中 寅蔵の切腹を聞いた近藤は素っ頓狂な声を上げた。まさかあの後、切腹の儀があったとは思わなかったらしい。

「一応仄めかしはしたぜ?」

「頭脳で使ったと思ったんだ・・・・・・其に、決断が早すぎるだろう、トシ・・・・・・」

近藤がげんなりした顔で土方を見る。土方は反省も後悔もしていないといった顔で煙管を吸い、煙を立てる。当然だ。新選組隊士は皆武士であり例外は無い。人を斬らずに生きていくなど在り得ない事だ。

「アイツは剣も出来るじゃねぇか。而もかなり上位だ。素っ気無い形は斎藤に似ている。之を使わない手は無いだろう」

・・・ま、右しか使っちゃあいねえがな・・・土方はぼそりと付け加える。近藤の耳には届いているのかいないのか、う~ん、う~ん・・・と唸っている。

「・・・・・・近藤さん?」

近藤の反応が奇妙に感じて、土方は彼に声を掛ける。だが聴こえていない様で、眉を上げたり下げたり、一人百面相を繰り広げていた。

「・・・・・・山崎と一緒で、まだ取り戻さないといけねぇ部分があるから、借りとくぜ?」

土方は取り敢えず会話を進めてみる。近藤は話を聴いていない様で聴いている事が割とあるのだ。近藤は結局、眉をハの字にして

「いいぞ」

と軽ぅ~い口調で言った。余りにあっさりしすぎていて、土方は煙管を取り落しそうになる。さっきの意味深な唸りは何だったのか。

「いいぞ、別にいいが・・・」

近藤が再び悩ましげに言う。土方は矢張り何かあるのかと思い、身を乗り出して聞き逃すまいとする。が、近藤は叉眉をハの字にした。

「返品不可。保証無し!!」

「如何いう意味だよ!?総司の真似はもういいよ!!」



「・・・・・・尾形・・・・・・」

同じく稽古場で素振りをしていた山崎も、手を止め何度も瞬きをして同僚を見ていた。

「―――何で御座いましょう」

尾形は素振りを続ける侭答える。日常通りの稽古前の素振りの風景だった。だがそう思っているのは彼自身だけの様である。

・・・・・・土方は早くも、近藤に返品したくなってきていた。この男は如何してこうも、奇矯な振舞いばかりをする。

「本を読みながら素振りをするな!稽古に集中しろ!」

尾形は本を持ち、其等の文字に目を通しながら片手間で素振りを行なっている。

「ならば私に時間をくださりませ。私の本職は学問(こちら)です」

尾形はじわりと不満を滲ませて土方に言った。田中の切腹を終えてからずっと、尾形と山崎はとある一室を借り切って朝から晩まで稽古三昧の日々を送っていた。一対一の対決で、而も土方直々の特訓ときている。

「お前達は副長助勤なんだ!今迄の遣り方が通用しねぇのは当然だろうが!」

奇矯な振舞いばかり、といったが、以前はやる気があった迄はいえなくも、目立たぬ計らいか共通の稽古を同じ通りに受けていた気がする。現実、今に至る迄変っているやら我侭やらと感じているのは幹部の極一部の人間(詰りは土方等)位で、其以外の隊士からは尾形の人格があっさりしている事もあり、概ね好評価だ。人望の無い武田から敵視されている事や、男にも惚れられる八十八が味方についている事も作用しているのだろう。

この極端な変りようは何なのか。土方は未だこの男が掴めずに頭を抱えた。

「・・・・・・」

・・・一方で、山崎もこの訓練の主旨が判らず頭を傾げつつ稽古をしている状態であった。何せ土方は何も言わない。勝負も何も無く只管に自分と尾形をぶつかり合わせ、土方は其を観ているだけなのである。その点で、通常の稽古と明かに様相が違っていた。

(・・・まぁ。我ながらまだまだやからええが・・・)

新選組は天然理心流・神道無念流・北辰一刀流等様々な流派の出身者が雑多に交っているから、基本的に形は教えない。が、槍術出身者や棒術出身者等元が剣術の出でない者や、特別な事情がある者は天然理心流を教えられた。山崎も入隊当初に天然理心流を学んでいる。

併し、剣の形と剣の腕は叉別なもので、天然理心流は山崎の身体になかなか馴染まなかった。馴染んでからはなかなか抜けないものの一定以上強くなれない。

(・・・あ)

山崎はふと気がついた。

尾形が竹刀を左で振るっている。


「土方副長が部屋を空けると仰ってから、山崎監察の姿も見掛けなくなりましたね」

佐倉が勢いよく戸を開けて、沖田の臥せる室内へと薬を運ぶ。沖田はびくり!と跳ね起きて

「お薬、お薬・・・・・・!山崎さんのお薬、まだ切れていませんよね・・・・・・!?」

とぶるぶる震えた。

「大丈夫ですよ、在り得ない位沢山作っていってくれたんで」

佐倉が冷めーた眼をして言う。その実、相当呆れていた。いい年をした大人が薬一つで何を怯えているのだが。用意する方も何ヶ月分薬挽いていったよ。

・・・けれど、副長の実家の薬を先生があんなに苦手としていたなんて。沖田の身近な事柄について新たに叉一つわかった気がして、佐倉は何だか嬉しくなった。

「・・・でも、こんなに作っていかれて、山崎監察暫く帰って来られないんですかね・・・?」

・・・・・・一方で、山崎とはどんどん距離が離れてゆく一方だった。伊東が入隊してからは屯所に居る時間が短くなり、伊東が離隊して監察から解放されてからも今度は助勤に異動してと忙しない様だった。佐倉や沖田に会う機会が殆ど無い。寂しさを感じていた。

「土方さん直々に指導を受けていますからね」

「えっそうなんですか?」

佐倉が吃驚して訊いた。沖田は安堵したからなのか、やけに美味しそうに薬を飲む。苦い事には変りが無いと思うのだが。

「・・・・・・監察と助勤では、勝手が色々と違うので」

沖田は湯を喉に流し込んでから答えた。・・・あ!と佐倉がぽんと手を叩く。

「沖田先生が近藤局長の部屋に居られて、土方副長達がいらっしゃったあの時!山崎監察と尾形先生が一緒に居ましたよね。尾形先生も指導ですか?尾形先生も監察長かったですよね」

「いえ、尾形さんは叉別だと思いますけどね」

へぇーっ。――えっ。そうですよーと短く返ってくるものと思っていた佐倉は一旦相槌を打って慌てて引き返した。沖田の口調が余りにあっさりしていて危うく聞き逃すところだった。だが佐倉が引き返した時には沖田の思考は完全に違うところへいっていた。


(・・・・・・遣れ遣れ)

尾形はぱたんと本を閉じた。


「羨ましいなぁ、山崎さん。私だって手合わせ願いたいのに!」

一人で何故かぷりぷりしている沖田。あのー、沖田先生? 佐倉は遣り場の無い手をひらひらと振る。其でも戻って来ないので、御菓子を持ってひらひらするとおかし!♪と喜んで返って来た。


―――ガッ!!

・・・・・・竹刀と竹刀がぶつかり合う。

「――――っ・・・・」

「・・・・・・はぁ・・・っ」

・・・・・・尾形と山崎が間合を開いて、竹刀を構え直して互いを睨みつける。双方汗だくだった。併し瞳は共に炯々と光り、気概と体力は未だ折れていない事が判る。

(当然だが。底無しだな・・・・・・)

持久力が、である。沖田と斎藤も之に似た戦いをした事があるが、彼等の場合は一太刀で決る。(はや)すぎる為に互いに防ぐ術を持ちようが無いからだ。

その点、探り合う様な彼等の剣は実に監察方らしい戦いといえた。特に山崎の方がそうである。隊内での殆どを監察方として過し、元が医家の忍の出である山崎は尾形よりも持久力に優る。併し其と実際に尾形を探っていた為か、尾形に何か遠慮している様に視えた。―――構えは近藤や沖田と同じ、天然理心流平晴眼。

一方、尾形も構えを取ったが土方は其だけでこの戦いを切り捨てる。尾形は本来、構えない筈だ。互いに本気で戦えていない。忍同士の戦いの状態が長らく続いた。


連日連夜の戦いの果て、先に体力尽きたのは尾形の方だった。とは謂え、山崎もいつまでも合わない天然理心流の剣を振るい続けるのが限界であった。尾形はその日、朝から珍しく殺気に溢れていた。

(・・・・・・ほう―――?)

・・・・・・やっと面白い事になってきたと土方は思った。

「―――崎さんは、凄いな。私はもう、疲れた。そろそろ終りにさせて頂く」

・・・・・・山崎は気味が悪いと思いつつ、構えた。平晴眼の構えである。彼としてはこの稽古に求められている期待に応えている心算であった。現に尾形は之程に疲弊しているし、本気になると宣言している。遣り難いと感じる方法で尾形をここ迄追い詰めたのだから大したものだ。

尾形は竹刀を右手で持ち、一歩前へと進み出る。ふっ・・・と崩れる様に頬を綻ばせて微笑うと、済し崩し的に身体が倒れ視界から尾形の姿が消えた。

「・・・・・・っ!?」

がんっっ!!

―――竹刀が撓んでいる。

身体が反射的に尾形の剣を止めていた。凄まじい衝撃で、剣を前に突き出しながらも数歩彼は飛び退いていた。だが其が正しい。退いていなければ彼は股から胸にかけてバッサリと斬られていたところである。山崎が我に返った時、尾形の顔は己の顔の位置に在った。

「―――俊敏だな」

尾形が猶も間合を詰め、竹刀を山崎に押しつけて来る。体勢を崩し気味の山崎は踏ん張りが利かず、拮抗した状態の侭竹刀と竹刀が擦れて悲鳴を上げる。

ふ・・・と尾形の剣が急に弱まった。仕舞った、と山崎は思うももう遅い。他人がする様な技でもこの男がすると全く予測がつかなくなる。息遣いが全く掴めないのだ。如何にもインテリらしい、まさに駆け引きの剣と謂えた。

山崎は慣性に引っ張られ、つんのめって尾形の方へ傾くも其処に尾形は既に居ない。はっとして横を見ると、尾形が山崎の側面に移動し竹刀を高く掲げていた。

「―――終りだ、崎さん」

―――竹刀がばらばらと振り下ろされる。

「――――・・・っ!!」

山崎は視野にどんどん大きく入って来る尾形の竹刀を見つめる。己の竹刀を振り回してはもう間に合わない。面を打たれる。

するりと身体が反転する。之も反射的な動きであった。と同時に、忍にとっては不可欠な能力であった。

天然理心流の形が崩れる。山崎は即座に竹刀を持つ手つきを変え、尾形の胴目がけて突く。尾形の左半身はがら空きだった。

カッ!

―――硬い音が鳴り響く。胴を仕留め切れていない事に、山崎自身が驚愕した。土方も思わず眼を瞠る。

「―――・・・御出座(おでま)しか」

土方は身震いしてその技を見る。

―――左腰に差したもう一本が左手に拠って引き抜かれ、山崎の剣を受け止めていた。

「―――流石だな、崎さん」

―――左と突きの二つの剣が軋み合って離れる。尾形が軽く息を上げながら言った。山崎はまだ息が乱れていない。

「―――・・・気づいたんや」

と山崎は哂った。構えが先程と全く変る。尾形は構えずに山崎を見て微笑う。右手の刀を仕舞った。

「・・・・・・」

土方も哂った。良い一対(コンビ)ではないか、と土方は想う。天然理心流でも山崎は充分強い。だが其よりも合う剣の形が在る。

忍の刀、というものが在る。直刀と呼ばれる日本刀独自の反りが少なく、突きに特化した忍用の刀だ。5年前の助勤時代には忍である事を隠す意味合いも込めて天然理心流を学び、封印してきたが之が山崎の本来の形なのだ。

山崎はもう、監察には戻らない。尾形も後にはもう退けない。土方は専らその心算でいた。もう隠す必要は無い。

「―――・・・其は良かった」

―――併し其でも、山崎は、天然理心流(試衛館)の(きずな)には捲き込まれずに済みそうだ

山崎が攻めに転じた。本来の構えは若干前屈みで、剣先を真直ぐに相手に向けた所謂“突き”に特化している。背の高い山崎がこの姿勢を取るのは些か不利に思える。が、速さが天然理心流(さきほど)と格段に変り、ふらり、と尾形はギリギリで避けた。

山崎と尾形が行き違う。山崎は剣を両手で握り前に突き出した侭、尾形は片手で山崎の側に剣を振っている。―――くつり、と哂い、滑らかに振り返る。

尾形も一筋縄ではいかない。振り返っても猶、剣は山崎の側に在る。

尾形が山崎の胴を薙ぎに走る。其は風の様に迅く、山崎は己の腹の前で剣を縦にし何とか防いだ。左腰に差した刀が視界に入る。

互いの剣が離れる。直後の動きが速かったのは山崎の方だ。離れた時の勢いの侭で尾形の右半身に己が身体を持ってゆく。右には本差も脇差も無い。

刀の先を垂直に向け、尾形の胴を取る。尾形は取られる直前に、珍しく「あっ」と小さく声を上げた。土方が顔を蒼くする。

「ーーーーだっ!!」

胴を取ったと粗同時、山崎の面に竹刀が落される。防具をつけていない為、衝撃は諸に脳に響いた。

「―――崎さん」

尾形が急いで駆け寄る。いつの間にか竹刀は右手が握っている。全く、敵に回すと厄介である。



「・・・うわー、たんこぶんなるわ、コレ・・・・・・」

山崎が頭を押えながら溜息を吐く。防具の無い際は取られても通常は寸止めする為、本当に打たれる事は無いのだが、あの野郎、本気で打ち込んできやがった。

直接な言い回しはしなかったが、詰るところ、手が滑って、つい、というのが尾形の弁解である。

「―――済まぬな、崎さん」

尾形が手拭を絞って山崎に渡す。

「―――之で仕事に支障が出来たら、尾形はんの所為やで・・・?」

山崎は半分冗談、半分は本気で尾形に釘を刺す。・・・まぁ、そういう事は無いだろうが、何分尾形には自分と吉村を広島に置き去りにするよう仕向けた前科がある。

「・・・・・・言い訳はせまい」

尾形は二度謝らなかった。併し、代りに放たれた言葉の方が潔く重い。単純に謝罪を繰り返されるよりこちらの方が信用できる。

「・・・そんな格好で本読んでると、視力(めぇ)も悪うなるし風邪も引くで?」

・・・・・・尾形は肩から上だけ起し、山崎を見た。長らく互いに挑戦的な言葉しか投げ掛けてこなかったが、今夜は何だか雰囲気が違う。尾形は仰向けに寝転がり、本を読んでいた。長い前髪が額から零れ、珍しく眼元がきちんと出ている。室内が暗いのではっきりとは見え難いものの。

「・・・・・・だいぶ以前も似た様な声を掛けられた気がするな」

「ほうか?俺もそんな気ぃするわ・・・・・・」

・・・・・・二人は夫々今取っている姿勢の侭、暫く固まった。・・・少しして山崎は項垂れて、尾形はくたりと頭を畳につけた。

「何読んでるん?」

山崎が尾形の読んでいる本を覗き込む。監察の時は時間帯が合わなかった事もあり殆どその姿を見た憶えが無かったが、そういえばこの男は重度の書痴なのであった。尾形は気持ち本の表紙を山崎の方へ向け

「『女大学』」

と言った。

馴染みのある名前の本ではないが、尾形の言うところ教育書の一つらしい。さすが文学師範。

女子(おなご)の教育に注目した本は古今問わず稀少なものだ。崎さんも少し読んでみるか」

尾形は横になった侭山崎にその本を手渡す。山崎は受け取り、尾形がたった今読んでいた頁に目を通してみる。山崎は思わず

(・・・・・・佐倉はんなら猛反発するやろなー・・・・・・)

と乾いた笑いをした。さらっと要約すると「女とは斯く在るべき。良妻賢母の英才教育法」と謂ったところか。

「・・・・・・之で女子が幸せになれるかは判らぬ。が、女子に対して之迄が何も考えてこられなかった事と鑑みると、先駆的ではある」

微妙な反応をした山崎から本を取り上げ、尾形は叉仰向けに寝転がった。何だかクッタリしている。疲れが溜っているのだろう。

尾形は入隊した頃から無口で、稽古と食事と汁粉会以外は活字ばかり読んでいたが、興味やその時思うところは本のジャンルに如実に表れる傾向にある。女子教育に対して何か心当りでもあるのだろうか。

(まさか・・・佐倉はんの事、バレてへんやろな・・・・・・?)

単純な現象でも深いところで理解して悟りまで啓いていそうな男である。山崎は高が尾形が読む本一つでこんなにもひやひやした。

こういう時には佐倉の心配ばかりしている事に、山崎自身が気づいていない。

(・・・・・・)

・・・・・・尾形は本の頁を捲り、数行読んでから重たそうに口を開いた。

「・・・・・・時代は、変移してゆく」

「―――・・・ああ、せやな」

二人は確認し合う様に言った。不覚にも、懐かしいと想う。とはいえ、山崎は5年前にこう遣って尾形に読んでいる本について尋ねた事は無かった。失ったモノばかりではない。

「例えば以前はもっとツンケンしていた崎さんが、現在わりかし隊士に対する態度を軟化させている様に」

「んな俺冷たかないわ!んな事言うたら、尾形はんは仕事から逃げてばかりいたやないかい!今もそうやけどな!」

尾形が冗談を山崎に言った事も無かった。山崎が突っ込む。今迄自分をどんな眼で視ていたのだ。

彼等が入隊した当初は随分如何わしい者も交っていた。信念など無く、甘い蜜を吸えればいいという意識の低い者も多かった。

併し今は洗練され、腕に覚えがある者・人格的に優れた者・プロ意識が高い者しか残っていない。例外の人物は勿論在るものの、以前と較べると尊敬できる者達が沢山いる。・・・・・・其は平隊士の中にも。

「・・・・・・俺は、現在(いま)の方がええ思うで」

山崎は基本、過去を振り返る事はしない。弱音も決して吐かないし、聴く様な事もしなかった。其が当時の同期達には冷たく映ったのかも知れない。

我ながらあの頃は青かったな・・・と今となっては少し許反省している。併し、武田に対して厳しい様に、基本姿勢は今も変っていない。

「・・・真面目だからな、崎さんは」

山崎は後悔の無い様に生きているだけだ。だから職務に対して真面目にもなるし、後悔などしない。だから過去を振り返りはしない。未来(さき)が如何なるか、不安は当時より現在の方が大きく具体的だろう。あの頃は幕府の方が優勢で、希望を抱いて皆過していた。

現在の情勢に不安が無いという事は在り得ない。山崎はそこまで無教養ではなく、また無神経な訳でもない。只、こういう局面だからこそ試されるものがあり、必要とされるものがあると確信している。

「真面目言うてくれるんは尾形はんだけや・・・・・・監察の頃何度サボリ間違われた事か・・・・・・」

実は思慮深い男・山崎。だが監察時代の後半には監察方である事すら忘れられていた為体(ていたらく)である。

「あんたは真面目やないのに真面目言われて・・・・・・羨ましいわ・・・・・・」

「其は見た目の問題ではないのか」

サラリと返す尾形の愛情の無いツッコミにガクリと肩を落す山崎。なるほど、確かに揉まれてきている。てか、あの曲者揃いの文学師範の輪の中に居ればそりゃ鍛えられるだろう。

「・・・其に、私も幾分真面目ではある心算だが」

「幾分て・・・・・・;」

おいおいと山崎は笑う。曖昧というか、完全に言い切って仕舞わないところが尾形らしい。御蔭で振り回される事も多いものだが。

「崎さん程ではない」

尾形も口角に淡い笑みを浮べる。瞼を閉じているからか、彼が笑む時にいつもついて回る不気味さや不可思議さは今回は無い。寧ろ安らかで落ち着いていた。私的な場面で彼が微笑むところを見るのは初めてではなかろうか。

「・・・尾形はん、寝るんなら風呂入ってからにせぇや?」

・・・数秒の沈黙に、山崎がふと釘を刺した。だが刻既に遅く、尾形は本を胸に抱いた侭眠っていた。

「・・・・・・」

あーあーあー・・・ 山崎がガックリと項垂れる。忍の技で尾形の手から女大学を掠め取ると、掛け布団を用意する。

(うう・・・何で俺がこないな事・・・・・・)

山崎が慣れぬ手つきで掛け布団を掛ける。同じ職務という手前、家族や佐倉の様に気軽にすると目を覚まされそうでつい慎重になる。鋭いと思えば妙なところで隙を見せたり、未だよく掴めない男だ。

「・・・・・・」

・・・山崎は、一度は理解を諦めた女大学に視線を宛てた。手を伸ばし、表紙を捲る。

「――――・・・・・」

山崎は行燈の近くに坐り、女大学を読み始める。夜はもう更けようとしていた。



―――丑三つ刻だろうか。

真暗な寝所の中を、もぞりと一つの影が動いた。畳に手をついた時、柔かな髪がはらりと床に届いた。

・・・・・・掛け布団が背の上に被せてある。掛けてくれたと思われる隣に眠る人物を見た・・・ゆっくりと背中から下ろし、気持ちばかりと簡単に畳む。

夜目に慣れる迄正坐して待ち、視界がはっきりしてから用意してあった荷物を慎重に取り出す。風呂敷包であった。

―――風呂敷包を持て上ぐと、スッと立ち上がり、髪を結ぶ暇も無く出口の襖まで抜き足差し足で進む。音を極力立てずに襖を開ける。開けると目の前は、木張りの廊下だ。

―――・・・背後を確認しつつ襖を閉め、廊下を下りて草履を履き、足早に部屋を去る。

彼が目を覚ましてから部屋を出る迄5分も掛らなく、厠へ向かったとでも思って仕舞いそうな早さであった。


――――尾形が太鼓楼を出、静寂が包む暗闇へと消える。


「・・・・・・」

・・・・・・山崎はころんと寝返りを打ち、うっすらと瞼を開ける。瞼の下にある瞳は明瞭で、確りと覚醒していた。

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