二十一. エピローグ 1889年、京都
エピローグ
1889年、京都
幕末という時代が終り、20年が経った。この年の日本といえば、欧米列強の風当りが愈々強くなり、明治6(1873)年に発布された徴兵令が大幅に改定されて国民皆兵になった年である。この5年後には日清戦争が開戦し、この国は求める血を国内から国外へと変えていた。
他には、市制が初めて施行された年である事が挙げられる。東京市を始めとして大阪市・京都市・名古屋市等現在の政令指定都市に通ずる市の殆どがこの年に誕生した。私事ではあるのだが、熊本市が誕生したのもこの年である。
激動の時代は実はまだ終っていない。初代文部大臣・森 有礼が国粋主義者に暗殺されるなど、着実に国としての方向性が不穏な方へと進んでゆきながら、近代都市への移行を目まぐるしく遂げている。齢を取ったからなのか現実的にそうなのか、この時代と比較すると、激動と云われていたあの時代は実は急激な変化の訪れの前兆に過ぎなかったのではないかという気さえしてくる。
けれども、この国の人々は笑顔を忘れる事無く彼等の住んでいた土地で現在も、生きていた。
戊辰戦争で最初の戦場となった京を―――現在の京都市を―――佐藤 俊宣は訪れた。
佐藤 俊宣は日野宿名主・佐藤 彦五郎の長男、詰り、土方 歳三の甥にあたる。
箱館の戦場から脱し、土方の遺髪や写真、刀を届けに日野まで来た然る隊士を長期間に亘り匿った人物でもある。長らくその隊士の報告を信じられないでいたが、戊辰戦争から明け20年、余熱も冷めた頃になって、凡ての現実を受け容れ、近藤の首級を捜す旅に出ていた。
近藤の首級は、板橋での処刑後京に運ばれ三条河原に晒されたのだと云う。
その情報を恃りに、俊宣は壬生村へ遣って来た。
壬生村は、新選組がまだ浪士組と呼ばれていた頃に生活の拠点とした最初の屯所だ。
「此処が叔父さんの住んだ・・・」
俊宣は帽子の鍔を上げ、一昔前から刻の止っている様な田舎の風景をぐるりと見廻す。戦の色が再び濃くなり、人口が爆発的に増加して物騒に沸く東京と違い、此処は何と平和で変りがないのだろう。
「もし」
「わっ!」
ぽん、と突然肩に手を置かれ、俊宣は愕いて跳び上がった。慌てて翻って置かれた手を振り払うと、くすくすと笑う声が聴こえた。
「―――!」
俊宣は声の主をキッと睨む。併し呆気に取られた様に眼を見開き、視線を全く外せなくなって仕舞う。石になった様に固まった。
「?」
紫の小袖を口許に当てて、小首を傾げる声の主。俊宣の思考回路が完全に停止する。飛ぶ鳥も気絶して墜ちる勢いであった。
「何か困っている様に見えたので声を掛けたのですけれど、必要ありませんでした?」
・・・・・・おっとりとした喋り方が吐息の様で、情欲をそそる。併し、その気も抜けて仕舞う程におかしがたい清廉さをもっていた。
頬紅と、ぷっくりとした唇が初々しい生娘の如き女だ。だがその割に声は低く、実年齢は27、8といったところであろう。
「あら」
一方で、女もおちょぼ口を窄めて俊宣に眼を凝らす。土方の血を引いている男だ、俊宣も申し分の無いハンサムで、傍から見ると逢瀬を果した美男美女のカップルの様であった。
「・・・何か?」
俊宣が警戒心を滲ませて訊く。この男は父や母ではなく、妙に土方と似た部分があり、勝気な割に妙に冷静な一面をもつ。明治新政府に国を掌握されて以降、彼自身も散々な苦労を強いられてきた故に人間不信にもなっていた。
「いいえ。只、貴方の声と貌が私の昔お世話になった御方に似てらして」
「!其は」
俊宣は女の目線の高さに自身の顔の位置を落し、耳元で土方の名を囁いた。自身の容貌が土方と似ているという自覚はある。
「ええ、そうです」
「まさか」
この女性が、土方が京でつくった愛妾か。併し、其にしては幾らか若すぎる気もする。僕のおじさんはロリコンだった的なオチか。
「私は、新選組隊士だったのですよ」
女性は何ら悪気の無い靨顔で、明かに嘘と判る事を言う。俊宣は内心ひどくがっかりした。
折角掴みかけた数少ない情報なのに、今回も空振か。眼を瞠る様な美人であるが故に、憎らしさの振れ幅に傾く度合も大きくなる。
「貴女が新選組隊士?そんな筈は無い。あそこは子供は入隊れないし、屯所は女人禁制と聞いているからな」
「?まぁ、そうですけれど・・・」
女は困惑した笑みを浮べ乍ら相槌を打つ。女にはいまいち伝わっていない様だが、嘘とばれていないと思っているのか協力的な態度だ。
「私も休暇を用いて横浜から京都に来た態なもので、近藤局長の首級の在処は判らないのですけれど、屯所の主であった八木さんには先程お逢いしました。八木さんなら何か知っているかも」
「―――八木?」
俊宣は愕いて顔を上げた。その名前、土方の遺品を整理していた時に出てきた書簡に記されていたものである。
「八木とは、八木 源之丞殿の事か?」
まさしく今回の旅の目的はその八木 源之丞に会う事であった。八木老人は現在も健在で、変らず壬生に住んでいるとの報を得ていた。
「ええ」
女は肯く。この女は少なくとも八木老人と面識があるらしい。時代も性も違うのに、不思議な人物だ。
「案内しましょうか?実は私、京都での滞在中は八木さんの邸宅でお世話になる事になっているのです。ああとても懐かしい」
女は朗らかに笑う。嘘やからかいにしては色々と知っていなければ貫けないものだし、感情や言葉もすごく濃やか。
俊宣は狐に抓まれた様な顔になって
「・・・・・・宜しく頼む。俺は佐藤 俊宣」
と、言った。女はくるくる変る俊宣の表情にくすくすと笑う。思い出し笑いをしている様でもあった。
「こちらこそ。私は馬越 三郎といいます」
ん?と俊宣は耳を疑った。
「ひゃっひゃっひゃっ!」
訪問先の八木 源之丞宅で俊宣は早くも笑いの洗礼を受けた。・・・恥かしいやら、うるさいやらで出されたお茶を飲む気にもなれない。
・・・・・・いや、お茶じゃ・・・ない。
(ぶぶ漬け・・・・だ、と・・・・・・!?)
訪問してまだ全然時間経ってないのに!八木老人がニヤリとやらしい笑みを向ける。帰れ!?もう帰れと!?
(え、叔父さん屯所の主とうまく遣ってなかったの・・・・・・?)
真相は藪の中である。
「ひゃひゃ、冗談じゃよ」
八木老人はすぐに茶漬けを引っ込めると、煎茶を改めて出し茶漬けは自分で掻き込み始めた。いい齢していい食いっぷりである。
(冗談には全く見えなかったんだが・・・・・・)
俊宣は八木老人の食事を延々と見せつけられる事に若干の疑問を懐き、屯所の軒下に硝子製の風鈴を取りつける馬越に視線を移した。
「君は・・・男だったのか・・・・・・」
「女と言った覚えはないのですけれど・・・」
馬越は流石に困り果てた顔をする。勝手に勘違いされて勝手に警戒されて勝手に落ち込まれるのだから、彼としては如何しようも無い。土方同様に妙なところで潔癖な面のある俊宣は、不覚にも男にときめいて仕舞った自身を責めていたのだ。
八木老人がひゃひゃひゃひゃ笑っていた理由は、そこに在る。
「馬越はんが新選組隊士だったのは真じゃよ。只、その頃から殆ど変っておへんがな」
「25年前からその姿・・・・・・」
俊宣は妖怪化物の類でも見る様な眼で馬越を見る。そりゃそうだ。四半世紀も変らぬ容姿をしていれば、少なくとも人間らしくはない。馬越 三郎。本作でも以前に触れたが池田屋事変前に除隊した隊士で、当時は16歳。どう考えても現時点で40は超えている筈なのだが、衰えなど影さえも感じさせない。因みに、俊宣より年上である。
「土方副長に(武田観柳斎の男色から)助けて戴き、除隊した後、横浜に出て硝子商人を始めたのです。維新の混乱やでこんな時期になって仕舞いましたけれど、あの頃と壬生は殆ど変っていなくてびっくりしました」
括弧の部分は馬越が言わなかった言葉であるが、武田とは判らずも薄々何を助けて貰ったのか想像がついた俊宣は自己嫌悪に陥る。
てか、君の容姿ほど驚愕すべきものは無いよ。
「そうそう。ここ2、3年で、壬生界隈は回帰しとんじゃ」
八木老人は箸を椀の縁に転がし、爪楊枝で歯を磨き乍ら言った。
「回帰?」
「新選組の元隊士が、壬生界隈に戻って来ておす」
! 俊宣は愕いて八木老人を見遣った。
「如何いう事です、八木殿」
「君等の様に県外からわざわざ顔を見せに来てくれなはる隊士が多いが、京を住いにした隊士も何人か知っとおす。皆漸く、国賊の汚名から解放されたんじゃな」
新選組隊士が京に戻って来ている。俊宣の心は弾んだ。土方と最後まで戦いを共にした者達だ。近藤の首級の在処を、彼等なら知っているかも知れない。
「その隊士を紹介してください、八木殿!」
俊宣は経緯を総て話し、懇願した。八木老人は近藤の首級が三条河原に晒された際は見届けたとの事だが、その後の首の行方は知らないらしい。俊宣は把握していない事だが、近藤の首は梟首中に忽然と消えて仕舞い、明治政府も行方を知らない。
俊宣の話を聞いた八木老人は
「・・・そうか。その話なら・・・・・・近藤はんの首級の行方を知っとうかも知れん隊士が、一人だけ浮ぶ。現在はすぐ其処の壬生寺で墓守をしとおす。見目はぽ~とした感じでも、あれで結構気難しがりじゃから相手してくれるかは判らへんが」
と、そこで切って馬越を見た。
「そうそう、君と仲が良かったあの男じゃよ、馬越はん」
「え?」
馬越は京都に居る他の新選組隊士をよく知らないらしく、八木老人の言葉についていけていない。
「八十さんの事・・・ではありませんよねぇ。八十さんは別に気難しくも、壬生寺の墓守でもありませんし。私、京に居る元隊士とは八十さんとしか連絡を・・・」
「なら折角だから逢いに行きよし。佐藤はんが一人で行くより、馬越はんもついて行きはった方が心を開いてくれるじゃろう。馬越はんの変らなさは疑いようがおへんから」
はぁ・・・ 馬越は要領を得ぬ侭肯く。誰がいるんでしょうねぇ? 馬越は小首を傾げて俊宣に言う。・・・・・・あざとい!とつい頬が熱くなるが、彼は男なのだ。自らにそう言い聞かせ乍ら、俊宣は自身の冷静な部分で、如何してこの人間を超越した生き物は自分に向かって言うのだと呆れ返る。八木老人に訊けば一発で答えが貰えように。併し、馬越は楽しみに取っておきたいのか、
「楽しみやわぁ♪」
と、敢て訊かない様にしていた。おっとりと垂れ気味の目尻を一層下げてはんなりと表情を綻ばせる。
俊宣本人よりも、馬越の方が逢いたげだ。
壬生寺は八木 源之丞宅から3分と掛らない距離に在った。其以前に馬越は沖田 総司と共に壬生寺の子供達の許へ遊びに行く事が度々あったそうだから最早庭の様なものである。
壬生寺は広大で見渡が良く、仏光寺通を回って境内の表門をくぐると凡ての建物がすぐに一望できた。本堂や中院、鐘楼、地蔵菩薩等他の寺院にも存在する様なもの以外にも、見慣れない円錐形の仏塔や狂言堂が建っている。俊宣の想像していた以上に大きな寺院であった。
「この広さで元隊士を探すのは結構骨が折れそうだな・・・」
まさか、寺の者一人一人にあなたは元新選組隊士か、或いは新選組出身の僧侶はいるかと訊く訳にもいくまい。八木老人はああ言っていたが、時世は未だに敗者に対する風当りが厳しい。隊士の親類縁者まで息を殺して生きている様な時世だ。俊宣は身に沁みてその不自由さを痛感している。下手に動くと、明治に改元して必死の苦労で築き上げてきた平穏を潰し兼ねない。
敷地を当て処も無く歩いてゆくと、馬越があっと声を上げ立ち止る。中院の向いで、弁天堂と水掛け地蔵堂の方を向いていた。
二つの堂の迫間に、稲荷神社の鳥居の様な朱い欄干が架っている。
「私が新選組に居た頃は、こんな物はありませんでしたけどねぇ」
馬越が首を傾げて言った。欄干が示している通り、堂の裏には池が在り、真中に小島が浮んでいた。島には立派な石碑が建ち、墓らしき物も幾つか在る。俊宣と馬越は速歩で島に繋がる橋を渡り、まじまじと墓碑に刻まれた名前を見た。
「!!」
近藤 勇・芹沢 鴨・平山 五郎・河合 耆三郎・阿比原 栄三郎(阿比類 鋭三郎)・田中 伊織・野口 健司・奥沢 栄助・安藤 早太郎・新田 革左衛門・葛山 武八郎―――
殆どが俊宣の知らない名前だが、新選組(精確には壬生浪士組)の墓である事が判明した。
「ーーー・・・・・・」
馬越が口を押えて立ち竦む。少なくとも俊宣よりは知っている名が多い筈である。嘗ての同志の死を実感しているのだろう。
「―――・・・三郎さん?」
―――足音も無く、橋の最も高く盛り上がった曲線部分に白装束の人物が立っていた。首まで隠れる深編笠を被り、黒い箱を首から下げている。虚無僧風の出で立ちであった。
「―――え?」
白装束の人物が一歩、一歩と橋を下って近づいて来る。壬生塚と呼ばれる近藤等の墓の前で向かい合うと、虚無僧は深編笠を外した。
「・・・・・・俊・・・・・・さん・・・・・・?」
「―――久し振りだな、三郎さん。壬生浪時代から貴方は全く変っていない」
その貌は、四十代に差し掛った位の眼元が印象的な男であった。眼光鋭く感じるが、黒眼がより光を反射しているからであり、眼つき自体は柔和で穏かな空気を漂わせていた。良い齢の取り方をしたのだな、と思う。新選組在隊当時に換算すると、二十代前半という事になるか。
―――如何やら、この男が壬生寺で墓守をしている元新選組隊士らしい。
「よく・・・・・・無事で―――・・・!」
馬越は思わず涙ぐみ、男の首に腕を回して篤く抱擁した。男は抱き返しこそしなかったものの、はいはいという風に首を貸して遣る。嘗ての同志というよりも、之ではまるで父と娘だ。
・・・俊宣は内心胸を撫で下ろした。馬越だけでなく他の元隊士まで不老の能力をもっていたらどうしようと直前までどぎまぎしていたところなのだ。壬生が回帰してその上隊士達が齢を取らなくなって仕舞ったら、完全に異世界への旅立ちである。
―――・・・この男は己の中に在る時間を止めて仕舞う事無く、現代に、時代にきちんとついてきている。
馬越に首を貸した侭前屈みになっている男と俊宣の眼が合う。・・・男は俊宣を上目遣いで見ると
「・・・土方副長の御親族だな。副長と何処と無く雰囲気が似ている」
と、少し照れくさそう様に微笑んだ。
「私は古閑だ。理由あり其以上は言えぬが、私に出来る事があれば協力しよう」
「―――東京には、私も最近まで住んでいた」
近藤の墓の前で手を合わせる俊宣と馬越の後ろで、古閑は淡々と話す。墓は手入れが行き届いており、既に手向けてある花は先程供えられたばかりなのか茎が青々として元気だ。鮮やかに黄色い花弁も、水を含んで潤しい。供物も、一人一人の墓前に対して置かれた握り飯が艶やかな米の色を放っている。壬生の墓守は、なかなかにまめらしい。
「なら、連絡してくれれば宜しかったのに。私、今、横浜に住んでいるのですよ」
馬越が嬉しそうに顔を上げて言った。この男もまぁ天然である。現在は東京にはいないというに。てか、ココで出会った理由を考えてごらん。
「・・・・・・」
・・・・・・古閑は、そんな馬越のボケにももう慣れているというか、あの頃に戻れぬ時代の流れに身を置いては多少なりと心が癒える様で
「・・・・・・済まぬな。東京住いの刻は諸事情あった故」
と、眼を細くして言う。・・・この男も、天下が引っくり返ってから危険な綱渡りを続け、苦労を重ねてきた様だ。
「一さんと新八さんは、現在も東京に住んでおられるよ」
古閑が若干やつれた声で続ける。馬越が・・・え。とくりくりと大きい瞳を猶も見開く。彼等の名は俊宣の方が馴染が深い。
「一と新八って・・・・・・!斎藤 一と永倉 新八の事ですか!?」
「ああ。・・・尤も、一さんも八さんも現在はその名を使われていないが。―――各々、家族ができ各々の生活をしておられる」
古閑の言葉からは斎藤や永倉の現在の様子がさっぱり窺えないものの、取り敢えず息災であるという事は判った。之も、彼等の現在の生活を守る為の配慮である。
彼等の死後に生れて最早何の関係の無い私達の世代の為に補足すると、斎藤 一並びに山口 二郎は維新後藤田 五郎と名を改め、長らく警視庁の密偵を務めていたが、明治20(1887)年に退いた。併しながら警視庁には残り、この時点では麻布警察署詰外勤警部として勤務している。
一方、永倉は杉村 義衛と改名し、妻子と共に小樽へ住いを移した。樺戸集治監(現在の月形刑務所に該当)にて看守の撃剣師範を務めた後、明治19(1886)年に単身で東京へ戻り、牛込(現・新宿区飯田橋)で剣術道場を開き、この時点でも道場主として弟子の指導に当っている。永倉は明治9(1876)年に新選組慰霊碑を北区滝野川に建立したが、死んだ、叉は行方不明になったと云われている或る幹部隊士の名は刻まなかったのだと云う。之は、永倉がその幹部隊士の生存を実は知っており、敢て名を刻まなかったのであろうと考えられている。永倉とその幹部隊士は連絡を取り合っていたというのだ。
「近藤 勇の首級を捜しているのです。出来る事なら、叔父――歳三の最期も知りたく」
俊宣は隊士のその後に精通していそうな墓守に旅の目的を打ち明ける。だが、反応は其処に屈む馬越や八木老人と余り変らなかった。
「・・・・・・梟首された局長の首級は、何者かの手に拠り持ち去られたとも何処ぞの寺に埋葬されたとも云われている。明治政府も恐らく行方を知るまい」
八木老人が思っていても特に言わなかった事を言っただけであった。
「・・・・・・この寺には、局長の御髪しか無い」
古閑が墓の隣に立ち並ぶ遺髪塔に視線を送る・・・・・・伏せた眼は哀しげであった。
「―――私は、戊辰の役では、会津に残り以降の戦には参加しなかった。依って、副長の最期についても私は知らぬが、副長に付いて箱館に渡った元隊士なれば知っている」
「!その隊士って、まさか―――・・・」
馬越がくるりと上を向いた長いまつげをぱちぱちと瞬かせる。古閑は口角の片方を上げて
「八十ですよ。・・・・・・三郎さん」
と、静かに微笑った。
―――山野 八十八が勤務しているという菊浜小学校は、壬生寺から徒歩10分圏内に在った。近すぎるでしょ。
俊宣はツッコみたい気持ち満々であったが、ツッコむと嘗て彼等を纏めていた叔父の歳三にツッコんでいる様な気分になり、何と無く罰が当りそうなのでぐっと堪える。
山野はこの日本初の学区制小学校に、美しすぎる学校用務員として名を馳せているのだという。
『本日は土曜故、昼迄なれば恐らく其方に居るだろう。只、用務員室を当るよりは校庭やら児童の居そうな場に待ち伏せた方が遭遇率は高い。児童に交って遊んでいる大人を見つけたら、其は九分九厘山野 八十八です』
・・・・・・働けよ!!
「!?・・・・・・??・・・?」
馬越が愕いて何度も振り返り俊宣を見る。馬越には恐らく一生理解できない常人の心理だ。えぇっ何であの墓守は何でも無い事の様に言ってるの若しかしてコレが壬生の常識なんですか!?八木老人にもぶぶ漬けしょっぱなから出されたし!!
・・・ごほん。沖田だって遊ぶであろう可能性を敢て棚に上げ、俊宣は意味も無く咳払いをする。眼つきが悪くなると猶叔父に似る。
元新選組隊士を見つけるのに時間を食うかと思ったが、馬越といい古閑といい、元隊士と呼ばれる者は案外ぽんぽん捉まるのであった。古閑から助言を受けた通りに校庭にぼーっと突っ立っていると、其だけで何かが来そうな気がする。気がする、というのも、学校は現在授業時間で児童は校舎内で勉強をしている。
校庭は静まり返り、休み時間に子供達が遊んだ鞦韆の鎖が今でもキーキーと擦れる音が聞え
「てやんでーー!!」
リアルタイムで使われている・・・・だ、と・・・・・・!?
「ふぐぅ!?」
思わず俊宣は校庭に転がっていた片づけ損ねの球を立ち乗りでガンガン漕ぐどう見ても子供ではない図体の者に投げつける。国語の教科書を机に立てて広げる2年生達が恒例行事に変り種が入ったという様な新鮮さに気を取られて外を呆然と見ていると、先生が
「球をきちんと片せと言っとるだろうが!誰や!外周走って来い!」
と、竹刀を床に叩きつけて怒鳴る。怒る相手が違う気がします先生。
「っ痛・・・何しやがんでィ!」
出て来た。ホントに出て来た。てか児童がいないのに出て来た。いい齢して何子供の遊具でひとり遊びをしてるんだ。
「いや・・・・・つい・・・・ツッコんで欲しいのかと・・・・・・」
俊宣は冷や汗をだらだらと流し乍ら切れ切れに言った。叔父を殴った様な気分に陥って仕舞う。そう想う事こそが歳三に対する最大の嫌がらせであるという事実に気づかずに。
「・・・・・・」
八十八ががばっと起き上がり、掬う様に俊宣の顔を真直ぐに見る。―――凄い眼力だ。顔も、寸分の狂い無く然るべき位置に然るべき部分片が在り、隙と呼ばれる不完全さなど微塵も無い。迫力のある美人というのはこういう貌を謂うのだろうか。
併し、『不』老が老いるべきところで老いぬという見方で不完全と謂うのなら、其でも矢張りこの男は完全であった。美しい老い方をしている。この男も叉、敗戦から歩みを止めて仕舞う事はしなかった。
「八十さんっ!久し振りーー!♪♪」
馬越が完全に若い女の様なテンションの高さで八十八に抱きつく。八十八は始めきょとんとしていたが、馬越の在隊時と変らぬ姿に
「・・・・・・サブ!!」
ばっ!と一度自分の身から引き離して、まじまじと馬越を見つめる。そしてきゃーーっ!!と嬉しい悲鳴を上げ、今度は自分から馬越を抱しめて
「・・・・・・サブだ!サブだ!!サブだっ!!」
「逢いたかったよーーっ!八十さん!」
二人は両手を合わせ、共に年頃の少女の如く繋いだ。・・・・・・感動の再会なのだから祝福して遣るべきなのだろうが、生憎俊宣は感動よりも世間体の方を気にする性質だ。
「ココ・・・・・・学校なんだが」
・・・・・・子供に見せて悪いものではないが、先生の方が此方に釘づけになって白墨を持つ手が止っている。
「・・・てぇか、何なんでィこのボウズ。先刻から水をさす様な事ばっかしやがって。まるで何処ぞの副長と一緒だな!」
八十八が折角の美形が台無しの表情で俊宣を見下す。自分が新選組隊士であった事を隠す気がこの男には抑々(そもそも)無い。思いっきし公言している。八十さん八十さん、と馬越がくっついて八十八の作業着の袖を引っ張り
「其が、本当に土方副長の御親族なのよ♪」
と、満面の笑みで俊宣を紹介する。八十八は眼を見開いて俊宣の顔を凝視する。併しすぐに口角を上げ、ぱん!と己の掌に拳をぶつける所作を取ると
「ほぉ・・・・・?お前があの鬼副長の親族かぁ。丁度いい。ここでいっちょ積年の恨みを晴らしておくか」
真蛇の様に舌をぴらぴら出した面で俊宣を殴りに懸ろうとする。え、なにおじさん身内からそんなに好かれてないの?
「俊さんが此処を教えてくれて。八十さん、独りで遊んでいて寂しくなかった?」
馬越が絶妙の天然スキルで俊宣の命を救う。寂しいよーー!! 八十八がばっちり馬越の台詞に乗せられる。全く、ノリのいい奴だぜ。
「アイツにも逢って来たのか」
コロッと態度が切り替り、弾んだ声で馬越の言った前の言葉を追う。併し、俊宣を見る眼は依然侮蔑を含んでおり、視線が合うと
「―――お前、アイツをいじめなかっただろうなぁ・・・・・・?親族のおじさんの様によぉ・・・・・・?」
と、般若の如き面で見下してくる。ゴゴゴゴゴ・・・なに、おじさんこの人達に何したの?身内に?
「俊さんは近藤局長の首級の行方と土方副長の最期を知ろうとして東京からいらして、今は明治2年の箱館まで参戦した新選組の元隊士を探しているところなのよ」
天然に加え見事な迄のスルースキルでガガガガ・・・と話を進めていく馬越。山野という男も根っこはあっさりした性質らしく
「ああ、だから俺なのか」
と、コロリと叉態度を変えた。ん~・・・でもなぁ・・・・。今度は黒々とした髪が豊かな頭頂に手を当てて、悩ましげに低い声を上げる。
「!どんな些細な事でもよいのでお願いします!叔父が遣った事については償いますから!」
「いや、其は冗談だから気にすんな。そうじゃなくて―――」
ツッコミどころ満載な侭強引に話を進めているからか真面目になるべき部分がズレてきている俊宣に、八十八は冷静な声で返した。
・・・・・・併しながら、次の瞬間には困惑した表情になり、頭を掻きながら
「・・・・・・俺は、箱館で新選組を離隊してんだ」
「!?」
「――――・・・・・・箱館での戦は、酷ぇもんだった」
・・・・・・八十八は鞦韆に腰掛け、キィキィと鎖の音を鳴らして前後に足を動かす。ふざけていた先程とは別人に感じる程、沈痛な面持ちであった。
八十八が新選組を脱退したのは、明治2年4月。追撃の手を緩めぬ新政府軍が続々と集結し、北海道に上陸した。乙部町からの二股道、江差町からの木古内道、大滝村(現・伊達市)からの松前道の3つのルートに分れて箱館五稜郭を目指し進軍する。旧幕府軍もすぐさま応戦し、八十八は土方について二股口の防御に当った。
この戦闘で、八十八の両腕はボロボロになった。二股口の戦いは延べ16時間に及ぶ大激戦で、彼のいた小隊400の兵は3万5000発の弾丸を消費した。その甲斐あって彼等は二股口を護り切り、新政府軍は撤退した。
だが、松前と木古内は突破されて仕舞う。
並行して行なわれていた箱館湾海戦も敗色が濃く、海上から大森浜方面に回られ、陸海両面に五稜郭を囲まれる可能性が出てきた。
湯の川口のみを除いて。
最早、どう見ても勝ち目は無かった。
湯の川が開放いているのは、新政府軍に拠る戦略の一つだ。旧幕府軍の敗戦は目に視えて明らかとなっている。併し其でも、総ての退路を遮断すると死に物狂いに攻撃するのが人間の性だ。新政府軍は、旧幕府軍の脱走兵を意図的につくり出そうとしていた。
『山野』
土方は五稜郭本陣の窓から湯の川方面を遠く見つめていたという。土方は自身の指揮した戦争で敗けた事は無かった。併し、自身の指揮があっても決して克てない壁が存在する事を痛感していたのかも知れない。
『・・・・・・今すぐ五稜郭から出ろ』
土方は唐突に言った。余りに急な事で八十八は即座に反応できなかったが、土方の諦めの混じった表情を見て背筋を一本弥立つものが奔った。
『な・・・・・・っ・・・何言ってやがんですか』
『届けて欲しい物がある』
土方はそう言って、中身を包んだ懸紙を部屋の隅にある引き出しから出した。・・・中を開き、半切紙と、檀紙で結ばれた髪の束を示す。
『副長・・・・・・何を』
『・・・・・・之は、近藤さんの遺髪だ。流山で別れる時に渡された遺書の中に入っていた』
体温が下がったかの様に唇を紫にして身を震わせる八十八に、土方は説明した。有無を言わさぬ口調であった。
『―――之を、尾形に届けてくれ』
『・・・・・・!』
『・・・本当は、俺が近藤さんの墓を建てる心算だったんだが、蝦夷地に建てても意味ねぇだろう』
土方は軽口を叩く様な気安さで言う。だが、彼が箱館から最早出る事が叶わないという現実を如実に表すにはよい科白だ。
土方は偉くなりすぎた。偉くなりすぎて、絆ぎ留められて仕舞ったのだ。
『島田かお前にしか命令めないが、島田は何故か拒んで梃子でも動きゃしねえ。お前が断るというのなら、京に墓を建てるという近藤さんとの約束は果せなくなって仕舞うが』
『俺だって困りますよ。そしたら、俺と近藤局長との約束は如何なるんですか』
『お前の近藤さんとの約束は、俺からの命令を確実に遂行する事じゃねえのか』
土方は気まずそうに苦笑する。自分が八十八を泣かせる様な心持にでもなっているのだろう。こういった面で、彼は妙に責任感が強いのだ。だからこそ女性にモテたのであろう。
『・・・其に、近藤さんの本意に携れるんだぜ』
土方は突如厳しい表情になった。
『いいか、山野。之は任務だ。断るなら即刻お前を此処で討ち果す。・・・この混乱の最中だ。すぐにとはいかねえだろう。だからどれだけ時間がかかってもいい。尾形に会って、近藤さんの遺髪を渡してくれ。―――刻が来たら、どうせアイツは動き出すんだろう?』
―――京でまた逢おう。
土方は恐らく、凸凹三人組のあの再会の約束を聴いていたに違い無い。
『・・・・・・アイツなら、すぐに解る』
・・・否、こちらが土方に聴かせていたのか。京に回帰する事を。八十八と島田の少なくともどちらかが必ず還って来る事を、確信していたからあの男はああ言ったのか。今となってはもう何も判らない。
『・・・勘違いするな。島田は連れてゆくし、別の隊士にも日野へ行くよう指示を与えている。何も凸凹に特別な配慮をしている訳じゃない』
この時点で、土方の許に残っていた京都以来の新選組隊士は、片手で少し余る程度だったと云う。野村 利三郎は死んだ。3月の宮古湾海戦で。
土方の周囲には、誰も在なくなろうとしていた。
八十八は数刻後には湯の川口から五稜郭を出、箱館を脱出した。その後京都に移り住み、1年前に壬生の墓守となった古閑に逢ったのだという。現在は、戊辰戦争前に生き別れた妻子を捜している。
「・・・だから、俺は土方副長の最期を見た訳じゃねィんだよなァ。局長の首も、局長と最後まで一緒に居たのは寧ろ俊の方だから、アイツが知らねィとなると、隊士には誰にも判らねィんじゃねィかな・・・」
八十八は鞦韆の持ち手の鎖を肘窩で挟み、手を組んで思案の仕種をした。
隊士は見つかるが、情報はなかなか手に入らない。俊宣は流石に落胆の色を隠せなかった。之では、隊士を訪ねても知る者が在ないという事にならないか。
諦念の思いが浮ぶ俊宣だが、八十八は結構親身になってくれており、呻りながらも一つの可能性を示した。
「副長の死に目に会ったか如何かは知らねィが、箱館降伏まで新選組隊士として戦ったヤツなら知ってる。副長が戦死した後にソイツは降伏したハズだから、ソイツなら何か知ってんじゃねィかな」
「その方は、京都にいらっしゃるんですか!?」
「あァ。ココからそう遠くない処に居る」
八十八は鞦韆を漕ぎ始めた。シャンプーなど普及していない時代であるにも拘らず、風に乗って黒髪の清潔な香りが嗅覚を刺激する。
「・・・何処?八十さん」
馬越が視線で追いかける。八十八はくるりと馬越の方を見、
「―――西本願寺だよ」
と、答えた。
―――島田 魁が勤務しているという西本願寺は、菊浜小学校より徒歩20分圏内に在る。仲良いんですね、あなたたち。
西本願寺は新選組が八木邸に次いで屯所とした場処であるが、島田は其処の太鼓楼で夜間警備員をしているのだという。丁度職場を揚る時刻だからという理由で、八十八が案内をしてくれる事となった。俊宣としては丁重にお断りしたかったが。
「西本願寺まで、徒競走だーーい!!」
「えぇーっ!?;着物が乱れるよー;」
小学校の正門を出て、ぴゅっ!と兎の如く駆け出してゆく八十八。小学生の子供かい。てか、今日ずっと馬越と校庭の遊具で遊んでいたのに元気だね。え、仕事は?
そして馬越、君は気にする部分が違う気がするぞ。
併し矢張り箱館まで土方に同道した新選組隊士である。俊宣が心の内でツッコみまくっている間に姿が視えなくなっている。全然案内になっていない。
俊宣も仕方無く走り出す。過去に受けた土佐藩からの拷問に因って足に後遺症があり、足の速さには自信が無いのだが、空も暗くなり始めており、辺りが見えづらくなってきているので距離を余り離されるとあらゆる意味で困る。
河原町通を突っ切って小路に入り、息苦しさに走るのをやめて息を切らしながら丁字路を左右に見渡す。と
「ぜーぜーぜーぜー!!」
八十八が倒れ込んでぜーぜーひゅーひゅー言っている。俊宣はぎょっとした。追い着くの早っ!
「てか、大丈夫なのか、この展開!」
俊宣、遂に自分に向かってまでツッコみ出した。馬越もとっくに追い着いており、八十八の傍にしゃがみ込みのんびり覗き込んでいる。
「おやまぁ」
「そんな反応で大丈夫か・・・・・・?」
八十八の虚弱さを知らなくてもこんな反応なのが俊宣である。彼もそろそろ感覚が壬生色に麻痺してきているか。
「体力無いとこ全然変っておりませんねぇ、八十さん」
よくもこんな神懸り的な変人が草創期から終焉まで新選組にいられたものだ。貌か!?やっぱりおじさん、貌で隊士を択んでいたのか!?
「如何した?」
―――通りすがった人に声を掛けられる。世の中善い人も在るものだ。そう思って顔を上げると、目の前にズドーン!と壁が天に向かって聳え立ち、てっぺんにちょこんと白い毛っぽいのが乗っかっていた。どれが本体か判らない。俊宣が顔を引きつらせて固まっていると、白い毛がふよふよと下りてきて壁が低くなる。白い毛は髪の毛で、そのすぐ下は顔であった。壁や箱なのではなく、顔であった。
「おぉ!人が倒れてるじゃないか!おーい、大丈夫か?」
人間の如きぬりかべかぬりかべの如き人間が八十八と馬越の側へと回る。慣れた様子で連れ添いである馬越に事情を聞くと
「あぁ、なら動かしても大丈夫だな。おーい、今から身体を動かすからな。よいしょ・っと」
と、八十八の身体を抱える。くるっ・と身体を反転させて仰向けにすると、
「・・・・・・お前、叉か・・・・・・」
・・・・・・助けて呉れた仁は呆れの余り、声を裏返させる。・・・・・・。八十八もばつが悪そうに、息絶えかけた己の顔をその仁より逸らした。
「八公・・・・・・」
「いやぁ済まんな!久々の再会なのに八公があんな感じで」
八十八は西本願寺太鼓楼1階の床にグッタリと横たわっている。八十八を拾ったのは奇跡的にも西本願寺に通勤途中の島田 魁であった。・・・・・・彼等にとっては如何も回収は特に奇跡でもないみたいだが。
只管俊宣がぬりかべ扱いしていた島田 魁は、明るみの下に出れば普通の人間だった。只、縦にも横にもでかくて四角く視えるだけで。島田は可也老け込んでいて、髪は全て白髪に変り、烏の足跡と呼ばれる目尻の小皴が彼を殊更に御人好しに見せている。
とはいうも、島田は今年で御年61。新選組入隊時が35歳の年齢で、八十八等より一回り以上年上なのである。立派なおじいさんだ。容貌の変らない馬越と並ぶと、完全に祖父と孫娘。
「いやぁー併し、八公と一緒に居たのがあの三公だったとは!変らなすぎて全く気づかなかったぞ!」
島田が豪快に笑い、馬越がほ、ほ、ほ、と声を立てる。あーね。生きてる時空間に逆らいすぎると逆にわかんないという考えね。
「併し、俺達がよく京都に戻って来ている事がわかったな!?そちらの御仁も、よく俺達三人を見つける事が出来たもんだ」
「馬越さんと偶然にもお会い出来た事は幸運でした。壬生の八木さんの邸に案内して戴けて」
「八木さんは俊さんの事を知っていらしたものですから。私は八十さんと文を送り合っていましたし」
ね♪馬越と八十八が互いの顔を見てにっこりと微笑み合う。ホントにすごく仲良いですね・・・いい加減もう眼が慣れてきたが、この者達の無意識の振舞いは隊の風紀を乱さなかったであろうかという意識が勝手にちらつく。この者達に対する想いを暴走させて身の破滅を招いた隊士も少なからず在たのではあるまいか。因みに其は正解である。武田とか武田とか武田とか・・・
「そうかそうか。俺は島田 魁。新選組にいた頃は同じ字で『魁』と名乗っとった。どっちで呼んで貰っても構わんぞ」
島田はこの者達に惑わされぬ大らかさで返す。きちんとした自己紹介を受けたのは何気に初めてかも知れぬ。
「俺は今、西本願寺で守衛の仕事をしながら昼間は道場を遣っとるんだ。之があんまりうまくいかなくてなぁ。守衛というのは半分飾りで、西本願寺の人達には半分世話になっとる形なんだが・・・」
島田は眉尻を下げた情けない顔で言う。茶目っ気たっぷりだ。近況について自分から述べる開放さは出会った三人の中では初めてかも知れない。
外見がどれだけ老いようとも精神は老け込んでいない。希望も、理想も、生来の明るい性格も、時勢に打ち砕かれる事無くこの男の中に息づいている。その点で、この男も叉時代に負けず、現代と向き合って生きている。
「道場だなんて需要の高そうな商売ですのに、繁盛しないなんて不思議ですね」
馬越がきょとんと不思議そうな顔をする。あざとい。だが、八十八は寝転んだ姿勢の侭冷めた眼で島田を見ている。
「其はなァ、サブちゃん。力さんが稽古後に余計な特典をつけるからだよ」
「特典?」
馬越は首を傾げた。八十八はほんのりと色めいた顔を浮べる。併し、馬越の隣で同じ様に首を傾げて自分を見てくる島田に、殺意を籠めた視線を八十八は向けた。
「稽古後に弟子相手に汁粉会遣ってんだよ」
「あぁ!お・しる・・・」
馬越は目映い位にきらきらしい顔をして―――固まった。端整な笑顔を貼りつけた侭・・・サーッと血の気が引いていく。
「そ・・・・其は・・・・・・仕方が無いかも知れませんね・・・・・・」
ぴくりとも身体を動かさない侭、はらはらと涙とも冷や汗とも取れる透明の液を涙腺から流して馬越は言う。俊宣はギョッとした。
「厳しい稽古で皆頑張っとんのにその後に何もせん方が良くないんじゃないのか?」
島田は未だ解せない様で腕を組んでうーんと唸る。八十八はだめだこりゃという表情をして、ころんと寝返りを打ちそっぽを向いた。
「いや何と無くわかっとるんだ。釈放後すぐに開業したレモネード屋は一週間で潰れたし、結構息が長かった雑貨屋も南蛮菓子製造機を導入してすぐに潰れた。あれは雑貨を買ってくれた客への礼に無料で菓子を振舞おうと思って仕入れたのに」
「そこまでわかってて何で飽く迄菓子をつけてくるんだよ!」
八十八がつい振り返ってツッコんだ。あの八十八にツッコませた。あの変人の代表選手の様な男が至極真面に見える。
馬越が関節を曲げずカタカタと身体を細かく揺らしている。結局は島田 魁も同じ穴の狢、而も其に於ける位置づけは上位に達している事を俊宣は確信すると共に、地下へ下った叔父を不憫に思わざるを得なかった。
明治2年5月11日(1869年6月20日)―――・・・箱館総攻撃。島田は箱館新選組本部の頭取として、最後の隊長・相馬 主計の下で箱館湾防備の要と謂える弁天台場の指揮を執っていた。総攻撃の最初の標的となったのがその弁天台場。島田は、激戦の渦中にいた。
『・・・・・・っ!』
箱館山山頂から攻めて来た新政府兵と新政府兵の制圧した箱館湾に挟まれて、弁天台場は孤立して仕舞う。万事休すであった。
土方は五稜郭より、僅かな兵を率いて弁天台場に向かったのだと云う。その途中の戦闘で、落命した。
島田が土方との面会を赦されたのは弁天台場が陥ちた後であった。5月15日。箱館戦争及び戊辰戦争終結の3日前。
島田が対面したのは、もの言わぬ土方の遺体とであった。
『ーーー・・・っ・・・・・・副長ーーーーっ・・・・・・!!』
即死だったという。土方の最期に立ち会ったという慶応3年来の幹部・安富 才助から伝え聞いた。
死面には、驚愕や悲愴感が無かった。覚悟が決っていたかの様に、口が真一文字に結ばれている。死しているのに、意思を感じた。
何も語らず土方は逝った。土方らしい死に方といえばそうであった。気概や弱音は飽く迄心に秘め、土方は旅立った。
そう、死んだと謂うよりは、近藤の許に助太刀に往ったのだ。そう錯覚する位、土方の貌にはある種の希望と戦意が在った。
・・・この直後、土方の遺体は箱館府の上の者が回収し、島田が遺体と対面できたのは数十分でしかない。
土方が埋葬された土地を、島田は聞かされていない。
「・・・・・・」
・・・・・・島田は道着の懐から布を取り出し、中を広げて札を見せた。
「之は・・・・・・」
俊宣は呟いた。馬越と八十八も札を覗き込む。『歳進院誠山義豊大居士』と書かれている。
「・・・・・・俺は土方副長の死に目に会う事は出来なかった・・・・・・其が、俺が一生悔んどる事だ。
だから、お前さんに副長の最期を伝える事は出来んのだ。済まんな」
島田は眼に涙を浮べていた。・・・・・・ここにきて、漸く全員が、土方の死を現実として受け容れ始める。当事者の話を聴いて、土方が本当に死んだのだと、実感として認めなければならなかったからだ。
・・・馬越の眼にも涙の膜が張る。八十八は唇を震わせて床を睨んだ。心の何処かで死を否認する事に依り形成された、生きた土方の幻影との別離を、島田以外の全員が今、体験している。
「・・・之は、函館に建てた墓碑に刻んである土方副長の戒名だ。副長に戒名がつけられた日から、ずっと之を肌身離さず持っとった。副長に関する事でお前さんに伝えられる事は之位しか無いが・・・持って帰るか?・・・・・・戒名を」
「・・・・・・いえ」
・・・・・・俊宣は微笑んだ。・・・眼を潤ませて。
「戒名は島田さんが持っていてください。・・・・・・叔父も、そうして戴ける方が新選組副長としての誇りを保てるだろうと思います」
・・・・・・充分だ。俊宣は安堵の瞬きをした。閉じた上まつげに、眼球を覆っていた水分が伝って移動する。
・・・知りたかったのは、歳三の死に顔であった。苦しまずに死ねたか、絶望せずに彼岸へ逝く事が出来たか―――在り来りな願いではあるが、親族が願う事は矢張り魂の安楽―――・・・安らかな気持ちで此岸を離れる事に尽きる。
―――島田の言うところから、歳三は未練無く近藤の許へ逝ったと想えよう。
そして、此岸では歳三の戒名を島田が常に携えてくれている。歳三、そして近藤は部下に慕われていた。死して二十数年が経とうとも忠誠心は絶える事無く、彼等の遺志は今も息づいている。遺言は元隊士達に拠って引き継がれ、現在進行形で果されているのだ。
彼等の創った新選組は今も生きている。新選組の創始者として冥利に尽きる事だろう。
「・・・只、その戒名を紙に写させてください。日野に戻ったら、その戒名で位牌を作りたいと思います」
馬越が人差し指で己の目の縁を濡らす涙を掬う。八十八はきつく一直線に結んでいた口の端を弛めた。
「―――おお。いいぞ。勿論だとも」
島田は強面の侭笑った。他の二人が涙を流しても、凸凹三人組のこの男だけは、決して涙を見せた事は無い。
この男は、凸凹三人組でも実は一番強いのだ。
「日野でも戒名を遺して貰った方が、副長も、新選組隊士も、新選組が遣ってきた事に対して誇りが持てるというもんだ」
・・・そう言って、紙と鉛筆を俊宣に渡した。
「本日は、突然の訪問にも拘らず話を聞かせてくださって、本当に有り難う御座いました」
俊宣と馬越が西本願寺を退去する。八十八はまだ顔色が良くなく、勤務を終えてから島田が抱えて家まで送るらしい。本当に仲良いな。
「いや、こっちこそ、折角来て貰ったのに大した事言えんで済まんなぁ」
島田と八十八が堀川通の総門まで二人を見送る。島田は八十八に己の肩を貸しつつ、申し訳無さそうに俊宣へ言った。
「いえ、叔父の函館での戒名を知る事も出来ましたし、充分すぎる程の収穫です。感謝します」
「―――そういえば」
俊宣が深々と礼をする。島田は俊宣と眼が合わない間、何故か左斜め上に視線を泳がせていたが、思い出した様に話を切り出した。
「副長の京時代の気に入りだった妾が、今も壬生の近辺に住んどるという話を聞いたな」
「!!」
「残念ながら名までは聞いとらんのだが、壬生寺によく参拝に訪ねるらしい。古閑なら知っとるかも知れんな」
「副長の墓が無い事を嘆いてるのかも知れやせんねぇ」
八十八が横から言う。・・・そう、土方の墓は京都には無いのだ。遺体は行方不明の為、分骨のしようが無いが、遺髪も近藤のものは無事に京へと届けられたが、土方については抑々墓の言及さえ為されなかった。日野に届けられた土方の遺髪は分髪され、都内3ヶ所の寺院に祀られているも、京都には一つも無い。其には何か理由があるのかも知れないが闇の中である。
「・・・明日、また俊さんの処に行ってみましょうか」
「あ・・・ああ」
何故か馬越の方が乗り気である。俊宣は半分馬越の根気に押されて流されるが侭になっている。八十八はぷっと吹き出し
「押しに弱いトコとか副長と一緒じゃねェですかィ」
と、島田の肩に肘を乗せて密かに耳打する。だが、俊宣の耳にも聴こえ捲りで俊宣は顔を紅くした。
「懐かしい、ってだけの話でィ」
八十八はからかう気は無いという意思を俊宣に伝えた。
「じゃーねー!また遊びに来ますからねー!♪」
馬越が四十代とは思えぬ若さで手をぶんぶん振って去って往く。八十八も負けじとぶんぶん振るも、体力追い着かず、最後の方はへろへろになって島田が八十八の腕を持ってぶんぶん回した。全く、世話の焼けるヤツである。
「扨て、太鼓楼に引っ込むぞ。今はまだ勤務中だからな」
馬越と俊宣の姿が視えなくなると、島田は八十八に声を掛けた。・・・お前、まだ体力戻らんのか。
「しょうがないなぁー」
島田がよっこらせ、と八十八の脇を抱えてお姫さま抱っこする。いつぞやのとおあしもそうだが、八十八の見目が見目故に自然とそうして仕舞うのか、島田は何故か昔から八十八を運ぶ時はこの抱え方をする。そして八十八もこういう抱えられ方をする事に特に疑問を懐いていない。
「は~。快適~~~」
・・・だとさ。
総門より真直ぐ歩き、御影堂門から西本願寺の敷地へ入ると、大銀杏の樹が一面に連なる通りとなる。根を天に向かって展開したかの様に枝が大きく広がり、隣同士の樹々と枝葉が重なって丸で1本の大樹の様だ。この一連の樹々達は「逆さ銀杏」と呼ばれ、更に昔、本願寺に火災があった際にこの銀杏から水が噴き出して炎を消し止めたという伝説から「水吹き銀杏」の異名も持っている。
この逆さ銀杏の通りを右に曲って突き当り迄進めば太鼓楼となるが、樹齢400年の壮大なる銀杏群の下、其と比べるととても小さな影一つ、ぽつんと夜闇に浮び上がっていた。
・・・―――白い着流しに、白い手甲、白足袋に白下駄の白尽くめの男―――・・・
「「古閑!」」
「―――汁粉は、振舞ったのか?」
古閑 膽次が、黒く葉生い繁る水吹き銀杏の下に佇んでいた。・・・古閑 膽次。この名は、後の世に消防の神の別名で遺される名である。
・・・併し、この名が何故如何いう経緯を経て消防史に刻まれるに至ったのか、現在に至っても謎が深い。
―――古閑は職務を終えて、俊宣や馬越の様子を見に西本願寺に訪れたのだった。
「いーや。流石に急すぎたもんだから作る時間が無くてなぁ。なんせ八公が行き倒れとるのを偶然拾ったからな」
「急じゃなくても仕事中に作んなよ、力さん」
八十八が空中で至極ご尤もなツッコミを入れる。尤も、仕事中に校庭で遊んでいたお前に誰も言われたくはないだろうがな。
「三郎さんと佐藤さんは、明々後日まで八木さんの邸に泊るそうだぞ」
・・・・・・島田と八十八は目をぱちくりさせて古閑を見る。・・・古閑は古閑らしくも無く、追い討ちを掛ける様に言葉を続けた。
「・・・明日は日曜だが」
そう。本日は土曜日。嘗て半ドンと呼ばれた午前中のみ業務の制度は、この時代には既に導入され1980年代後半まで続いた。
日曜日が休日なのは変らない。
「あ、俺学校休みだわ」
「俺も、昼間は道場が休みだぞ。夜はまた此処で警備だが」
二人とも実に暢気に、というか現代の我々と余り変らぬ会話をする。戦争が近づいているとはいえ、今度は戦うのが薩長土肥の政治家や軍人など日本の一部の者達であるから、実質隠棲している彼等に其程影響は無く、平和だ。
「あ、三公と佐藤さんが明日お前を訪ねて来るかも知れん」
島田が口の中が弾けたかの様に一気に口を開き、同じく弾けた様な口調で言った。そこには何かしらの期待が込められている。
「回帰だな・・・」
古閑は可笑しみを込めて哂った。どんな激動の渦を生きても、之迄無視できてきた些細と想えるモノでも、均しく事象は回帰する。
時代も叉、回帰している。国の在り方も叉、数十年後には大きく変貌している事だろう。変化というのも叉、回帰の一部に過ぎない。
「生憎だが、私も明日は上からの御厚意で休みを貰っている。朝は壬生寺に供物を供えに行くが、その後は壬生に居るとは限らぬ」
「ぬお!其は三公達に言っとかねばだな!其で、お前は御供えをした後如何するんだ?」
「さぁ・・・・・・?」
言って、古閑は堪え切れぬ様にくすりと声を漏らした。
「―――只、夕刻偶然にも八木さんと御逢いしたところ、あの頃の大鍋ならばまだ残してあると仰っていたな」
「おお!其なら汁粉会が出来るじゃないか!」
島田の気分が一気に盛り上がる。尚この男、あれだけ馬越や俊宣のドン引きを受けて猶自分が汁粉を作る気でいる。
「―――お前、今回はやけに唆すじゃねェかよ」
至極真っ当な常識人の態度で八十八は言った。凶器とも謂える島田の味覚は、八十八の奇矯ささえも無効化させる力を持つらしい。
「良かろう。・・・偶には」
古閑が八十八に対しても焚きつける。
「最近職務で疲れていてな、甘い物が欲しくなる時期なのだ」
「素直に汁粉会をしたいって言えよ」
八十八はついつい呆れ返った。この男も随分とお茶目になってきたものだ。馬越と俊宣に島田汁粉を振舞わせたい気持ちは実はこの男が一番強いのかも知れない。
「なら、明日は全員で近藤局長の墓参りをして、汁粉会だな!」
八公!お前も勿論来るだろう!島田が最早問いでも確認でもなく前提で話をごり押ししてくる。えー?めんどくせーなァ。と八十八はすぐにつれない態度を取るも、その実、満更でもない。
「局長方に汁粉は準備して差し上げないのか?」
古閑が叉も島田を煽る。之には八十八、流石にげっと秀麗な眉目を歪めた。島田は益々調子に乗って
「おお!そうだった!いかんいかん。じゃあ、墓参りの前に汁粉は作っとかんとな!」
と、張り切る。八十八は古閑をぎりぎりと睨み、しゅーーんーーー!と恨みがましい声を上げる。古閑は何処吹く風の涼しい顔だ。
「よし!明日朝7時に八木さん邸に集合だ!」
「折角の休みなのにーーィ!!」
八十八は朝が弱い。
「・・・・・・・・・」
・・・・・・八十八は島田を、島田は古閑を、古閑は八十八を夫々見る。逆も然りであった。互いを見、強く肯き合い、そして顔を綻ばせる。
「・・・・・・凸凹三人組、再始動だな」
「ああ」
八十八と古閑が応える。
誠の心、新選組の武士の志は、維新と共に消滅してはいない。近藤や土方や大半の同期達は末成りの時代の住人となったが、新選組隊士の全員がその時代の住人となった訳ではない。彼等の様に今この時代に生きる者達は、誠の心を、新選組の魂を、武士の志を受け継ぎ、後世の我々の生きる時代に間違い無く引き継がせている。
之は、史実ではなく事実だ。新選組が存在したという確かな事実は、新選組が解散した後の元隊士の生きざまにこそ存在する。
「明日が出陣だ!」
島田が陽気な声で啖呵を切った。
―――――
凸凹三人組で初めに彼岸へ旅立ったのは、山野 八十八であると考えられる。
山野は明治29(1896)年の7月に、勤めていた菊浜小学校を退職した。山野は同校の用務員として働く傍ら、戊辰戦争前に別れた妻と娘をずっと捜していたのだが、遂に娘と再会を果した。別れた時、娘は生れたばかりであったから、山野の方は娘を捜し当てようが無かったのだが、娘の方も父親をずっと捜しており、見つけられる形となった。娘は祇園にて芸者となっており、壬生浪士時代に隊士達の心を一瞬にして攫った奥方と山野の美貌を両方とも受け継いで、京一番の芸者と称される迄に成長した。
其から山野は娘に引き取られて楽隠居したが、長年の心配事から解放され安心した為か、少しずつ体調を崩していったと云う。
明治33年の島田の葬儀には参列した形跡が無く、隠居後の山野と会った事のある八木 源之丞は、娘に引き取られて2、3年ほどして亡くなったと語っているので、島田が逝くより先に逝った、と考えられている。
島田 魁は明治33(1900)年3月に、西本願寺で勤務中に倒れ、同境内にて息を引き取った。彼は縁戚や元隊士、屯所とした邸の主人やその子孫との交流も盛んで、葬儀には多くの者が駆けつけた様だ。その中に、妻子の住む小樽へ再度移った永倉 新八の姿も在ったと伝わる。
葬儀の進行は、西本願寺の住職と共に、あの壬生の墓守が執り行なった。
通夜は島田の明るい性格を反映してか、同窓会の様な賑やかさとなった。永倉はその壬生の墓守と席が目の前になり、十数年振りに話を興じたと云う。夜通し語り明かして位牌の置かれている部屋の線香が尽きかけてきた頃
「・・・・・・もう、いいよな」
と、墓守は之迄に無く果敢無い笑みを浮べて永倉に言った。・・・・・・永倉は、伏せた眼をすぐに戻し、堪える様に、上げた顔を皺くちゃにして笑うと
「・・・・・・ああ」
と、言った。
古閑 膽次こと尾形 俊太郎は、上二人と異なりその後一切が謎に包まれていた。前章で述べた様に、尾形に関する記録は慶応4(1868)年8月25日で途絶えており、以来145年に亘ってその記録は更新されていない。古閑の記録では明治37(1904)年で死とある。
併し、新選組結成150年という節目の年に当る今年(2013年)、尾形に関する新史料が彼の故郷・熊本にて発見された。
尾形 俊太郎は生きていた。最晩年の書と思われる漢詩と彼の家の系譜が、尾形が明治の世を過ぎても生存していた事を裏づけている。足取自体は依然として判りはしない。が、彼が熊本で没した事は粗間違い無い様だ。
―――尾形は、山野と島田を見葬ったのち、京都の地を出た。
その後、時期は不明だが、数十年振りに―――・・・尾形は、熊本へと帰郷した。
熊本市は軍都として発展を遂げていたが、建物の先に眼を向ければ見渡す限り山々が連なる盆地である事に違いは無い。
夏冬の寒暖の差が大きい点で、「京の底冷え」と云われる京都と気候的な厳しさは共通していた。
『・・・・・・・・・』
「肥後の夕凪」と云われる風の全く吹かぬ時季はひどく湿気て蒸し暑い。だが、この気候に鍛えられてきたからこそ、京の暑さに中てられずに済んだ。
尾形は熊本城下に程近い飽託郡黒髪村(明治10年まで飽田郡坪井村、現・熊本市坪井)のとある跡地に立ち寄ったのち、鹿本郡嶽間村(現・熊本市植木町)へ移り、其処を終生の住いとした。以降、三嶋 仙顔と名乗り、私塾を開いてひっそりと暮した。
血を分けた子はおらぬが養子を迎え、その子孫が三嶋の名字で家督を継いだ。
三嶋 仙顔は自身の出自を自身の子にも一切明かさなかったらしい。
写真を撮られる事も頑なに拒み、齢老いて取った養子以外は彼の貌さえよく知らない。
壬生浪士の入隊時に始り、最期まで「先生」と呼ばれた人生を送った。
大正2(1913)年6月、三嶋 仙顔こと尾形 俊太郎は熊本県のこの嶽間村の地で、独り逝った。誰にも見送られる事無く。
自身の最期を看取る事を、たとえ親族であっても許さなかったのだと云う。
子孫が見つけた遺品の書の、欧陽 詢に似た端正な楷書体で書かれた漢詩の隣に以下の仮名の詩が在る。
寿 命 (ながいき)
一人来て一人帰るも迷なり
来も去らぬも憐なり
・・・・・・彼は結局、ずっと見送る側であった。若くして戦乱に因って彼岸(あの世)へ帰ってゆく者達を、彼はずっと境界で見送り続けた。
凸凹三人組の二人も彼岸へ帰り、彼は遂に一人残された。
此岸に留まって一方通行の道へ往く者達を只見送る哀しさを、周囲には味わわせたくなかったのかも知れない。
大正4(1915)年の永倉と斎藤の死を以て、新選組幹部は全員が死去した。
新選組としては昭和13(1938)年に最後の隊士が死している。
その隊士に小説家である子母澤 寛が取材し、昭和3(1928)年に『新選組始末記』を発表した事から新選組の知名度が上がり、その中にある文を司馬 遼太郎や池波 正太郎が引用し、時代小説という形で大衆化させた。彼等は平成の世まで生き、新選組再評価のきっかけを作った。
時代は回帰するものだ。彼等が生きた激動の時代が、今後も遣って来るだろう。
その時、今度は彼等の在り方の方が時代に即しているかも知れない。
完




