伍. 1867年、睦月
1867年、睦月
『では、寂しいけれど君と話をするのは我が隊が出来上がってからにしよう。・・・今まで有益な情報を運んで来てくれて、本当に感謝しているよ。こちらはいつでも、君を迎える用意は出来ている』
伊東の出張に終止符が打たれる。伊東は新選組屯所に戻り、慶応2年の残りの年を大人しく・・・もないがまぁ、特段怪しい行動も起さ・・・なかった訳ではないが、とにかく不穏な行動は起さず過した!土方と佐倉と八十八の心中が不穏になった位である。だが其も、伊東の愛が見事3つに分散してくれたので以前ほど身の危険は感じずに済んでいる。比重が土方に傾いているし。
いやいや武田がいるではないかとお思いかも知れないが、この時期の武田は最早其どころではない。慶応2年は谷 三十郎が死んで、後ろ盾の無い幹部が武田一人になった年であった。その上、自身の立場も失墜しかけている。
伊東が帰営した事に由り尾形の外出も収まった・・・と思ったが、そうではなかった。武田が尾形を恃りとし始めたのはこの頃からで、武田が尾形を誘っては二人で外食しに行く様になった。
「俊・・・俺の為に犠牲に・・・・・・」
トゥンク・・・八十八が目尻に桜田麩でも擦りつけて目蓋の腫れを演出する。つくっていても色気が倍増しているところがすごい。
でも、誰も突っ込める人がいないから筆者が突っ込むけど、以前武田にあなたを売ったのは彼ですからね。
武田に関して監察方ではノー‐マーク(どころか奴の存在感が途中から皆無)であった為に、伊東が帰営する迄の間尾形が伊東に会っていたのか武田に会っていたのか判断が難しくなり、山崎と吉村は大いに苦悩させられる事になった。何でこうタイミング良く撹乱してくれるかな。
尾形が外へ出続ける一方で、伊東は帰営してからはまぁ、風紀は如何あれ波風立てずに残り少ない年を新選組屯所で過した。外出する訳でもなく、意味深な言葉を呟く事も無く、唯々土方を追い回していた。いや、仕事しろ?
―――併し、新選組に裏の顔(監察方)が存在する様に、伊東派にも裏の顔が在る。
伊東は新選組屯所に居ながらにして、土方と同じ方法を使って、己の計画を着々と進めていた。昼間賑やかな時間帯場処では決して表に出てこなくとも、夜も更け自室へ籠る静けさとなれば、自ずと裏の顔も出で現れてくるものだ。
満月の夜は人の心を狂わせる。犯罪が増えるとも云われており、悪事が露顕し易いのも確かの様である。
現に彼が巡察に出た時に、辻斬で捕縛した浪士がいつもより多かった。
(やべっ、巡察・・・・)
彼はその夜、寒さで一際静かな廊下を夜勤の為に速歩で歩いていただけだ。併し其だけで彼に命の期限がつく事となる。
「ーーー・・・ーーーー・・・」
非常に小さな声だった。その為声では誰が話しているのか判断するのは難しいが、この部屋の主を知る者ならばこの声の主についても容易に想像が出来るだろう。況してや彼にとってみれば、聞き慣れた親しき者の声であり。
(伊東さん―――?)
出逢った当初は独特に感じた喋り方の特徴も、骨を掴めば聴き取り易い。併しこの培った絆は、彼を縛める方向にしか糸車を回さない。
「今度、中岡 慎太郎殿と会ってみるか・・・」
「――――・・・!?」
―――この時、彼は完全に絆という名の繋縛に絡め取られたのであった。
彼は之以上を聞く訳にはいかず逃げた。だが聞き逃す訳にもいかなかった。前者は伊東の為だった。後者は共に新選組を創り上げた者達を想ってであった。どちらの絆しを切る事も出来ずに、其等縒り糸の如く捻り合い、縺れて解せなくなる。
彼にとって玉ともいえる2つの仲間が紡ぐ絆こそが、彼を“死”へと引き込む。そう其は縒り糸に黒い珠を通し、死を待つ数珠の様に。
・・・・・・彼の命を支える“絆”に火が点けられる。
「・・・・・・」
―――藤堂 平助が伊東の裏の顔を覗いて仕舞ったと知るは、黒真珠を糸に通した数珠の持主のみである。
慶応3年に入ってすぐ、伊東は幹部の永倉と斎藤を酒宴に招いた。永倉と斎藤は、伊東が入隊する前に局長・近藤に逆らう騒ぎを起しており、幹部の中では割と近藤に対して批判的な方だという情報を伊東は得ていた。
藤堂はすぐに永倉達を捜した。伊東が早くも試衛館仲間に手出ししているのではと心配になったのである。沖田から「永倉さんなら、伊東先生達と何処かに行きましたよ」と聞いた時には後を追おうかと迷ったが、続いて
「―――永倉さんなら、屹度大丈夫ですよ」
と言われ、思い止まった。
「総司・・・・・・」
『今日は年明けでおめでたい故、共に飲みあかしましょう』
伊東から酒宴の誘いを受けた時、永倉はすぐに伊東の思惑に気づいた。藤堂の様子が年末頃から何処と無くおかしいとも思っていたし伊東から何か焚きつけられたのではないかと按じていたが、自身が声を掛けられた事でほぼ確信に変る。試衛館派幹部を何らかの目的の為に近藤・土方から引き離し、己の手中に収めようとしている。
(何を企んでいる―――!?伊東 甲子太郎)
酒を口に含みながらも一挙一動を見逃すまいと眼を光らせている永倉の利口さを、伊東は気に入った。頭の良い人間は好きだ。勿論、見目麗しき者も目の保養となって好きだが、頭の良い人間は頭脳的スリルを感じさせてくれる。
(なかなか鋭いようだな、永倉 新八という男・・・)
ふふっ・・・最初は頭脳を刺激された愉しさに口から笑みが漏れ出たに過ぎなかったが、一度口許が弛むと何だか笑いが止らない。あーお酒美味しい。
『ふふふふふふふ。ふふっ。くくくくくくくくくく・・・・・・』
・・・永倉は武田にキュンとされた時と似た様な視線を伊東から感じ、思わず鳥肌が立つ。一体如何いう方面で企んでいるのだろう。
(き・・・気のせいであってほしい)
(新八っつぁんなら確かに大丈夫・・・かな)
・・・・・・。藤堂は溜息を吐いた。伊東は何故永倉と斎藤を外に連れ立ったのだろう。中岡 慎太郎に会うという発言との辻褄が合わない。
(一体何を企んで―――・・・)
「藤堂先生!!」
「!?」
何の気配も無しに突然障子が開く音と共に発せられる大声に、藤堂は心底愕いた。而も、普段部屋に迄来る事の無い様な相手である。
「な・・・っ!?佐倉!?」
佐倉はずかずか部屋の中に入って来て、ずいっと藤堂の顔の位置まで己の顔を辷り込ませ、何を思ったのか
「初詣!行ってないんですってね。行きましょう!今すぐ!!」
と突拍子も無い事を言った。
「・・・・・・は?」
藤堂は言っている意味が解らず間抜な声を出す。其が正しい反応である。理解が追い着いていないながらも頑張って
「ってももうすぐ2日に・・・」
と話を合わせるも、佐倉は藤堂の努力を措いて掴み懸らん勢いで益々迫り、有無を言わさぬ威圧的な声で
「行きましょう!!」
と言った。藤堂に残された答えは最早・・・・・・・・・・・・はい。しか無い。最近色々と、強いられている気がする。
「やったぁ♪私、行きたいトコがあるんですよね♪」
佐倉はぴょんぴょん飛び跳ねながら、とっとと部屋を出て行って仕舞う。てか、そんな理由!!?閉る障子の合間からひょいと顔出し
「じゃっ、外で待ってるんで早く来て下さいね」
と言うと、ぱたんと音を立ててさっさと障子を閉めて仕舞った。てか、速っ!!
(珍しいな、佐倉が俺誘うなんて。・・・・・・総司と行かないのか?)
まさか、自分が伊東派の事で隠している秘密があると佐倉に勘づかれたのかと思った。自身が顔に出易いタイプだという自覚はある。併し、其が己の杞憂であった事は一緒に初詣に行った時にわかった。
「藤堂先生ーっ。こっちです!!」
―――藤堂が外に出て佐倉と共に歩いてゆくのを、尾形が西本願寺太鼓楼の上階から見ていた。
伊東・永倉・斎藤が酒宴から帰って来たのは、3日後の1月4日であった。えっ、慶応3年に入ってすぐってそんなすぐ!?と思われるかも知れないが、新年早々すぐなのである。詰り、永倉と斎藤は貴重な正月を伊東と一緒に過し、新年一発目で顔を突き合わせた相手が伊東なのである。土方はそりゃもう、内心は彼等に感謝しながら謹慎を申しつけたに違い無い。
伊東は無論(土方にちょっかいを出すという意味で)大人しく引き下がりはしなかったものの、土方が殺す気満々で剣を抜いたので頬を押えてしおしおと副長部屋を出て行った。
「―――今の時点でどの位、いる?」
―――伊東が完全に立ち去った事を確認したのち、土方は永倉と斎藤に酒宴の中身を訊いた。特に打ち合わせなどしなくても、永倉達が如何いった理由で伊東から誘いを受け、彼等が乗ったのか土方にも察しはつく。永倉達もこの事を報告する為に、敢て誘いに乗ったのだ。
「詳しくは分りませんが、少なくとも10名・・・」
「・・・増えてるな」
土方は眉を寄せた。増えている、というのは伊東に与する隊士の事である。伊東が自身の懇ろな性格を利用して一派への鞍替えを隊士に勧めている事は、確実な根拠こそ無いものの感覚的に判る事ではあった。今や伊東は、芹沢 鴨と同じく新選組の存在を脅かす一大勤皇集団の長として君臨しようとしている。
「今のところ、幹部の中からは伊東一派の人間しかいませんが・・・・」
永倉が途中で口を噤んだ理由を、土方はこの時点ではもう察し切れていた。或る柵について吉村が話をしていたと山崎より報告を受けている。・・・元出が誰かは聞かされていない。
・・・・・・其程重たいものなのか。山崎から話を聞いた日は、彼が去ってから暫くぼんやりとそんな事を考えていた。
「・・・同門の仲・・・か?」
「はい・・・・・・」
永倉の表情も心なしか暗い。土方は抱えたくなる頭を、彼等の前だから辛うじて擡げて耐えた。悪い夢を見た後の様な既視感と、之から悪い夢を見る様な予感が混ざり合う。
―――北辰一刀流と試衛館という、二つの仲間。自身と対を成すもう一人の副長・山南 敬助もそうだった―――・・・
「今、平助は辛い立場にいるということか」
土方が得ている情報は、ここ迄だった。
―――併し、天下泰平も過ぎた世に於いて、刻はどんどん加速する。土方の目が行き届かない処で、藤堂と伊東は急速に接近していた。
「・・・・・・え」
「どうだろうか?」
遂に藤堂にも伊東から声が掛った。伊東は藤堂が自身の一派へ移って来るという自信を持っていたのだろう。見込みのある隊士が粗方声を掛けられたのち、最後に近い形で藤堂に順番が巡って来た。或いは自身の様子から、秘密の話を聞かれていた事を伊東もわかっていたのかも知れない。
「君は今の幕府に仕えていて満足なのかい?」
伊東の表現は直接的で、持ち掛けられた話は全く隠し立てが無かった。熱意もあり、聞いているこちらが辺りを気にして仕舞う程だ。
「私は正直、今の幕府にはついていけない。つまりこの新選組とは合わない・・・同門の仲である君が来てくれればすごく心強いんだ。是非君には私の一派に加わってほしい」
・・・いやいっそ誰かが聞いていてくれればいい・・・藤堂はそう思わなくもなかった。だが其は自分が今置かれているつらい情況を知って欲しいのではなく、新選組が完全に崩れて仕舞う前に何とか手を打てる人が出てこないかという救世主的な切願だった。その御人好しすぎる願いも、藤堂自身の優しすぎる性格が其は駄目だと否定して仕舞う。
(伊東さんの秘密を知った仲間がいたら、伊東さんがその仲間に何をするか判らない・・・・・・)
じゃらっ。
突如、密談している部屋のすぐ近くで玉を高い処から木張りの床にばら撒いた様な音がし、藤堂はビクリと肩を跳ね上げた。
まさか・・・・・・聞かれた?
瞠目して障子の出口の方に身体を向ける。伊東は流石に会話の内容を聞かれる事を懸念したのか、開いた扇子を口許に当てて黙った。―――誰だ?
・・・・・・障子に差す陽光を遮る人形の影に、特徴など見出せる筈も無い。だが以前之と似た様な音を、藤堂は聞いた事がある気がした。たたたっじゃっじゃらっ・ごっ!どがらがっしゃーんっ!!
「・・・・・・・・・!?」
続く此方の部屋の畳まで響く振動と衝撃音に、藤堂も伊東も眼を円くする。障子を一枚隔てた向う側では、佐倉がさでこけていた。
「・・・・・・」
・・・・・・尾形は本作初めてと謂えそうな驚きでぱちくりした眼で佐倉を見下ろしていた。
「・・・ったーーい!!何でこんな処に数珠!?」
佐倉は頭を押えてヨロヨロと身体を起すも、空いている方の手で数珠を掴んでは数珠に文句を言ったり、手足をばたばたさせたりしてなかなか立ち上がろうとしない。
「・・・・・・はっ!?尾形先生・・・・・・!?いや、尾形監察・・・・・・!?どっち!?」
「どちらでもよい」
漸く尾形の存在に気がついた佐倉、今度は混乱している様で、頭を両手で抱えてうーあー呻りながら言う。尾形の方も相変らずで、愛の無い突っ込みとも言い難い言葉を投げ掛ける。
「―――その数珠は私のだ。済まなかった」
尾形は本当に済まないと思っているのか怪しい素っ気無い口調で謝り、佐倉の手を引いて立たせてから数珠を返せと己が手を差し出す。佐倉があぁ!すみません!踏んで!と余計な一言を付け加えて数珠を渡す。おいおい、此処一応、仏教の寺なんですけど。
「・・・数珠を身に着けておられるなんて、何かあったんですか?」
・・・その際、思った侭の疑問を何気なく尋ねる。すると、尾形を纏う空気が変り、何故尋ねるのか不審がる表情をした。
蛤御門の時と比べ、性格が若干きつい様に思う。
仕事中だろうか。山崎も職務が絡むと態度が厳しくなり、過度に警戒心が強くなる傾向にある。監察方の職業病かも知れない。
「・・・・・・別に。命日の近い人がいる故、法要の準備の帰りに通りすがっただけだ」
尾形は実際に心焉に在らずの情態だったのか、少し間を開けて答えた。
「そうですか・・・・・・」
殉職・切腹した新選組隊士の墓は、一括して旧屯所である八木邸から極近い光縁寺に建てられている。
佐倉は隊士の中では忠実に墓参りに行く方だ。だから知っているのだが、尾形が其処で新選組の墓守をしている事実を知る者は少ない。嘗ては供養に対する専門知識を有する葛山 武八郎が墓守をしていたのだが、彼もいつの間にか供養される側へと回って仕舞った。
彼も叉、其処光縁寺の地に静かに眠っている。
「そちらの仕事だったんですね」
佐倉は納得した。併し尾形は佐倉の言葉が意味深に聴こえた様で、怪訝な顔つきで彼女を見下ろす。
「だったら私も、お参りしなきゃいけないですね・・・・・・」
・・・・・・。あどけない顔でしんみりと呟く佐倉を、尾形は静かな眼で見つめる。ほぅ、とか細い吐息が彼の口から漏れた。
「崎さんは、息災か」
佐倉は顔を上げて尾形を見た。その表情がやけに嬉しそうで、尾形は叉も眼を円くさせられる。何か自分は変な事を口走ったろうか。
「・・・監察は個別の仕事ゆえ、最近は顔を合わせる事も無いからな」
と補足をするも、即座に
「はい、存じております・・・・・・!」
と返ってくる。ならばこのきらきら具合は一体何だ。
「山崎監察の事を心配してくれる人がいるなんて!」
・・・・・・尾形は反応に困惑する。佐倉は!いえ、そういう意味ではなく!!と慌てて訂正した。
「沖田先生には試衛館の方々がいて、先生御自身が何も言わなくても仲の良さとかが伝わってくるんですけど、山崎監察の場合は基本一匹狼ですし、私的な話も一切しないので謎が多いんですよね。だから山崎監察も、仕事以外の部分があるんだなーって思って」
「仕事上の間柄だが」
しみじみと語る佐倉の言葉を、尾形がバッサリと斬り捨てる。監察方のドライな考え方に佐倉は泣いた。山崎監察もこんな風に人間関係を捉えていたりするのだろうか。
「・・・・・・同期だからな」
・・・併し、意外な程に柔かだった口調に、佐倉は半分以上が髪に隠れた尾形の顔を見つめた―――山崎監察と似ている。
二六時中を仕事に生きる彼等に、“同期”という言葉は若しかしたら“試衛館仲間”と似た響きなのかも知れない。
「元気にしてますよ、山崎監察」
佐倉はにっこり笑って言った。
「今、沖田先生と一緒に居るところですよ。あ、藤堂先生が見つからなくて私も戻るところなので、良かったら尾形先生も来ませんか?お茶菓子お出ししますよ♪」
そう誘いを掛けた頃には佐倉はもう既に尾形の手を握っている。だから、ぴくりとした微かな指先の震えを佐倉は見逃さなかった。
「・・・残念ながら、職務中ゆえ」
尾形が握られた手を何気無くすっと引き抜く。あ!そうだった! 佐倉はさっき自分でそう思ったのにもうその事を忘れている。
「じゃ、じゃあ、藤堂先生が何処に居らっしゃるか知りませんか!?」
じゃあ・・・?尾形はこの佐倉の生態がよく解らなさそうだった。元来頭で考える性質ゆえ、感覚で生きる人間はいまいち掴めないのかも知れない。
「・・・・・・知らぬな・・・」
尾形は暫し考えて答えた。だがその時にはもう既に佐倉は廊下の向うへ走っ・・・どたっ!
「・・・・・・今度は躓く物は無いぞ・・・・・・?」
そこにも矢張り、愛は無かった。大して接点の無い平隊士に同じ機会に二度も転ばれ、尾形は恐らくわざとなのだと勘違いしている。
「す、すみません・・・・・・?」
佐倉は鼻っ柱を押えて謝る・・・・・・?というのも、彼に謝る必要があるのか・・・・・・?
「じゃあ、山崎監察に尾形先生が心配していたと伝えておきますね!尾形先生も、藤堂先生を見掛けたらぜひ教えてください!」
佐倉は猶も無邪気な笑顔を浮べて慌しく去ってゆく。尾形はぽかんとした表情で結果見送る事となり、ほぅ、と溜息を吐いた。
―――・・・崎さんも大変だな
あの娘は妙に知りすぎるきらいがある。併しその分、色々とこちらに取り落していたりするものだ。
なるほど八十の言っていた様に、あの手の感触―――・・・
尾形は佐倉を見送った後、ちら、と廊下に面した障子を流し見る。此処が伊東の部屋である事を、監察方である彼が知らぬ筈は無い。
「―――見事だったよ、藤堂クン」
伊東は扇子を閉じると同時に、己の口を再び開く。
藤堂は只の一枚の障子を開いて己を捜す者の前に現れる事をせず、只管にその者が立ち去る迄俟っていた。前者の行動を取りたかったのは山々で、未だ指先が微かに震えている。
「・・・君が真一郎の事を思ってこの部屋を飛び出さなかった事が理解できたから、僕もこの障子を開いて真一郎の前に出るのを必死に我慢したよ。あの子は実に鋭い部分がある。君は、僕の部屋に自分が居ると知られる事で僕と君の会談の内容を察知されるのを懼れた。そうだね?」
―――藤堂は何も答えなかった。・・・別に伊東さんが悪い訳じゃない。今だって、自分の内心を親身になって考えてくれている。
「・・・でも、安心して呉れ給え。真一郎は元々誘う気は無いんだ。僕の一派に誘う隊士も、藤堂クンで最後だよ」
伊東さんが攻撃的な性格でない事は知っている。だが実際は、たとえ廊下であったとしても之以上この場に留まる事は危険であった。余計な事は知らない方がいい―――・・・
・・・・・・藤堂は敢て、凡てを沈黙する事を選んだ。
「・・・・・・佐倉はん」
山崎は、確と尾形の伝言を佐倉から聞いた。自分をアイツが心配していたという話である。少し突っ込んで聞いてみた感じだと、アイツは御挨拶程度に自分の事を「元気か」と訊いただけで、特に心配も伝言も無い様に思えるのだが。
(話盛り過ぎや・・・・・・!)
山崎にとってはその程度の認識でも、実際にアイツと会話した佐倉の脳内では素晴しい友情物語に発展しつつある。その中でも不服なのは、自分に友達がアイツ以外に在ないと思われている点である。島田はんとか沖田先生とか他にもおんねん、他にも!
『・・・・・・尾形先生、久々にお話ししたら少しイジワルになってました』
と、佐倉は唇を尖らせて言った。
『・・・・・・は?意地悪・・・・・・?』
佐倉はじぃ・・・と何故か山崎を咎める様な眼で見る。くすんくすんとわざとらしく洟を啜ると、
『助勤だった頃は隊士想いで優しかったのに!山崎監察に少し似てきてました!何を仕込んだんです!?尾形先生に!』
『俺イジワル思うてたんか!?佐倉はん!!』
寧ろ自分が意地悪だと思われていた事にショックである。
『何と無く訊ねてみただけなのに如何して訊くんだみたいな顔するし、少し私がドジを踏んだだけなのに疑いの眼で視てくるし、一体何があったんですかね、尾形先生!』
大して話をした事も無いのによ~ぉ視とんなぁ。山崎は自身にここ迄アイツについて語り切る自信は無いなぁと思いながら聞く。
・・・・・・若しかしたら、アイツは佐倉はんを俺の手先や思うてるんやなかろうか。
真偽は扨て措いて、佐倉の現在の立ち位置は実は非常に危ないのではないだろうか。
伊東が佐倉を変な方向に気に入っているのは奇跡としか言いようが無い。尾形に関しても、之迄話をする機会が無かっただけで山崎と佐倉がよく一緒に居る事は知っている。疑われても仕方が無い。
「―――伊東参謀が会っている相手は、中岡 慎太郎でしょう」
―――伊東は謹慎も解け切らぬ内に出張届を提出し、新井 忠雄と共に九州遊説の旅に出ていた。新井は山崎や尾形と同じ監察方だが今ではすっかり伊東の腹心となっている。
「また、伊東参謀が一派に取り入れた隊士も増えています」
山崎はこの時、吉村と共に名簿の作成に取り掛っていた。之即ち『伊東一派に転向した新選組隊士の名簿』。詰り
「新選組を、抜ける気だな、アイツ(伊東)らは・・・・・・」
土方は溜息と共に言葉を吐き出した。実は抜ける事で表情が沈んで見えるのは伊東のせいだからではない。併し土方という男の口からは言えなかった。
「・・・藤堂さん、残ってくれるといいですね」
・・・・。沖田が代りに土方の心中を引き継ぐ。だが之は、沖田自身が思っている事でもあった。二人の願いは詰るところ、同じなのだ。
「伊東参謀にとって“同門の仲”でも、私たちだって“試衛館仲間”です。悪い方ばかりを考えなくてもいいじゃないですか。仮に向こう(伊東一派)に行ったとしても敵対する訳ではないでしょうし」
・・・・。この時、土方が何を考えていたのかを当てられる者は誰も在ない。だが少なくとも、沖田の言う“敵対しない”旨の事は決して思っていなかった。藤堂の事は措いておいて、土方の遣り口はそんな平穏である筈が無かった。
芹沢の血を浴びた時に、どんな手段を用いてでも新選組を守ると誓った。甘い方法では守れぬ程この手には大きいものである事をあの時に学んだ。
沖田の其はもう少し早いが、土方が人を殺めたのはあの時が最初だった。斎藤の其はもっと早い。
「・・・・・・何故、お前に語られなければならんのだ・・・?」
山南を切腹させた時も、例外など無いと誓った。其はもう解り切った事だ。藤堂が若し伊東の手先として襲い懸って来る事があるなら躊躇い無く再び剣を抜くだろう。だが其が何だと言う。何故蒸し返す様な事を言う。
「土方さんがすねてるから、なぐさめてあげているんですよ」
沖田はふふっ、と饅頭を手に微笑む。そんな難しい事じゃなくて。
「ホント素直じゃないんだからなぁ、土方さんは」
―――単純に、藤堂さん(なかま)がいなくなるのが寂しいんでしょうに
「近藤先生がいないから余計さみしいんですよね」
―――その感情くらい、人間なんだから持っていいと思いますよ
土方は案の定、途中で聞いていられなくなって怒鳴る。こう遣って解してあげないと、この人は叉頭ばかりで判断して心が苦しむ事になる。
「総ーーー司ーーーー!!」
いい加減にしろ!!沖田と土方の遣り取りに、山崎は微笑ましくなる。彼等が変らないでいてくれるのはこちらにとっても救いだ。
佐倉が幾ら騒ごうが、自分達にそういう信頼は芽生えない事は理解している。併し彼等が羨ましいとは決して思わない。
この自由さが、監察たる資質だ
・・・その点では、山崎も叉頭で考える仕事人間なのかも知れない。
―――其に、疑いの中で生きる事も口に出して聴こえる響きほど悪いものではない。人間について考える点では、其こそ仲間と同じ位相手に時間を割いている。
(―――尾形はんも、この件(離隊)については恐らく情報を入手済やな・・・・・・)
・・・・・・だが、仲間(藤堂)と条件が違うのは、自分達には行為(裏切)の露呈が即切腹に直結する点だ。土方は尾形に対しては何の感慨も持っていない。
(―――最後まで、付き合おか)
―――山崎は遂に腹を括った。自分達はその様な中でしか生きる事が出来ない。ならば忍の誇りを懸けて、餞別(切腹)を贈(葬)ってみせようではないか。
「―――新選組を、遂に辞める気になったかね?」
―――亥の刻(午後10時)頃。志士達がまだ活発に議論し、女遊びをしている時刻。賑わう花街を尻目にした通りの、行燈のみが足許を照らす深沈とした部屋の中。其処では妓女を取り揃えてはいないものの、複数の系統立った美しさを持ち、何人分もの華やかさをもつ女性が一人、接待をしていた。
「―――お戯れを」
・・・女性が頭を垂れながら自らに用意された盃に酒を注ぐ。盃の中で朧げに揺らめく透明度の高い酒は暗闇の中でも、長い己の前髪と褪めた色をした天井を確りと映している。
「―――私には未だ切腹し果てる勇気が持てませぬ故」
盃を互いの手に掲げ、取り交す事無く手首を傾ける。―――ぴちょん・と酒が盃の中で跳ねた。
乾杯を済ませた男達は各々の唇に盃を当て、喉を鳴らして酒を飲み干す。
「―――酔うにはまだ早いだろう。副長土方が聞こうものなら、士道不覚悟で孰れにしても切腹だ」
男は陽気に笑い、すぐに足を崩した。髷を結った男である。一方で、対面している髷を結わない男は正坐した侭で、長い髪が一束さらりと、胸板の前に落ちていた。二杯三杯飲んでも飲む前と全く様子が変らない。
「―――ならば逃げ(脱け)る準備を致しますか」
男は薄い唇をつけ、顔を上向かせて酒を体内に注ぐ。・・・喉仏が上下する。顔を蔽っていた髪が下へ流れた。
「・・・いや。お前にはまだ新選組に居て貰う事にする。他が脱ける様なんでな」
「―――ほう」
―――男は盃を口から離すと、淡く微笑む。相手はまだこの任務から自分を解放しては呉れないらしい。・・・いつからこう遣って忍び込んでいるのか、其ほど重要でもないが忘れて仕舞いそうだ。
「土方は恐らく、斎藤 一を伊東の一派につかせるだろう。其で充分だ」
「・・・・・・」
「斎藤が伊東と共に離隊すれば、副長助勤の席が叉一つ空く。その時にお前が助勤の席に返り咲けるよう斡旋して遣ろう。お前もアイツと役職が同じだと、動き難い部分があるだろう?―――尤も、藤堂 平助が離隊に加われば、副長助勤の席は二つ空く事になるから土方はアイツを推してくるだろうがな。・・・その時は、宿命なのだと諦めろ」
「・・・土方副長は、如何してもあの人に私を片づけさせたそうですからな」
―――男は盃を盆に置き、酒を注ごうとする女性に手で結構と合図をする。女性は軽く頭を下げて後ろへ下がった。
「だが勘違いするな。お前がする事はアイツの相手ではない。・・・・・・斎藤が新選組に居ない間が勝負だ。遣る事は解っているな?
――――尾形」
―――・・・男は変らず顔を伏せていた。併し妙に眼元がくっきり浮び上がって視えた。生気の無い黒い瞳は暗闇より深く、前髪で隠れない限り誰のものであるか一目瞭然であった。
尾形は第三の立場から新たな動きを始めようとしていた。併し、この事に気づいている新選組隊士は未だ存在していない。
「―――承知」
「斎藤。お前も以前、伊東から誘われていただろう」
一方で、斎藤 一も動き始めていた。併し之は、尾形の予測の範疇とも謂えた。土方が山崎に言って、斎藤を副長部屋に来させたのだ。
「・・・・・・」
斎藤は山崎に呼ばれた当初、叉も尾形に関係する指令かと思っていた。現在斎藤は、武田観柳斎の動きも密かに見張っていた。尾形と懇ろであるからという理由もそうだが・・・武田自身に最近は怪しい動きが多い。
「はい」
だから、自分が新選組を離れた後は武田・尾形諸々をどう処理するのかが少し気になったが、疑問を持って訊く様な無粋な真似はしない。監察方の山崎でなく自分が選ばれたという事は、詰りはそういう事でもあるのだろう。
「では、伊東一派に加わって伊東達の行動を新選組に知らせてくれ」
「・・・・・・」
土方は恐らく途轍も無く鬼畜めいた事を考えている。とは言っても、自分はその現場に立ち会おうが別に如何も思わないだろうが。
「・・・伊東一派が離隊する時も・・・?」
・・・孰れにしろ、自分の之から立つ処も叉血に濡れる事となる。何処に立とうとも遣る事は特に変らない。
只、今回に於いてはこちらが適任だったという事か。
「そのためにお前を選んだ。お前なら新選組に戻るのも可能だからな」
・・・・・・次に戻って来る時に、尾形は生きているだろうか。些か興味は湧いた。生き残れれば大したものである。現時点でも、あれ程の長期に亘って土方に疑われていながら、未だ無事でいる隊士は他に見た事が無い。
「・・・・・・承知」
『もう一つ』
・・・・・・藤堂 平助の自己犠牲は、鬼副長と呼ばれるこの男が密かにこう託ける程に誰もが歓迎せぬ事であった。山南 敬助の切腹同様彼の優しさは試衛館仲間の絆に綻びが出来る結果をつくって仕舞う。
『・・・平助が、もし伊東派に行ったら手助けしてやってくれ』
『・・・・・・手助け・・・・・・?』
『もちろん新選組優先だがな』
日頃素直にものを言わない土方の、最も素に近い声。藤堂 平助が新選組に残るか否かの重要さは、ここからも推察する事が出来よう。
藤堂が新選組を離隊する事を表明した時、山崎は伊東が潜んでいる部屋での会話を聴いていた。尾形は山崎が聴いている事に気づいていたが彼の邪魔はもうしなかった。
山崎も叉、尾形がすぐ傍に居る事を知っていた。併し彼も敢て尾形を見逃す事にする。互いに、自分が相手に気づかれている事を知っている。
―――二人の監察は夫々の立場で、藤堂と伊東の会話を聴く。
「新選組を離れて何をする気ですか」
「・・・それは、君が私たちの所に来るということかい?」
「・・・・・・はい」
藤堂の決意を聴いた後、二人は各々の居るべき場処に散った。互いの気配は感じるも、結局二人が顔を合わせる事は無かった。
尾形は一番隊の部屋をノックし、障子をスッと開けて入る。中にはごほごほと咳き込んで布団に包る八十八と彼を看病する島田が居た。
「!俊!」
島田が愕いた声で言い、その言葉を聞いてもぞもぞと八十八が布団から顔を出した。併し熱がある為か眼の焦点が合っていない。
「八公!お前風邪引きすぎだろう!お前1年に何度風邪引いてんだ!俺なんか入隊してから一度も風邪っ引きなんかしてねぇぞ」
「・・・・・・うるッせぇな力さん・・・・・・ごほ・・・そりゃあ力さんは凸三の原田みたいなモンだから・・・・・・○○は風邪引かないってヤツ」
「お!だいぶ良くなってきた様だな八公!もう粥は要らんな!久々に汁粉会でもするか!なぁ俊!」
「俺を本気で殺す気だ・・・・・・力さん・・・・・・ごほごほ」
三馬鹿さえも雰囲気が変りつつある中で、凸凹二人は入隊当初と変らず長閑でくだらない遣り取りをしている。尾形はほ・・・と溜息を吐いた。いつも通りの無表情だが、溜息を吐いた後は何処と無く安らいで見え、島田と八十八は思わず眼を見開いて尾形を凝視する。
「・・・今夜の分」
!? 尾形は調合した薬を島田の手に乗せる。島田は吃驚して
「わざわざ持って来て貰わんでも、其くらい俺がするからいいぞ!?お前仕事大変だろう!?」
と言った。
「丁度局長の部屋に行くところだったから寄っただけだ」
尾形は坐る間も無く踵を返し、再び障子を開けて部屋を出て往く。あ・・・と島田と八十八は声を掛けようとしたものの、障子はすぐに閉められて仕舞った。
「・・・・・・俊も辛い立場にいるな」
島田が障子に視線を宛てた侭呟く。なぁ、八公・・・と振り返って八十八の方に視線を向けると、八十八は
「うっわ!ちょっ今弱ってる俊かわいくなかったですか力さん!!ごほごほごほごふぁっ!!」
身体中から湯気を発してガクガク激しく震えながら呼吸困難寸前の咳をしていた。
「馬鹿はお前の方だ!!馬鹿なのに風邪っ引きで男色に目覚めたなんて最悪じゃねぇか!!」
凸凹は今日も通常運営である。
「いよいよか・・・」
伊東の計画も、最終局面に突入していた。伊東等は九州遊説を終えた後も真直ぐ屯所には戻らず、屯所近辺の宿に逗留して疲れた身体を癒していた。
「・・・・・・良かったのですか?」
九州の旅を共にした新井が、迂闊に見える伊東の判断に苦言めいた声色で問う。伊東は酒を口に含んで喉に通したのち
「何がだい?」
と、自らの設計した未来に些かの不安も懐いていない様子で訊き返した。
「斎藤殿が急に我らの元へ来たことです」
併し入隊時期で謂えば伊東よりも先輩になる新井は、伊東ほどは楽観的な見方は出来なかった。何せ彼は撃剣師範を務めていた男だ。新選組の遣り口は滅多に現場に赴いた事の無い伊東より知っている。
だが伊東は
「心配ない。急と言っても局長に離隊を申し出る前じゃないか。彼が加わって一月以上は経ってる」
其に、とくすりと笑んだ。無論、伊東が斎藤を全く警戒していないかといえば、そんな筈は無い。
「心強い味方が在るじゃないか、僕等には。新選組の情報は凡てこちらにあるんだ。先手を打てるのは―――常に僕等だよ」
試衛館の絆を伊東は決して侮ってなどいない。身内にどれだけ篤く、そうでない者にどれだけ冷酷か、伊東は他でもない山南から学んだ。山南が脱走した理由を伊東が当然知るべくもないが、謂わば現在の藤堂と同じ立場にいた彼が切腹させられた時、伊東は何かしら悟った事がある。
「かれは斎藤君と違って非試衛館派だから信用に足りる。斎藤君が何か行動を起そうとしてもかれなら気づく。この時の為に僕は武田クンに頼んで、かれとの会談の機会をつくって貰ったんだよ」
『多々海の遊廓は京とは毛色の違った美女が多いと聞いていますですよ』―――伊東は武田にこう胡麻を擂らせ、彼等が遊びに行っている間に熱弁を揮った。大半の隊士は試衛館出身でも北辰一刀流でもなく、幹部同士の軋轢や流派の絆など如何でもよいものである。隊士を縛りつけるものがあるとしたら―――其は隊規か思想の変革だろう。土方は前者を選び、伊東は後者を選んだ。
「斎藤君、そして永倉君は僕の方から誘った・・・が、斎藤君の様に不意を衝いて遣って来る事もあるだろう。試衛館派から一人欲しいのは本当だし、急に来られて即座にこちらが迎えられないとなれば、怪しまれる危険がある。そういう事があっても大丈夫な様に、既に新選組(残す方)に腹心をつくっているんだよ」
「そういう事でしたか」
新井は納得した。何せ自分がその代表例である。古株隊士が伊東一派に鞍替えするケースが他にも在って良いだろう。
「しかし、我ら以外の幹部から2人ですか・・・」
而もどちらも試衛館派ときている。
「藤堂君は別だよ。同門のよしみでもあるし」
伊東は藤堂を庇う発言をした。自分は藤堂も山南も同門の仲間として非常に大切に思っている。他の何処に所属していようと関係無い。併し山南の切腹から、試衛館派、特に近藤・土方はそうではないのだと感じてきていた。
「此処(新選組)では、山南さんの事もあったからね・・・」
斎藤と藤堂が試衛館派を離れる理由を、伊東は真逆であるとみている。斎藤は土方に信頼されながら離れる一方で、藤堂は山南と同じ理由だと思う。
斎藤を土方が心から信じる理由―――・・・其は他でも無い、結局は斎藤が試衛館一筋だからだ。試衛館に百尽している、と考えて頂ければよい。だが藤堂と山南の所属は二つ―――その為五十ずつに分れ、而も残りの五十は対極とも謂える北辰一刀流(伊東一派)となっている。
土方にとって藤堂や山南は、五十程度の信頼しか持てなくなって仕舞ったのだろうか。同程度の信頼関係をもつ北辰一刀流に打撃を与える為に、信頼の低くなった彼等を当てつけたのだろうか。山南を切腹させた理由や藤堂を黙って手放す理由が其以外に見当らない。
「しかし此処は十分足掛りとなり得ました」
新井が伊東を慰める様に言った。少なくとも、自分という同志が手に入った面ではそうである。伊東はああ。と答える。
「・・・・・・これからは、堂々と帝のために働ける」
・・・・・・孰れにしても、藤堂はもう伊東一派(自分の処)にいる。新選組から引き抜く同志も粗方募り終えた。置いておく人員も決めた。
後は目的を果すのみ―――・・・
伊東は珍しく宙を睨んだ。その眼は最早新選組隊士ではなく、一勤皇志士のものであった。
「離隊・・・?」
―――そして、遂にその時が来た。慶応3年3月13日、伊東 甲子太郎から直々に
「我々十数名の離隊を願いたく・・・」
と、近藤・土方両名に分離策を申し出たのだ。無論、近藤・土方は既に十数名の名前迄把握しているので、驚く要素も無かったのだが。
「つい先日、山陵奉行・戸田大和守忠至様より“御陵衛士”という名を拝命したのだよ」
“御陵衛士”とは、慶応2年末に逝去した孝明天皇の墓を警固する組織という意味である。無論天皇の墓を守る為に隊を脱するという伊東らしからぬ理由に近藤・土方が納得する筈も無く、伊東もその事は重々承知していた。だから、もっと伊東らしく、近藤・土方が納得し、更に今後の御陵衛士の動きが妨げられないだけでなく円滑に進む様にする為『長州・薩摩の間諜活動』を目的とした組織である、という旨を伝えた。
「今後、我らは新選組を離隊し、分隊として御陵衛士を組織しようと思います」
「・・・・・・局長」
土方は近藤の方を見た。常に隊内に指示を出しているのは土方であるが、隊の在り方が問われるこの重要な局面に於いては副長の立場さえも無力だ。決める事が出来るのは局長である近藤だけであるし、近藤が決めなければならない。
「どうする・・・?」
「・・・・・・失礼致します」
土方は珍しく尾形を呼び出した。とはいえ、どれ程嫌な相手であろうとそろそろ用が有る頃だろうとの予測は出来ていた。
尾形が戸を閉めて入室すると同時、第三者が待ち構えていたかの様にすっと現れる。
「尾形先生、お茶です」
佐倉だった。尾形の前に手早く茶托の上に乗せた煎茶を置く。尾形は少し眼を大きくして佐倉の横顔を見た。視線に気づいた佐倉は
「先日、土方副長の小姓に異動しました、佐倉です」
と、説明を兼ねた軽い紹介をした。土方が気忙しそうに煙管を噛み
「用が済んだらとっとと出てけ!」
と佐倉に怒鳴る。むか・・・!と佐倉の全身があからさまに怒る。
「ーーー・・・では、叉何かありましたら御呼びを」
すぱんっ!障子の襖が音高らかに閉められる。土方と尾形は唖然とした顔の侭、襖の方を向いて暫く沈黙していた。
「・・・・・・佐倉を一番隊から外し、副長付小姓とした」
沈黙を破ったのは土方の方だった。何せ尾形の方に話す事は無い。土方の表情には何故か不敵な笑みが浮んでいる。
「・・・・・・本人からたった今聞きましたが」
「ムカツク奴だなお前も・・・・・・!!知っていたがよ!!」
土方の澄ました顔が一気に崩れる。尾形はつんとした興味さえ無い様な無表情で而もそっぽを向いている。土方はぎりと歯を噛み締め
「・・・・・・お前の忠告通りにな」
と吐き捨てる。・・・・・・尾形は黒眼がちの視線を揺るがし土方の方に一瞥を遣った。
「・・・・・・其は良かったですな」
尾形は目を伏せ、詰らなさそうに答える。其だけで土方は満足し、先程の笑顔を取り戻した。そして
「お前も異動だ」
―――話は、漸く本題に入る。
「・・・・・・」
「斎藤や平助が離隊する事は、佐倉が知っている位だから監察も情報を入手済だろう。斎藤は間者として忍び込む。その間、副長助勤の職が手薄になる。・・・尾形、お前は斎藤の代りに副長助勤を遣ってくれ」
「・・・・・・私より適任の者がまだ他に在るかと思われますが」
尾形はすぐに了承はしなかった。土方はち、と心の中で舌打をする。適任は確かに在るかも知れないが、浪士組の時と違って試衛館出身でない者を身内に引き込む事に彼自身限界を感じていた。如何に疑わしいといえど、壬生浪士組の時から粛清されずに済んでいる幹部経験者は彼しかもう存在しないのだ。その点では新たな人材を探すより、信じてみるに賭けるしか残された道は無い。
「―――お前は助勤としての生き方を知っている」
「・・・・・・」
・・・其に、尾形が副長助勤となれば、副長である土方と距離的にも近くなる。浪士組の時と違って局長や副長の地位が確固たるものとなった今、命令に対し口答えは出来ても無視する事は許されない。
「安心しろ。お前は飽く迄斎藤の代りに過ぎない。斎藤が戻って来たら無くなる立場だ。尤も―――事の次第に依ってはその後監察方に戻れるか判らないがな」
―――土方はこの時、あるモノを掃討す計画を立てていた。秘密裏に事を運ぶには、尾形の頭脳を必要とする。今や新選組唯一の頭脳となって仕舞った、尾形の。
「―――後、平助の後釜で山崎が助勤職に復帰する事になった。その点では監察の時と同じだ。・・・・・・但し、副長助勤に伊東派は在ない。尻尾を出さないよう気をつけるこったな」
「・・・・・・・・・承知致しました」
尾形は暫し黙り込んだ後、静かな声で肯いた。副長助勤の職を案の定得たものの、副長は何かを企んでいる。だが其を尾形が察していても、現在の副長(土方)には全く問題にならない事だ。
慶応3年3月20日、局長・近藤から分離の許可を得た伊東等総勢16名が屯所を離れ、御陵衛士の屯所へ移る。御陵衛士の屯所とは、西本願寺から徒歩1時間圏内にある城安寺や善立寺の事で、彼等の屯所として最も有名な月真院に落ち着く迄は善立寺の方に居た。
善立寺に至っては30分圏内なので、永倉の言う様に確かに「住む場所が変る位」であった。だが、距離はそうでも実質そうではない事は、原田も身体で知っていた。
だから、藤堂を見送る時には皆、目を潤ませていた。「敵になる訳じゃない」と強調した永倉さえ涙を浮べていた。島田と八十八の凸凹コンビも駆けつけて、寂しい言いながら賑やかに馬鹿達らしい見送りをした。
「平助ぇーーーー!!」
「あ、馬鹿の原田ずりィやい。俺も、っと」
三馬鹿と凸凹三人組の頭空っぽ代表が藤堂に飛びつき、ぎゅうーーと彼を抱しめる。藤堂は涙を流しながら笑って
「い、息!息!息!苦し~!!」
と、どんどん正面から締めつけてくる原田の背を叩いた。原田の後ろで微笑ましく見守っている永倉と島田に助けを求める。
「し・新八っつぁん!!力さん・・・・・・!!」
・・・・・・併し、永倉と島田はにま~っと哂って、二人纏めて藤堂に飛び掛った。第二陣である。
「ぎゃ~~~!」
永倉がぴとっと藤堂に横から飛びつくと、彼の三方が埋る。続いて、島田が反対側から抱きつ・・・と思ったら
「俺がぶら下がると流石に死ぬからな・・・原田、八公!手伝え!」
ひょいっと藤堂と永倉をいとも簡単に抱え上げ、ぽ~んと空中に放り投げた。流石新選組一の怪力だ。
「うわぁ~~~っ!?」
ほれ原田!と言って自らが身を翻すと、二人は既に揚るところ迄揚って地面に落ちて来ている。原田が慌てて身を滑らせてぽ~んと揚げた。胴揚げだ。
「え!?俺!?ムリムリムリムリ・・・・・・!!どう見たって無茶振り!!」
島田がフォローして一緒に二人を持ち上げるも、最終的には二人ばらばらに落ちて来て受け止め切れず、全員がたんこぶつくって島田クッションの上で意気消沈していた。
「・・・ははは、之でこそ三馬鹿と凸凹三人組だな!」
身体の弾力の御蔭で一人無傷な島田が豪快に笑う。藤堂ははっとして
「そういや、おがっちは?」
と、訊いた。
「―――崎と一緒に、監察仕事の引き継ぎ中だ。見送れなくて済まんと二人共言っていたぞ」
「あ―――そういや、俺と斎藤が脱けるから山崎さんとおがっちが副長助勤を継いでくれるんだっけ・・・・・・」
藤堂が叉も暗い表情になる。永倉がもーー平助!と言って彼の眉間を子供の様な指で弾いた。皆が笑っている。
「平助、お前は気にしすぎなんだよ!」
「そうだぞ平助!凸凹に余計な気遣いは必要無い!其は三馬鹿も同じだろうが!」
「俺等が巡察してる時に京のヤツらに交って顔見せてくれよ!」
「―――俊がさ」
皆が藤堂の心遣いにもう薄々気づいている中―――ぽんと肩を叩いて、八十八が言った。
「御陵衛士に入っても無理はすんなって。伝言」
藤堂は眼を見開いた。思わず涙腺が緩くなる。・・・やっぱり気づいていたんだ。
自分が伊東の処に出入する度に、何らかの視線を所々で感じていた。最初は見張られているのかと思ったが、回数が重なるにつれ段々と違うものに思えてきたのだ。其程に感じた視線というのは、冷たくなく叉気味の悪いものではなかった。
「・・・・・・其と、一番隊の佐倉が平助に贈り物があるんだと。会って遣ってくれね?」
「おー良かったじゃん平助!」
「あーいいなー平助ぇー!俺も欲しい!!」
八十八が佐倉の居る方向を指差すと、三馬鹿他二名も藤堂に漏れ無くついて来る。邪魔でィ。島田がはっはっは!と笑った。
「藤堂先生ーっ!」
佐倉の元気の良い声が遠くで聞え、手を振り駆け寄って来る。
藤堂は再度誓う。新選組が自分の居場所だと。藤堂 平助の御陵衛士での孤独な闘いが、今、始る。