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二十. 1868年、会津

尾形 俊太郎は、生きていた。




1868年、会津


慶応4年4月29日(1868年5月21日)。土方と島田は会津入りを果した。新選組本隊は会津若松城に布陣し、傷病人も郡山の病院から会津若松城下の宿へと身柄を遷していた。土方は藩医の指示の下、城下の傷病人宿に向かい、其処で治療を受ける事になった。


島田が土方に肩を貸し、廊下を速度を落して歩いた。障子紙の貼ってある部屋の前で立ち止ると、此処でいいんでしたっけと島田が確認する。土方が、ああと答えた。

スッ

―――戸を開けると、其処には山口 二郎と尾形 俊太郎、山野 八十八が居た。

「―――土方さん」

・・・山口が箸を手にした侭振り返った。カリポリと漬物を噛む音が続く。丁度口に含んでいた様だ。

「―――別状は無さそうで何よりです」

ゴクンと漬物を飲み込んで言った。

一方、尾形の口には八十八が粥を運んでいる。こちらは丁度尾形が口を開けて匙を含むところであった。特に恥かしがるらくも無く、通常運営で其が行なわれている。

「・・・仲良いな」

・・・・・・伊東からの熱烈なアプローチが不意に蘇り、土方は感想をそこでとどめた。土方以外全員が土方の引いた反応に「?」を浮べる。古株同士、(つど)って食事中らしい。

山口が箱膳を移動させ、土方と島田が坐る空間を開ける。

「・・・・・・」

・・・土方は黙って、腰を下ろした。坐ると尾形と丁度視線がぶつかる形となる。

尾形は右腕を吊った状態で布団から起き上がっていた。顔色は特に変化が無い様に見える。其より不思議なのは、八十八に食べさせて貰いつつも何故か左手は箸を持っている事だった。

・・・・・・山口が箸を開いたり閉じたりしてみせている。

「おぉ、俊に箸の使い方を教えてくれているのか?」

「刀をどちらの手でも抜くから両利きだと思っていたんだが。剣以外は右利きなんだな尾形さんは」

山口は左手で握った箸を使って豆を摘み、口に運んだ。

「・・・でも、左の“型”は身に着いておろうから細かい作業もすぐ出来る様になろう」

八十八も自分の箸を左手で持って試してみている。むっ・・・難しいやい。最早指から零れる寸前の箸。その隣で尾形は器用にも習得し始めている。

・・・・・・

何と謂うのか、脱力する。

全くコイツらは通常通り営業というか、其こそ変り無い。そうだ、之を健在と謂う。生きている。もう其だけで救いと言える中で。

会津にて関る機会が増えたからか、山口とも仲良くなっている様だ。

「・・・尾形」

土方が尾形と向き合った。・・・まるで鏡を視ている様に、尾形は自身の瞳の奥深くを見つめ返してくる。そういえば、この男とは事務的な内容以外で一切話をした事が無かった。労いの言葉一つさえ掛けた記憶が無い。

「・・・副長」

と、尾形が口を開いた。併しその声は、始めの方こそ土方の耳に届いたが、老人の様に嗄れて非常に頼り無く、別人のものに聴こえた。

『・・・胸部を遣られている為、思う様に声が出せません。申し訳ありませぬが』

・・・・・・之等の言葉は土方には最早届かず、漏れた息だけが空気の中に散った。

「―――次の戦に向けての軍編制ですが」

山口が硬質の声でバトンを引き継ぐ。場の空気が一変して引き締った。

「・・・・・・」

が、土方自身が最も好む話題でありながら、土方は表情を曇らせている。今回に限って、余り触れたくない様に見えた。

併し、山口は構わず話を続ける。凸凹三人組も真剣な眼で土方を見つめた。

「新政府軍が続々と白河城に集結を始めているのを、副長は知っておられましたか」

「いや・・・だが其処に居る島田から、新政府のヤツらは会津に向かって兵を進めるという旨の話を聞いた」

土方は言って島田に目配せをする。島田は肯き、言葉を引き継ぎ補足した。

「この戦が終れば遂に本拠地会津だと、宇都宮城での戦闘中に。尤も下っ端兵の言う事でしたから、上司に煽られて叩いた大口かとも思って片耳半分で聞いとりましたが」

―――その翌日、宇都宮城は新政府軍に奪われた。

其から、3日。

「・・・この早さは、一体何処からくるんだろうな」

島田は新政府軍の攻めの早さを不気味に感じている様だ。・・・尾形は静かな視線で島田を見た。

「凡てを壊して前へ進むのは容易い。仮令旧来の文化(もの)であっても、重要なものは重要と思えばここ迄急には物事を進められまい。だが新政府の者達はそこ迄考えてはおらんのだろう。武士道という旧文化も捨てておる。勝っても一旦引いて敵の調度が揃うのを俟ち、再び名乗りから始めて戦う事をしない」

新政府には守るものが無い。・・・・・・少なくとも、旧幕府(こちら)ほどの(しがらみ)は持っていない。

尾形が目を瞑り、肯く様に顔を軽く伏せる。尾形以上に日頃無口な山口が語るのを、島田は眼をぱちくりさせて見ていた。

「そういう訳で、新選組にも白河城へ出陣の命が下されました。5日後には出立するので、其迄に編制を決めないといけません。尾形さんと・・・その怪我では副長も、今回の前線指揮は難しいと思いますが」

ぎり・・・と土方は歯を食い縛る。そう。土方は先の戦いで脚に銃弾を受けている。怪我をしたのが脚でさえなければ、無理を押してでも兵を率いて征くところなのだが、其をすれば足手纏いにしかならない事は明白である。

「・・・・・・」

尾形も今回は抗議しなかった。島田と八十八は心の中で、ほっと胸を撫で下ろす。

「・・・山口。今回の前線指揮、お前に恃めるか」

土方は苦々しい表情をしていたが、決断は早かった。自身が臥せっているというのはいけ好かないが、山口に対する信頼は絶対的だ。

「承知」

山口もすぐに肯く。その一言で指揮権の委譲は済んだ。

「副長格以下はどうしましょうか」

「副長格には流山から此処に無事に鎮撫隊を導いた安富に、軍目には其処に居る島田にしようと思うんだが、尾形、お前はどう思う」

土方から突然の指名を受けて、尾形と島田は同時に眼を見開いた。土方は尾形の瞳を真直ぐ見て問う。自身の姿が映り込んでいそうな程真黒い瞳だ。

「・・・お前の意見を聴きたい。肯なら首を縦に、否なら首を横に振れ。喋れないなら喋らなくていい」

軍目とは目付、即ち監察の事であるから、島田は4年振りに監察方に復帰する事になる。土方は島田を高く評価しているが、彼を使うべきか、使っていいかは尾形の判断に委ねるという事なのだろう。其が土方の凸凹三人組に対する信頼の示し方であった。

『・・・・・・必ずや、副長の御希望に添える働きをしましょう』

尾形は息の僅かに漏れた囁きで肯いた。感激で、島田の表情が明るくなる。・・・只。と反射的に声を張り上げる。併し矢張り声は出ず尾形は少し身を乗り出した。

『軍目が一人では不足に御座います。動ける隊士の数にも依りますが、せめてもう一人は軍目に就かせるべきかと』

「山口。可動隊士は現在何人だ?」

「総勢57名ですな」

「割けて後一人だな」

『久米部 正親さんは如何でしょうか』

「―――久米部を?」

土方が問い質そうとした。併し尾形はもう無理が利かぬらしく、胸を押えて蹲る。俊! 八十八が慌てて尾形の背を支える。

「・・・わかった。理由は訊かねえ。お前は寝ていろ」

八十八がゆっくりと尾形を布団に寝かせる。尾形は呼吸をするのにも胸が痛む様で、すぐに自ら体位を横向きに変えて耐え忍んでいた。

「―――部屋(ばしょ)を変える。島田、済まねえが叉肩を貸してくれ。山口には安富と久米部を呼んで来て欲しい。此の侭軍議に突入する。山野、お前は之迄通り尾形の看病をしていろ」

土方の額にも脂汗が浮んでいる。だが土方はここでまだ休む訳にはいかない。せめて本隊を送り出す迄は、彼の仕事は引き継がれない。

「・・・其と、今の話は他言無用だ。隊士にとって必要な情報があれば山口が言う。・・・本当は、平士のお前に聞かせる訳にはいかなかったんだが」

「解ってますってェ」

口酸っぱくして言う土方に、八十八は呆れた声で返す。

「何年俺が新選組(この隊)に在隊()ると思ってるんですか」

―――・・・。そう言われると土方は何も言えない。凸凹三人組(かれら)現在(いま)新選組(ここ)に在る事。其こそが何よりの証明だからだ。

「・・・・・・恃んだぞ」

土方は言い難そうに、軽く視線を落して言った。

「―――ああ其と」

「・・・・・・まだ何かあるんですか」

八十八は面倒そうに土方の方を向く。一方で尾形には甲斐甲斐しく(?)「水、飲ませて遣ろうか?」「熱、冷まして遣ろうか?」「一緒に寝て遣ろうか?」と5月の蝿の如くあらゆる角度から彼を覗き込み、奇妙な台詞を囁いている。尾形は至極迷惑そうな顔をして、其にも必死に耐えていた。

バキッ!

「・・・・・・尾形、コイツも連れて行ったがいいか・・・・・・?」

土方が思わず八十八の頭を撲る。全身鳥肌を立てていた。「『頼みます』との事で」と山口が通訳してあげる。

「なら丁度いい・・・島田、コイツもしょっ引いて行け。コイツにも少し用が有る。軍議は後に回す」

「え!?副長はガチでそっちの道に!?そういや沖田先生から佐倉を略奪してたしなぁ」

「くだらねえ事言ってないでさっさと動きやがれ!!」

()・・・大声を出し過ぎて傷に響く。八十八は湯気の出る頭を押えてにやにや笑っていた。(ハチ)公、お前いい加減にしろよ・・・と島田がやんわり注意する。

「・・・おい、随分他人事だが、島田と其から山口!お前にも関係のある話だ。此の侭俺の部屋に移動するぞ」

・・・?変ったメンバーの招集に、島田と八十八は怪訝な表情を浮べる。山口は暢気にもぱくぱく残りの飯を口に入れ、箱膳を抱えて立ち上がる。

「―――では、往きますぞ」

山口が戸を開けて彼等を(いざな)う。島田と土方が部屋を出る。・・・土方、かなりグッタリしている。

「・・・じゃあな、俊」

八十八が一言、甘い囁きにさえ聴こえる優しい声を放って、戸を閉めた。部屋は今迄騒がしかったのが嘘かと思う位、静かになった。

「・・・・・・」

尾形は暫く、呼吸も止めて胸の痛みを布団の中で遣り過していた。軈て、少し楽になり、布団から這い出て汗ばんだ手を膝の高さ程度の帳箪笥に伸ばした。引き出しを開けて取り出したのは、己の血に染まりぐしゃぐしゃになった文であった。

・・・・・・『緒方 膽次 殿』と宛名が書いてある。

「・・・・・・」

尾形はその文を広げた。幸いにして中身は無事で、血糊が多少封をしていたものの片手で簡単に剥せる程度であった。

ぺら・・・


「・・・・・・」

「・・・――――・・・・・・」

・・・・・・山口は完全に口を鎖し、八十八もショックの余り両手を床に着いて項垂れて仕舞う。彼等はつい先程、土方の口から近藤の死について聞かされたばかりだった。

「・・・近藤さんの死に(さい)して、新選組の之からを如何するか。その話をする為に、島田、山野、そして山口、お前達を此処へ呼んだ」

・・・八十八が少し緊張して、部屋の隅で腰を下ろしている山口を後目に見ている。黙って背後に坐られると、尾形と勘違いする程に彼と同じ空気を感じるのである意味不気味だ。

島田も緊張していた。新選組の之からという言葉の重みと、現に結成当初から新選組の重鎮でい続けた山口と同じ席に居るからだろう。凸凹三人組が幹部として扱われつつある事を、島田も八十八も肌で感じ取っていた。

「傷が癒え次第、俺は仙台に向かう」

山口と島田、そして八十八は揃って眼を見開いた。一人として、土方の決意を事前に聞かされていなかった。屹度、近藤と袂別した時からずっとひとりで温めていたのだろう。

「奥州はまだ旧幕府と新政府、どっちの味方にもついちゃいねえ。仙台藩は寧ろ会津や庄内藩に対して同情的だ。東北諸藩に旧幕府軍への味方を呼び掛けているという話もある。東北を味方につける為、俺は仙台に直接交渉に行く。新八や左之助が江戸に残った様に、山口、お前には会津(ここ)に残って、松平公を護って欲しい。―――新選組(オレたち)の、生みの親を」

「生みの親・・・・・・」

八十八が瞬きをせず呟いた。八十八や勿論島田にとっても、その言葉の重さは到底計り知れない。文久3年2月の上洛前から共にしてきた真の同志でなければ、この重さを感ずる事も抱える事も出来ない。

「・・・・・・承知しました」

・・・・・・山口は、咀嚼する様に肯き、土方の言葉を飲み下した。

「副長」

島田と八十八が進み出て、土方の前に頭を下げた。島田が懐から紙を出し『土方 歳三 殿』と書かれた面を表にして差し出す。

「・・・慶応元年の広島出張時に、近藤局長より預った物です。局長に万一の事があった場合、土方副長にこの文を渡す様にと。

この文は広島出張時に限らず、新選組が在り続ける限りずっと有効な物であると―――」

島田は途中で涙声になり、唇を噛みしめた。・・・土方は、淡々とした表情で島田から受け取る。

「・・・相変らず、荒ぶった字だよなぁ・・・・・・」

自分には送られなかった近藤からの遺言状を翳す様に下から見上げ、土方は乾いた声で呟いた。


「・・・・・・」

・・・尾形は文を読み終えると、元の様に丁寧に畳み、帳箪笥の引き出しの中に戻した。

「――――・・・」

―――膝立ちの侭、尾形は暫く引き出しを閉める事無く『緒方 膽次 殿』と拙い筆字で書かれた文を見下ろしていた。・・・左手の指を文の縁に添って置いた侭、動かなかった。

「・・・・・・」

・・・ぽた、と手の甲に、水滴が一つ、落ちた。

尾形の眼に止め処無く涙が溢れる。感情が置き忘れられた様に、その顔には何の感慨も浮んでいない。たださめざめと、止らぬ涙を無理に止める事も無く、遅れて押し寄せてくる悲しみが過ぎ去るのを待っていた。

「・・・・・・」

・・・・・・尾形は、水滴をまつげから払う様に静かに目を閉じる。

水滴が文に落ち、緋色と共に「膽」の字が散った。次に目を開いた時、尾形の瞳には光が戻っていた。



・・・・・・土方は、島田に預けられた近藤からの文を読んだ。文の内容は、凸凹三人組の正体と、自らが死した後は自分附であった凸凹三人組を土方に附かせるというものであった。

「・・・こういうトコロは、昔ッから抜かり無かったよなぁ・・・・・・」

・・・土方の声に、懐かしさが混じる。之が同時期に、土方の従兄弟佐藤 彦五郎にも新選組と天然理心流の今後について書いた文を送っているというのだから、つい笑みも(こぼ)れるというものだ。

「副長―――」

島田は案ずる様に土方を見た。土方の声や表情が、何だか悟りを啓いたかの様に妙に安らかに見えたからだ。

「我々三人組は、何があっても土方副長について参ります。我々では力不足かも知れませんが、副長の命令は必ず果してみせます!

副長が仙台へ行かれるなら、我々も同行して副長をお護りします」

―――土方はぼんやりとした眼で島田と八十八の両人を見た。近藤の遺言には、彼等が命を賭して新選組副長を護ると書いてある。

併し、土方はそんな事には特に興味が無い。

誰かが身を犠牲にして自分を護って果てる事に、土方は耐え切れなくなり始めている。

隊士には己の武士道の為に剣を抜いて貰えば其でよかった。確かに手足となる彼等と違って、頭は替えが利かないが、真の頭は自分ではない。

新選組の頭は―――・・・もう在ない。

近藤をわざわざ殺されに往かせ、近藤が決して望まなかった道連れに尾形を往かせようとした。切腹を強硬に反対し、近藤を降伏させたのは、他ならぬ彼自身なのである。

―――・・・信用している手足ほど、自分の盾となり、果ててゆく。近藤という光を失い、影の部分さえも持たなくなった自分が彼等を犠牲に生き残ったところで、彼岸へ往った近藤に合わせる顔があるだろうか。

「―――死ぬな。この命令を守れるならば、仙台に連れて行ってもいい」

島田はぽかんと目と口を開けた。八十八はぶっと吹き出す。土方はギロッと八十八を睨み、・・・何だ、山野。と尖った口で訊いた。

八十八は涙を拭いながら

「だって偉そうに死ぬななんて言うんですもん。思いッくそ他人の心配してるクセに。全く、沖田先生の言った通り素直じゃねィや」

と茶化す。土方は真赤にし、口をわなわなと震わせる。

「くそっ・・・・・・!総司のヤツ・・・・・・!」

・・・・・・山口の静かな視線が、土方を視ている。八十八は何と無く山口を見た。・・・微かにではあるが、口角が上がっている気がした。

「山野」

土方の不機嫌な声が八十八の耳に届く。土方はこのいつだって不躾な隊士に一泡吹かせて遣ろうと拳を震わせていたが、ニヤリと哂う。

「お前は今日から副長(オレ)附だ。たっぷり可愛がって遣る。覚悟していろ」

げっ、と八十八は露骨に嫌な顔をした。・・・併し、こちらもすぐにニヤリと妙案が浮んだ表情になり

「・・・まァ、伊東先生や武田の観さんよりはましでさァな。清水屋(ココ)に残れば俊の看病も出来るし♪」

「あんなヤツらと俺を一緒にするな!!俺にそんな趣味は無い!!」

八十八が最後まで言い終える前に、土方が全身に鳥肌を立てて反論した。

「―――あ。でも、ずっとはだめだなァ」

―――八十八が、急にしみじみと言う。緩急が激し過ぎて、土方はついていけない。顔の引きつりが戻らぬ侭怪訝な表情で反応した。

「・・・佐倉がもうじき戻って来ますからねィ。居場処を取ったらアイツうるさいっての何の。其迄の期間限定なら如何でしょう」

軽口を叩いて笑っているも、その表情はどこか寂しそうだった。・・・佐倉が会津(ここ)へ来るのは、沖田が死んだ後だ。

一番隊の隊士同士は不思議な絆を持っている。沖田がそろそろだという事も、佐倉が新選組に戻って来る事も、八十八は誰から聞かずとも知っていた。まるで遠くに居る相手といつでも会話をしているかの様に。

「・・・」

土方には、佐倉が江戸からわざわざ会津まで来るという確信は無かった。別に来る必要は無いと思っているし、土方なりに彼女を戦場から遠ざけた配慮の心算だ。

・・・・・・只、彼女が会津へ来た場合、近藤のみならず沖田の死さえも判って仕舞った心境の中で、自分は何を原動力に戦うのかと思った。

「・・・島田は俺と尾形が復帰する迄、山口の下に附いて白河城を護れ。無事に帰って来たら仙台に連れて行く」




慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)、白河口の戦い。この戦いは7月14日(8月31日)迄の凡そ3ヶ月間に亘る長期戦でありその間、新選組の隊長を山口 二郎が務めた。旧幕府軍は奥羽越列藩同盟の諸国(東北諸国)と手を組んで、白河城の防御に努めるも戦局が怪しくなると、秋田藩及び新庄藩が奥羽越列藩同盟を離反し白河城攻撃に転じた為、叉も兵力をそちらに削がずにはいられなかった。

新選組は、会津藩兵の青龍隊と共に白河城南方の白坂口・棚倉口の防備を固める事となる。

―――山口はすらりと刀を抜いて、青天に向かって刃先を掲げた。其の侭真直ぐ目の前に居る新政府軍の銃隊に突きつけ、鋭い眼を更につり上げて睨んだ。・・・最前列に立つ新政府の兵は、鬼の放つその空気に呑みこまれそうになる。

「会津新選組隊長・山口 二郎。―――此処から先は通さぬ!!」




5月中旬―――・・・

土方の銃創は一番酷い状態にあった。膿み、爛れて己の脚ではないかの様な感覚に襲われ、思う様に身体が動かない。熱もあった。勿論機嫌も悪かった。

幾ら機嫌が悪いといえど、激しい物音がしこそすれ怒鳴り声が延々と続く事など殆ど無いであろう。土方の部屋はずっとうるさかった。今日に限っては部屋に来るなと言われていた八十八が心配する程騒がしい。

如何やらこんな体調の時に来客らしく、平士である彼には聞かせられない話をしている様だ。と、いうよりも、土方自身も把握していない突然の来訪だった様で、いつに無く感情的な声が室外に漏れていた。屹度、取り乱すさまを平士に見られたくないのだろう。

「黙れ!!」

土方の声が何度も聞えてくるが、回数を重ねるにつれ切れた息が交る。病床で体力の限界も近いのだろうが、其でも追及の手を緩めぬ客に八十八は危機感を懐き始めた。

「俊」

・・・八十八は尾形の部屋に行き、書見台を用いて本を読む彼を呼び出した。

尾形の方は、未だ声が出ないものの峠は越え、床に臥さなくても良い程に回復を始めていた。一時は死を予感させる様な昏睡状態に陥った事も在った。

「・・・副長の部屋の様子が、おかしい」

・・・尾形はすくっと立ち上がり、土方の部屋に向かう。八十八も小走りでついて行った。口論は益々激しくなっていて、宇都宮城が如何とか固有名詞まで明瞭(はっきり)と聴き取れる程度に迄なっている。尾形は戸を強く叩き、襖の向うから何かしらの反応が来るのを俟った。

「!来るな、山野!!」

土方の焦る声が返って来た。佇む障子の影には気づかなかったらしい。八十八が尾形の脇から顔を出し

「―――尾形です。副長」

と、声を当てる。尾形が戸をすっと開き、土方と言い争いをする客人を見下ろした。

「な、何だね、君は」

客人は背後の戸が間髪入れず開いた事に相当愕いた様で、たどたどしい口調で漸く言った。許可も無しに開くとは無礼な、と尾形にも吠える。

「所詮は礼儀知らずの獣どもめ。どき給え、私は帰らせて貰う!」

客人が立ち上がろうとする。一方で尾形は其より一寸早くしゃがみ、客人の腕を掴んで再び坐らせた。客人はぺたんと腰が抜けた様な間抜な坐り方になる。

『―――弱っておられる御方に対して喧嘩ですかな。なるほど・・・確かに其は軍事に於き必勝の手に御座りましょう。矢張り脱走兵の模範(てほん)となられる旧幕臣の御方は格が違いますな。貴公の講じられる軍事談たるもの、ぜひとも実戦にて拝見したく存じます―――』

尾形が客人の耳許で囁いた。客人からは見えないが、彼の肩より先にある尾形の顔は間違い無く鬼相だ。だが、禍々しさは肩越しに伝わってくる様で、血の気が引き、額に冷や汗を掻いている。なのに頬は真赤になって

「しょ・所詮は怪我して帰って来た負け犬に何を言われても悔しくないわ!不愉快だ、帰る!」

尾形の手を振り払って立ち上がる。望月さん。 土方が客人の名を呼ぶ。望月と呼ばれた客人は余りの声の無邪気さについ振り返った。

「ぶっ!!」

土方の投げた枕が望月の顔面に命中し、望月は部屋を押し出された。枕は顔面を跳ね返って室内に戻って来る。望月が文句を言い出す前に、尾形が部屋の戸を閉めた。

「ま・全く何て奴等・・・ふ()っち!あち、あちちち・・・っ!」

「あ、サーセぇぇン」

八十八も廊下で待ち受けて何かを遣ったらしい。土方はにやにや哂いながら襖に視線を向けていた。完全にバラガキ時代に心が返っている。尾形は呆れた様な息を一つだけ吐いた。

「―――で」

・・・・・・廊下が漸く静かになった。土方のバラガキっぷりはすっかり鳴りを潜め、だが熱で朦朧としているので繕った様な副長顔になる。

「何の用だ、尾形」

土方の尾形に対する言葉には、常に非難めいたニュアンスが含まれている。尾形は首を横に振った。咳払いをし、胸を押える。

「・・・・・・特に御座いませぬが」

・・・声を出すが、矢張り(かす)れている。尾形は溜息を吐いた。余り喋る性格でもないが、いざ声が出なくなると途方に暮れて仕舞う様だ。

尾形は己の声の届く位置まで土方に近づく。

『山野に副長の御部屋まで来る様にと言われ参りました故。山野の勘違いでありますれば、此の侭引き上げさせて戴きます』

山野め・・・と土方は唸った。尾形は気にする様子も無く礼をして早々に立ち去ろうとする。と、土方が引き留めた。

「俟て。・・・・・・一つだけ、お前に用が有る」

・・・・・・。尾形は土方に向き直った。土方の体調は至って悪い。意識が確かでない人間を相手するのは、脳裡を(よぎ)るものがありあんまり気分の好いものではない。

『・・・・・・何でしょう』

だが、余程の事でも、土方に何も今でなくてもよいではないかなどと意見する事を尾形はしない。其は土方と尾形の関係には無い事だ。或る種、近藤との関係以上に土方と尾形の関係は、新選組を成す核である隊規に由る絆が強固であった。

『―――お決めになられましたか』

尾形は坐り直し、真直ぐに背筋を伸ばして土方を見据える。その瞳は光っていた。存外、感情をよく語る眼で本来の性格が顔つきに表れてくる様であった。

『・・・・・・私の命の往く末を』

「・・・・・・ああ」

土方は軽く口角を上げた。尾形に対して土方がこの表情を浮べるのは初めてだった。




―――6月初旬。凸凹三人組は、福良(ふくら)の新選組病院に居た。尾形の胸の診察と―――島田が白河口の戦いで負傷し、手当てを受けているからだ。

「全然大した傷じゃないんだがなぁ」

島田がくんくんにおいを嗅ぐ様に己の肩に顔を近づけて、傷を蔽う包帯を見る。額にも包帯を巻いていた。

併し見るからに元気そうで田舎の大将みたいな仕種をする島田を、八十八は心配どころか毛繕いする猿でも見る様な眼で見ていた。

「?何だ?八公」

「べ~つにィ?」

土方副長には言うなよ。仙台に連れてって貰えなくなるからな! 島田は他の負傷隊士の気力体力を絶対に吸い取っている。蟻通 勘吾なんて瀕死状態だ。いや、マジで。リアルに。

尾形が島田の病室に入って来る。俊! 八十八の態度が180度変る。島田のいいところ、というか健気なところは、俊!と自分もこの時に尾形の来訪を素直に喜べるところだ。

「お、右手はもう動く様になったのか?」

島田が自分の怪我そっちのけで尾形に訊く。尾形も島田をちらりと見たが誰がどう見ても元気らしく特に訊き返さなかった。

「・・・訓練(リハビリ)を始めている」

尾形の右腕を吊るしていた三角巾はもう取れている。声もまだ掠れてはいるが、だいぶ出る様になっていた。予後は良好という事か。

一月(ひとつき)もすれば其形に動かせる様になろう」

「そうか。なら副長より早く復帰できそうだな」

ふむふむと何度も肯いて言う島田。布団に包れながらの肯きに、八十八は呆れた顔をして

「いやこの場合は力さんだろ。こんな時期に怪我して、間に合うんですかィ?」

と、いつもより少し低い声で言った。日頃は島田の事を然して気にしていない様に見えるが、矢張り全く心配していないという訳ではない様だ。

「なぁに、どれも浅い傷だ。土方副長もこの後訓練をしなきゃならんだろ?その間には治ってる」

「なぁ~んて事言って、仙台に向かう途中で体力尽きて倒れないでくだせィよ~?力さんデカくて誰も運べやしねェんだから」

「其はそっくりお前に返すぞ八公・・・お前はいつも中暑でこの時期倒れるだろう」

島田と八十八が恒例のくだらない遣り取りをする。・・・こういった彼等の遣り取りを、尾形は口を挿む事無く静かに眺めていた。

「・・・其にしても、やぁ~っと三人仕事が揃いましたねィ。仙台行きになって、やっと」

八十八があっさりとした口調で言った。が、言葉は其にそぐわない湿っぽさを持っていた。言葉をきちんと耳に入れねば聞き流して仕舞う程に。彼はこの5年、何も言わなかったが、矢張り淋しかったのかも知れない。

「何気に“凸凹三人組”としての仕事は土方副長の下に附いてからが初かも知れんな」

島田もうんうんと首を振りながら言った。彼等は之迄が個別行動で、互いの不調や怪我さえ把握できない状態であった。戦の方法が変って物凄い単位で人が死に、同期もその魔弾に斃れ、更に凸凹三人組の中でも負傷して帰って来る頻度や傷の深さが酷くなってくると同じ把握のしづらさでも懸る心の重圧は以前の比ではなくなってくる。互いが把握し易い処に居る事は、今の彼等にとって重要だ。

・・・・・・尾形は目を細めた。

土方は仙台へ奔り、山口は会津に残る。近藤の遺言(指示)を受けた島田と八十八は土方に附いて北へと進む。ならば―――・・・尾形は。

尾形は、近藤から指示を受けたのではなかった。

近藤から流山で受け取った文は、島田が土方に渡す為に預った文と形式が同一の遺言状だ。だが尾形は近藤から命令を受けてはいない。

「私は仙台にはゆかぬ」

―――島田と八十八はぴたりと動きを止め、尾形を見た。二人とも、黒眼だけが小刻みに揺らいでいる。

尾形が二人を見つめると、その震える様な黒眼の揺らぎは止った。厳粛ながらも人を落ち着かせる視線が彼等の黒眼を捉えている。

・・・首を僅かに傾けて、安らかな表情で尾形 俊太郎は言った。

「―――・・・会津(ここ)で、別離(わかれ)だ。魁さん、八十」


『―――尾形を山口(おまえ)附にする』

―――山口は意外な顔をした。つい先程、彼は凸凹三人組の忠誠が近藤から土方へ移譲された現場に立ち会った。その直後に呼び出されてそんな事を宣言されれば、誰だって不思議に思うだろう。

『―――尾形さん達は、副長の下に附く様にと近藤局長より命令があったのでは?』

『アイツは其とは叉別だ。・・・尾形には、近藤さんから直接文が渡っている。尾形に対する遺言(ふみ)の内容を、俺は流山で近藤さんから直接聞いた』

一人だけ別の遺言―――・・・山口は思ったが特に追及はしなかった。尾形に特殊な事情がある事は薄々気づいていたし、其は別に気に留める様な事柄でもない―――・・・恐らく、尾形のもつ其は自分と同じものだ。

『アイツに対する指示は、俺がする事になっている。・・・・・・一度だけだがな』

“尾形の之からに関しては、トシ、お前に任せたい”

近藤は、尾形に対する命令権の譲渡を土方に行なっていた。其は島田や八十八が土方に附いてゆく忠誠(それ)とは本質的に異なるものだ。

“今迄散々、俺も尾形もお前を振り回してきた。俺はお前に何も出来ずに此処で別離(わか)れる事になるが、尾形にお前の言う事をよく利くよう言ってある。・・・只、ああ見えてすごく我の強い奴だからな、一生お前の命令を黙って従い続けるのは尾形に対して酷だろう。

―――そこで、お前の命令を一つだけ、決して意見せず逆らう事無く、何があっても貫き徹せとあの文には書いた。

尾形はたった一つの命令に対しては、山崎君になるのだ。

命令は何でも良い。其こそ、先刻の様に一生自分に従い続けろと一つ命じてもいい。其でも尾形は必ず従う。護れと命じれば絶対に護る。お前が言うなら、誰の盾にだってなる。

いいか、トシ。ある意味で、その命令は最も強固な繋がりだ。島田や山野は恐らくは、お前にずっとついてゆく。誠の心は彼等が強い。が、命令に由る強さもあると、トシ、お前が教えてくれた。忠誠心が強いだけでは、情に流されて護るべきものに続く道を見失う。

お前が厳格に組織を作り上げていったから、尾形や山崎君の様な職務に対して忠実な者が生れた。

其は今後新選組が生き抜いていく為の切札となるだろう。だから―――”

―――新選組を生かしてくれ。

其が、近藤と交した最後の言葉であった。

『・・・新選組本隊は、引き続きお前が指揮してくれ』

土方は近藤の遺言を果す心算であった。

近藤が尾形に対する判断を自分に委ねた理由が、その時の土方には判らなかった。一つという制限に、其と矛盾する命令の幅の広さ。島田や八十八に近藤が命じる事と、何が違うというのだ。

併し、近藤との別離を迎えて直後に散り始めた果敢無い命に、土方はその違いを感じた。

・・・・・・尾形にはもう、生きる理由が無いのだ。

尾形は今や、隊長として離れる他無い試衛館来の山口を除いて最も信頼できる同志だ。だが、土方の下に附けばあの男は確実に死ぬ。今後、尾形は土方を命を懸けて護ろうとするだろう。近藤の一番の友であり、山崎が護り徹したこの男を。

結局尾形という男は、絆という名の(しがらみ)から抜ける事は出来ない。

御陵衛士も、後何人の生き残りが在るか判然としない。伊東暗殺から半年近く、幾人もの同志を殺されながらも幾人もの衛士を、戦を通じて始末してきたが、彼等は遂に近藤と尾形に追い着いた。尾形は大石を盾にする等色々と工夫をしていた様だが、島田の話を聞く限りでは誰が尾形の正体に感づいているかわかったものではなかった。

―――尾形が山崎の様に自分の犠牲になる事だけは、絶対に避けなければならない。

土方の恐れているものに、近藤は気づいていたのかも知れない。・・・自分が死して猶生きようとする程、尾形は強い人間ではない事も。だから、土方に委ねた。

『・・・アイツの読みは大概中っている。潮時なんかもよくわかっている。だから、出来る限りアイツの意見を聴いて遣って欲しい』

『・・・・・・?』

山口は土方の悟った様な口調にいまいち掴めぬといった反応をした。

『・・・・・・孰れ解る』

土方は口角に淡い笑みを浮べていた。表情も鬼より寧ろ仏に近い安らかさがある。見送る側か、見送られる側か最早判らない。



『・・・・・・』

尾形は瞳を大きくして土方を見た。山口と共に会津に残れ―――・・・その命令の意図がわからずに、尾形は思わず聞き返す。

『―――・・・御言葉ですが』

『局長の文には、副長(オレの)命令を唯一つ、反論せずに遂行しろ―――とあった筈だが』

『無論で御座います。なれど、私は武士としても・・・―――新選組隊士としても失格と成り果てました。・・・・・・副長命令は左様なものではなく、他のところに使用すべきではないかと』

『局長の遺言を無下にする心算か』

『なれど、貴方はお気づきの筈』

尾形の声が漏れる。その声は少し震えていた。胸に響いたのか、前傾になって暫く黙り込む。顔を上げ、脂汗を浮べて尾形は続けた。

『・・・この背には、二刀の刀創が存在します。後ろ傷を負う事は、士道にあるまじき事』

『死にてえのか』

土方が眼を細くして尾形を睨んだ。・・・・・・。尾形は反論も怯みもせず、静かな視線で土方を見つめ返す。・・・大方、その様な高圧的な態度が先程の客人の反感を買ったのだろう。新選組副長という枠の中にいる頃は其で良かった。だが、今は土方と対等な立場にいる人間など山程おり、鬼という掴みどころが無く恐ろしい形容も文明開化の銃声(おと)と共に失墜が始っていた。

・・・・・・死の空気が、二人を包む。

『・・・・・・お前の()の創は、俺の不手際だ』

『・・・・・・』

『だから其は、俺の傷だ』

近藤は決して、尾形が自分の後を追う事を望まなかった。なのに近藤の生死を決定づける場面に尾形を直面させる命令を与えた。

抑々(そもそも)、近藤に武士として死ぬ事を許して遣らず、処刑という最悪の花道を用意して仕舞った。

『・・・山崎の時もそうでしたな。貴方はいつも、責任を抱えたがる』

『うるせえ』

『あの命でなければ私は利きませんでした。近藤局長に関しましても、根拠の無い希望的観測で切腹をされぬよう話を運んだのは私です。副長がそう仰るなれば私も同罪。其こそ、私は局長に対する謀叛の罪で切腹せねばならぬでしょう』

・・・・・・。尾形は再び黙って、不機嫌そうに口を真一文字に結んでいる土方を見た。頑なになっている土方から切り出す事は無い。

『・・・・・・()の創を、赦してくださるのですか』

『・・・言っただろう。お前の(それ)は俺がつけた様なものだ。お前に切腹を命じれば、私ノ闘争で俺まで切腹しなければならなくなる。お前と私闘で両成敗になるなんざ癪に障る』

『承知しました。なれば』

尾形は土方の憎まれ口を呑んだ。何とも思っていない顔であった。感傷を嫌うこの男が、沖田や山崎の様に鬼の本質が優しいものである事を魅力的に捉える事は無いが、鬼の口に真実を話す素直さが無い事は理解している。

『・・・・・・異存は御座いませぬ』

尾形が折れる。この命が如何なるかなど、最早当人の知る範疇に無かった。だから何を命令されようが尾形には関係無いのだが、凸凹の他二人と離れて会津に残される理由を些か不思議に感じはした。

『―――名を』

ぴくりと尾形の肩が震えた。土方が布団に横になり、肘枕をついて尾形を見上げる。体力の限界が近いらしい。目尻は下がり、声には先程の様に息が少し混じっている。そろそろ御暇(おいとま)かと下がりかけた時、土方は尾形に話し掛けた。

『・・・返す必要があるんだろう?』

・・・尾形は目を大きくして土方を見る。光を更に取り込んで、尾形の眼は一層黒光りして視えた。

『・・・・・・そこまで御存知とは』

『近藤さんからお前の素性については全部聞いている。・・・流山の―――あの時にな』

・・・尾形はうっすらと眼を細めた。少し感傷的な眼であった。土方は潤んだ眼で、水を含んだ井戸の底の様な眼をぼんやりと見ながら、

『山口も会津にゃ縁がある』

と言った。尾形の遠く深かった視線がふと返る。

『・・・・・・二郎さんが』

『ああ。アイツも過去に色々遣らかしていてな』

土方は肘枕から顔をずらし、頬杖をついた。懐かしい過去だ。彼等がまだ江戸にいた頃の話である。

『・・・アイツは戦う事しか知らない上に、負けた事が無い。白兵戦以外の機を視るのは、お前の方が長けているかも知れん。

・・・・・・山口に附いて、潮時なんかも教えて遣ってくれ』

尾形は土方の意図に気づいた。

尤も、土方達が仙台へ行ったところで会津に戻れる確率が低い事を幹部は全員予想している。ここでいう幹部とは、山口 二郎・安富 才助・島田 魁・久米部 正親。この内、安富と島田は最終的に土方に附いて仙台へ下る事になる。

どれだけ兵を募っても、土方達が戻れなければ会津にいる人数だけで新政府軍に対して勝目は無かった。その際会津残留組に残される選択は、降伏か、討死か。


―――新選組を生かしてくれ。


その時宜の判断を、尾形にしろと言う。其が土方のたった一つの命令であった。

『・・・降伏か、討死かは山口が決める。会津に限ってアイツは放って死ぬ事なんざ出来ねえだろうから後味の悪い決断はしねえだろう。お前も、アイツの決断に何ら責任を持つ事はねえ。・・・・・・この命令を果したら、肥後に帰るなり会津に残るなり、好きにすればいい。―――俺と凸凹二人とは、会津(ここ)別離(わかれ)だ』

其は後から仙台に追い駆けて来るなという事なのだろう。土方は勿論、島田とも、八十八とも、恐らく一生逢う事はあるまい。

『・・・・・・承知しました』

・・・・・・尾形は少し蒼白い顔で言った。この時、知らされた会津残留者は本作で出た名前では山口と久米部、近藤 隼雄と芳助兄弟、小幡 三郎。後は名も無い隊士達。最終的には尾形を除いた13人が、会津で降伏する事になる。

『―――なれど、私も貴方に関して、局長より遺言を受けております。その遺言を果す迄は、貴方を仙台に行かせる訳にはゆきませぬ』

島田、八十八を筆頭に、安富・相馬 主計・野村 利三郎・横倉 甚五郎・蟻通 勘吾・阿部 準多等、本作にとって馴染のある名は殆どが土方について征く。彼等を纏める長として、土方に対しての遺言を尾形も近藤より受け取っていた。




―――7月上旬。山口が前線に立ち白河口の戦いが続く中、土方の傷が癒える日が来た。

土方よりも傷が早めに癒えた尾形は、同じく傷の癒えた島田や八十八と共に会津若松城へ遣いに出たり、訓練場に赴いて銃の指導や腕慣らしの訓練をしたりしていた。彼等凸凹三人組が揃って活動する最後の機会とも謂えた。

先月中旬に佐倉が会津入りしたので、八十八は副長附を降りている。

沖田 総司は、佐倉の手に拠って元麻布の専称寺に埋葬されたと云う。

「・・・・・・」

・・・・・・土方は久々に軍服を着、刀を差した。部屋を出て、長靴(ブーツ)を履き、外へ出る。すらりと鞘から剣を抜き、和泉守兼定の刃紋をじっと見つめていた。会津地方はこの月の中旬には紅葉が始るが、今年は時期が早く、敷地の樹々はもう葉を黄色や薄橙に染め始めている。―――肌寒い風が吹いた。

副長部屋へ向かおうと縁側を歩いていた佐倉は、刀を抜く土方の後ろ姿を確認する。

「土方副長・・・?」

黄緑の葉と共に実が落ちて、風に吹かれてコロコロ転がる。長靴の爪先にぶつかって、実は転がるのを止めた。正方形に近い長靴が隣に着地し、其は足の下に滑り込んだ実を割った。

銀杏の外皮が香る。

「凸凹三人組・・・・・・」

―――尾形と島田、八十八が土方の前に立っていた。

八十八がぐるりと遠回りし、佐倉の立ち止る縁側へと移動する。島田も八十八について歩くが、その途中で己の刀を鞘ごと抜き、土方と対峙した侭の尾形に投げ渡した。

ぱしっ

・・・・・・尾形が刀を掴む。鞘を右手に持ち替え、左手で剣を抜く。鞘をイチョウの樹の幹の傍に抛る。切先を土方に向け、摺足で片足を前へ出す独特の構えをした。

「尾形先生・・・・・・!?」

愕いて縁側から飛び出そうとする佐倉の肩を、八十八がぱしっと掴む。

「山野さん・・・・・・!?」

「・・・・・・いいから、見てろ」

八十八が乾いた声で言った。島田も壁に寄り掛り、腕を組んで土方と尾形の二人を視ている。

土方も剣先を尾形に向け、天然理心流の平晴眼の構えを取った。

タンッ!

―――土方が駆けた。対して、尾形は一歩大きく踏み出す。地面を踏みしめる大きな音が聞え、長靴が乾燥した砂に埋った。


―――――


『何でだよ―――・・・!!』

八十八は号泣した。無理も無い。今迄こういう別れを経て、何人の死を見てきたか。其はもう、言わずともわかる事である。

『ヤダよ・・・・・・!!』

八十八は尾形を抱しめた。ふるふると首を横に振り尾形の胸元に顔を埋める。気丈な八十八らしからぬ見目通りの女々しい泣きだった。

『ねェよ、こんな仕打ち―――!!』

胸の圧迫に尾形は咳き込みそうになったが、堪えた。逆に八十八の肩を包み込み、ぽんぽんと背を叩いて遣る。

『――――・・・』

・・・・・・八十八は、尾形が長年敢て見せてこなかった優しさに触れた。・・・そうだ。こういう奴だった。八十八は眼を細め、今の今までぶちまけようとしていた怒りや涙を抑えようと努めた。

初めて関りをもった時もそうだった。誰にも気づかれず独りで本当に苦しんでいる時に、この男は手を差し伸べる。あの頃と何ら変っていない。

『・・・俊、如何いう事なんだ。教えてくれ』

島田は冷静な声で訊いた。島田はこういう情況の時、何気に最も平常心を保っている。ある意味で、尾形より確りしていると謂えた。

『・・・まさか、近藤局長がおられない新選組に、戦意喪失したとかいう理由じゃないだろうな・・・・・・?』

『・・・・・・』

島田の厳しい追及に、尾形は否定はしなかった。顔色を変えた島田が次の言葉を紡ぎ出す前に、尾形は薄い唇を開いた。

『―――土方副長の御命令だ』

―――島田の顔つきが愕きに変る。八十八も顔を上げ、尾形を掬う様にして見た。抑え切れていない涙が透明に光っている。

『・・・・・・私は、二郎さんの許に附き、会津に残って共に戦う。・・・新選組入隊の際、二郎さんは(かお)を、私は名を、夫々(それぞれ)お借りし素性を隠してきた。今こそ面と名、御恩を会津公にお返しせねばならぬ。―――私と二郎さんは、会津のこの地を離れる訳にはゆかない』

島田と八十八には理解のし難い話であった。だが島田は、上洛の時より近藤・土方と行動を共にした永倉から、会津藩の推薦で新選組或いは壬生浪士に入隊する事例(ケース)についてちらと聞いた事がある。立場に因る(しがらみ)もあった為、深い話は全く判らないが。

『お前がそういう奴だったとは・・・・・・』

尾形は肯く。

『新選組の親は会津藩に在り。なれど、此の侭では新政府に遣られる事は必至。故に、土方副長は部隊を二つに分けられた・・・新八さんと左之さんの靖兵隊(せいひょうたい)や、流山での鎮撫隊と同様に』

『・・・・・・なら、戦うんだな。会津で。新選組隊士として。最後まで』

『ああ。新選組の名に泥を塗る様な真似はせぬ』

す、と尾形は島田に手を差し出した。・・・島田が躊躇う。すると、八十八が尾形の手を自分の方へ引っ張り、固く握手した。

『八公・・・』

『あーあ。このクソガキ』

八十八が潤んだ声を、わざと元気に張り上げる。ぽろぽろと零れる涙は、もう止めようが無かった。諦めてくしゃくしゃな顔で、目を(しばたた)かせながら笑う。

『お前は昔ッからそんなヤツだったよ。仕事馬鹿だし本馬鹿で、凸三(デコサン)なのに全ッ然俺達の処には居ない。誰にでもいい顔して結局は裏切って痛い目見んだ。そんなお前よか、いつも一緒に居てくれる力さんの方がいいに決ってらぁ』

・・・・・・尾形は八十八の手を握り返した。僅かに顔を伏せたのか、眼元が前髪に隠れて見えなくなる。八十八は尾形の胸を押した。

『・・・・・・元気でな』

この男には柵が多すぎる。・・・その柵を、この男はどちらかというとずっと嫌がっていた。厭い、幾度と無く切り捨てようと試みても未だ孰れもはらう事が出来ず絆は太く鎖と化している。最早尾形の手だけに負えない。まるでこの地に伝承される地獄の人参の如く、亡者の影にとり憑かれ、地獄に引き摺り降ろされる様な。その鎖に自分も加担しているのだとしたら、之程嫌な事は無い。

尾形を取り巻く鎖は、自分達以外に余り有る。・・・自分こそはせめて、彼を束縛する鎖にはなりたくない。

素知らぬ顔をして苦い余韻さえも蟒蛇(うわば)み、陰で苦しむ優しさをもつ男を。

尾形が無表情で島田に手を差し出し、今度は島田も手を伸ばした。握手を交す。・・・・・・手を離し、凸凹三人組の絆は、解かれた。

『・・・・・・時世が落ち着いたら』

・・・・・・島田と八十八は顔を上げる。尾形の声に感傷は無かった。態度がいつもと変らない。過去を遡ったかの様に、全く変らない。

『私は、京へ向かう』

島田と八十八は眼を見開いた。尾形は意志の強い眼で、彼等凸凹を交互に見つめる。聞き間違えようの無い明瞭(はっきり)とした声で言った。

『待っている』

・・・・・・。八十八の網膜に映った尾形が歪んだ。つー・・・と、止め処無く涙が真直ぐに頬を伝う。八十八は愁眉を開いた。

『俊・・・・・・?』

『左之さんの子息と八十の息女の貌を見る約束をしていた筈だ』

島田の瞳の中にいる尾形が微笑む。

『本当か・・・・・・?俊・・・・・・っ!』

島田は尾形の像を追い駆ける様に瞳孔を開いた。尾形の像が大きくなる。その像は之迄の様に遠くへ往く事は無く、立ち止って彼等を待っていた。

『肥後の男は一度決めた事を必ず守る。・・・・・・待っている。だから・・・・・・北での戦、克ち抜け。魁さん、八十』

網膜の中の幻の様な男は言った。幻の様に耳慣れぬ言葉を。自ら彼等を繋ぎ止める絆しを、紡ぐ。

・・・・・・島田は返事の代りに拳を突き出した。・・・尾形は少し恥らいながら、己の拳を島田の其にこん、と当てる。八十八も涙を拭いながら、もう片方の拳を島田と尾形に重ねた。

『―――では』

―――こんっ

『京で、また逢おう』



―――秋風がざわめく勝負の決着に、佐倉は息を呑んだ。

・・・・・・土方の左胸に、剣先が突きつけられている。

「・・・・・・」

土方の視線は胸にある剣を伝い、合わせ鏡に握る腕を通して使い手を睨んだ。・・・相手も土方の眼を鋭い眼つきで見つめている。

・・・土方が突きつけた剣は、相手の咽喉を差していた。

「――――」

―――ぴっ,

・・・・・・尾形の軍服の襟に僅か、刻遅れて切れ目が入る。

土方は脂汗を浮べていた。

一方で、尾形は微笑っていた。例のあの、不気味とも取れる血に飢えた笑みで。

尾形、そして土方が真剣を握ったのは、実に4ヶ月振りの事であった。

「・・・・・・もう、万全の様ですな」

・・・・・・尾形が土方の胸から剣を離し、後ろに下がって咽喉元の剣から離れた。・・・ほんの刹那、土方の剣が尾形に届く方が迅かった。

「・・・之で、近藤局長の御命令を果す事が叶いました。会津残留組(われわれ)としても、快い気持ちで貴方がたを送り出す事が出来る」

尾形、そして山口達の会津残留と仙台行きの分離は幹部と凸凹三人組以外の隊士にはまだ下知されていなかった。佐倉はこの刻、会津に残る者達と不変の証である筈だった凸凹三人組の別離(わかれ)を初めて知る事となる。

「・・・・・・」

―――佐倉の傍で土方と尾形の立ち合いを観ていた島田と八十八が、土方の両脇に控える。

「・・・・・・全く、近藤さんも御節介が過ぎるぜ」

土方はいつもの悪態をついた。・・・声が少し震えている。苦々しく笑うも、近藤の話題を肴にして笑うのは、土方にはまだ早かった。

「・・・・・・貴方はすぐに無理を為さる。逸るお気持ちは解ります・・・が、傷も癒え切らぬ状態の貴方に我が凸凹三人組の二人を附かせ、無駄死にをさせるのは私としても本望ではありませんでした。・・・なれど、はや時宜も訪れた模様」

尾形は刀を鞘に納めた。島田に刀を返した後、土方の眼を確りと見つめる。土方も震える唇を真一文字に結び、尾形と向かい合った。

「・・・・・・彼等は屹度、貴方の意に反する事は致しませぬ。会津藩より御借りしたこの名に誓いまする」

・・・・・・尾形は深く、頭を下げる。土方は一連の鷹揚たる所作を、奪われた様に視線で追っていた。・・・離れた処で立ち尽す佐倉も、目を離す事無く固まった様に彼等の光景を見つめている。

「島田と山野を、如何か宜しく御願い致します―――・・・」

・・・・・・。土方がつらそうに眉を寄せたのを、頭を下げた侭の尾形も、隣に並んで正面に漂う空気を睨む島田と八十八も見なかった。

佐倉だけが、悲愴感溢れる土方の表情を、遠くから見ていた。

「・・・ああ」

口角に力を入れて引き上げて、土方は気丈に振舞う。眉間に加えた力を抜く事が出来ずに、泣きそうな笑顔となっていた。

「―――・・・山口の事を恃んだぞ」

・・・・・・尾形が顔を上げる。尾形は安らかな表情をしていた。・・・まるで、肩の荷が叉一つ下ろされたかの様に。

「―――・・・承知しております」

―――佐倉が尾形の許に駆けた。・・・土方は軽く俯いて、尾形の隣を通り過ぎる。・・・行くぞ。―――土方の一声に島田と八十八は応じ尾形の脇をすり抜けて、姿視えなく去って往った。

「―――尾形先生っ!」

・・・独り立ち尽す尾形の処に、佐倉は走った。全く大した距離ではないのにすごく息が苦しい。この苦しさは、自分が以前二度、いや三度、仲間を失った時に胸を裂いた痛みと同じ感覚(もの)だ。

「尾形先生・・・・・・」

発した声は自分でも情けなく感じる程に涙混じりであった。・・・原田の死の連絡が、まだ江戸に居た頃に届いた。近藤の死を聞いた。沖田が死んだ。之に由り、三馬鹿には永倉しかいなく、天然理心流直門は土方のみが残された。自分の周りには沖田も山崎ももう在ない。其等悲しみが喚起され、どっと何層にもなって押し寄せてくる。

「先生・・・・・・私も、会津(ここ)で、先生とはお別れになります」

佐倉は潤んだ瞳で言った。佐倉は心に決めていた。沖田と山崎が成せなかった遺志を継ぐ事を。武士としてこの命を全うさせる事を。

「・・・()くのだな。北へ」

「・・・はい」

「池田屋の変より前から在隊した中で、此処まで残ってくれた平士は八十と勘さんを除いて貴方以外に知らぬ。・・・流石は、崎さんの好いた方だ」

―――佐倉は円らな瞳を大きくした。・・・尾形が控えめに微笑む。山崎本人さえも明かさなかった密やかなる想いを、之程明確な言葉に表されたのは初めての事であった。

・・・・・・佐倉の眼に涙が溢れる。

「―――貴方には感謝している」

受け取る側に依ってはこの上無く残酷な告白だ。今更知って仕舞ったところで、死者と話をする事は叶わない。併し遺志を引き継ぐという点では。

「貴方が崎さんや八十の傍に居てくれた御蔭で、文久3年5月入隊の組は之以上殺伐とならずに済んだ。我々の職務が私ノ闘争に発展せずに済んだのは、貴方が彼等の支えとなってくれたが故」

―――武士になる。其は、先の戦で散った隊士に共通する遺志。彼等の隊士としての側面の他に、佐倉には大切にしなければならない意思(おもい)があるのでは。

其が、沖田や山崎と培った絆と呼ぶ部分ではないのか。

尾形が手を差し出す。佐倉は少し戸惑った。軈て恐る恐る、尾形を真似して手を伸ばす。尾形が肯き、そして二人は握手を交した。

「・・・・・・土方副長を頼む」

沖田も山崎も、土方に最後までついてゆく事を望んでいた。自身が会津に来た真の動機に、佐倉はすとんと腑に落ちた。

「・・・・・・っ!」

佐倉は頭を下げ、疾うに過ぎ去った土方の背を追い駆けた。佐倉の姿は小さくなり、軈て土方同様に消えてゆく。・・・尾形はゆっくりと眼を瞑り、振り返る事無く佐倉の過ぎ去るのを見送った。




母成峠の戦いで敗走し、土方・安富・島田・八十八・佐倉等は混成部隊となって仙台へ下った。下った先の仙台で、土方は旧幕府脱走軍全軍総督に推薦されるが、就任を目前にして仙台藩が降伏。奥羽越列藩同盟が崩壊し、寄る瀬を失った新選組は北へ北へと向かう。そして蝦夷地五稜郭を占領し、箱館戦争へと続いてゆく。


併し先述した通り、本作では箱館戦争まで書かない。仙台降伏も然りである。尾形 俊太郎の物語は、この地会津で締め括られている。激戦地、という意味では、箱館総攻撃にも劣らない。会津戦争は、酸鼻を極めた。

老いも若きも男も女も、総出で立ち上がりそして果てた。有名な白虎隊や娘子隊が其である。

戦死者や犠牲者は新政府軍に拠り一切にして埋葬が禁止され、半年に亘り遺体は放置された。禁令を破れば投獄された。遺体は風雨に曝され、腐り果て、鳥獣や蛆虫が集り物凄い状況だった。

「・・・・・・・・・」

―――尾形と山口は、其でも生きていた。雨に打たれ、濡れれば身体が冷える季節に差し掛ってきている。

・・・・・・ぼんやりと遺体の山を網膜に映していた。足の踏み場も無い程に、遺体は地面を覆い尽している。尾形と山口はみっちりと埋るその僅かな隙間の地面に己の足を踏み立たせていた。

新政府側兵士の屍体も塵芥(ごみ)同然に転がっている。

会津残留組は安富・島田等仙台組の血路を拓いた。彼等は無事に会津を脱出し、先に仙台に交渉へ向かっている土方等と合流する。

―――併し、彼等の砦とする会津は最早潰滅状態であった。

・・・・・・尾形はその場に身を屈め、横たわる遺体に目線を落した。・・・触れるだけで罪になる。尤も、嘗ては尽忠報国の志士と言われていた今や国賊と呼ばれるものに身を置いている時点で彼等が罪人である事に変りはないのだが。

新選組に入隊して、墓守が唯一誰にも奪われぬ安定した役職だった様な男だ。見兼ねる部分があるのだろう。

・・・山口は尾形の動きを眼で追いかけた後、空を仰いだ。顔全体に冷たい雨粒が当る。・・・・・・眼を閉じて、水の重みで頬に落ちた髪を掻き上げた。


尾形 俊太郎が引導を渡すのは、この数日後である。


夜明前の薄蒼い空の下、彼の最後の姿を見たのは、山口と夫々(それぞれ)歩兵頭取と小隊頭を務めた近藤 勇の古馴染・隼雄と芳助兄弟、そして夜営でないのに寝つけずに早くも宿から外へ出た小幡 三郎のみであった。

尾形は恐らく夜外に出ていたのではないかと思う。思う、というのも、この時点になると誰も尾形の動きを掴むのがぐっと難しくなっていたからだ。

尾形は旅の荷物を持って、時雨前の紫に()れた空を見上げていた。

「二郎さん」

山口は引き留める様子無く、尾形の背後に佇んでいた。驚く程無防備な背中であった。その背に、山口は剣を向けない。

小幡は戸惑ったが、隼雄と芳助は黙って山口と尾形を見つめている。・・・小幡は音を立てぬよう、隼雄と芳助の更に後ろに立って見た。無論、尾形も山口も小幡の気配に気づいている。

「・・・・・・そろそろだ」

「―――そうか」

山口は顔色も声色も無色で言った。

「―――で、おぬしは何処へ往く」

山口は全く変らぬ声で問うた。凛々しい声がよく徹る。―――尾形の髪がふわりと揺れる。こめかみの鋭い創痕が見えた。

「会城にゆく」

尾形の声もよく徹るが、幾らか柔かく、叉微妙な変化がある事が山口との比較で判る。別離(わかれ)の色が彼からは滲んでいた。

「・・・・・・名を、返さねばならぬからな」

雨雲を連れる風が吹く。この地方特有の時雨と共に遣って来る風であった。もうすぐ雨が降る。

「・・・・・・そうか」

山口は猶も止めない。会津若松城は今、籠城の姿勢に入っている。今、名を返すという事は、会津の民達と運命を共にする事と同義であった。その事が何を意味するのか、土方から凡てを聞いていた山口は理解していた。

「―――其で、名は何と名乗る」

山口と尾形の会話を、小幡は解らない侭に立ち尽して聞いていた。隼雄と芳助の兄弟は理解しているのか、そぶりからは窺えない。

「―――・・・古閑・・・・・・」

と、尾形は呟いた。笠を頭に被る。尾形は着物を着ていた。洋服の時とはまるで別人の雰囲気を醸し出していた。

「―――古閑(こが) 膽次(たんじ)

・・・・・・山口は納得した様に肯き、其以上はもう何も訊かなかった。只

「尾形さん」

山口が最後に尾形の名を呼んだ。尾形はもう去ろうとしていた。忍より剣士と云われた男だが、監察経験が長かった為か忍や密偵と言っても差し支えない程度に板に付いている。

尾形が音無く速歩(はやあし)を止める。

「古閑さん宛に“藤田 五郎”なる人物から便りが届いたら、ぜひとも相手をして遣って欲しい」

・・・・・・。尾形は振り返らなかった。小幡は不思議な光景を観ている気分であった。この二人の脈絡の無い会話の端々にこそ、意思の疎通というものを感じる。二人にしかわからない絆というものがそこに生成されている様に視えた。

「―――・・・承知した」

尾形は結局、誰にも一瞥を呉れなかった。小幡は挨拶の機会を失う。併し相手がどう思おうと、恩人の門出を見送れて良かったと想う。―――この宿屋で「小形某」と記載された名簿が彼の最後の記録である。

「―――・・・」

・・・山口は少しだけ、長い瞬きをした。


この半月後、山口 二郎は会津藩と共に降伏し、時代は完全に明治へ移行する。




尾形 俊太郎の消息は其から判然としていない。

尾形 俊太郎の消息については興味の対象でもあり、諸説取り上げられているがどれも確証が無い状態である。戦死したという説から会津藩と運命を共にした説、仙台で降伏した説、更には故郷の熊本に帰り、地元の警察で剣術を教えたという説まで様々だ。

一説に由れば、“藤田 五郎”なる人物から文が届き、彼の伝手や「日本警察の父」と呼ばれる川路 利良(としよし)に監察の腕を見込まれて警視庁の諜報部に藤田と共に就職したらしい。そして彼と共に明治10(1877)年の西南戦争に警視隊として参加し、故郷の城が燃え落ちるのを見届けたのだと云う。

『・・・・・・・・・』

―――・・・幕末期には佐幕派から警戒の眼で視られ、明治に入ってからは新政府から反乱分子とされ戦場となる。彼にとっての肥後・熊本という故郷(くに)は、余り良い思い出の無い地かも知れない。

彼はその後、鬼副長ならぬ「鬼県令」と云われた県令出身の警視総監・三島 通庸(みちつね)の推選で消防署へ異動になったのだと云う。明治18(1885)年の出来事であった。そして上野消防署長に迄昇り詰めるも、明治37(1904)年、南千住で起きた火災にて殉死を遂げる。

不審な死だったと云う。消火活動中の純粋な殉職ではなく、消火後の現場検証中に建物の鬼瓦が突如落下、彼の頭部を直撃し、昏倒したと云うのだ。死因は頭部打撃に因る出血多量。事故として処理されたが、謀殺の疑いがある事を警視庁も否定していない。

というのも、彼は恨みを買うには格好の対象であったからだ。警視庁と消防署は当時同一管轄であったが、そのどちらの人員も戊辰戦争での薩軍出身者が多数だったそうである。薩摩閥というのが存在した様だ。

無論、彼は佐幕時代の過去を封印しておろうし名も変えている訳だが、伊東 甲子太郎の実弟であり元御陵衛士の三樹三郎も警察官となっている。最終的に国賊となった彼等は、仇敵と出くわす危険を孕んででも与えられたものを享受せねば生きていく事が出来ない状態にあった。

箱館戦争に参加して土方の死を看取り、明治3年まで禁錮刑を受けていた安富 才助は、放免後に阿部 十郎に殺されたと云う。

彼等は結局人生最後まで、伊東派に拠る怨み辛みといった(しがらみ)から逃れる事は出来なかったのだ―――


と、思われるが―――・・・

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